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「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。



773 悩み けんぼう 2007/07/08 11:24
Kagewariさんはじめまして。相談という事で初投稿させて貰っています。
34歳男性、HNはけんぼうです。宜しくお願いいたします。

4年前にストレスで倒れたことがあります。診断はPDという事でした。自分が考えられる原因は友人関係と仕事のストレスです。
今もその職場で働いており仕事の悩みが一番大きいのです。職場の人間関係に馴染めずにここまで来ています。情けないですが悪口を言われたりするとすぐに不眠になります。コソコソ話をしてるのを聞いただけでも気になります。

自分は昔から人と接するのが極度に苦手でした。コンビニに行くのすら汗がでるほどです。駅に一人で立つなんて考えられません。それほど酷い対人恐怖症です。性格も見た目も暗くやつれた感じですれちがう人が笑うほど。それもまたストレスになるという最悪の気持ちです。ほんとに常に人を避けます。

それでも寂しいという気持ちもあるし友達も多い方が良いとも思います。でも人と話すと笑えないし面白くないというのがあります。
職場で敵も多くなり複雑になりまた鬱になります。

この職場の仕事は非常に体に悪くやりたくないというのもあります。しかし経済的にも年齢的にもやめられないという思いで続けていますが、限界が近い気がします。

話が支離滅裂でスミマセン。つまり対人恐怖症をなんとかしたいのです。人と接する楽しさを思い出したいです。人目を気にせず堂々と町を歩きたいです。

解決の糸口になる方法があればと心から思います。では失礼しました。
774 漠とした外界への不安を考える事からだと思います。 kagewari 2007/07/09 02:47
状況うかがいまして、実際不安症的傾向出たのが交友関係と仕事上のストレスという事もあって、深層心理の話に及ぶにはまだ自分自身の内面について具体的にポイントを絞る事も難しいと思います。
確かに原因は何かといわれれば、その発作が起きる前から構造的にあった不安要因であって(発作が起きたもろもろはトリガーに過ぎません)、そこまで踏み込むべきでしょうが、事を急いでも今の環境だとかえって思考が散漫になるのじゃないかと思います。

そこでざっくりと、知識としての「対人恐怖」について話を進めてみます。

ここに関しては
>自分は昔から人と接するのが極度に苦手でした
と、それが構造的に『以前からある不快要因』として認識もされている事項になるのでとっかかりとしても話が繋がりやすいです。

先ず対人恐怖を現象単体で考えてみましょう。

ペットの犬でも野良のネコでも、外的不安が恒常化していてもとりわけ緊張するのは「同種の動物に対して」です。
これは本能みたいなもので、自分自身のシマや犬の場合には階層といったものが固体にとって優先事項であるからで、極端な話その日の食事とか、もっと優先されてもいい話がっても同種の動物に対しての緊張は上位となります。
これは本能の残滓で、原始的自然環境では同種に対する立ち位置が固体の生存に関わる最優先事項であるからで、
つまり「基本的には全世界の人類が、対人緊張という現象を固有に持っている」のです。
逆説的にいうなら、慣れと常識化によるシステムによってこれは沈静化しているだけであって、対人認知等に緊張しない人類はひとりもいません。

全体の構造から言えば、対人恐怖とは『本来機能するはずの社会性等の緊張緩和の概念が、自我に拒絶されている』と考えてもいいのです。これは客観的に言うなら世間の人を信頼できずに疑念に満ちた視線で関わっているのと同義で(本人は不快に怯えているのですが、怯えている=相手が自分に被害を及ぼすのではないかと疑念を抱いているのと構造的に同じ事になる)、非常に悪循環しやすいんです。
>職場で敵も多くなり
自意識はそんなつもりをこれっぽっちも思っていないくても、客観的に見れば構造上「最初に敵視したのはけんぼうさん」と考えてもいいのです。
どうにもピンとこない話かと思いますが、これ第三者的に現象を構造的にみるとそうなります。
なのでここで『敵』という言葉がけんぼうさんによって選択されているのだと思います。

本来誰だって職場に敵がいる事は不快なので、「なんとか和やかな人間関係となるように」試行錯誤します。
面白くない冗談を言うのも、彼らなりに必死に努力しているからです。
冗談に笑え無いって事は「おまえらバカじゃネーのか」と言っているに等しいリスクの高いリアクションですから、世間はこれを回避するために「愛想笑い」という言葉すら生み出しています。
確信犯的に笑わない時って、正面から何か批判したい事がある時ですからね。

この無意識な矛盾(自分にとって不利益となる行動を意図していないのに結果としてそれと同義になってしまう)をいかに解決するのかがポイントです。
つまり『漠とした外界への不安(他者から見れば不信感)』が無ければ、不快の大半は解決するのですから。

前述の通り、全ての人が対人緊張の傾向を持っているのですから、不信感を持っている(=不安感を持っている)人物がいたとすると、その”雰囲気”は、敏感に感じ取られるものです。
これは「けんぼう」さんを彼らが「恐怖の対象として感じる」という意味なんです。
その警戒感が(一般の人からみればけんぼうさんが一般社会に対して不安感を持つ客観的構造が事が、結果的に恐ろしく感じられるので)、その不安を彼らは沈静化させなければなりません。
「きっとけんぼうさんは○○なんだよ」のような風評は彼ら自身の不安を沈静化する機能として合理化された場当たり的結論に過ぎないのです。しかし、その不安感がけんぼうさんから説得力のある説明として語られない限り彼らには憶測等によってしか、彼らの間に起きる不安を彼等自身の手で沈静化するより方法がありません。

わかりやすく言えば
「大丈夫だよ、車に乗っている人もワザと人にぶつけようなんて思わない」「じゃなんで蛇行するのだろう、ちょっと恐ろしいよ」「いやぁきっと仕事で失敗でもして落ち込んでいるのじゃないの?」
この最後の台詞は、直接運転者に投げかけた言葉ではありません。
不安になった彼ら同士が彼らの間の不安感を落ち着かせる”適当な憶測”で、最後の台詞は重要ですがその信憑性はどうでも良く、彼らもその事実関係をほとんど記憶しません。
その時にうまいキャッチコピーを思いつく人物がいれば「うまい言葉で会話当事者の不安感を沈静化させた功労者」として彼らの間でそれが評判となる場合もありますが、これも彼ら同士の内輪の会話であって、既に運転者に対する関心はその時消失しているのです。
「そう(消失)でなければいけないのです」
何故なら彼らが感じる縛とした不安感は「あの蛇行運手は気にしなくてもいいのだ」=「彼らが感じる不快感とは蛇行する運転者が気になるここと」であり、なんらかの適当な風評は「運転者を意識しなくてもよくなる言葉」でなければならないからです。
「運転者に関心を持たずに、今日もいつもの日常(蛇行する運転者等いなかった)なのだと安心したい」のですからね。

ここまでの話はそもそもの対人恐怖の背景の説明です。
そこから得られる結論は、
どんな形であれ、人は同種の動物である対人認知に普遍的に緊張する事はあっても、その対人緊張を緩和する事で社会の形成に成功している。即ち対人認知に緊張しても、”特定個人を意識する事は無い”し極端に言えば”特定個人を意識したくないのでこれを緩和しようと動機形成をしている”のです。

特定個人を意識していしまう代表例は『一目惚れ』ですが、
恋愛の場合なんかもそれを「辛いのよね〜、緊張しちゃうのよね」とこれ”不快感の言葉”で表現されますね。
つまり、対人恐怖の反対語は”特定個人を意識しなくて済む事”なのです。

だとするとですよ?
極端な対人恐怖が成立するためには「彼らは僕に夢中なぐらい関心度が高い」という前提が無ければなりません。
或いはその逆「けんぼうさんが全員に一目惚れしている」です。
しかし、そんな合理的根拠は存在する筈無いですよね。
以下の例も
>性格も見た目も暗くやつれた感じですれちがう人が笑うほど。
奇異な様子で、結果的に関心を引いているのはけんぼうさんなワケですから。彼等だって好感以外の関心を他人に持つことは避けたいのですしね。

そこで対処法ですが、
一気に全部が全部というのは無理な話なので、今からできる段階的な話に絞ってみましょう。

■「ポントは外界に対する縛とした不安だ」
■「誰しもが対人認知に緊張するのであり、そもそも漠として外界全体に不安感があるのだから、対人恐怖にエスカレートしてもそれは自然現象だ(殊更それを対人恐怖と意識しない)」
■「そもそもそんな縛とした不安が原因で、そもそも自分自身を対人認知されやすくなっている構造が一番やっかいだ」

※現実問題けんぼうさんは「社会全体に不信感等もっていない」のに。

最初に行う事は「自分が社会全体に不信感等もっていない」を、いやってほど確認する事です。
対人恐怖は避け、専ら外界に対する縛とした不安に対処する事で結果として対人恐怖を緩和する方法を考えてみましょう。


「誰も歩いていない早朝に散歩する」
「コンビニで買い物する場合も、深夜等お客さんが一番少ない店舗を数店確認してからお店に入る」
「買い物をする場合には、事前に支払いやすいようにお金を用意して買う品物も予め決めておき、強制的に3分(5分でも構いません適当に決めてください)以内に退店すると決める。この場合希望の品物が買えなくてもよい。」
「職場に行く時には出社時間の1、2時間前に会社近くの駅まで早めに到達(時間つぶしの方法は散歩等)」
「目立たない服装、緊張感から表情が堅いと感じたら頻繁に床屋に行くなど、外観だけでも何らかの策を打つ」
「帰りもラッシュは避ける。可能なら次の駅まで歩いて同僚と駅で鉢合わせしないようにする(理由は健康のため等適当に)」
「散歩の時や帰宅時にどうしても緊張する場合”サングラス”をかける」
「過呼吸になると、余計に緊張するので意識的に口を閉じる(鼻で腹式呼吸するように癖になるまでこれを反復)」
「腕をブラブラさせたり、身体の緊張をスポーツ感覚でほぐす(これも半ば強制的に義務付ける)」
「人がもっとも対人認知に無関心な場所(例えば図書館)等に頻繁に出入りして、誰も自分に関心が無い事を確かめる(読書が趣味になれば一挙両得です)」

上記のいくつかを選んで、ともかく実行してください。
その過程で、問題の根本的な部分や原因(過去の)に「何かひらめく」可能性も高くなります。
深層心理を考えるステップは「その過程を経てから」と考えたほうが流れ的にも楽だと思います。

845 職業と適性について noriko 2007/11/12 13:20
はじめまして。
舞台関係の仕事についているものです。出るのではなく作るほうです。
今の仕事は向いていないのではないかと常々不安です。
実務的な仕事なら得意だし達成感もあるのですが、、どうしてもあきらめられずに物を作る側にまわってしまいました。
その結果、常に不安と自己否定感情に悩まされています。
自分で選んだ道なので、何とか自信を持っていきたいのですが。
軽いパニック障害と、先日はうつに悩まされて抗うつ剤を飲んでいました。
平凡な自分が嫌で、先日小さな刺青を入れましたが後悔しています。
今は旅行で海外にいるのですが、来る直前、ひどい不安に襲われて、母の前で行きたくないと弱音を吐いてしまいました。
海外で開いた母からのメールには「余裕を持って育ててあげられなくてごめんなさい」と書いてありました。
私はどうすればいいのでしょうか?
849 Re:職業と適性について kagewari 2007/11/14 09:37
舞台関係されているとのことですので、その辺察しがつくかと思いますが、
書き込まれている内容が劇場型になっているのにお気づきになりませんか。

客観的に見るなら、
「舞台関係の仕事をしています、今休暇を取り海外旅行をしています。」
この段階で、
零細企業社員6名なんかの工務店の事務をしているお嬢さん等から見れば「相当羨ましい生活」ですよね。
なかには、「そんな暮らしができたらなぁ」と言葉に出す人もいるでしょう。
実際失業中で、収入が全く無い人もそれはやまほどいるワケです。

現実認知としてですが、
ベースラインを「相当恵まれている」と考えていいのです。
確かに現実の世界から見るなら(私もTV雑誌映画等メディア関係の人と仕事上の付き合いありますが)「だからといって特別な才能があるとか、仕事は大変だし言うほど見栄えのいい仕事でもない」等内部ではそうなっているでしょうが、
「五反田駅の西口でティッシュ配りをしたいですか?」
と尋ねれば、相当の兵(つわもの)じゃない限り「いやいやそれはないけど」となるでしょう。

まずそんな現実認知のファンダメンタルを整理しましょう。

だとするならですよ、
「大手商社勤務ですが、精神的に厳しい状態で退職を考えています」現実ありますね、
そして、この時の精神的な悩みは”既に仕事じゃない”です。
そもそも会社に行って仕事をする行為そのものにストレスがあるのであって、
だからこそ、職業に代わる事無く誰にでも悩みは在り得る=退職すれば同じ「無職」の水平に立ちますから。
■人は「今の仕事が向いているか?」で、「常に不安と自己否定感情に悩まされ」たりしないのです。
理由は簡単です、「辞めればいい」のですから、
次の仕事は辞めた後考えればいいんです、
「ともかく舞台関係の仕事は今後しない」がスタートラインになります。

となるのが自然ですよね?
しかし、そうはなっていなくて、客観的には「所謂ひとつの幸せ者」でありながら、精神的には「常に不安と自己否定感情に悩まされています。」であると、
そうなる理由から考えていくのです。
norikoさんの書き込みの中に、その理由が書いてありますよ。
>平凡な自分が嫌で
物作りって職業の選択も全てがこのキーワードに関係しているものと思われます。
つまるところ、職業を選んではいない。
「そういう種類の(工務店のOLさんがへぇ〜っと思うような)仕事をしなければ我慢ならない」
 ↓
>どうしてもあきらめられずに物を作る側にまわってしまいました
「しまいました」と後悔を表す表現になってますね、
自意識の認知だと「やりたくもない職業をさせられた」→それが劇場型の悲劇性認知の背景です。

そもそも芸術家やクリエイター等、おおよそ仕事とは呼べないような仕事(原始的に考えれば仕事ってのは”農林水産”です)、が選択される背景には心理的に『反動形成』が関わります。
自我における抑圧された強迫構造を自意識のテーブルに上げるには、抑圧される強迫性と等価となる『極端な動機形成』によってこれが均衡します。
(強迫的な不快感を相殺するだけの代行選択→強迫構造はそのまま抑圧されているので認知されない→そのストレスが『極端な動機形成』に置き換わる形で自意識のテーブルに浮上する)

俯瞰で見るなら「そんな事最初っ〜やりたか無い」んです。
>実務的な仕事なら得意だし達成感もある

相談内容をを整理(デ・コード)するなら、
「私は本来実務的な仕事が好きです。達成感もあるし、立派な仕事だと思っています。だけれども、何か心の底で”そんなじゃいけない”とうかスタンドプレーとは言いませんが、もっとなんていうか、、、そういう仕事じゃなきゃいけないかのような強迫があって、才能(=努力を継続するモチベーション)も無いのに今舞台関係の仕事をしています。こういう生き方窮屈で本当に嫌なんです、私はどうしたら”実務的な仕事に戻れるでしょうか”?」
この辺の反動や、強迫になりがちな心理について以下のページが参考になりますから参照してください。
心理学テキスト后悗笋蠅燭せ』プロパガンダ「出来たらいいな」との混乱

先ずですね、「実務的な仕事を正当に評価できない自分」これをテーマに考えるべきでしょう。
そもそも人はそれぞれ違うんですから”平凡な人”という”人”はこの世に存在しません。
それこそ”普通の人”のように、これは抽象概念で「普通とは何か」という定義を前提にして初めて言葉になります。
しかも選択された言葉は?
”平凡な自分”ですよ、
よーく考えてみてください。
「平凡な自分」がいるってことは「エキセントリックな自分」もいるって事でしょう。
本来『俺は俺』ですよ、それは他の誰でも無いしただ漫然としている”平凡”なるキャラクターになるものでもありません。
「サラリーマンとして、家族4人、どうにかこうにか平凡な日常を生きています」
>実務的な仕事なら得意だし達成感もある
平凡ってのは、必死に努力して勝ち取るもので、平凡が何かエキセントリックな行動に”劣る”って哲学をnorikoさんがお持ちなら別でしょうけれど疎じゃない筈です。

見えてきませんか「極端に何かが飛びぬけて、目立つまでいかないがなんかこう”特別”でありたい」
これはモロ強迫ですよ。
『理由が無い』
つまり舞台関係の仕事を選ぶ理由ですよ
「ある舞台に感激し、私はどんな事があってもこれを生涯の仕事として”選んだ”」という過程が無い。
話を最初に戻しますが、
工務店のOLなら羨む環境が、自身悲劇的認知の物語になっている。
この悲劇性の原型は、無意識の中の「私は極端で”特別”な存在じゃなければならない」という意識です。
誰もnorikoさんに「特別な人になってください」と頼んではいない筈なのに、です。

ともかくですね「食っていけるなら仕事なんかなんでもいい」のです。
その「食えるのか」って部分が一番重要なワケで、
『舞台関係の仕事をしていますが、私の”やりかた”はそれを実務的にこなす事です』
であってもいいんですからね、

さて、「実務的な仕事を正当に評価できない自分」
これを考える上で、所得の面で今特別に不都合が無いのなら、とっとと仕事を辞めるべきでしょう。
人間関係やなにやらで、それが容易じゃないなら「大いに手抜きをして形だけ仕事を続ける」対処をしましょう。
気持ち的にはですね、その舞台関係の仕事上の人物から「なんかつまらない」とか「創造性に欠ける」なんて意味不明の妄言があれば「たかだか舞台関係の仕事とかをお前勘違いしてネーか?と、演劇だって映画だって実務がきちっとできてなきゃ経費に大穴空いて休止なんだから」とこころの中で言い返せばいいんです。
そもそもですね、平凡なる(舞台を観にこられない人や理解できない人を含めて)人達が観客としているからこそ舞台は成立するんですよ。
『芸術家気取りのナルチシズム的露出願望披瀝の会』じゃないんですから。

現実認知をなんとか冷静な水準にして、時間をかけて「なんで特別とか意識するのか」「誰に評価されるためになのか」を考えてみる事です。
そもそも「俺は俺」即ちユニーク(唯一)であり”とっくに特別な存在”「他人ではない自分」なんですからね。

989 殺人妄想 かず Mail address 2008/11/10 19:14
妻、子供2人と同居している者です。4人家族です。殺人妄想に長年悩まされています。
妻、子供達、他人を刃物や首を絞めて殺害する妄想が多々あります。
殺人妄想は妻と結婚する前からありましたので育児ノイローゼって事は無いと思います。
ホームセンター等で買い物していましても、たまたま近くに居るまったく面識の無い人も殴りたくなる、首を絞めたいと言った妄想に襲われます。その時は秘匿の無い所に行き落ち着くまで待ちます。自分ではこの事を緊急回避と言ってます(思っている)

今までは殺人を実行したことはありません。しかし毎年妄想が強くなって行くのです。このままでは愛する妻、子供達に手を下すのではと恐怖におののいています。またお店等で他の客を殴る妄想も強くなっています。破壊妄想も相当強く、食器等を故意に破壊しております。

それと同時に自殺願望もあります。なぜかと言うと殺人妄想を現実にする位なら自殺すれば殺すのは自分1人であり、殺人者にはなりません。しかし自殺すれば家族は相当悲しむとの思いから自殺も出来ないままです。殺人妄想は強くなっている。自殺願望はあるが自殺出来ない。もう苦しいです。

これは何かの精神病、精神障害なのでしょうか?
ちなみに小学校低学年時には公立小学校の特殊学級に配属されていました。それと長期の記憶が無く(現在39歳ですが0〜29歳位の記憶が乏しく、特に0〜24歳位の記憶はほとんどありません。特殊学級のことも当時の書類が残っており、特殊学級に配属されていたことがわかりました。記憶は残っておりません。記録が残っているでけです。
990 こういう状況です kagewari 2008/11/10 22:15
情緒障害の一種、
臨床の方ではいくつか具体的名前を挙げるでしょう、
このサイトは心理学・精神分析系であり病名的診断(投薬上の臨床分類呼称です)は元から関連性が無いので、分類に関して詳しくコメントしませんが、記憶や学校における措置(特殊学級に配属)からいっても間違い無いでしょう。
この情緒障害は(これだけ長期間になっていると脳内伝達物質のバランスも胃酸過多みたいに偏向している筈です→腹筋を鍛えたらカニ腹になるとか→飲めない酒を飲みつづけて胃壁の状態が恒常的に弱くなるのと同じです=感情的破綻が繰り返し継続するのは脳にとっても一種の”負荷”ですからその状況に適応するため脳内物質の伝達や量等が偏向したバランスとなり定着していくケースがあります)、
結果として認知障害にも似た状況を生み出します。『極度の視野狭窄(きょうさく)』によってです、
激しい情緒の上下がると、それ以外は”枝葉末節”となるため記憶に残る以前に脳内のメモリーに収納する”分類フラグ(インデックス)”が曖昧になり、結果として効率的な記憶の流れが完結せずにほとんど憶えていない現象が起きても何ら不思議じゃありません。
(この短期的発現は:神経症傾向時の誤解連鎖・被害妄想・自己愛的自己嫌悪等の現実認知の偏向として現れます)

記憶に関してはそれほど深刻に考えないでください。
何故なら、
「かずさんは他人になった事がありませんよね?」
他人がどれほど過去の記憶を鮮明に覚えているのか体験が無いのですから、
「どれほど憶えていれば十分なのか?」これはかずさんにもわからないし実証もできません。
かとっいって痴呆症のような認知障害は無い。
つまり、記憶に関する部分に関しては『現状の状況それ自体がその機能に無理をかけている』と考えておいてもいいでしょう。
(深刻に考えても得する事が何も無いです)
むしろ、現象として以下の状況も推定されるため、
記憶に関してはその部分も勘案してみてください。

前述の説明にあるとおり、現状かずさんの自我はエキセントリック(或いはヒステリック)な認識への対処に追われていて、ある面非常事態ともいえる環境です。
例えばですが、
「到底間に合いそうに無い納期の商品をどうしても後6時間で揃えなければならない」
な状況でのんびり過去をふりかえる人物いますか?
「運転に自信が無いのに、どうしても明日までに名古屋にいかなければならない」
そんな夜の高速道路で過去をふりかえる人物いますか?

つまり現状の自我はかなり緊急性のある情緒の乱高下に対処するのに手一杯ですし、
>しかし毎年妄想が強くなって行くのです
と、不安感も増しています。
当面の問題が何とか少しでも解決の方向に落ち着かない限り記憶どころの騒ぎじゃないのです。

さて、現状の判断に戻りますが
『殺人妄想』
こういう妄想は存在しません、妄想って呼んでいるぐらいですから。
傾向はあったとしても妄想は妄想です、
どういう意味かといえば「現実認知が大幅に後退している」って事です。
生物学的に言えば、捕食以外で哺乳類は同種間で殺戮行為をしません(唯一”縄張り問題”がある場合:ここも捕食関連)。
何も得する事が無いからです。
この状況の現実を再確認してみると
>妻、子供達、他人を刃物や首を絞めて殺害する妄想が多々あります
『動機がまったくありません』
つまり現実との関連性のある動機が無い=行為として実存しない→なので妄想となります。

この場合でもまだ「かずさんの事例には適応しません」。
何故なら現在の妄想は「妄想ともいえない」からです。
説明しますと、
「妄想とは現実と取り違えて認識が混乱する状態」だからで、
現在のかずさんは「殺人に至ったらどうしよう」と現実とのギャップを抱えていません。
”彼らは悪魔の化身であり人類のために殺さなければならない”と考えているのでは無い。
つまり現在の状況は『”殺人想像”に欲求が固着している(自己愛的固着)』と考えるべき状況です。

ここももう一段説明が必要です、
昨今の事件等で、メンタルな問題が関連している殺人事件が社会問題となっているようですが、
全体の殺人事件総数と・社会におけるメンタルな問題にある人口比率で考えてもらえればわかるかと思いますが(昨今メンタルな問題を抱えている状況は決して珍しくないぐらい拡大しています)、全く関連性無いのです。
むしろこれだけメンタルな問題が社会に拡大している割には、『殺人等の重犯罪者にメンタルな問題を抱えている人物が含まれる率が思ったより低い』と考えてもいいでしょう。メンタルな問題を抱えている人口の明快な統計は無いので実数で説明はできませんが、理論的にそうなるんです。
メンタルな問題における”最も重大な不快感”とは「動機形成の不成功」→行為を選択するプロセスの閉塞です。
つまり確信犯的に犯罪を選択しうる”動機形成”だけは簡単に形成されるなんて事は有り得ないからです、

純粋に『犯罪とは何か』を考えた場合。
それをメンタルな問題と考えるのか考えないのかはこの場合法律論の法学解釈となるので、別問題ですが、
心理学的に説明するなら「本人の自覚がそれを全く犯罪と考えない場合を除き(自転車で歩道走るような違反)、ほほ全ての行為は”反動形成”である」と考えられます。
反動形成とは、一時的欲求がどうしても行為化できない(コンプレックス等で”東大にいかなければいけない”とか”立派な大人にならんければならない”等で行為化できず→一度抑圧されて”反動つけて”極端な二次的欲求として台頭する場合→銀行強盗しかない等:性犯罪でいえば”僕はモテない”等のコンプレックス→背景に母親等の不安により行為化できない欲求が→抑圧潜在化して”反動をつけて”極端な二次的欲求→性犯罪しかない等に結びつく)のような状況からその反動として(反動なので現実感覚より”極端じゃないと満足できない”)認識に台頭するものです(強迫があれば依存関係により支配される)。

つまり衝動的犯罪であったとしても、「100%必ずそれが犯罪である」という認識は自我のテーブルに上ります。
決定・選択に自覚があるって事です。
(私が個人的には刑法39条に問題があると考えている根拠です)
この認識に自己責任を完結させる行為(なので常に責任能力はある)が「実行された犯罪」なのです。


■かなり難解な話をしていますから、ここまで数回反読お願いします


■繰返します、数回反読してください。



『”殺人想像”に欲求が固着している(自己愛的固着)』:犯罪想像
この原因は「一時的欲求の抑圧」が、発端です。
元をただせば、かずさんの幼児期に(言語的発育が関係している場合もあります:ロジカルな認識)当然強迫的認知の成立のように両親に問題があった可能性もありますが(今の段階だとここは深く突っ込むのは無理に思います)、「ともかくなんらかの理由で”コミュニケーション障害があった”」と断定できます。
幼児期にコミュニケーション障害があると、大人と違って動機形成を全て自己完結する能力を幼児は待ちませんから→「恒常的欲求不満」になります。
※両親と仲良しであればいいというような単純なものではありません。現実認知において両者に合意のあるやりとりが行われているのかって意味です。

幼児期の恒常的欲求不満は事実上「恒常的な一時的欲求の断念(抑圧)」と等価となるため、
自我は(毎日腹筋トレーニングをするように)”反動的行為の想像”を繰り返します。
(男の子が大概決まって”自分がヒーローになる想像”を繰返すのも似たような現象です:大概のアニメや漫画はこの想像ベースですよね)
しかし、反動的行為は「=根拠も無く極端過ぎる行動」ですから、滅多な事では行動企画されません。
ここで自我機能として”現実化”が行われ(さっきのヒーローの話で言えば自分がヒーローではないが認定)、
「オプション(第二希望)かオルタナティブ(それ以外の選択:アイデア)の選択」が行われます、
※この時自我の発想の自由度を拘束する強迫意識等があると、欲求は内向化する等して鬱等の問題に発展します

しかし、かずさんの場合幸か不幸か(必ずしも幸運とは呼べないでしょう)
「無難な社会適応をし、結婚し家庭もある」のですから、鬱的傾向にあるとは言えません(強迫的傾向はあるでしょうね)。
そこで、鬱じゃないので「極端な行為の中でも”社会的に言葉になって通用している行為”が選択されている」
→のが”殺人”って言語選択です。

殺人妄想など存在しないのです。
それこそこの実体”殺人想像”こそ「緊急回避」なのです。
(一時的欲求の断念感による欲求不満の高まりを抑えるため、自己愛的殺人妄想の興奮で二次的代謝としてバランスを取ろうとしている)


■さて、個別論としてちょっと詳細な説明しますね。

先ず「自殺は殺人であり犯罪」です。
自我は後発的に脳内の情報処理における自立的自我として頭角しますから、母体から登場する時点の記憶を持っている人は誰もいません(あると主張する人物もいるでしょうが、これがロジカルな記憶として成立するためにはその赤ん坊はその時点で言葉を話してなければならないので、ロジカルな記憶を持つ事は構造的に不可能)。
つまり生命としての自分の尊厳は、国家憲法に守られていて同時に(自殺の場合被疑者死亡で立件できない)哺乳類の自然法則から言っても許されるものではなく、それが認められるのは”超法規的法的判断のある時に限る”となります。
※これは近代以降国家の概念が事実上文明化の延長として自然権を時に応じて超えるため、
例えば「戦争」「武士の切腹のように、目には目を歯には歯をのように自己責任を取るために他者に代わってその人の復讐を代行する行為」そして、国連から随分クレームきていますが「死刑」です。

さて、ここまでの論議である点に気がついていませんか?
かずさんは「殺人妄想」については執着していますが「戦争に行きたい」とは言っていない。
そして、むしろ犯罪的”エキセントリック(ヒステリックな行為)”な概念から「殺人」って言葉がキャッチコピーとして成立したんでしょう。

この公開掲示板やHPテキスト・ブログコンテンツ一読願いたいのですが、
強迫意識の鉄板の法則は「道徳的興奮」です、
『犯罪・道徳的興奮』強い関連性ありますね、
同じような恒常的ストレスを感じる傾向の女性に頻繁に見受けられる「万引き衝動」も似た行為です。
”それが犯罪であるところが自己愛的興奮ネタ”になっているんです=一時的欲求の断念を挽回するための極端な行為(反動)。

そしてかずさんの”殺人想像”の対象者や局面から何が考えられるのか?
ここいみじくもかずさん自身証言しています
>育児ノイローゼって事は無いと思います

言うならば「家族適応障害」「(実は内面で想像絶するほど無理をして)社会適応して”しまっている事”へのストレス」でしょう。

物理的・所得的に可能であるなら、
「個人の部屋を借り、仕事も軽いアルバイトのようなものに転職する→気分的にキツイ時には自分の部屋で休養する」
ぐらいの対応が本来ベストと言えばベストなのです(家族がいらっしゃるご事情からかなり難しいと思いますが)。

何の目的で?
一度鬱的傾向であるとか内向系不安のような、軽い引き篭もり状態(コミュニケーション障害への対処)まで、現状から一歩(反動以前に)撤退して自我の状況を構造的不安まで一段還元するって事です。
現状の生活を継続すると、日々継続する細かいストレスが引き金になって、この情緒的乱高下を自ら引き起こしてしまうためです。

そして、かずさんの場合「精神科・心療内科への通院」これは是非利用するべきでしょう。
一番最初にお話しましたが、かなり幼児期からこの傾向は長期間定着しているため、自我マターだけではカヴァーできない部分もある(簡単に説明しますとストレスに対する敏感さが極端になっているような状態)、本来は静かな暮らしの中で休養して(実生活により興奮頻度を低下)、リハビリ過程のように自然にこれを減衰させるのが好ましいと言えば好ましいのですが、
現実直面するストレスも何とかしなければいけませんし、場合によれば(上記のように休養する場所を確保するのも難しいでしょうから)現在の仕事や生活をどうにも並行して維持しなければならないとなると、ある程度投薬の形で補助は必要になります。
(胃が痛い時に食生活を改めるのも大事だが、今痛い状況には胃腸薬を飲むのが合理的:しかし問題が自我の振る舞いに大きな影響力がある場合には過度の投薬はリハビリにおけるレスポンスまで緩和してしまう場合もある→”ケースバイケース”って事です)

「精神科・診療内科へ通院する再の注意事項」としては、
”殺人妄想”なる言葉を使う必要はありません(この言語にマスキングされて具体的な状況をうまく説明できなくなる場合もあります)、
むしろ
「公衆の面前や、家族で行動している時、他者や家族に対して暴力的な衝動が時々あってそれが心労になっています」と告げ、
必ず「子供時代に情緒障害が原因で特殊学級に配属されていた経験がります。暴力的な衝動はかなり長期的な状態で最近ストレスが高まっていると感じています→静かなら場所に行くと一時落ち着くんですが、、」と付け加えてください。
だいたいこの線で、医師も状況を誤解無く診断できるでしょう。
後は医師の質問に素直に答ることです。

先ず、直面する誇大な情動や興奮を鎮静化させ(経済的事情が許せば仕事を辞めて自分の部屋を借り休養する手もある)、
犯罪行為的反動形成(想像)の発生を落ち着かせましょう。
そこで初めて、恒常的なストレス(反動の元になっている一時的欲求の断片)が何であるのか考える”余裕”が生まれます。
自我における構造的な問題(カウンセリング等)は、ひとまずこの段階まで進んでからじゃないと効果ありません。


現在の自我の反動形成的傾向を考える場合、「自分では気が付いていない一時的欲求がコミュニケーション障害で抑圧されて、ストレスとしてでしか自分には意識できなくなっている」と認識する必要があります。
この反動元は、実は些細なものである事もあり得るんです(一時的欲求の断片)、
ちょっと目の前の人物に「失礼、よろしいですか」と声をかけることだったり、
家族に対して「僕は違うと思うよ」と笑うことかもしれないし、
妻に対して「本音かどうか知らないんだけれど、僕の今の気持ちを聞いてくれないか」なのかもしれない
或いは「今とてもストレスを感じているので静かにしてくれないか」かもしれない。

確かに上記の言葉は、断念された一時的欲求の断片のようなものですが(一時的欲求は動機形成による行動企画から断念されているため”具体的に何だろう”と考えるには分析等の過程や、上記の言葉を自然に言える状態になってから自然に回復されていくものなので現状だと性急すぎて具体的推論ができません)、その手がかりにはなるでしょう。
考え方のヒントとしては「僕は自分の本音ってものを実は自分でさっぱり意識していないのじゃないだろうか?」のような心境で考えてみるんです。

どちらにせよ、前段の「当面の状況を幾分でも落ち着かせる」事が優先ですから、後段はその先の話になります。

1070 精神分析の過程での恐怖感について相談です ななこ 2009/10/22 01:06
はじめまして。
精神分析で悩んでいるので、ご相談します。

私は、現在、精神科にかかっていて、
担当の先生に、3ヶ月ほど前から精神分析をしてもらっています。
週1回、30分の枠で、担当の先生は、まだ20代の経験の浅い先生です。
特に専門のカウンセリング所というのではなく、普通の精神科外来です。
病歴は15年くらいで、病状としては、摂食障害や、抑うつになることが多く、
一年の半分は入院して過ごしています。
病名は、診る先生によって、
統合失調だったり、気分障害だったり、境界性人格障害だったり、
どれにもバッチリとは当てはまらない、微妙な感じのようです。

今まで、いろんな先生に診ていただきましたが、
あまり、分析っぽいことはやったことがなかったので、
先生からの提案だったのですが、ちょっとチャレンジしてみようと思いました。
が、結構しんどいなぁと感じています。

分析をやってみて、
私は本来の自分に自信が無く、ずっと否定し続けてきましたが、
無理な鎧を脱いで、自分に対して誠実に生きていこう、というところまで答えが見えて、
糸口が見えてきたなぁと思う一方、
本来の自分でいることがとても恐ろしいのか、
隣人の物音も、通りすがりの人も、スーパーなどの店員さんも、
みんな私に攻撃してくるような気がして、外に出るのが怖くてたまらなくなってしまい、
友人とも連絡を取らなくなり、お風呂にも入れず、
一日中何をするでもなく、びくびくして過ごして、
外来も、タクシーにのってやっと行っています。

なんか、症状が統合失調っぽいなぁと思うのですが、
現在の先生は、そうではないと言っています。
以前、数年間は統合失調として治療を受けていた時期もあり、
母親も、統合失調です。
(家族から見たら、若い頃は人格障害もミックスしていたんだろうなという印象です)

私は育った家庭が複雑なのですが、そのエピソードも、
大人になってから、似たストレスでふっと思い出したもので、
記憶なんて曖昧だから、本当のトラウマかどうか、実際のところ、わからないのです。
本当は、被害妄想なのかもしれないし・・。

これから、まだ分析をすすめた方がいいのか、
こういった、恐怖感や被害的な反応は、精神分析の過程でありがちなことなのか、
患者としての対策などがあれば、
ご意見よろしくお願いします。

私の正直な意見としては、
きついし、経験の浅い先生にこんな重大な治療を委ねるのは怖いので、
ふつうの当たり障りない治療に切り替えたいのですが、
こういった治療をやる気を持ってすすんでやってくれる先生は、なかなかいないので、
私もそれに乗っかって、頑張るいい機会なんだろうなぁ、やめたらもったいないんだろうなぁ
という気持ち、両方あります。

1071 ザックリ解説しますと kagewari 2009/10/22 16:51
医療系では症例を病名的に表記するのが業務上必要なんですよ。
実際医療系(精神科以外も)では、カルテつけなくちゃいけないですし、基本臨床的な対処となるので=統計上の分類に近い作業が「その後のあれこれ」に関係します。
(特に心理学であるとか精神分析を重視しない医師の場合は投薬の選択においてこの統計中の分類が無いことには手がかりがないの)

話は戻りますが、精神科とか関係無しにそうなんです。
実際のところは、
「○○ですね」
「ですから○○をして、○○してみましょう」
言語として”病気”をどう捉えるかにもよるんですが
「病んでいると判断できる様子の分類上に名前をつけたもの」で、
ほとんどのケースが”症例”なんですよ。
(検査で判明しているもの意外はクライアントの自己申告に統計的判断加えたもの)
何でしょう医学的に風邪って病気は無いですから(厳密に言うと)、

明快に→「一般的に認識されている言語でいうところの”所謂○病みたいな病名”」がガチに適応されるのは『特定ウイルスを原因とする感染症』『骨折等の外傷』ぐらいです。
脳梗塞とかそういうのも”そういう状態”を指しているもので、そういう病気があるのじゃないんですよ(建造物の配線・配管トラブルで考えてみるとわかりやすいかな)。

で、メンタルの場合は特に(上記の配線・配管トラブルの部位特定で考えるとわかりやすい)何かを特定する要素は無いですから、
特に医療系の場合『どういう症状を訴えている類型で、統計的にどういう投薬が対処療法の効果が高いか』という”概論”というか「○○〜○○の不快感の原因は(身体には問題なく)原因をメンタルと特定可能な統計的根拠のある状態ですよ」までなんですよ。

つまりクライアントの申告内容が違えば100%診断症例違いますし、
医師が問診で重要視した項目が変われば、又変わる。
■精神科の場合それによって投薬上の基本方針が違ってくることもあるでしょうが、その都度聞き取りしている状況に応じて症例が変化していると考えれば「何から何まで場当たり的とはいえない」事になります、→というかインフォームドコンセントの範囲になるかしらって論議です。


そこから更に突っ込んで説明すると、
心理学や精神分析では何か誤解を招くので病名・症例を特定しない方がいいんです。
(最後に言い切っている部分には個人的意見含まれているので学説として有力とかって意味じゃないですよ)
実際に問題はロジカルだし、精神分析の過程では投薬は内科的対応の範囲でも十分かと思うので(場合によっては市販薬でも対応可能でしょうし投薬を必要としないと依頼者が希望するならそれでも全然構わない)、問題は自我構造においてどういうトラブルがあるのかって事です。
※話をわかりやすくする意味で表現極端にすると「ウィンドウズXPの○○使用状況において○○のソフトを起動した場合特定の問題が発生する:場合によるとフリーズ」これに○病って病名つけますか?
しかも使用状況は個別に違っていて、市販のソフト全ての相性を保障するものでは無いので、、
 ↓
つまり求められているのは『原因の解析(分析)』と『その対処(ロジック:担当自意識アドミン権限)』
精神科での投薬処方っていうのは、マシンの発熱が激しいので冷却シートとか、リソースが大変なことになっているので強制的に全てのソフトの稼動を6割にダウン(セーフモード)とか、そういう事なんです。
症例とか病名とかって判断は「グラフィック関係?」「ハードディスクの読み書き制御?」のようなことです。

さらに精神分析的に特化すると、
問題の根本は様々な連想によって(また原因となる複合)副次的に拡大(二次的拡大もあるし反動的な拡大もある)しているので、
不快症状に個別対応するのは得策とは言えないんですよ。
■ここも問題をわかりやすくする意味でPCに例えますけど、OSが上書きインストールだとか(過干渉や虐待など論理構造取得字に無理がかかっている)、二次コピーでインストールしているとか(親を含む権威者の自我にも強迫構造)、サービスパック(反抗期:幼児のデフォルメを現実化プルーフ)の導入が行われていないとか、ネットワーク接続が遮断(内向化)されいるとか、根本的にロジカルな部分にコアの問題特定(発端となる問題の年次というか本人の個性との関係性により)を行うので「○○のソフトでどうしても文字化けする」を文字化けから追いかけても話が分散するばかりなんです。

※正確に言えばOSの導入は「この世に典型的な共同幻想モデルが仮想的にも普遍的に存在したら?」というしょうしょう強引な設定で、ヒトの自我はリナックス(ユニックス)的オープンソースであるのが事実だし、基本カーネル(脳内の生命原理、及びそもそも計算機能がノイマン型がうんぬんとかも個人別)は個々人オリジナルなワケで、実際はより複雑なんですが、現象からトラブルのコアを探る事はできる(実際印象の世界で01デジタルの世界でもありません)。


>本来の自分でいることがとても恐ろしいのか、
>隣人の物音も、通りすがりの人も、スーパーなどの店員さんも、
>みんな私に攻撃してくるような気がして、外に出るのが怖くてたまらなくなってしまい、

これは自己中心認知です、
(相対的にいえば、誰しも日常生活で特定の他人に関心のある人はいない)
『周辺がみんな自分を』
自己を中心とした環境が(銀河系がどうこうの発想してもらえるとわかると思うんですが)、
「地動説と天動説の誤解」的な状況の錯覚に意識が落っこちているとでも言えばいいでしょうか。
※参考として付け加えると「自分で考えてみればいいのです。対人恐怖が発生する原因と仕組みは何だろうか?」

この誤解認知が拡大する背景は
「内向性認知(スタンドアローン)は自己愛的認知の方向となってしまうから」で、
(自動的にそうなる:構造は『被(こうむる)』:動作パッシブ)
※スタンドアローンを発端から見るとネットワーク接続すると様々な攻撃を受けるらしい(或いは噂)→転じて:ネットワーク接続は私(スタンドアローン)を攻撃する存在だ→転じて:私ばかり攻撃される気がしてしまう

反対言えば
「外交性(ネットワーク)は(自分の人称も)自分も不特定多数のひとり(相対的実存)の方向となるから」です。
(自動的にそうなる:構造は『抗(あらがう)』:動作アクティブ)
※セキュリティーソフトの実装は「エチケットやマナー」でインターネットから攻撃を受ける事を前提としているのじゃなくて、攻撃されない状態の保持(自我における社会性→ベタベタなところ言えば『挨拶等の習慣』)は折り込まれている。或いは事後自我の個性で趣旨選択され(生き方って奴です)「俺には○○な○がある」みたいな格好で(カスタマイズもされ:本を読んで影響受けてもそのままってことはない)、そこが自分の売りとまで言いませんが少なくとも自分を規定する大きな要素(流儀)のひとつになります。
ですから自意識の腰が折られてしまうと(強迫心理による抑圧)「俺ならこうする」の趣旨選択に干渉受けるので(極論不安で煽ってダメ出ししてしまう)・・・と、対人恐怖も「ひとつの結果論」に過ぎません。


尚且つ、不安(自意識をおびやかしているのはこれまで自意識を抑圧していた”無意識下の強迫意識”)の体感があると、
その原因が内面(過去の自我の一部)にあると意識できる人は稀ですから(実際は→内面に「○○じゃないか?」という元ネタが無い事にには”不安を思いつくことができない”ため不安を煽っているの元は内面にある)、
たとえるなら
「おーさむけがする」→「今日の気温何度?どこにいっても寒いんだけど」

意味わかりますよね?


>友人とも連絡を取らなくなり、お風呂にも入れず、
>一日中何をするでもなく、びくびくして過ごして、
>外来も、タクシーにのってやっと行っています。

内向すればするほど自意識の意思とは逆に→不安の中心に近づきますよね?
そして、内向(退行でもいいんですが)=現実との接点が切れるなので
→外出の関心(アクディブ・抗・攻撃)を喪失します。
(動機形成のキッカケを失う)



>記憶なんて曖昧だから、本当のトラウマかどうか、実際のところ、わからないのです。
>本当は、被害妄想なのかもしれないし・・。

トラウマ論には少々問題あって、
何があったから何って事実認定単体には”意味が無い”のです。
「○○なことがあって、それがどんなかっこうで論理記憶として”本人に”イメージ化されているか?」
なんですよ。
同じ絵画を見ても人の印象も記憶も違いますよね?
何の絵画を見ましたかって話じゃないんです。
「どういうことがあって、どう思いましたか?」
(私の場合は関係者の経歴から何から情報伺いますから、同時にその行為は”本当はどんなものだっのか”のプルーフまでやります)

で、その「どうおもったか?(=インストール)」が→今の自我ロジックにどういう干渉(トラウマ論的に言えば)しているのか?

ですから、トラウマの存在の固有の事象には意味は無いんです。
現象というか、その過程と現在の因果関係が重要になります、
(極論その印象が嘘かホントかは関係無い、元ネタとなった事実関係を情報から類推特定して「本人の印象との差異」が鍵なんです)


>これから、まだ分析をすすめた方がいいのか、

これは自由にご自身で判断すればいいのです。
精神分析も、
投資顧問も、
経済アナリストも、
中小企業診断師も、
弁護士、
司法書士、
医師、塾教師、
みな同じです。

選ぶのはあなたです。
(参考になりそうなコメントは前段で説明したとおり)


>ふつうの当たり障りない治療に切り替えたいのですが、

投薬依存(簡単に言えば中毒)に注意して、ともかく症状を抑えて自我のプレッシャーを半ば強制的にレベルダウンさせ、余裕ができたところで自分で問題解決を考える(何らかの行動をアクディブに始めれば何らかの変化の可能性はある)というプロセスになります。
※仕事上のストレスを発端とする”現象として軽い”というか、状況が変われば”そのままの不快でもアリ”な自己決定も個人の尊厳のうちです。

しかし、
現在の状況では自分の自我が”考える要素の多さ”に追随する余裕が無い
(極端に言えばカウンセリング等の会話に耐えられない)
こういった時には、
■メンタルな問題は『無理は禁物』鉄則ですから、

休養するというか、一次撤退的に「基本投薬しかしない5分診療の精神科医か心療内科医を探す」これはアリだと思いますよ。
(薬は医師の処方で上下必要なので、自分から積極的に「少なめで」と申告するのが無難でしょう:5分診療タイプの医師には営業上投薬も過剰になるリスクも無いちゃ〜ないので)

極論メンタルな問題を解決しなくちゃいけない法律なんてありませんから、
こいつをどうするのか?(それも個性ですしアイデェンティティーの一部です)
自分で決める事です。
キッチリ診察受ければ生活保護や他福祉からの支給(事実上「それこそ”先進国病”」なので支給というか弁済に近い)に障害も少ないですし、この程度(投薬で)症状の緩和があれば自分的にはオッケーだのようなまま、自分は自分(このままで)としてそれ以外を考える(自分と関係無い要素には”自分には強迫心理が介在している”という認識が保たれる状況の場合社会問題など他者の事には強迫心理は動かない:自分で問題とその内容を意識している事が肝心なのですが)世界もあるでしょう。

それこそ精神分析の始まりの部分ですが
「それを自意識はどう考えるのか?」
選択(アクティブ)無しにズルズルとって感じだと、精神分析もあまりうまく進まないでしょう。


>こういった治療をやる気を持ってすすんでやってくれる先生は、なかなかいないので、

これは事実でしょうね、


又、この掲示板の警告文にあるように、
精神分析的なアプローチは、自意識を立ち上げて内面の強迫意識と対峙する事になるので、強迫意識からの『抵抗』(これまで自意識を抑圧してきた心理が自らの保守のため徹底抗戦に転ずる:ここもリアクション型)が発生します。
それも事実です、
(その人がどういう格好でアプローチしているのか私にはわからないので、具体的にはなんともですが、)