Kagewari kagewari 精神分析相談事務所



X 『やりたい事』プロパガンダ「出来たらいいな」との混乱


人間の様々な行動には動機があり、それは様々です。そこに特定のジャンルがあります。
『夢』『宿命』『やりたい事』、、、対極は、『仕事』『仕方なく』『出来る事』あたりですか。
これらは何でしょう?
生活上の必要な動機「食べる」「眠る」「安全を確保する」とは種類が違います。共通項は、ひょっとすると(無理がちょっとありますが、仕事が無くても財産で暮らせる人もいるでしょうから)
しなくても何も問題無い事です、言うなら「欲望では無い行為」でしょうか?

欲望が達成されないと悔しかったり、困ったり、イライラしたり、がっかりしますが、上記の行為は達成されないと激しい失望、罪悪感、不安感などに繋がりやすいものです。『夢』は解釈にバラつきがあるのでちょっと違います、『夢』は夜見るものですが、人によっては「実現しなくてはならない悲願」や「実現しない事を前提とした目標」や「成功の象徴」にもなります。これほど開きがあるのは『夢』が現実ではなく幻想だからでしょう。そればかりではありません。「これが僕の夢」という言葉は、とてつもなくイロイロなシーンで使えるのです。

「また想っていた。気が付くと一戸建ての階段を上る図を想像してる。僕の夢、完成間近だ。」
「ちょっと待ってくれよ。確かにそれは僕の夢だった、だけどももう今は資格なんて無くたって、、」
「だってね100円でも溜まると100万円になるだろ。その100万円で宝くじを買うんだよ。いやいや違うんだって。100万円が欲しいのじゃなくて、一度に100万円で宝くじを買いたいのさ。だからこの100円も、僕の夢なんだ」
「そーだなー、、何だろう、、フェラーリかなー」
「チェーン店にして、もっと大きくする。そしていつかあの店を潰してやる。それが僕の夢さ。」
「ここがハワイってとこかい、、夢のハワイかい」
「あれですか、あれが夢にまで見たケープバッファローですか。早くレミントンを出してください!」
「え、いいんですか。弟子にしてくれるんですね。」、、、、、

「夢を追い求める」と言われても、どの程度の『夢』なのか、確かめないとわかりません。にもかかわらずこの言葉はごくごく簡単に使われます。
整理してみましょう。必要が無いかもしれないのに、手に入らないと思うと激しい失望にかられる言葉。その代表でもある『夢』の特徴は「簡単に使われ、大きな個人差があり、融通が効く便利な言葉」です。誇大妄想や脅迫(神経症)が姿を隠すには格好の隠れ蓑なのです。
重要なポイントは『夢』の内容ではなく「何故れが夢なのか?」その「動機」です。すらすらと友人などに面白おかしく(あるいは情熱的に)その理由を話せたら、誇大妄想や脅迫が隠れている事は無いのでしょう。しかし、その理由が曖昧な時、これは危険です。『夢』という言葉の中に「葛藤が合理化」されているのかも知れません。「葛藤の反動」として、です。

でもですね、これでは自分自身でも(無意識に隠れている)葛藤に気が付きやすいので、その危険性(隠蔽される危険性、もしくは葛藤が定着する可能性でしょうか)はそれほど高くはありません。事実『夢』という言葉は死語ではありませんが、現在は60年代ほど頻繁には使われる事が無いですし「自分の世界」な感じが強すぎて敬遠されがちです。もっと他人に説明の必要(誇大妄想や脅迫だと自分にバレないように)の無い言葉が現代に望まれているのでは無いのでしょうか?

『宿命』は違うでしょう。下手すると『夢』以上に個人的なもので確信犯的に使われるので、誇大妄想は隠せません。自分にバレバレの悲願ですから。社会に、葛藤を引き起こす要素がほとんど無かった時代の『夢』以前の古い言葉なのでしょう。60年代はヒッピー・安保闘争・フョークにサイケでシュールな時代で、社会に個人的な『夢』を感じさせる可能性(まだ実験段階の運動も多く)が沢山ありました。個人の葛藤のスケールが、まだ小規模である事が多く「それを受容し形に変える力が社会に残っていたから」と言えるでしょう。
 
 共同幻想で触れましたが、それが『宿命』と呼ばれた(古い)時代には戦争がありました。
 「国家の夢」です。

多かれ少なかれ、社会の不安定要素は、個々人や家庭に留まりません。それは構造的であり時代に無関係な家庭や個人は、同時に社会不適応を意味します。社会は所属する個々人のモチベーションによって、その活力を維持します。現代の社会は『夢』を提供出来無くなったのでしょう。これは同時に社会の活力の低下に繋がりかねません。
学校では間違い無くこう、尋ねられました「さあ、大きくなったら何になりたいですか」。この仕組みでモチベーションは次から次へと社会に供給されていたわけで、現実に子供時代の理想を大人社会で実現してしまい(圧倒的多数は、夢のサイズを下げて合理化します)、時には大発明に繋がったりします。この発明は社会に一見歓迎されますが、おそらくこの成功例は例外でしょう。見方を変えると、社会は「夢」の言い出しっぺの責任を取るかのように、この『進歩』を取りこみます。「変節」に近いでしょう、世代間ギャップとも呼ばれます。社会の本音は安定的なモチベーションの維持にあり、社会変革に繋がるような発明や進歩を、本来歓迎しないからです。発明や進歩を必要とするなら、それは社会が自ら欠陥を抱えている事を自白しているのと同じだからです。学校で先生は「大きくなって、この腐った社会をどのように変革しますか」とは尋ねていないのです。
ビートルズは総じて年配の方には支持されませんでした。又アメリカにまつわる、様々な事柄は、ヨーロッパで歓迎されない事が多く、金融の自由化は短期的に社会の不安定要因に違いなかったのです。

 何が起きているのでしょう?

コンプレックスを起因とするモチベーションは、社会にとって両刃であり、変革が頻繁に起こる社会は、それだけシステムとして不安定だと言える。そしてコンプレックス等の葛藤を大量に引き起こす事と無縁では無いって事です。ネイティブアメリカン(差別用語で言うところのインディアン)社会は、白人文明から見た時「下等」扱いされ(最近は見方が随分変わっています)ほとんど滅ぼされててしまいました、日本の江戸文明は、黒舟の脅威で否応無く解体されました。

困った事に、この不安定故の進歩システムは、安定的な社会システムに比較強者なのです。「大きくなったら後を継ぎ、伝統と先祖の土地を守る」社会から「大きくなったら何になりたいですか」の社会へ。個別に発明されるものや、進歩的として取りこまれた「個人の権利、民主的社会」が問題なのではありません。それらの改革・発明の動機の後ろに大量の葛藤が起こりうるって事です。葛藤を代償に、それらはあるのかも知れないって事です。アメリカンドリームの背後にいるアメリカンルーザーこそがアメリカの実存なのかも知れません。実際「競争社会」はストレスの元です。みんなで競争を止めたら、のんびりとしたのんきな社会なワケで、どっちがいいのやらです。
文明論は又別項として、話を「社会が葛藤を合理化しようとしているプロセス」に戻します。

社会は夢を供給できなくなりました。新しいキャッチコピーは「個性化時代」です。わかりやすく言うと「夢は自分で考えてくれ」という意味でしょうか。このコピーはむしろ「夢」が持っていた理想性を、より曖昧にしました。「夢」は容易にスケールダウンします。これは「夢」がかなり最初から、現実離れしていてOKな概念だからで「一戸建て」「自家用車」「子供を大学進学」などに容易に変化し、背後の葛藤バネもおおむねそれで満足だったのです。『実現(何の実現かはともかく)』には違いないのですから。
(進学競争に駆り立てられた世代にとっては迷惑な話ですが、、。)

問題は「やりたい事」です。
最初からスケールが小さいので、「夢」のように「出来そうな事化」が難しいのです。「やりたい事」自体は抽象概念で、『今している事』か『出来たらいいな、と思っている事』が、その対象になりますが、まるで「やりたい事」という『事』が具体的にあるかのように、使われるケースがあります。
『やりたい事がみつからない』です。とんでもないパラドックスです。「やりたい事」とは、既に具体的行為が決定している場合の代名詞に近いコピーにも関わらず「みつからない」なんですよ。当たり前じゃないですか、取りたてて『出来たらいいな』なんて事無くてもいいんですから、「今で十分です」って事です。

ところが『やりたい事がみつからない』という言葉が、言葉使いとしておかしい、と聞く事は稀です、よっぽど『自分探しの旅』のほうがマシなのにです(これも凄い言葉ですが、、、)。且つスケールダウンが出来ない。つまり、やりたい事が出来ないとまるで「自分は出来損ない」なんです。それが見つからないと焦り、慌て絶望します。まるで自分以外の他人には、みんなそんな「やりたい事」があって、それに邁進しているかのように。まるで自分だけ取り残されていってしまっているように。
葛藤が隠れるには最高の言葉です。

この言葉が頻繁に使われ、言葉使いの修正も起きないところから考えると、この言葉の需要が、大きい事を意味するのでしょう。もしですよ『出来たらいいなって事が無い』『夢が無い』という悩みなら、自分はなんとなく絶望しているんだって事に気がつきます。ひょっとすると自分と向き合うきっかけにもなるでしょう。
しかし『やりたい事がみつからない』じゃ周りの人間も打つ手無しです。まさか「何がしたいの」と聞く人がいるとも思えません。『やりたい事がみつからない』なんて、まるで口座の無い銀行に行って「僕のお金は何処?」と聞くような話です、「口座番号は?」と尋ねたくもなります。

 デコードしてみましょう。
 「やりたい事だ!と僕の行き場の無い衝動と、イライラをぶつける対象は何?」

これはいぶかり過ぎかもしれませんが、、、社会の何処かに「葛藤をそのままにして、その旺盛なモチベーションを活力に取りこみ、その後ろで葛藤に悩む人の事など知りもしない」なんていうの、無いでしょうか?、、、う〜ん、、、です。
とにかく危険な言葉です「やりたい事」。

■その仲間達、、、
『抽象的(曖昧)』『頻繁に使われる』『口語調』でしょうか。
「美味しいもの」「楽しい事」「どっかいいとこ」「好きな人(嫌いな人)」「恥ずかしい事」等です。自分では具体的では無い事を言っている事に気付かずに、話し相手に対してはいかにも何か具体的な事を話した認識がある言葉です。あるいは何らかの具体的要求、「漠然とした欲求の満足を求める投げかけ」です。話し相手にとっては、困難な要求で、下手な事を言うとその印象で「違う」と否定されます。「やりたい事」がみつからないのに似て、上記の要求はそもそも自分でわからないから抽象的なのであり、ほとんどのケースでその要求に対する提案は「否定」されます。

つまり話し相手は、「やりたい事探しを、代わりにさせられている。」ワケです。重要なポイントは「否定のための現実的提案を求め、現実的選択から逃れる証拠固め」であることです。
その通りなんです。
そんな言葉が使われる『動機』は、自分が具体的な選択の判断から逃れている事を、忘れるためだからなのです。
@一見具体的な問題提起(「楽しい事ないかな?」等)を行った時点で、何やら自分のするべき判断が終わっているという錯覚が生まれる。
A話し相手の具体的提案は、命題が具体的では無い時点で実は既に「事前に否定される用意」がされている。
B話し相手の具体的提案の否定により「〜な事など無いのだ」と、いかにも現状の不満を解決する方法は何処にも無いかの様に、自分自身の自我を説得してしまう。

思い切り『パラドックス』になってます。
自分が次に起こしたい行動の情報(好みや、不足不満の内容)を最もよく知るのは自分です。最初から「公園に散歩に行こうか」と言えばいいのです「それとも、なんか行きたいとこがある?」と、それが自然な会話の流れです。実は「こうしたい」というのが目の端にある時『仲間達』がクイズ形式で使われ、まんまと「こうしたい」を意識の外に追いやる事ができます。
「現実的快を自立的に確保する事の否定」=「悩みの確保」。葛藤により誇大妄想化した目標(極論、社長になるとか、ノーベル賞をとるとか、貴族と結婚するとか、正義の戦いに命を投げ出すとか)に脅迫されている時、なんかちょっと今しようと思っている具体的行動は、その妨げになるのです。
(無意識的には「そんな事して、いい気持ちになってる場合なのか」でしょうか?つまりヤバイんですよ。)
見方を変えてみましょう。それこそパラドックス(逆説)的に。

「私のやりたい事って何かなー」という言葉は、自分でその答えを持っている証明なのです。
『仲間達』にも注意が必要かも知れません、比較的良く耳にする言葉です。
標準的な使われ方は「自分が既に決めている事を、相手に提案させ、提案責任を逃れる」でしょう。

■禁煙している人物の台詞:「なんかほっとするものないかなー」「お、一本どう?」



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