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「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。



991 想像と流血衝動 あい 2008/12/11 16:41
こんにちは。

中学生の頃から想像にふける時間の割合が多くなっています。
想像の種類は様々ですが、多いのは次の二種類です。
一つは、必要以上に悲しい、あるいは悲惨な未来を想像して場所もわきまえずに一人泣いてしまうもの。
もう一つは、自分には特異能力があって他人よりも優れているもの。こちらは大抵、暴力的な内容を含みます。特にアクション映画などを観ると、自分を主人公に投影して想像しています。

どちらも、現実の自分や環境に満足していないことが原因だと思っています。そして、他人に認められたい、他人の上に立ちたいという欲求が強いせいとも思います。

妄想という言い方に当てはまることは、被害妄想です。
きちんと現状を把握したり、確かめたわけでもないのに、目の前の光景やふと耳にした言葉に過剰に反応して、自分がないがしろにされている、自分を否定されている、自分だけが大変な思いをしているという考えで一杯になります。
最近では、感情の揺れを抑えきれずに一方的に相手を責めたり、態度に表して相手に訴えることが多くなっています。
私が不機嫌になる原因や相手に、正当な言い分があると知ったあとは、激しい自己嫌悪に陥って、周りが忘れた頃にも一人落ち込んだり、自己否定に走ります。

最後に、血に対して異常に反応してしまいます。
目が離せなくなるというか、気持ちが湧き立ち、興奮します。
中学の頃、家庭環境の影響で自傷が始まり、刃物で体を傷つけるようになったのは高校に入ってからです。
最初は、耐え切れない辛さや泣く理由を、傷という目に見える原因を作ることで安心できたからです。また、痛みに耐えている時だけは、それまで心を占めていた辛さを忘れることが出来ました。
ところが、最近では自傷の動機が変わりました。
切ろうと思う理由は、単なるストレス発散なのですが、血を見ることが楽しいのです。特に血がたくさん出て、滴り落ちる光景を見ると、表現できないほどの満足感があり、その後は気分が爽快してハイになっています。
今は傷つける対象が自分だけに留まっていますが、先も言いましたように暴力的な妄想の中で、他人を深く傷つけてしまうところを見ると、別に他人を犠牲にしても構わないと思っているのではないかと考えられます。
暴力的な想像の中で犠牲になる人は、いつも現実で私を不愉快にする相手です。相手は時によって違いますが、大抵、私が受けた仕打ちよりも何倍もの仕返しを想像して、相手を完膚なきまでに打ち倒してしまいます。
そのことについて罪悪感はありません。しかし、暴力が犯罪である以上、それを実行してしまうことは絶対にふせがなくてはならないことなのだろうという認識は出来ています。

いろいろ書いて要領を得ないかもしれません。すみません。
先に挙げた想像は、度が過ぎると最終的には暴力的な内容で終わります。そして現実では自分を傷つけること、つまり血を見ることで満足しています。

私は異常なのでしょうか。カウンセリングを受けた方がいいでしょうか。
何か、アドバイスをいただければ幸いです。

長々と失礼しました。
992 こういうことです kagewari 2008/12/11 23:32
先ず
>特にアクション映画などを観ると、自分を主人公に投影して想像しています
ここはそもそも映画ってのは主人公に感情移入して興奮を快感として獲得するものですから誰しも同じです。
これだけアクション映画の興行成績が高いのですから、同じような趣向の人物は多数存在しますし(むしろ「アクション映画が死ぬほど嫌い」なる人を探す方が難しい)、それ自体には何ら意味はありません。

重要視するべきところは「快感を自発的な動機形成で獲得するのが苦手なあいさんなのに、アクション映画から快感を獲得するのは容易だ」という個別性と暴力想像の興奮との関連性です。
構造はシンプルなものです
■「被害認知とリアクション」

そして常に”被害認知”が優先される傾向ってどういうことかと説明しますと。
仮定の話として「人間には(五感のように)現実認知の機能として”アクティブソナー””パッシブソナー””目視””責任者の推定”等様々な要素があるとします」。当然索敵業務を行う時は”三角測量”じゃないですが、複数の情報から総合的に現実を認知するワケです。
しかし、機能しているのが”パッシブソナー”だけで、警告信号の種類が「敵の攻撃があります」だけだとします。
こうなると「ピーッ」と鳴ると、全ての情報が「敵の攻撃」です、
しかも誤作動のため、通常なら感度も中間点に置いておくべきものを神経質に”感度最大”になっている。

こういう状況ですよ、
あいさんには”全く自覚がない”のは言うまでもありませんが(無意識との関係による偏向なので)、
第三者から見ると「世の中で自分の被害を感知する事以外に関心の無い人物で、しかもその感度は常識では考えられないぐらい敏感になっている」状況になっちゃっているんです。

何故か?

自意識(アクティブソナー)が抑圧されているからです。
こういう自我の状態を「強迫的」と呼びます。
簡単に言えば「使い物になりっこない」という固定観念で「”アクティブソナー””目視””責任者の推定”等様々な要素」これらのスイッチを切っちゃっているので、頼みは『”パッシブソナー”だけ』なんですよ。

何故こういう現象が起きるのか?

これは専ら幼児体験を含む家庭に原因があるケースが大半です(稀に部外者の特権階級的人物の関与で起こりうる可能性もありますが)。
つまり「幼児の認知は受動性認知が大半」で、ここでアクティブ(反抗)な動作をした時に抑圧的にそれを阻止されるような人間関係や配慮すべき状況が家庭に在ると、「これは使い物にならない」という道徳にも似た(家庭内で最も権威の低い幼児の反抗を道徳的に幼児個人に正当化するのは非常に難しい→幼児に家庭内のアドミン権限あったら大変ですし)認知が先行します。
抑止的抑圧に始まり、道徳的抑圧(ここで自律機関として自分自身の自我に強迫認知が仮想道徳のように構造化します)により、現実を認知する機関が「パッシブソナーだけ」になるのです。

■「被害認知とリアクション」
「被害を感じて攻撃、被害を感じて攻撃、被害を感じて攻撃」これが、あいさんを取巻く世界の摂理に誤解されるって事です。
まさか世界があいさん個人に加害を行うような事例に関心がある筈もなく、誰にもそんな利害関係ありませんから、これは100%錯覚「誤認情報」になります。故に「被害妄想」と呼ぶのです。

つまりこの構えは「幼児期の不平不満が幼児特有のデフォルメ(幼児の方が真剣にヒーローがこの世にいると思い込んでいるように)により誇大にイメージ化されます」そのイメージは事実上「聖域化され(自分自身のナルチシズムと関連があるため)」、
あたかも自分は「世界から命を狙われている皇太子(或いは皇女)で、いつか超能力で復讐を遂げるヒーローである」みたいな図式にまんまなっちゃうんです。
ご存知の通りあいさんが一般市民であるのは言うまでもないでしょうから、この「どうしても想像してしまう世界観」も100%錯覚「誤認」になります(といっても誰しもこういうヒーローヒロイン願望みたいなものを部分的に残しているものですから全部が全部問題って事じゃないですよ)。

つまり、自我の置かれている現状の立場が「様々な誤解や誤認を雪だるま式に増加させて、見当違いな被害感で興奮する等の自分ながら後から考えたら整合性のつかない悪循環を生んでいる」のです。

直線的な解決策は「現状の自我の自分の情報は常に偏向していて(構造的な情報不足によって)正確性が無いので、初動認知や興奮を伴う認知は”全て間違っている”」と大上段から定義しちゃうのです(ここ”有無を言わさず強制的・超法規的に”)。
>正当な言い分があると知ったあとは、激しい自己嫌悪に陥って、周りが忘れた頃にも一人落ち込んだり、自己否定に走ります。
という風にバランスを欠いているとは言え、逆から考えればあいさんの自我は「後から客観情報を後日談として集めた後の判断は健全」なので(その関係で自己嫌悪しているぐらいなのであって)、
つまり「自己嫌悪に陥る状況を阻止するために、自己嫌悪を感じるぐらいの時間まで”常に判断を留保する”」って事です。
何事の判断も100%常に留保するんです。
「絶対後から考えたら結論は変わる(現実に近づく)」とこれを信念とする、

一見回りくどいというか、あいさんだけ特別損なことをしていると感じますよね。
しかしこれも全然違うんです。
自我構造上では、自然な状態だと「自意識が勝っている」のがデフォルトです、
自意識は前例主義的ステレオタイプな認知しませんから、常に持ち帰って「考える人」です。
あいさんはこの自意識の立ち上がりが「強迫と抑圧」によって”限定的にダウン”しいてるのですから(自意識が立ち上がっていても「どっちにしても持ち帰りで後から考える」ので)、強制的に「(いつもなら自己嫌悪になるタイミングまで判断を)100%全て持ち帰り」とする事で、構造的には自意識を動員した現実認知を回復できます。

自意識は抑圧されているのでは?
 ↓
この抑圧は、初動認知や被害認知で強い興奮を伴うように(この状態が「自意識抑圧」)反射的というか「現場だけ」で発生していて、後から考える(第三者的思考なので=構造的に自意識の関心事項になる)事で、”アクティブソナー情報の欠落”を補えるんです。
実際の認識速度も、自然な状態の自我と大きく変わらないでしょう。
自分は「慎重に考えて判断する人だ」と思えばいいのです。
「橋を叩いても渡らないぐらいに自分は慎重だ」とか、
プロ野球の捕手論で野村監督等が「常に最悪の自体を考えている」と話していますが
同様に考えるなら
「常に自分の初動認知はどんでもない誤解を含んでいる事を”常に想定する”」認識論として自認してもいいのです。


■本質的な解決策としては、幼児期の人間関係の誤解をドキュメンタリーのような第三者の視点で再構成する必要があります。
100%ここに幼児のデフォルメが介在した「過剰な事実認定の偏向」が隠れています。
同時にここには現状の自我バランスの(特権階級意識的自己愛快感)快感傾向もセットになっていますから、自我は強くこれに抵抗するため(客観的な事実関係も激高して認めない等)、簡単には進みませんし、非常に長期間に及ぶ事もあります。
しかし、本質的な解決は、この大元のイメージの再構成無しには進みません(仮想トラウマみたいなものです)。
必ずその歴史認識には”誤解”が含まれています。

専らカウンセリングというのは、この後者の本質的アプローチに属します。



■血に対して異常に反応してしまいます

これは”性衝動”です、
自傷行為の大半というか、そもそも自傷行為に依存傾向がある原因はここにあります。
繰返される自傷は「マスターベーションに近い行為」と考える事ができます、
(ですから自傷行為の実体も性行為的な意味での年齢層とオーバーラップします)
構造的鬱状態になると、性欲まで後退するのはかなり有力な事実関係ですし(内向して反動により極度の自己嫌悪的興奮に繋がります:ここも自己愛的意味での内向性の性的興奮と関連性があります)
「抑圧」により主体的な能動性や外向性を抑えこんでも、生理的な欲求である性欲(食欲も同様ですね→なので同じように拒食や過食のような代償満足行為に使われる事があるんです)は、強迫構造でロジカルに抑えこめません。
”ストイシズム”のように哲学的にこれを昇華(広義の快感へ論理化)されるケースもありますが、これは「自意識の巨人」並にバリバリ自意識で考えて獲得される認識になりますから、自意識を抑圧すている状態でそういう哲学的認識を獲得するのは構造的に不可能です。

しかし対人関係における能動性のアイデアの中に含まれる性欲は、これを抑圧されいてる状況だと「興奮(脳内では=快感)を求めてストレスとして蓄積される」ワケです。
(なので自傷や自殺衝動や拒食過食は繰り返し依存傾向を伴って継続します)

何か性的な特別な話では無いのです、
人間にとって性衝動は非常に「広義」のもので、大きな概念で説明するなら『モチベーション』と翻訳しても間違いじゃありません。
気ままに散歩に行ったり
上機嫌で友人と語らったり
情熱的に仕事したり、
趣味の世界に没頭したり、様々な行為で代償されていて狭義の性欲(実行行為としての性行為)は、意外と矮小な部類(確かに日常性の中に含まれている大人の行為のひとつですが)に属します。

やっかいなのは、関係障害(極端な被害妄想による誤解等)があると、広義の性欲「気ままな散歩や、上機嫌な語らいや仕事や趣味」へのおおらかな能動性が快感獲得として失われてしまうんです。
まさかそれが性行為で代替される筈も無く(反動的にそれを求める方向に依存すると”性依存症”になります)、
実際あいさんに「他者まで傷つけたい」なんて欲求は一切存在しませんから安心してください。

やっかいなのは「このストレスが過剰に蓄積して自我のキャパシティーを超えかねない状況」になる事です、

ですから最も重要なのが

「外出」です。

気ままに”ひとり”で外出してください。
単独行動は”マスト”です、
そしてできれば節度ある消費してください(ここに依存すると”買い物依存”になっちゃいますから粗末なものに消費するように心掛けてください)、
自宅で自傷欲求を感じたら「即座に腕立て伏せ開始30回を3セット」それでもダメなら「腹筋20回を4セット」それでもダメなら「縄跳び400回」それでもダメなら「50mダッシュ30本インターバル無し」それでもダメなら「スクワット300回」、
そもそも体力的に無理がある場合「ラジオ体操3番まで”声を出して歌いながら”」、

何が目的かって”外向性の代謝”です。

概ねこれで、自傷の欲求の大半は代謝されます。
しかも健康になりますから一石二鳥です、
あいさんがガチガチの文系なら「私小説をいきなり3万文字一気書き」「三島由紀夫(文豪なら太宰でも誰でもいいです)の小説を一気読み」とかもアリですし、「24を24時間で見る」等のイベントも有効です。

「目には目を歯には歯を」じゃないですが、「自傷行為が泣き出すようなエキセントリックな能動行為で無力化するんです」
※実際に行為に写すのは難しい事に違いありません。しかし「あーここで本来なら腕立てか」と思うだけでも認識にはカウンターのフラグ立ちますから考えるだけでも有効性は高いんです。


カウンセリング等の本質的アプローチにより自意識抑圧が開放されれば、意図的にやらなくても「あーラーメンでも食いにいくか」や「○○行ってコーヒー飲むか」とか「○○呼び出して○○でもはじめっか」のような”気ままな能動性(自由)”により解消するんですが、
自傷が続く間は、意図的に”行動企画”するのが有効な対処法になります。



■カウンセリングを受けた方がいいでしょうか。

自分で選んでいいんですよ。自分の人生ですから、
「自由に考えて選択していい」って事を忘れちゃいけません。
993 Re: あい 2008/12/12 11:06
お返事ありがとうございます。

自分の中にある衝動と行動の原因が、もともとある人格や資質に起因しているのではないということが分かって大変安心しました。ありがとうございます。

また、ご返信に書かれている内容で何点か思い当たるふしもあります。

私の場合、あまり幼児期の記憶が残っていませんが、これは特に問題視するほどのことでもないレベルだと思います。
ですから、何となく引っ掛かりを覚えるのは中学以降の家庭環境です。というより、はっきり思い出せるのがその頃からだという理由からなんですが。

確かに、私は言動を「抑圧」しなくてはならない時間を多く過ごしてきたように思えます。実家では両親が喧嘩をしない日はありませんでしたし、寝不足やらストレスで神経症の傾向も出始めていました。実際に病院で診察していただいたのは大学に入ってからでしたが。
それまでは、笑顔でいなければ多くの場合、母に罵倒というか、酷いことを言われていました。また、愚痴や悩みを口にしてもほとんど取り合ってもらえず、大抵母自身の方がどれだけ苦労しているかという返しをされましたし、あるいはそんな風に不満を持つのは私の心が狭いせいだと言われていました。
特に母がピリピリしている時は、話しかけることすら恐怖だったのです。何も干渉しなくても、よく小さなことで怒鳴られていました。
私も追い詰められておかしな行動をしていたのか、突然「お前は頭がおかしい」と言われてしまい、すべてが憎く、それ以来周囲の笑い声や雑音が煩わしく、何もかもが信用できない一方で、やはり自分がおかしいからこんなにもうまくいかないのだろうと一人抱えたまま何年も生きていました。

大学に入ってからは、当時は母も30代と若かったし、生活も大変だったので精神的にも限界だったのだろうと解釈していましたが、今思えば母も私と同様の状態だったのかもしれません。

実は今お付き合いしている男性も、お互いの間に問題が起きて話し合おうとすると、「あーあーうるさい」「わかったわかった。うるさいなぁ」とまともに取り合ってくれない時が多いです。
そうしたこともあって、「まともな話し合いすら成り立たない」ということが当たり前になり、不満が爆発する前に口に出すということすら出来ない状況でした。

自分を助けられるのは自分だけ、理解できるのも自分だけ、突き詰めるところ、結局人は一人ぼっちなのだという考えが常にありました。

そうした自分の中の価値観が一掃されたように思えます。ありがとうございます。

流血衝動ですが、当面のところは外出などの気分転換で何とかなりそうな気がします。
ですが、
>>やっかいなのは、関係障害(極端な被害妄想による誤解等)があると、広義の性欲「気ままな散歩や、上機嫌な語らいや仕事や趣味」へのおおらかな能動性が快感獲得として失われてしまうんです。
の点には深く納得しました。確かに今は、生きるということすらどうでもよくなりつつあります。そしてそう思うことすら、自分はまだ幸せな方なのに何を甘えたことを言っているのだろうと罪悪感を持っていました。ですが、意欲がまったく湧かなくてどうしようもなかったのです。

根本的な問題はやはり、仮説のようにアクティブソナーの機能不全にあると思いますが、こちらは長期スパンで改善していかなくてはならないなと思いました。

ですが、これからは少し落ち着いて行動し、もう少し活動的になろうと思います。

ありがとうございました。
994 補足しておきますね kagewari 2008/12/12 19:26
返信から推定しますと、
鬱傾向ではなくて、自傷に寄っている原因のひとつが「仮想トラウマ」となっている家庭環境の人間関係の問題が”思春期”であったことも関係しているように思います。幼児期から自我確立まで数回の反抗期(デフォルメイメージ子供の夢想から”現実適応”へ移行→一種のアップデートです)がありますが、思春期の反抗期発現の代表的原因は「性的モチベーションの台頭」です。正にここが能動性の代表格であり「自己の快感の肯定や、外交的能動性の獲得、能動的快感獲得の可能性を高める自分の大人像の確立」等が行われますが、この時期に「家庭環境の人間関係の問題のピーク」があるとすると、「自身の性衝動への嫌悪や葛藤、自身を肯定し守る(快感を獲得する人としてその尊厳を自分で守る認知)意識の退行(簡単に言えば”あて付けて的な投げやり”)」のような問題がおきがちです。

自傷行為とよく似た行為が某宗教の儀礼に一般化している事例があります(公開掲示板なので宗教関連の話は詳細記載できませんが)。
仏教的原則から言えば、性欲も煩悩なワケですし、
認識は全く違うんですが、相似するアプローチを「自分自身の性意識の嫌悪が存在するのを”全く無自覚・無意識”なまま」同時に「哲学的認識や宗教的論法」も無いまま、その根拠を「自分の思春期の仮想トラウマ」とした場合?
抑圧された性衝動がある意味自己陶酔的な内向性の構造の中で儀式的に自傷行為への依存に繋がる
こういう流れです。

脳内ロジックでやっかいなのは、
「体感上の快・不快に関わらず、興奮は全て快感分野である」という認識があることで、
たとえ本人の自我にとってそれが不快であっても、経験則から実現可能性の高い行為に優先フラグ(再生産)が立つ事です。
思春期以前の家族関係は幼児〜子供の期間まで、同時に「性愛的興奮(快感獲得)関係」であり、興奮を伴う関係性は性愛対象者との間の”快感分類”になるんです。つまり人間関係の悪化で罵詈雑言が飛び交ってもです(幼児的見地から見ると相手を激怒させても”極端にかまってくれた”のと等価に判断される:幼児特有の受動性認知が支配的なので)。
すかっかり「○○ってさ〜○○だよね〜」「あ〜そうかも」のような柔らかいというか和やかな関係性の快感(言葉としても最初に自分が”投げかけている=アクティブ”)の可能性の価値が(実現可能性として)脳内で著しくランク落ちする。

あたかも「そんな筈無い」かのように、

やっかいなのは、幼児から子供時代にはこういう教訓のようなロジックは「道徳的認知」に関連するので、
「そんな筈無い」とか
「○○に決まっている」や
「やっぱり○○だ」的”パッシブ”な認知を語るとき(若干得意げとも言える)微妙な興奮伴っている事に自覚がある筈です。
これですね「そういう認知こそ正義で、和やかな関係性の快感等嘘っぱちである」という道徳条文みたいになるんですよ。
つまり「アクティブな和やかな関係性の快感」の可能性や発想や想像を”自分自身の道徳性で取り締まる”→自家発電的『抑圧』
 ↓
>何もかもが信用できない
>生きるということすらどうでもよくなりつつあります。
しかもこういう認知に”微妙な”興奮(快感)が伴うって事です

そして実現可能性の高い順として、再生産が”無意識に”目論見られます。

つまり、「自分の被害感を元に大興奮(快感とストレス吐き出し)する”チャンス”を見逃さない事が正義であるかのような誤解」が自我に「結果として織り込まれちゃう」のです。
この状況にピリピリするワケですから、他者の人物像や思惑等の予測は「最初から見当違いなぐらい偏向してしまう」のです。

関係障害というのは、一段翻訳すると「自己の脳内イメージを現実より優先させてしまう錯覚」の事なんです。
そんなつもりのない人を「この人も○○に決まっている」のように、
上記の文章何度か反読してみてください、
何かに気が付きませんか?
「知りもしないのに、不思議と事前にわかっている」とことです。
「この人も」の”も”
「決まっている」は”事前に知っている”
わかりますか?過去の象徴化された記憶の投影なんですよ。
現実を認知しているようで、「”不快な”快感を獲得可能性の高い順で獲得するために、脳内の印象記憶をレッテル張りのように貼り付ける(投影)対象者を探しているだけ」なんです。
「やっぱり○○だ」と思いたくてしょうがないかのような認識。

(可能性としては、当時の「家族動乱」の優先順フラグが仮想トラウマのように強すぎで”それ以前の記憶”がマスキングされて”パッシブソナーの反応外”になっている可能性もあるでしょう。→過去を再構成する事で思い出される事も多くなる)


>実は今お付き合いしている男性も、

注意が必要なのは「共依存」です。
「やっぱり○○じゃないの(激高)」劇を再現しやすい相手を無意識に(好感誤解により)”スカウティング”して、無意識(まったく自覚無く)に関係する可能性はあります。
そして強迫的自我の場合、特に恋愛局面において「その可能性は高い」のです。
(ここがこじれてDVが頻発する事もあります)
何故なら、
「そんな筈無い」とか
「○○に決まっている」や
「やっぱり○○だ」的”パッシブ”な認知が性愛関係における実現可能性の高い”快感”として、ここに依存傾向があると同時に、ここに道徳的興奮も関係しているのですから、その対象者に「好感誤解」が起きる事は、決して不自然じゃないですよね。
それこそその後「絶望的な自己嫌悪(興奮)」を獲得すれば快感的には「二度美味しい」みたいなメリットまである。

上記全体を「あいさんの自意識は全く求めてもいないし(むしろ不快で回避したい)、そんな”つもり(自覚)”はまったく無い」のにです。
上記の舞台劇が「激しい愛憎劇(和やかな関係性の恋愛劇など面白くも無いし嘘っぱちである)」のように無意識に希求されている、


このような悪循環になっていないか、確認必要です。
どうにも無意識の動機が怪しい場合には、関係を解消する事を念頭に考えるほうが建設的な場合も多いです。
(原点に戻って考えてください「お母さんさ離婚すればいいじゃん」「まぁそんなに深刻に気を病まないで、ここで心機一転家族解散とかもあると思うよ、役所に相談にいけば生活の方は心配無いだろうし。笑顔が無いのは不健康だよ、役職”母親”がNGなら”ひとりの女”に戻る方がいいと思うけどな、人間として全然恥ずかしい事じゃ無いよ」)

>今思えば母も私と同様の状態だったのかもしれません。

「強迫的傾向があった」と考えるべきでしょうね。
その時の彼女の言動は”何から何まで全てが(100%)”素の彼女の本音じゃなかったと考えてもいいのです。
 ↓(ここと同じ)
常に(彼女の)自分の初動認知はどんでもない誤解を含んでいる事を”常に想定する”

彼女の強迫傾向を考えるよりも「ほんとうは”あの娘”どんな娘なんだろう」のように考える方が、
これまで認識の偏向で見えてこなかった”彼女(母親)”の実存がより見えてくるでしょう。


>結局人は一人ぼっちなのだという考えが常にありました。

この認識は「家族番号」です、
未だに現実認知の”物差し”が「家族動乱時代の記憶投影」であるため、小社会に帰属(地位や名誉)していない事に渇望感というか極度の不安感を感じるんです。
現象としては「会社の名刺自慢をしたい人」と同様で、まったくあいさんの本音じゃありません。
こういう孤独感には「全く実体が無い」と考えてください。
(本来個室や専用とか独り占めや気ままな一人旅等、これらは”正規ルートの快感分類”です)


「これまでの自分の人間関係ってものを、探偵が”何があったのか”調査を進めるように自分なりに再構成してみる」だけでも、随分現状認識が整理されてくる筈です。
現状認識とは「戦況判断」みたいなものです。
ここが見えてくれば「次どうするか」随分楽になります。
995 Re: あい 2008/12/16 16:51
お返事ありがとうございます。

確かに私は、特にプライベートな人間関係の基本として自分の「家族像」を考えている傾向があります。家族像というより、概ね母親との関係ですが。

母親に言われたことや、母親からの扱いなどを思い出すときは、やはり興奮を伴っていますね。冷静になって振り返れば、今も引きずるようなことではないと分かっていても、昔あったことを理由に「許さない」自分がいます。許せないのではなく、許さない。許して、過去は過去と流してしまうと、どうしようもなく不安になります。自分の置き所が分からなくなるというか。そういう訳で、いまだに母親との接し方が分かりません。母親に優しい言葉をかけられると戸惑います。むしろまた罵倒してくれた方が、こっちも立ち振る舞いが分かって楽なのにと考えてしまいます。

私は幼児期はさほど家族関係に問題があったとは思っていません。むしろ小学生の頃は父も母も大好きでした。両親の関心が全部自分に向けばいいのにと思うくらいに(弟がいたのであまり叶いませんでしたが)。まあ、だから思春期の件でいっそう裏切られた感が強かったのでしょう。

幼児期に問題がなかったとはいえ、確かに「○○すべき」「○○に決まってる」「○○するのが当たり前」という表現をよくしてしまいます。それが自分の価値観の押し付けだとどこかでは分かっているのですが、どうしても自分とかけ離れた行動を目にすると「おかしい」と思ってしまいます。その行動が自分にも影響を及ぼす場合だとなおさら、矯正したくなります。そしてそのように語る自分の発言があたかも常識のように自信を持っています。

人それぞれ考え方は違うと分かっていても、こと自分に迷惑がかかる時などはどうしても嫌だと思ってしまいます。これは自分の短所だと思いますし、お互い妥協しあわなくてはいけないときまで不満で一杯になってしまうので、何とか改善したい部分ではあります。

こういったことを辞められない理由の一つに、相手を持論で納得させたり言い負かすことに快感を覚えていることがあります。「やはり自分は間違っていない」と安心してしまいます。お恥ずかしいことですが、恐らく口論で勝つことが一番楽しいと感じています。でもその一方で、自分は性格が悪く、歪んでいる、幼稚だと自己嫌悪に浸っています。それすらも脳内ロジックでは興奮に繋がるのでしたら、一体どうすればいいのでしょうか。

しかし、自己嫌悪に陥りはするのですが、やはり根底には他人が私の言動で不快になっても、傷ついても、それがもとで離れていっても、どうでもいいと感じてしまいます。
過去の人間関係や自分の振舞い方を振り返っても、「諦める」ことで終わってしまいます。どうすれば友人や親しい人を最後まで大切に出来るでしょうか。「相手を傷つけたくない」という意識が生まれない限り、反省や内省には意味がないように思えるのですが。
996 とっかかりはシンプルでいいのです kagewari 2008/12/17 16:19
とっかかりはシンプルでいいのです

>今も引きずるようなことではないと分かっていても

まず一点目、ここの認識間違っています。
当時の母親の言動はあいさん同様に「全く本音ではない」可能性が高く、
ここを逆に考えれば彼女の自意識共犯的な(強迫的認知に抗しきれずにこれをあたかも”道徳的”に表面化させてしまった)自己責任性の問題は別の意味で明白で(しかも家族社会を形成した場合家父長には社会的責任が付随するので)、
「1、彼女の本音ではなかったのじゃないか(本音は180度逆である可能性あります)」
「2、強迫的認知に効しきれなかった家父長責任が、個人的に”彼女の問題”として存在する」
このような視点で
『本当は何があったのか』
この部分は全く検証(現実化)されていないのです。

つまり「引きずるも何も、何があったのかという事実関係すら曖昧なまま」なんですよ。

>むしろ小学生の頃は父も母も大好きでした。両親の関心が全部自分に向けばいいのにと思うくらいに(弟がいたのであまり叶いませんでしたが)。

ここも視点に欠けているところがあります。
「何故自分は”両親の関心が全部自分に向けばいいのにと思うくらいに”依存していたのか(或いは特権階級的認知)」
この背景は「弟がいたのであまり叶いませんでしたが」により論証されています、

家族認知が強いと『幼児の認知』という概念も一方的なものに偏りがちです、
幼児を含む子供も大人同様「同じ人間」です。
単に能動性の領域と、出来上がってしまっている文明への自己完結的行動能力の点で、年少者は現実適応(現実に対して個別に対峙する)が構造的に(生理的にも)劣る事で、ここにも個体差がありますが”子供も大人も根本は同じ”です。

現実レベルでいえば両親もれっきとした赤の他人ですから、
ある特定の夫妻に依存傾向があるぐらい固着する経験の背景には(ストックホルム症候群のような傾向があるのも事実ですがここは別論議として)、
『自分が幼児期の彼らの言動も”本音”ではない』可能性があるのです、

何の話をしているのかと言えば
「彼らが溺愛(これも過干渉として虐待の一種です)していた可能性がある」事です。
関係障害を持つ人物の傾向に、相手が社会適応している(ある意味保守的な)大人であればあるほど神経的に緊張する傾向があります。理由は関係障害的強迫の背景には家族適応という社会適応のコンプレックスが介在するためで(よって自立的意味での他者の認知より社会的意味での他社の認知が優先されがちになる)、ここを前提で「自分の幼児や子供」考えてみてください。
関係障害的ストレスが大幅に”楽”になります、
彼ら本人にとっても、この相対的現象(大人社会相手だと不快な事も多いが相手が自分の子供だと大幅に楽だ)は”強い好感”と誤認される可能性はとても高いのです。

そして溺愛に繋がる

これが「そういう”可愛い(差別的意味で)子供”」が、思春期になって「社会的大人のような存在になる」事は、上記の認知誤解から考えると、彼らにとって「思春期に成長することそのものが”裏切り行為”」になっちゃうんですよ。

■ここ凄くわかりにくい話になってますから、何度か判読繰り返してください。

たとえとしては随分違っているところあるんですが、
彼らの『脳内現実(幻想)』をシミュレートするなら
「雨に濡れた可哀想な子犬を拾って、随分と”可愛がってあげた”のに、半年もしたら”大型の土佐犬”に育ち怖いし騙された感じすらする」
現実世界から見れば、「大丈夫ですか」級の現実認知の偏向ですが、強迫性認知のある”属性親”における人格構造の場合、こういう認識を(まったく無自覚に)「そうだそうだ、私こそが被害者だ」とする認識から”逃れられない(道徳的興奮)”パターンはあっても不思議な話じゃ無いのです。

なものだから「幼児期と思春期での彼らの対応は”表と裏ほどの差がある”」
これは構造的なものです、
そう見えちゃうというか、そういう認識に(無意識且つ道徳的なものだから)抗しきれないというか、
彼らにも「何が起きたのかさっぱりわからない」のです。

※なので子供っぽい言動を示すととたんに優しい人になったりする

■もう一度繰り返しますね、凄くわかりにくい話になってますから、何度か判読繰り返してください。


つまり、
溺愛時の現実偏向(誇大な快感:過剰な接待で調子に乗った)を”インセンティブ”に、あいさんの現在の「激怒や強迫的妄信のような認識」が快感原則的に”ワンセット”になっているって事です。
思春期の反動(暴言や関係悪化で仮想”独り占め”が成功する実現可能性に脳内で優先フラグが立った)は、その(溺愛)の反動的再現になっているんです。
わかります?「話のわかる大人同士で和やかに」これじゃー過剰に接待されているのが当たり前だと思っている幼児の心理は「全く不満足」なんですよ(「意味無い、馬鹿らしい」)。

ここまでの話で随分と理解されていると思いますが
いうなら「天地が逆さまになるぐらいの非現実的世界で幼少期を過ごした」事になります。
しかし、その言動ひとつひとつに「現実適応パッチ」を当ててですね、強迫的認知って何かって見方を挟んで振り返れば「自分の過去にはこういう現象が起きていたのか」なる”現実”を回復可能です。
しかも現在ことほど左様に命があり、けっこうな大人の年齢になっているのですから「何やかにやとサバイバルに成功した」のは事実であって、荒唐無稽な話に見えたとしても十分歴史を再構成する事は可能です。

「自分はこんな風に生きて生きたのか」なる認識は180度近く”別の話だった”なる発見する事になります、


ですから、
>そしてそのように語る自分の発言があたかも常識のように自信を持っています。

こういう認識ある場合には、
「一言一句100%自分の判断は”自分特有の誤解”である」と、一時的に優先フラグを立ててください
すべて判断は持ち帰りです、

>これは自分の短所だと思いますし

違います、
現実認知が「倒錯」しているんです。
こういう認識全てが『あいさんの本音じゃないから』です。

簡単に言い換えると「あいさんは、自分の本音なるものをこれまでの人生で”その場で”体験した事が無い(後からだけである)」と言ってもいい。

なんでしょう車の運転にたとえるなら「100%常に操作ミスをして、その場所での操作ミスを道徳的に正しいと興奮している→後から考えれば操作ミスであるのがわかっているんだけれども、”その時”の操作ミスを正しいと感じる興奮に対して自意識が抗しきれない」。
構造はシンプルなんです、

「ぜんぜん(自分の本音は)違うのに」

抑圧されがちな本音をいかにサルベージするのかってアプローチになります。
変えるも何も、これまでは「全く無自覚にこういう構造に酔っていた」部分があるのですから、この点に対し自覚的であるだけでも大きな違いで

>反省や内省には意味がない

まさに「意味無い、馬鹿らしい」的自我防衛的”抵抗”反射出ていますよね。
逆に見れば、「それだけ意味がある”証明”」ですよ。ここ、
強迫的認知は、自意識(本音分野)にこういう事(現実認知的な省みる行為:内省)されると「本気で困る」って事です。
ここが正攻法である証明なんです、