Kagewari 精神分析相談事務所  HP  BLOG  OTD過去ログ 過去ログ(分類別)  有料メール相談 

「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。

■運営趣旨『ログ閲覧の公共性』から”編集目的以外の記事削除”は原則禁止(レスのついた親記事(スレッド)は削除できない仕様です)
■2012年7月をもって「掲示板上での新規相談受付を停止します」これに合わせて有料相談に「簡易相談」コースを設置
■投稿機能は(停止措置時を除き)制限しておりませんので「簡単な質問等は今後も利用可能」です(管理人投稿【79】参照)
■当サイト運営趣旨に反する連続投稿等がある場合心理学的判断から一定期間投稿機能が停止されます(管理人投稿【123】参照)
”現在投稿規制中”
■【参考】過去ログ/ブログテキストなど体系的に閲覧したい場合「民間有志作成のミラーサイト」もあります


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【37】管理人告知です、先の話ですが「OTDが閉鎖」になります。[0]  /  【28】やる気の無い日々、漠然とした気持ち[6]  /  【1】疑問に思ってたこと[4]  /  【3】強迫構造から抜け出せなくても[1]  /  

ブログの方でアナウンス済みですが、この掲示板を置いている契約サーバであるOTD・BBSの閉鎖が決まりました。
http://kagewari.seesaa.net/article/159151126.html
現在のところ過去ログ検索ボードだけでなく、現行掲示板ページもも過去ログHTMLとして保存して閲覧できる方向で考えてます。

掲示板の運用に関してはHPで利用しているレンタルサーバへ実装する形で検討中。
(同じように他社レンタル掲示板と契約って手も無いじゃ無いのですが、文字数制限や過去ログの保存容量などOTD的”限りなく無制限”なものはそれほど多くなくってか、OTDの経営を圧迫したのもその仕様にあったらしいんですが、、)
公開掲示板運用の当初目的(相談プロセスの公開や相談以前で何か参考となるログ閲覧希望に対するログの公開)は事実上終わった感もありますが(これだけ膨大な容量と件数を閲覧できる心理系サイトは無い筈で)、まだまだ継続の方向です。

仮の話ですが、掲示板を閉鎖する場合にはブログ「Kagewari 精神分析相談事務所・沖縄分室」を心理学テキスト系メインの運用として(結果として何らかの相談に対する返答となるような)、現行の公開掲示板同等の形に格上げって形があるかもしれません。
元々ブログには掲示板機能ありますから、個別のやりとりはコメント欄で補完するって手も無いじゃないですから。
掲示板の方も当初から事実上一対一のやりとりを原則とするので、ノーマルな掲示板運用とは若干趣旨が違うもので、
意味合いは違いますが、昨今各ポータルサイトが実装している・”ヤフー!知恵袋”とか”MSN相談箱”等この場合は「コミュニティーサイト的運営を試みている」ように、どうういう運営が適当なのかはともかく通常の掲示板スタイルが適当かって論議はあると思う(同様サイトをgoogleも過去に実験的に実装したことあるみたいで現在は廃止の模様)。
これらのサイトはネットで調べ物している時に検索結果として何かとヒットするもので、各ポータルの試みは副次的にネット内のQ&A事例の蓄積(社会資本)となっている一面ある。
<参考リンク>
ttp://chiebukuro.yahoo.co.jp
ttp://jp.msn.com
ttp://oshiete.goo.ne.jp
(↑本文URL制限によりhttpのh抜いてます)

※因みに上記は所謂日常的相談や個別の技術的相談などを目的とするコミュニティーサイトなので、人生相談等「平場の意見を聞いてみる」的用途はアリです。しかしメンタル・心理系の個人的な相談には不向き(極端な保守的意見やその反対に時限的共依存サロン化の可能性もある)。

てなわけで、心理系の掲示板運営に適した”一般的掲示板以外”の専用サイトみたいなアイデアではブログ・コメント機能の方が(返信はブログ管理人に特定されるので)便利なのかもしれない。これも少々どころか大規模なカスタマイズを前提とするだろうけど(この場合もブログサーバだって永久不滅じゃないからって部分は残るが)、
Twitterに見られるように「文字数制限をかける(短歌的)効用」って部分も検証必要かもしれない。
※これ考えると又大変な事になるのでまだまだ先の話です。

■話は戻って、
さて『新掲示板の立ち上げ』なんですが、
えー予定は未定です(笑
OTDも閉鎖前の猶予期間が後半年以上はあるので、まだまだバタバタする状況でもないでしょう。というか本来は以前某HPに掲示板実装したことありますし、気の早い人なのでとっとと次の掲示板を立ち上げちゃうところではあるんですが、ブログ『住まいの心理学』の引越しで倒れそうな状況でして(俺も歳かなぁなどと感じる今日このごろ)、しばらく掲示板移設関係の話はご勘弁な感じです。
http://kagewari-retour.seesaa.net/

そんなワケでこの掲示板は「暫くこれまでどおり」です。
新掲示板の立ち上げが決まったところで又告知します、

引用なし

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・ツリー全体表示

初めまして、投稿させて頂きます。
私は現在23歳の無職です。
今年3月に会社を辞め、直後は何とでもやってやるつもりで居たのですが、月日が経つにつれやる気が消えて行き今自分が何をしたいのかも掴めない状態です。
家庭は父親と自分の二人暮しです。

高校生の時に引きこもり経験があります。しかし中学の時に親が離婚した時それを心配した母方の祖母が家に通ってくた事で、何とか克服する事が出来ました。
ですが、元々父親と祖母は余り仲良くはなく、父親が仕事を休止した時に祖母は家に通う事を辞めました。
それから1年以上経ち、私は無事専門学校を卒業して就職出来たのですが、理想と現実の格差が酷く、1月から入った会社を3月で辞めてしまいました。

幸い働いてた時は丸々貯蓄していたので、そのお金を使って昔から憧れていたオーストラリアへ行こうと思ったのですが、父親に反対され一度有り金を全部叩いてどういう場所かを調べてくる事になりました。
ハッキリ言って私としては余り無駄な事をしたくなかったのでモチベーションが上がらず、ダラダラと準備を進める事になってしまいました。

そうやってる内に月日が流れてしまい、父親がどうやら父方の祖父母に言ったらしく、電話をしてくるようになりました。
もう今となってはオーストラリアにも行く事が億劫になっています。

父親は普段は何も言わず、寧ろ息子である私にさえ声すら掛けませんが、自分の面子に掛かってくるといきなり怒り出します。
父方の祖父母が関わってきた事で、いきなり怒られました。
その事があってか、今とても精神が不安定だと自分でも感じます。

この状況を改善する為にはどうすれば良いでしょうか。
どうぞよろしくお願いいたします。

引用なし

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【29】状況を整理しましょうか  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/07/15 00:59 -

>今自分が何をしたいのかも掴めない状態です。
 ↑↓(矛盾)
>幸い働いてた時は丸々貯蓄していたので、そのお金を使って昔から憧れていたオーストラリアへ行こうと思ったのですが、

時系列の経緯はあるにしろ、現在の状況から逆算して「憧れのオーストラリア」が”反動形成”であるのは疑う余地ありません。
反動形成にもイロイロあるんですが、正確さはともかくわかりやすく言えば「抑圧された本音を表面に出すにあたって極端だったり誇大なイメージにしないと抑圧構造に太刀打ちできない」ところからくる反動で、ここ本音じゃありません。
思うに「憧れのオーストラリア」の象徴化は現行の家庭環境の閉鎖性の対立概念として”浮かんできた(抑圧から反動つけて浮上)”したもので、間違っても本音じゃありません。

だので、
(本音じゃない分モチベーション不足というか燃料切れで)
>今自分が何をしたいのかも掴めない状態です。
となっているのであって、

有利な条件を並べて「実利を獲る」事に集中すると話は早いのです。
・年齢的に若い
・貯蓄がある
この二つはとんでもなく有利な条件です。
(「現状53歳である・貯蓄もゼロでホームレス寸前」みたいな比較で考えてみてください)

言えば「まーどうにでもなる状況」です。
逆さに言えば「今すぐどうこうバタバタしなくてもいい状況」であります。

心理的ポイントは
貯金もあって、20歳を超えた人間がたかだが身の振り方をどうこうする上で”親の了解取り付ける必要などどこの世界にも存在しない”事でありまして、ここがポイントです。
『オーストラリア・カード』これがパラドックスになっている事に自分で気が付いてください。
面倒な人間ですら介入するに好都合なカード切っているって事ですよ、
そら無関係な人間でも「は、なんでまたオーストラリアへ」と言うでしょう。
自分自身全く自覚無いでしょうけれど、深層心理の罠と言いましょうかね、周辺にそう言わせる口実にもなっているんですよ。
『オーストラリア・カード』って奴がです。
(それも反動形成の仕組みのひとつでもある)
あからさまに関心をひいているとか、反発狙っているとまで言いませんが、介入の口実となっているのは確かで、
戦術論で考えればいいのですよ→「いきなりオーストラリア侵攻作戦では戦術的にどうなの」
(これ旧軍部がいきなり南進考え出した話と同じような話です)
(仮の話としてブラックジョーク的に『オーストラリア・カード』を有効にするには「俺さオーストラリアで捕鯨賛成団体作ってひと暴れしてこようと思っている」ぐらいの飛び方しないと暗韻がリセットできない。)

根本的な戦術目標は何かって「閉鎖的な家族社会に釘付けになっている」ところにつきます。
徴兵制じゃないんですから(笑
20歳超えて親と同居している事が根本的に間違いです。
(自営業で社長と部下みたいに何か合理的根拠でもあれば別ですが)

しかも
> 父親は普段は何も言わず、寧ろ息子である私にさえ声すら掛けませんが、自分の面子に掛かってくるといきなり怒り出します。
> 父方の祖父母が関わってきた事で、いきなり怒られました。
 ↑
彼らにメンタルな問題があるのは言わずもがなですから、
(脳内では「メンタルがどうかしている軍曹殿」と「パニック状態の軍令部まで押しかけてきた」みたいな話)
四の五の言わず「このまま同居を続けるのは極めて不健康である」と言い切ってしまってください。


で、今何をすべきか?
■「ひとりぐらし」ですよ。
そのために手段は選ばす(嘘も方便ぐらいの勢い)、
体裁整えるためにインチキ専門学校でも何でも構わないので(今いきなり再就職は心理的ストレスデカ過ぎに思います)、体裁のいい理由をデッチ上げてとにかく一人暮らし(いわば脱走兵でいいって事です→どうかしているのは軍部の方ですから)を実現することです。
※インチキ学校は真剣に考えなければ考え無いほどいいぐらいの勢いで、これまで全く考えた事も無かった分野であるとかがお勧め(電気工やサーバー監視など食い扶持に直結する方がベターですが極端な話映画政策学校とかでもいいですよ、)。→現行の閉鎖的状況や旧来の判断基準が干渉してこない無知の領域とすると心理的ストレスの位置関係がズレますから好都合です。


次の一手(戦術目標)は後から考えりゃいいのであって(ここで基本条件が非常に有利であるところを思い出す)、
ひとまず実現可能性の高い『現実』を回復して、実行に移す事ですね。

引用なし

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【30】Re:状況を整理しましょうか  じよく  - 2010/07/16 00:23 -

仰るとおりオーストラリアへ行く事が、逃避の材料である事はどこかで自覚していました。
しかし、もう既に10万円くらい準備で使ってしまったのでこのまま方向転換するのも何だかなって気がしています。
これから夏休みシーズンに入って旅券が高くなるので先延ばしにしてバイトする事にしました。
というか、ここに吐き出したら気が楽になったのか、バイトする気になれました。

一人暮らしですか。
確かに私はこの家から出て行きたいだけなのかも知れません。
ここに居るだけでモチベーションが萎縮している気もします。
ただ、安定した稼ぎがないですし、家賃など大きな出費が増えるとなるとどうしても尻込みしてしまうのです。

私は元々好奇心が希薄な方だと思っています。
だからオーストラリアに少しでも興味を抱いた事にすがってしまったんじゃないかなと考えたりしています。
また、最近になって己の勉強不足を痛感するようになっており勉強したい気持ちがあるのも理由の一つです。

反抗したい気持ちはあるかも知れないですね。私は彼らに本当は愛情を注いで欲しいと願っているのかもしれないです。
反抗期に居てくれたのは母方の祖母でしたから。私は父親を父親と認められていません。
私が成熟してきた現在になって、まともな世間話はするようになりましたが、寧ろその事自体腹が立っていたりします。
彼らに求める事が無駄である事も心のどこかで感じてはいます。

引用なし

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【31】状況を整理しましょう2  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/07/17 08:35 -

ゆっくり考えれば特別難しい構造ではありません。
(心理的”だまし絵”のような話)
抑圧がかかっているところで考えるワケですから、
「思いつけないアイデアを思いつけと命令しても不毛なだけ状態」だということです。
 ↑
これだとちょっとわかりにくいと思うので、少々実際の事実関係から離れた説明しますと、
「イスラム教徒の心理になって、今日の晩御飯豚のしょうが焼きは美味いかまずいかを討議しなさい」みたいなレトリックですよ。
(実態はパラドックス)

話の前提として今現在この話を思考し発言している”じよく”さんの自我主体の時制がパラドックスになっているんですよ。
さっきと同じように少々実際の事実関係から離れた説明で話しましょうか。
「会社での顧客との揉め事に関して訴訟に発展した。その時俺は訴訟の中でも極めて実務的・専門的部分の論点を知り合いの弁護人に相談するのではなく、全く法律的に無知な両親に対して(子供時代の人間関係を前提に)聞いてみた。残念ならが建設的意見を聞くことはできなかった。」
 ↑
あたりまえですよね。

普通に考えれば聞くほうの動機がおかしいですよね?上記説明じゃあたかも答えられない話をそれを前提に聞いたみたいな話になっている。
しかも当事者の主体は時制のズレがあり、会社の業務で顧客相手に起きた事例の時制は”現在”ですか、コメント求めた対象者は現在や個別事例に精通している人物ではなく、子供時代の人間関係(10年近く前の自分)を根拠とするものだったって、、
そりゃね、
 ↓
「ある街にふらっとやってきて、今そこに住んでいる人に道を聞くのじゃなく、10年前そこに住んでいたかもしれない人をワザワザ探し、なんとか探し出してその10年前住んでいたらしい人に道を聞いたので、すっかり道に迷ってしまった。」
「あの、、オーストラリアはどっちですか?」
 ↑
こういう『抽象的文章の世界』になっているんですよ。
ところが抑圧かかっているので、ロジカルな矛盾に自分では気がつけない。
脳内の絵が”だまし絵”みたいな事になっているのに、全く自覚が無い筈です。


■ここまでの説明をレス文にあてて具体的に明示すると。
>私は彼らに本当は愛情を注いで欲しいと願っているのかもしれないです。
ここが第一の矛盾です、
ご自身の判断では
 ↓
>反抗期に居てくれたのは母方の祖母でしたから。私は父親を父親と認められていません。
という話が関連で登場するのですが、
反抗期は愛情を確認するものではありません。
反抗期とは快感依存対象の根拠となっている両親など家族内権威者への(幼児特有の)誇大イメージの現実化収縮による相対的幻滅からくる誤解による感情的破綻などの総称で(別段彼らが騙しているのではなく大人と幼児の関係から勝手に幼児が必然として家庭内権威者を誇大視するところが鍵)、客観的には脳内で肥大化している権威者イメージを現実世界の実存像に”修正アップデート”かけているワケで(極端な例だと「英雄→普通の中高年サラリーマン」へリサイズ)、
『私は父親を父親と認められていません』←この言葉は完全に矛盾していることになります。
■反抗期とは家族社会における属性上の呼称(地位)である”父親(部長や課長と同じ)”の称号が(幼児特有の権威フラグの解放)外れて、『男同士の関係』に還元される行為の事ですから、端的に言えば「反抗期が終わったので(自分が大人の男になった関係で)彼は父親ではなくなった」となるのが自然です。
つまり『反抗期によって彼が父親である事について更に認めるに至った』じゃ正反対ですから。
(これじゃ脳内の権威性が今現在も父親依存(実態があるのではなくその役割が希求され続けているという依存)であるって事になってしまいます)

一見整理がついているようで、今現在も「私が彼を父親と認めること」に殊更特別な意味がある事になってしまいます。

この矛盾を解き明かす鍵がこっち
 ↓
『本当は愛情を注いで欲しいと願っている』

※文章の順序を逆さにすると意味が繋がります。
『私にとって反抗期とは私が彼を父親と認める証明であり、本当は今でも彼に愛情を注いで欲しいと願っているのです』
 ↑
こうやって整理すると”じよくさん”にも「そりゃ〜ないわ」と本音が確認できると思います。
そのとおりです、上記の文面は”じよくさん”の本音じゃありません。

これは実数として10年前の自分じゃありませんが、過去まだまだ自分が子供だった頃の「漠然とした思い(や不満や不安)」の事です。
そんあ時制の違う過去の自分の心象風景が、何を間違ったのか現在の自分の認識に『時制を勘違いして介入している』のかと言えば(更に現在の自分の意思決定に介入しそれを阻害している)、

「その当時(流石に自分も子供だったものだから)、状況の整理ができていなかった」んですよ。

これだけだとちょっとわかりにくいかと思うので、
逆さまから言えば
■「彼(父親)は彼自身のメンタルの関係等(或いは諸般の事情)で、子供の判断では状況の整理ができないような環境(人間関係)を造ってしまった」という事です。
そして「その彼(父親)の事情は、第三者であるとか大人の立場であれば(たとえば今の自分)状況の整理が可能」なんですよ。

当時(子供時代の自分)整理すべき状況とは何か?

「彼の個人的事情により(メンタルなど・或いは諸般の事情)、彼にはおおよそ父親役(部長や課長等の家庭法人内管理職)は荷が重く、事実上職責を果たせない状況であった。当時部下(子供)役の私は、関係性に困り(トラブルを一般的な上司と部下の関係で説明不能で)、子供なりの知恵(狭い範囲でしかも幼児性デフォルメなどの過剰になりがちな認識)でそれを”愛情の問題かな?”と誤解してしまった」
注)ご存知のとおり幼児や子供は語彙として「愛情」という言葉の意味も正確に認識できません(必ず情動的誇張や主観的便法の範囲で認識している)。

そこで基礎にもどるじゃありませんけれども、細かい事のようですが「愛情」なる言葉で説明される関係性は何かって地味な論議も考えてみましょう。
(哲学的意味合いまで説明すると面倒な事になるのでその部分は省略します)
 ↓
極端な例で考えるのがわかりやすいので、ここでも極端な事例で説明します。
『陸軍士官学校の鬼軍曹教官と生徒の関係』
正に(ある意味)愛情無しには語れない関係です、
軍曹が口汚く生徒を罵ったり必要あらば暴力もいとわないのは「そこで間違ったら間違いなく戦死するから」です。
人の命かかってますから鬼軍曹教官の責任はそこいらへんの親より何倍も重いワケで、
訓練時にはそれこそ「犬畜生呼ばわり」も普通であって、士官学校の場合ウエストポイント卒業後はいきなり少尉(キャプテン)として現場で小隊の指揮をとりますから失敗したら死ぬのは一人じゃありません(指揮下の部隊の新兵がゴロゴロ死ぬ事になる)、訓練は半端なものではありません。
(※といってもそれだけ”深い愛情関係”が必要なのは自ら志願する職業軍人みたいな極限状態の職場だからですが)
訓練中はそりゃ学生諸君は鬼軍曹にも反発もします。
さて、様々な映画でお馴染みのシーンですが
(まー典型例は、リチャードギアが若手だった時代の映画『愛と青春の旅立ち』でしょうか)
それまで生徒を犬畜生呼ばわりしていた鬼軍曹は(生徒が卒業の瞬間下士官となる少尉より軍曹である自分の地位が下になるので)、
直立不動で「少尉殿おめでとう御座います」と敬礼するワケです。

説明しなくてもわかりますよね?反抗期(卒業期)を経て社会的地位が変更する(まー家族社会では上下関係まで逆転しませんが)。
そして愛情の表明は=「大人(兵士)として何が必要か、何をするべきか」の伝達責任に他なりません。

ここでひとつ考えてみてください。
鬼軍曹であるべき人物が、
「兵士、特に下士官とはいかにあるべきか(どうすれば自分を含めた部下の命を守れるのか)、個人的事情で”それがよく自分でもわからなかったら”」
これじゃ鬼軍曹役もですね、内心不安を抱えて(下手に刺激すると返答に困り意味不明に怒ったりする)、利いた風な(ステレオタイプの)紋切り型の押付けがましい話しかできないワケですよ。
しかも実は本人(父親役)が一番自信無いのですから「人間関係良好にですねあれやこれやとねほりはほり聞かれたくない」ワケです。
(一見関係性がうまくいっていないほうが彼には都合がいい)

でです。
上記のような場合、
その人に「それ以上何を聞こうってんですか?」


■さらに根本的な部分
「親は無くとも子は育ちます」
ある意味ですね、現代社会では幼児虐待が大問題として報道される事多いですが、心理学的に言えば「家族社会を構成する事それ自体が半ば必要悪的に問題視可能」なんですよ。
(文化人類学的にも”人を年齢で差別的に子供や大人とその権利を分類するのはいかがなものか”という話)
実は家族社会はかくあるべしなどという論議は相当にクリティカル(且つナイーブ)な話なんです。
(まさか「橋田壽賀子ドラマのようにあるべし」なんて話じゃブラックジョークにもならない)

ここでも極端な事例をあげましょう。
”明日のジョー”
こういうストーリーにおいて(主人公の属性設定で)最強なのは「私生児」です。
つまり、ある特定の成功(ヒーロー)物語りの前提条件として必要不可欠な要素のひとつに「私生児」ってあり得るんですよ。
そりゃ現実ってのは相対的なものなのですから、その可能性があるだけでも重大な評価基準です。
それがマストとなる在りようってのが実際あるんですから。
(現実プロボクサーになった人のかなりの数が”明日のジョー”の影響受けていたりする。「重大な評価基準である」。)

つまるところ「親子関係の破綻」それ自体では”なんら悲劇の証明にならない”のです。
言えても「まーそいう事もあるもので」の範囲、
(実際に暴力的虐待があれば当事者はそれは理屈抜きに大変ですが、この場合当事者のひとりである親に改善の責任があるのでは無く(求めても不可能だからそうなるんですから)→その親を逮捕しない社会に責任があるって事になります。ですから幼児期のトラウマなどの賠償責任は国家や社会となるのでメンタルな事情で仕事ができない場合には生活保護などの社会保障が求められるのであって、問題家族における後遺症は社会的には労災に近い判断基準だという事です→”家族法人労働災害”。)

事実は事実です。
決して「まーそいう事もあるもので」の中身を(言葉の印象から勘違いして)中途半端な理解にしていいって事ではありません。
そこは徹底的(ジャーナリスティック)な事実認定が必要なのであって、、、

『私にとって反抗期とは私が彼を父親と認める証明であり、本当は今でも彼に愛情を注いで欲しいと願っているのです』
 ↑
では無いだろうと。

『私にとって反抗期とは私が彼を父親と認める証明であり、本当は今でも彼に愛情を注いで欲しいと願っているのです』→こういう認識は”だまし絵”のようなもので(レトリックであり実態はパラドックス)、足元すくわれてしまいます。
極論「現実認識を喪失」してしまいます。
(或いは現実との乖離)
なので、
>私は元々好奇心が希薄な方だと思っています。
 ↑
こうなるんですよ。

本来のモチベーションの元となる「現実との間の快感原則(言うならポーカーテーブルに載せる掛け金)」が中途半端だからですよ。
「不全状態だった幼児期の親子関係における快感原則(ほめてもらうであるとかしかられるとか)」の過去の自分の認識に、現実への知覚の幾分かをかっぱわれてしまっている(抑圧)ので、現実テーブル上の掛け金が不足している(なので現実が面白くないと錯覚)って事です。

ここも極論で説明します。
(少々下品な表現ありますがご容赦ください)
「○暴主催のポーカーゲームに有金掛けて大勝(又は大負け)した。俺は帰りに高級コールガールも買って派手に遊んだのさ。」
「お父さんに連れられてお祭りで金魚すくいをした、成果は大漁(又はスカで)。僕は随分褒められた。」
両方の快感原則の時制がごっちゃになると?
 ↓
「社会で仕事して給料も貰っているんだけれども、何を求めるって(親の愛情というか)僕は認めてもらっているだろうか(褒めるとかしかるとか)。」
こうなると、モチベーションが維持できないんですよ。
当然現実への興味も半減します。
(大人の社会じゃ「色と欲」がモチベーションを保持しますが、かたや深層心理でお父さんの愛情論には無理がある→極論「ポーカーゲームにお父さんどうコメントするワケ」のように、構造的に関連性の限界となる)

わかります?
前回の説明における
>>面倒な人間ですら介入するに好都合なカード切っているって事ですよ、
>>そら無関係な人間でも「は、なんでまたオーストラリアへ」と言うでしょう。
>>自分自身全く自覚無いでしょうけれど、深層心理の罠と言いましょうかね、周辺にそう言わせる口実にもなっているんですよ。
>>『オーストラリア・カード』って奴がです。
>>(それも反動形成の仕組みのひとつでもある)
 ↓
「ポーカーゲーム(社会人としての仕事とか)だと話が繋がらないが、オーストラリアだと親に意見を求める自分って話が文法的にも繋がる」
■レトリックと結果としてのパラドックスの正体ですよ。


”じよくさん”の本音はですね、そんな事考えちゃいないんですよ。
自我における自分と言う主体の時制がですね、様々な経緯で少々矛盾している(場合によると10年前の自分が上位になっている)。
整理が付いていない状態だって事です。
(そりゃ当然です。直近の関心事項が「駅前のラーメンは美味いのか」な時、に親子関係なんて介在しませんから)

「ナイ、ナイ、ナイって、んな事俺の本音じゃないから」
とりあえずですね、四の五の言わず自分に宣言するんですよ。
大人の男として掛け率の範囲に入っている「色と欲」みたいなものを縮小均衡(シュリンク)させるような深層心理があったから、
(見かけ上)『好奇心が希薄であるかのような人格になっていただけ』なんですよ。

戦場は、今目の前の現実にしかないのであって、
そこに興味なかったら(ノスタルジーに引っ張られていたら)自分はおろか部下の命まで落としかねないんですよ?
そこの興味が半減ってそれは大問題なんであって、
鬼軍曹だったら?
「何ぼさっとしているんだ、死にたいのか!お前が死ぬのは勝手だが部下まで死なす気か?自分は死んでも構わないってことなら今俺がお前を殺すのが世のため人のためと違うか?腕立て伏せ500回いいと言うまで止めるな。海兵隊はクソ野郎の掛け声忘れんなよっ腕立てはじめっ!!」
或いはポーカーゲームだったら?
「テーブルにはシンシナティキッドと呼ばれた凄腕やらが集い宴たけなわ。その場で俺は”ポーカーにはあんまり興味無いし”。」
その場に命掛けて集った人達相手に最大の侮辱ですよね?
 ↓
>私は元々好奇心が希薄な方だと思っています。

思っちゃわないでください。
そこで妙に納得(だまし絵)してしまったので、そこからボタンを掛け違ってしまったんですよ。
「そんな筈ない、何かおかしいぞ(妙なもん(実は過去の自分の認識)にだまし絵のようなコラージュで俺は騙されいるのじゃないか?)」
本来ここで考えなくちゃいけないところだったんです。
(流石にそれは大人の判断なので、子供時代の自分には気が付けと言っても無理だった)

そういう話なんですよ。


>ここに居るだけでモチベーションが萎縮している気もします。
 ↑
■ズバリ正解ってことです。

無条件に自分に命令していいです。
「まず、ひとり暮らしを遂行すべし」
(成功の可否は問わず、厳に優先事項としてこれを徹底)

引用なし

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【32】Re:状況を整理しましょう2  じよく  - 2010/07/17 10:49 -

買い被り過ぎですよ。私はそんな立派な人間じゃないです。
>『私にとって反抗期とは私が彼を父親と認める証明であり、本当は今でも彼に愛情を注いで欲しいと願っているのです』
この通りなのです。

私は思ってるよりは彼(父親)が好きなんでしょう。
だから私自身が認められる(付き合うに値すると納得出来る)証が欲しいと思ったのです。

仰ろうとしている事は分かります。自立と覚醒ですよね。
今を見ず過去に浸っている。内面の探索。
これは長年の癖になっちゃっています・・。

私の反抗期は中学2年の時で丁度親が別れた時でした。
その後祖母はずっと私の傍に居てくれましたが私自身はワケの分からない苛立ちを祖母にずっとぶつけてるだけでした。
それでも彼女は私から逃げ出さなかった。その事を今でもずっと感謝しています。
だから愛情に飢えているとかそういう事はないです。

一人暮らしは・・今はしたくないのが本音です。
オーストラリアにはワーホリビザを使って2年くらいは滞在する予定で、だから今一人暮らしをするには資金的側面を考えた場合タイミングが悪いと言うか・・。
私が父親の了承を得るのは、父親だけじゃなく父方の祖父母、また母方の祖母も心配するからなんです。関係が悪くなるのが怖いのです。

オーストラリアってのがそもそも心配させる材料なんですが、説得による一応の理解は得られています。
ただ、彼らの言いなりになるのもどうかな、と思い始めたのでお金が掛かる下見を辞めて、バイトで今から資金を継ぎ足し、そのまま乗り込もうかなと思ってます。

オーストラリアに対する想いは主に、
・英語が壊滅的だ。→身体で覚えさせたい。
・日本での就職が困難になりつつある事。→国外に耐性を付けたい。
・日本企業(労働環境)に絶望している。→日本以外を確かめてみたい。
・ぬるま湯(自立しなくても生活出来る現状)が嫌になっている。→追い込まれてみたい。
↑モチベーション萎縮の原因でもある。
・小さな国に飽き飽きしている。→広いところ行きたい。
・空気という文化に疲れている。→外国では意思表示をどう行うのか知りたい。
です。

大半は就職に掛かってます(日本の企業体質が好きになれない)。
もしも外国を見て落胆したとしても、それはそれで日本を(マシである事を)再認識する事にもなるんじゃないかと・・。

今のままでは日本の企業に再度就職する気力が湧きません。
それを納得出来る材料を海外に求めてるんだと思います。
恐らくは単純な自己の力量不足、もしくは理想と現実のギャップによって帰国する事になるでしょうけども。
或いは、を期待してオーストラリアに臨みたいと思っています。

好奇心を否定しちゃいけませんよね。ごめんなさい。
多分他者との比較による落差を誤魔化す為の思考なんだと思います。
羨望や嫉妬を(ストレス回避の為に)湧かせない様に・・。
その自らの感情抑制によってもしくは気力の発露も阻害しているのでしょうか・・。

お話しする上で、何となく分かってきたような気がします。
一人暮らしは、いずれやりたいと思います。
でもやっぱり、私はオーストラリアに行きたいと思っちゃってます・・。

引用なし

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わかり難い補足をつけておきます。
考えるネタ的意味で、
(おおむね内容は理解されているようなのでレスは不要です:てかレスしない方が効果的でしょう。回答をつける格好になるのがかえって自意識の思考の腰を折って収縮の方向に結論を急ぐ抑圧系のフラグになることも十分考えられます。)


>私は思ってるよりは彼(父親)が好きなんでしょう。
>だから私自身が認められる(付き合うに値すると納得出来る)証が欲しいと思ったのです。
ご自身気が付かないでしょうが、一見文法的に齟齬が無いようでありながら大規模なレトリック(による仕掛け)が入り込んでます。
間接的に自分自身のアイデンティティ(確かにIDは直訳すれば”帰属”ですがそれは属性面での証明に過ぎません)が、親子関係を権威的最上位に拘束されている。
大人社会における(自分の仕事などの)評価対象は”社会”など更に上部構造であって、たまさかどこやらの家族法人内部の人事考課とは無関係です。
(20歳を越えた時点で父親にはあなたを上から評価する社会的資格を喪失している)
※彼が国王や家督相続を前提とした○○動の師匠や特殊な家訓を前提とした強者であれば別ですが。

この構造を”なんとなく”を根拠に肯定してしまってます。
>思ってるよりは彼(父親)が好きなんでしょう
”なんとなく”というところが最もハイリスクなんです。

無意識下にある漠然とした”思い(ガリガリとした現世利益的今の自分の本音ではなく)”が現在の自分のアイデェンティティーを拘束している。
『なんとなく、今の自分は現実を上回る価値基準(家族法人内人事考課)に拘束されているのです』
(端的に言えば彼(父親)は社会に五万といるそこいらのオッサンのひとりには違い無い←一票の重みは同じですけれど)
それこそ認めるも何も、年齢的に親子関係の範疇で認めるのではなく、仮に父親があなたを認めるとするならば『独立したひとりの社会人として』というスタンス(あなたから父親を見る場合も同じ)になるんですから。血縁だからって部分は(既に過去形で)二の次の話ですよ。
どっちに転んでも独立した個人として(どこの生まれかとか関係無く)個人的にどう考えるかって自由な本音思考を前提に事を進めないと順序が逆さまになります。
 ↑
■この状況でモチベーションを維持しろって到底不可能ですよ。
日本は家族同士でスパイ活動やっていた東西冷戦時代の東ドイツじゃないんですから、
(そこは個別の関係性に関わる事であって、個人的なアイデェンティティー論とは土台が違います。てか広げすぎって事です。)

付き合うに値するも何も、20歳超えたら『赤の他人同士です』(同じ男同士でどっちが上も下も無い)
(※大事に思う他の親族との関係にしても、それは個別に構築するものであって(必ず彼のルートを経由しなければならないって道理が普遍的であるなんて社会では無い)、血縁関係はその名のとおりで、「きっかけ」→”縁”に過ぎず(血縁という”縁”)、社会属性的関係性を個別の関係を維持するための方便とするのでは順序が逆さまになります)

後段出てきますが、彼との関係性はその一部が日本企業への不満として(バックグラウンドへ)投影され、
そのカウンターがオーストラリアという海外の図式になりますが、
(オーストラリアもカウンター論的にシニカルに捉えていればアリです←ここも後段補足参照)
■モチーフとして海外って言えば、西欧に限った話ですが『ハイスクール卒業したら実家を出るのは常識』ですよ。
(全部が全部じゃないでしょうけどモスリム社会は別として特にキリスト教系西洋はそうでしょう)

オーストラリアに何かがしかを求める前に、オーストラリア的なるもの(西洋海外)の常識は企業云々以前に18歳越えたら家出るのがあたりまえなワケで(ヨーロッパなどで家庭の所得に関係無く奨学金が受けられるのは家族権威性に青少年が拘束されないような意味があって:自力で自立可能な方向を国家が補償する。両親にペコペコすること無く自立する事を国が補償するワケです。案外高額所得の子息でも大学の学費は自力調達ってケースも無いじゃないと聞きます。)、
>一人暮らしは、いずれやりたいと思います。
 ↑
これじゃ順序が逆になってしまう。

つまり(カウンター的に少々極端に話を振ると)オーストラリア(西洋)に何かを求めるなら、まず西洋社会への参加条件として「一人暮らしが先だろう」って事です。西洋に対するリスペクトって意味でも。
(※そこいらが西洋特有の個人主義の肝なんですから)


それから、
>もしも外国を見て落胆したとしても、それはそれで日本を(マシである事を)再認識する事にもなるんじゃないかと・・。
という理解があれば、オーストラリアを注視することを止めはしませんが、
直前の文面に既に「フラグが立っている」のであり
 ↓
>仰るとおりオーストラリアへ行く事が、逃避の材料である事はどこかで自覚していました。

私は”逃避”とは言ってませんよ。
つまり今回のレスを読めば「対照表」はわかりやすい話で、
「日本企業への不平不満」への反動形成です。(意識的にやればカウンター)

私は”象徴化による動機の捏造(誇張)”だと説明しているんです。
「オーストラリアの旗がある間は→日本企業への批判は有効となる(この世界観の中に父親像も織り込まれる)」
本音は後者の方で、
相対的に前者が”浮上しているだけ”であって、それは(結果論として)虚偽の動機である。=本音では無い。

日本は随分アドバンテージのある国ですが、
(個人的には世界でも最強クラスでしょう)
『企業と国家比較』←既に相対的関係性が現実乖離していますよね?
(オーストラリア内の各企業差や日本国内各企業差の方が差が広く、国家間比較するほど両国内の各企業は普遍的な価値基準で統一されていません)

日本企業への落胆がどこの会社を指している話かわからないのですが、
極論『フリーランス』として個人で独立する仕事もあります(それほど食えませんが)。
仕事って言うから、何やらまことしやかな日本の中堅企業に勤めなければならないなど決まっている筈も無く。
(むしろ新卒入社の3割が3年以内に辞職しますから、既存企業の方が今後衰退する少数派と捕らえるのが筋→社会心理を分析すれば新卒入社時に話題となる”ブラック企業”って言葉がありますが、これは社会的潜在意識における「中堅大手全般を指している」んですよ。で、3割の人間がそれに気が付いて退職するんだと。)
日本の企業と言えば、現在のところ独立系等小規模の会社の方がメインであって、いかにも企業社会などのような権威的人事管理のある部門は”マイナー”と見ていいでしょう。
■「高層ビルのガラス窓拭きになる」とか「屋台ひいて珈琲とアイスクリームの店でも始めるか」とかですね、
(若ければそれだけバカやるチャンスもあるって事ですしね)
思考の方向性は山ほどあります。→考えるだけならノーリスク。

又国的比較をしてみても、
将来的に英語はマイナー言語となる可能性もあり(マジにドル依存が強いアングロサクソン系各国は待った無しでしょう。”ドル”がすっ飛んで米国覇権的グローバリズムがまんま戦争覇権に化す可能性も大)、ブリッグス的に考えれば中南米の方が面白いですし、単に南半球で見ればニュージーランドの方がいいかもしれない。
労使関係含めて先進国を狙うならヨーロッパの方が進んでますし、のんびりいくならイタリアや沖縄って選択肢もある。
世界的文明の歴史的経緯を考えれば学ぶべきはモスリム系アラブ諸国になりますし、そういう可能性があるのか知りませんが「カイロ大学留学」って手もある。間違いなく卒業後現地で商社関連の仕事で食っていけるでしょう。

個人的には最も開放的な”バカ国家”は日本であると考えていますけれどね(学会で気ままにユングなんて言葉にできるの日本ぐらいですし、特に心理学においてはキリスト教タブーで先に進めない各国に比較して日本は圧倒的優位があります)。
端的に言えばなんでも言える(表現の自由度が大きい)。
又、厳密に言えば経済的にも日本は最強の部類に属します。若干補足すると→中国バブルの破綻が近い(しかも中国は実質ドルペッグ制ですし、この場合内戦もあり得る)、このドル不安を前提に考えれば所謂グローバリズムという米国覇権主義もすっ飛びかねないですし、EUは現在そのグローバリズムに食われている状況、中東でイスラエルとイランにおいて戦争開始の噂もある。
そんな中で日本は外需依存から離脱しつつあるなか他先進各国と比較してまだまだ失業率が低い。
やっかいなのは米国支配による日本国内の政治的支配の継続って構図ですが、そもそも米国がギリギリの状況にあるなかいつまでも続きませんよこんなもん。国内で金融資産が適正に投資されれば”普通に経済は回復します”。又、化石燃料からの離脱も日本に最もその可能性あるでしょう。


※又、日本は小さな国じゃありません。生活文化を比較して米国の複数州の差異よりよっぽど日本国内の関西・東北の差異の方が大きいって論議もあります。なんでもアリの底無しの表現自由度含めて、恐らく先進国の中で日本は最も最先端でしょう。
個人的には、東京という都市は中世のウィーンや近代のパリ、現代におけるNYのような存在になるのでは無いかと思っています。

マスメディアなどの影響で既にマイナー派に属する「所謂日本の上場であるとか中堅企業」をあたかも日本を代表する存在と勘違いしているだけですよ。(ありゃどっかの特殊法人と同じで「もうオワリ」の存在です。それこそ皮肉込めて言えば負け組みの典型。:日本の法人の90%以上は中小零細でこっちが本当の日本企業です。)
私は職業からやたらと多数の業種について知見ありますが、概ねそうです。
→「大手だから仕方が無い」って言葉は一部の仕事関係で挨拶みたいに通用します。

それこそ『アルカディアは無いだろうか』と文明批判的に地中海辺りのマイナー国家を巡るのもアリに思いますが、

とにもかくにも、このへんを中途半端に行くと
 ↓
>もしも外国を見て落胆したとしても、それはそれで日本を(マシである事を)再認識する事にもなるんじゃないかと・・。

この言葉は”引き篭もりフラグ”になりますよ。
海外を考えるなら、それこそ十分に好奇心を働かせて考えるべきなんです。
中途半端になると別の意味のフラグが立つ事もある。


>好奇心を否定しちゃいけませんよね。ごめんなさい。
私は好奇心を否定しているとは一言も言ってません。
家族時代(過去)に認識の一部が引っ張られる関係で『現実への興味が構造的に収縮している』と言っているんです。
簡単に言えば、「目の前の晩飯と関係無い話に気を取られていて、食欲まで半減する」のと同じ心理です。

まずですね、
現段階の作戦には様々な方面に(地雷ほどじゃないですが)、引き篭もりフラグや家庭内争議のフラグがレトリックによって思考に入り込んでいるかもしれないと、その可能性を織り込んでおくべきで『その韻を不用意に踏まないように』十分注意が必要でしょう。
自分の考えを「うっかり信用しない」ってことです。
(現状本音から乖離している認識もそこに混入している可能性高いので)

十分に考えて(楽な方向でOKです)『しっかり本音プルーフしておく』ことが肝心で、事を急がないようにすることですね。
逃げ道的には「楽な方向」の出口論を重視すべきで
 ↓
>→追い込まれてみたい。
こっちは危険です、
(破綻のフラグにもなる)
重視すべきは「楽な方向」の出口論なんですよ。
■戦術論ってそういうものです。
砂漠の嵐作戦のパウエル司令官じゃないですが、本当の戦術家なら出口論をきっちり考えるべきものです。

追い込む的発想をビルドインしたいならば、
>ぬるま湯(自立しなくても生活出来る現状)が嫌になっている。
ここに一番関係するキーワードは「一人暮らしをはじめて実家との音信を切ればいい(4〜6年帰らなければそれなりに音信切れます)」のであって、
(オーストラリアの前に一人暮らしという部分に辻褄も合う)
オーストラリアに行くにしても、あてども無く旅でも続ける方が(マトモに現地で仕事にありつく前に)『オーストラリア・カード』は効果的に思います。

な部分も含めて十分考えて確信犯的に実行すれば『オーストラリア・カード』も有効でしょう。

引用なし

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【34】有難う御座いました。  じよく  - 2010/07/18 22:51 -

お礼だけ言わせて下さい。
ここまでお付き合い下さり、本当に有難う御座いました。

先生と話している中で、自分の思想の危うさに気付かされました。
追い込まれたいという思いは自分を不幸へと導く志向性である事が分かりました。
戦術的に考えて私は自ら退路を断っていたようです。

また、一人暮らしが割とオーストラリア・カードと似通ってるという事にも気付きました。
自立と覚醒の要素では同じかもしれないですね。
寧ろ段階を踏むのであれば一人暮らしの方が先決だというのも理解出来ました。

オーストラリア・カードで最大限の効力を得る為に焦らずじっくりと考えたいと思います。
そして、自分を幸せに導く戦術を何とか練り上げられるよう努力します。

重ねてお礼を申し上げます。
有難う御座いました。

引用なし

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【1】疑問に思ってたこと  早恵  - 2010/01/23 18:33 -

今回は自分のこととは関係ないです(でも少し被るかもしれない;)。もし問題があるようなら答えずに削除して下さい。

「罪を償う」とはどういうことなんだろうと考えてました。

被害者の立場からしてみたらも「これからの人生」を奪われてしまった。
仮に生きられたとしも後遺症が残って夢を諦めざるを得ないこと、寝たきりで思うように動けなくなってしまうことだってあるかもしれない。
最愛の人の命を奪われた人に対して与えた悲しみだって、その人を生き返らせない限りは加害者本人が被害者を癒せるわけじゃない。

何年か経って被害者の傷が癒えたとしてもそれまでの時間と苦しみは半端ではなく、その貴重な時間も返ってこない。
しかも気持ちの整理をつけるのは被害者本人であって加害者は何もしない。何もできない。
刑事罰や賠償金もありますが、罪人全てが死刑になるわけではない。しかも全く反省してない人が軽い刑で済むこともある。
仮に相手が反省して心を入れ替えても死刑になったとしても奪われた命や人生、最愛の人を奪われた悲しみが消えることはない。

それを踏まえた上で、「償い」なんてこの世には存在しない、ただ相手の経過を黙って見てるしかないんじゃないかと感じたんですが。

引用なし

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【2】Re:疑問に思ってたこと  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/01/23 22:31 -

まずこの話は近代法体系であるとか、社会契約説の話になりますから(基本メンタルと関係ありませんので)論説として一話完結でお答えします。
(ですからこの返信にレス等しないでください)

>罪を償う とはどういうことなんだろうと考えてました。

これは法学上も哲学上も伝統宗教神学上も
「罪を犯した人間個人の贖罪」がテーマで、被害者への弁済とは全く関連ありません。
(法体系においても刑事罰と民法上の損害賠償は別)

つまり、目の前に神様がいるわけではないので、
(そういう意味では国境は存在しますが、それを言い張っているのは人間の国家間の取り決め上の話だけ有効。紙幣の価値を知らない人には信用債券に過ぎない”あの紙切れ”にまつわる何かがあっても全く関係が無い=つまり相互に契約上の前提を共有する間でしか”弁済”の概念は成立しない)
何が罪で強制的に誰かが誰の権利を奪い独房に放り込むなり突き殺すなりしていいなど『何も決まっていません』。

問題を単純化すると、

国境も国籍もクソも無く「自らを魔王と名乗る織田信長の軍勢が襲来して片っ端から人が殺されている」とします。
「お前さ罪を償え」って、、
これコミュニケーションとして成立しませんよね?
言っている端から自分の首もはねられるだけの話です。
やられたくなければ銃を手に取るしかありません、

「罪を償う」この概念が成立するためには「同じ契約書にサインしている合意」が必要になります。
(大風呂敷を広げれば日本国憲法なり六法なり→それが社会契約的意味の法治国家って話です)
同類といいましょうか同僚といいましょうか同じ業界のルール(や取り決め)と言いましょうか、同じ宗教の戒律と申しましょうか、
法体系にも名文法概念と慣習法概念とあり、
日本はどちらかと言えば慣習法であると(滅多に憲法も改正しない→名文法のアメリカは年中憲法修正しているみたいな)
実態としてその運用は『共同幻想』になるわけです。
その共有ですよ、
「その罪の重さがわかりますか?」
共有する概念(近代国家的概念でいえば社会契約上の意識)が無ければ
「わかる筈無いだろう」と一笑に付されて<お わ り>なんです。
それだけです、

ですから民主主義の名文法的運用(どうしても訴訟社会になる)憲法改正の可能性はワンセットで、
現代日本のトレンドもそこにあります。
情緒的に云々かんぬんしても意味ありませんから、

■この部分を当事者として解釈する場合
(ここは心理学ですが)
動機形成ってプロセスがあります。
ここで「犯意」というか、「一線越えて○○な事をしてやろう」という動機形成には罪の意識がセットになります。
(それとは気が付かずにだったら?確信犯的な「犯意」というか「一線越えて○○な事をしてやろう」という動機形成そのものの実態が存在しない事になる)

つまり罪の意識を交換条件に犯意のある行為を実行するのですから
(そうでなければその行為が極端なものだと認識されないので意味が無い)
その罪に応じてなんからの社会の側からの報復(刑務所にぶち込まれるとか極論ぶっ殺される)のリスクを取っての行為になります。
「罪を償う」
というのは、この実行者が『許される条件』のことです。
(被害者への弁済とは全く関係ありません)

で、被害者がその弁済を求める場合には(当然損害賠償の権利を有しますから)自分で(民事に)訴えると、こういうことです。

状況整理しますと
そういう条件にあるので「市民には”通報義務”や”捜査に協力する義務”があり」
極端に民主主義をやっている米国の場合(当然警察が間に合わないケースもあるので)『実情銃砲の携行が義務付けられていた』んですよ。
過去の話ですが、
米国の銃の所持の歴史的原則は「市民がその権利を行使(中央政府の手の届かないところを補う)する上で銃を持つことを義務つけている」と言っても過言じゃないのです(相当暴論ですが極論するとそういうような意味でもあるんですよ)。
「必要あるときには躊躇無く市民は発砲すべし」
(米国には各州に州兵という軍隊がいますが(日本で言えば都道府県が独自に武装している)この州兵は中央政府が間違った事をしている時に、独自に知事の判断で中央政府の軍隊と交戦も辞さないために”地方自治の権利”として州独自の軍隊の保有が認められている→政治学的には『革命権』とか呼ぶ場合もあったでしょう)

仮に市民が社会契約上の規約を守るために「任意の判断で銃砲を使用した場合」それも『後から裁判で可否を考えよう』という趣旨です。

暴論になりますが、
昨今のニュースから言えば
『元検事、最後まで謝罪なし 足利事件 菅家さん『一生許せぬ』』
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2010012302000100.html
がありますが、
どう解釈すべきかと考えるなら、
「元検事は謝罪しないことで、菅家さんに復讐の動機形成を自ら促し問題を深刻化させた」
犯意ではありませんが、それに近い”リスクの高い行動をとった”って事です。
仮に菅家さんが怒りが収まらず、ショットガンで元検事を射殺したとしましょう。
「当然その殺意には情状酌量の余地がある」これが裁判の焦点になる、
これでは非常に(殺人幇助に繋がるなど)社会的に合理性を欠いてしまうので、
社会なり報道なりが『元検事の姿勢を批判する』という方角になるワケです。
(この批判が中途半端に終わる場合、その責任はジャーナリズム→とりわけマスコミ・マスディアの側にあるってことです)
又、菅家さんにも元検事を民事で訴えるなど「更なる戦い」が社会的にも求められるという事になります。
(菅家さんにも自分の人生があるワケでそればっかりやってられないでしょうし、それを求めるのも酷です。だから支援者や応援する組織も生まれる問題意識が大きければその支援組織にいつでもボランティアとして参加もできるでしょう→或いは腰砕けのマスコミに抗議の電話をするなり)

大規模な詐欺事件などの場合、国が特別の配慮で国家賠償などに応じるのも
「暴動がおきかねない動機形成を放置することは合理性を欠くから」です。
(報復の予見性なり、犯意のある側が報復の動機形成を促しているってところが鍵)
つまり、犯意のある側も大きなリスクを取っていて、
これをひっくり返すには被害者の側もリスクと取りこれに応酬するような”構え”が連動していなくてはいけない。
※それじゃー損ばかりで理不尽だという考えもあるでしょうが、そもそも国の側だっていつでも全ての文明を放棄して戦国時代に戻ったって一向に構わないのですから(そう民主主義が求めれば)、現代社会だと言ってもその合理性や権利保護とは『市民社会が権利義務を果たすなかで成立している』ものであって普遍的ではありません。
→人間って普遍性の論議をするならばここに戻るんです。
 ↓
国境も国籍もクソも無く「自らを魔王と名乗る織田信長の軍勢が襲来して片っ端から人が殺されている」とします。
「お前さ罪を償え」って、、
これコミュニケーションとして成立しませんよね?
言っている端から自分の首もはねられるだけの話で

面倒でも理不尽でも、それが現代社会であって、
気に入らないなら戦国時代の方がいいのかって話です。
(わかります?犯罪者の側には当然「戦国時代の方がいい」って人もいるでしょう。多数派を形成できずに国の方針が変わらないだけで、だとするとならば(相手がそう考えているなら)その局面では現代だろうが戦国だろうが「やるかやられるか」って善悪もクソも無い野生が人間のデフォルトだって事です)

報復権といっては”何”ですが、
つまり民主主義とは「自らの暴力行使も権利として預けられている」のであり、
(正当防衛のように暴力の行使が正当な事案も認められている)
憲法9条で交戦権を一見放棄しいてる日本ですが国際法上反撃なりの自衛権は自然権として保持されており→自衛隊があるのと同じ
忘れられがちですが、我々は税金によって武装集団を雇っているワケですから。
間接的にですが自動小銃を共同で所持しているんですよ?→それを自衛官に預けている
(国民皆兵のスイスなら全世帯の納戸には→いつでも出動できるように自動小銃が装備されてます)

ここで思い出してください、
極論暴論的解釈における米国における銃の所持です。
いいも悪いも無いのです(それは後から裁判で決着つける)
ここで撃つべきだ(正当か非正当なのかの判断は裁判前なのでわからなくても)という”リスク”は市民個人が負うんですよ。
その発砲に関して誰も事前の”お墨付き”はありません。
そのリスク(非正当かもしれず後から自分が訴追されるかもしれない)を負う事(その場で撃つ撃たないの選択)が社会契約上の民主主義社会の市民の義務です。
 ↓
何分現代社会は西部劇の時代とは違いますから
そこが→『裁判員制度』になったんですよ。
(映画『12人の怒れる男』観れば→そのまんまです)

つまり「市民として自分とは関係の無い事件における被疑者の有罪を確定し死刑求刑人として犯人を殺す実行行為の責務を自分も背負う」
(死刑廃止論議は上記にも関わっているのは確か)
関係者が勝手に自分で報復する事を紀元前の社会のように可とするのは無理があります。
(ある意味それが可な時代があったのは社会が生きるのに精一杯だったり王様の権限が強すぎで(市民社会などどうでもよく)警察や捜査機関等行政を税金で雇うゆとりが無かったから)
捜査員数百名で検挙捜査にあたる警察検察より被害者個人が優れて犯人を特定できる筈ありませんし、
警察検察ですら誤認逮捕やら冤罪があるワケで(しかも裁判で検証して初めて事実認定する)、
よっぽどじゃない限り「人違いの殺人(過剰な報復)が横行」してしまいます。
ですから社会契約的に『警察・検察』の専門家を税金で雇っているワケです。
しっかり働かない時には民主主義を行使し、警察・検察を行政として改革するしかない。

仮にそれでも(人違いの)リスクを超えて、復讐権として(アイツじゃないかと)強引にそれを実行しても、
国選弁護人も付きますし、正当な裁判で「その報復はどこまで合理的なのか」判断を仰ぐ権利が保証されています。
しかし、当然相手を間違っていたり、復讐の幅が過剰な報復であれば、情状酌量の余地も無く裁かれるでしょう。
(間違っていたらこれはどうにもなりません→合法化しちゃったら頻繁にこの間違えは起きる筈です)

或いは必殺仕事人的に、正義のなんとやらが有無を言わさず犯人を暗殺する組織をつくるとしたら?
 ↓
『元検事、最後まで謝罪なし 足利事件 菅家さん『一生許せぬ』』
怖くて誰にも任せられません
或いは秘密警察による言論弾圧や密告監視が続く旧東ドイツみたいな国になってもいいのかって話になります。


「空気と水と安全はタダ」と考えるのを”平和ボケ”と呼びますが、
自らの権利もそうですが、市民社会とは各人の日々の闘争によって守られるものなんですよ。
(これもかなり暴論ですが、、)
有志一同は皆ガンベルトを下げてコルトPEACE MAKER(平和を守るもの)45口径の6連発リボルバーを所持してくれと、
 ↓そんな近代を経て
現代社会があるワケです。


■ある意味
>罪を償う とはどういうことなんだろうと考えてました。

これは犯罪者に
「あなたは罪を償う意思がありますか?」と尋ねるような話なのです。
(この社会に再契約する意思を問う→あれば情状酌量の余地となる)
言ってみれば『犯罪者の権利』にも見える、
(償えば許されるワケですから)

原始宗教なんかであれば「許しを請う」が「宗教戒律への忠誠なり帰依となり」許される道が開く
(意味合いとしては紀元前から第人気でベストセラーの本(経典)聞いてもいいよとか、読んでもいいよとか)

ですから究極の復讐劇の場面における台詞は
「罪を償う?お前にはそんな権利は無い」
になるんです。


逆さに言えば
「あなたは罪を償う意思がありますか?」
犯罪者が「勝手にしろ」と言ってもいいんです。
 ↓
局面では現代だろうが戦国だろうが「やるかやららるか」って善悪もクソも無い野生が人間のデフォルトだって事です
基本は『サヴァイバル』ですよ

人類は現代的な文明に酔って少々調子に乗っているところありますが、
地震・洪水・干ばつ・感染症など、、
ただ同じ地球というワイルド(野生)な環境に暮らす動物の一種類です。
高層タワーに暮らそうが、自然豊かなな森に暮らそうが人類って動物が地球って自然環境(ワイルド)の中で暮らす動物だって普遍性は永久に変わりません。
どんなに高級なホテルに暮らして高額な衣装買おうが、「飯食ってウンコしている」市井の”ヒト”に過ぎないのです。
(つまり弁済に相当する利益の喪失の想定も現代社会の文明を前提として始めて有効になっている=現代社会の肯定)
 ↓
言うならば「罪を償う」などの概念は、
同じ契約書に署名した”バンド間(同族or同属or関係者or国籍・・何でもいいですが)”の契約上の取り決めのようなもので、
「(国籍はともかく)同じ日本人(として契約する市民)だから(この法の適応が)、(罪の償いとして妥当であると)わかっているな?」
な題目の中で始めて有効なものであり、
その題目(社会契約や市民社会)を合理的なものだと(法治国家に賛成し)判断するなら、その枠組み(民主主義社会)を守るために今自分に何ができるのかを考えると、、、
こういう事です。
前提が壊れることで償う罪の認識の共有もすっ飛んでしまっても「それも自然」なんですからね。

■現代文明の合理性を前提とするなら、どんなに時間がかかっても、なかなか思いどおりにならなくても頑なに民主主義を守っていく他ありません。
有権者として「独立する個人の意見を表明する」立ち居地を保持するって事です。

引用なし

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【4】Re:疑問に思ってたこと  早恵  - 2010/02/28 23:07 -

確かにこの世のルールは人間が生きてく上で作ったもので、時代や国によっても基準が違ってきますね。
個人的感情としては一方的に巻き込まれたなら納得いかないでしょうし、殺した奴は憎くなるでしょう。
それでも納得いかないなら徹底的に戦うしかないのでしょうけど、被害にあって苦しんでるうえにさらにリスクを背負って戦うのは理不尽です。「理不尽」というのも人間の感情でしかないですが、理不尽に思います。強迫ではなくて個人的な見解です。
加害者側からしたらやったことは一生消えない。自分が犯した事実を背負って生きるしかないのかな思います。

答えてくださってありがとうございます。

引用なし

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完結というところがポイントなので
「返信にレス等しないでください」と注釈ある筈なんですが?
この意図ですが、文章としてレスを付けてしまうと完結した内容に更に注釈が付くのと同じ意味があるんです。
「○○しかしこうだった」的な後書き的な既成事実化です、
簡単に言えば完結している論説を覆す注釈も可能になります。
曖昧な部分を残す論点がやりとりによって前後するのと違い、個別の質問は返信によりその件の(質問の趣旨に関しての)完結した論説となって完了している事になります。
ですから、
 ↓
「返信にレス等しないでください」と注釈あるんです。

ここはレスを付けるのではなく、論説に対して(返信が書き込まれる事が質問の趣旨になりますから)考えるという部分です。

今回「後書き的」になってしまっているので、
更に修正としてレスを付けますが同様に個別の質問に対する返信になりますから
繰り返しますが「返信にレス等しないでください」

>個人的感情としては一方的に巻き込まれたなら納得いかないでしょう
これはあり得無いんです。
「今現在ここで生きている」当事者は自分ですから。
極端に言えば加害者の側も好きこんで今の時代に生きているのじゃありません、
(つまり加害者が戦国時代の人物であればと考えれば別の意味になる)

納得するとかしないとか、そういうレベルの話ではありません。
現実を生きる以外に実存しようが無いのであり(人は妄想の中で生きているのじゃありませんから)、
上記をわかりやすく極端に解釈するならば、
「権威者は、私の納得いく社会を整備するべきじゃないか」
のような受益者側の『被(こうむる)』心理が背景にあります。
少なくとも上記論旨の背理には「(私を)納得”させる”べきだ」を是としているからです。
(しかも権威史観になっている)

『突然巻き込まれた災厄』
これは相手が人だろうか自然現象だろうが同じことだからです。
(他者の存在も”そういう動物がいた”という自然現象なんですから→俯瞰で見ればいきなり熊に襲われたのと違いが無い。ですから自分自身の暴力性を法治国家という枠の中で国家権力に預けるのか、全ての権威をアナーキズム的に否定して「各個人が武装する平等性」を選択するのかって政治的論議も成立しているんです。:しかし大きな枠で言えば犯罪性のある選択は誰にとっても合理性が無いので「そもそもそれはナンセンスな世界でしか起きない」と捕らえることもできる→民主主義なり法治国家なりの選択はそういった賭けを選択するものです。賭けですから利益を保証するものじゃありません。そこに市民が一票を賭けているんですから、)
阪神大震災の時神戸に住んでいた人は、東京に暮らす人と比較するなら不平等であるとか理不尽であるとか考える事も可能でしょうけれど、その思考には何ら得るものも現実の獲得もありません。

自分自身今の時代をここで生きている事は自分自身のレーゾンテートルやアイデェンティティーに関わる事だからです。
(今そこでそう考える主体は今ここで生きているからそう考える主体として存在するんですから)

「今現在ここで生きている」当事者は自分ですから。

又、実存主義哲学には「不条理」という言葉がありますが、
意図しているのは「そこにこそ実存が証明されている」という意味で(話せば別の意味で長い話になりますので割愛しますが)、
「その不条理こそが自らのレーゾンテートルである」
『パスカルの賭け』という概念もそうですが、
(ここはブログにテキストあります)

「だったら今自分はどうするのか?」
答えはここに帰結するんです。

引用なし

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おっしゃる理屈は分かります。その上で感じたことを書いてただけだったので。あくまで「私が感じたこと」です。
このレスでは返事を頂くつもりはなかったのですが、説明が足らなかったです。申し訳ないです。
<この話はここで終ります失礼しました。>

引用なし

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【3】強迫構造から抜け出せなくても  早恵  - 2010/02/28 13:43 -

他の人になりきってその人の心理を読むことはできるのでしょうか?

それと最近感情に波があります。
さっきまでは「私は協調型の人と供依存になるつもりはない」と強迫構造を抑えられてたのに今は何を言っても強迫構造が勝ってしまって抑えられない時があります。
また同じ理論で強迫構造に訴えかけつづけると最初は鎮静化できても、途中から強迫構造がふつふつと沸き上がってきます。
ただ何においても根本は依存したままで根本から変えるのが難しいです。

引用なし

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【5】強迫構造云々というより  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/03/01 00:08 -

今回も個別の設問になりますから1回完結の決定稿の形でお答えします。
(※完結になりますので「返信にレス等しないでください」)

まず、よく意図がわからないのですが
>強迫構造から抜け出せなくても
>他の人になりきってその人の心理を読むことはできるのでしょうか?
ここに強迫構造の有無は関係ありません。

自分をからめるから(強迫意識特有の視野狭窄)わからなくなるんです。
心理を読むって行為は心理学なり人物観察なり人生経験なり強迫関連とはまったく別物ですので(スキル自体が強迫意識に制約を受ける事はあっても事後的にこれを知識情報経験として意識的に獲得し補完することは個人の努力の範疇ですから)、
「誰だと誰々の関係において誰々はどう考えたか」
 ↑
ここの登場人物に自分を登場させなければいいことになります。
(社会学であるとか、ジャーナリスト、歴史学者、文化人類学の立場で考える)
後は自分のスキルに応じた結論が出ますから、強迫云々の影響はほとんど無いでしょう。
(影響があるのは前述の”スキル自体が強迫意識に制約を受ける部分”のみ:推定の精度は学問など個人の努力の範疇となる)
■関心事項としては「推定の精度」は社会学や歴史や自意識的な経験や心理学や文化人類学など、個人的関心による情報取得なりで大きくレベルが変動するのですから、政治経済含めて客観的知識として(自意識にとっては理論武装)そっち方面への関心を自分なりに「どんなもんか」と考える方が的を得ているでしょう。


思考のポイントとしては
「又自分がどうこうって話?」のように、
自己中心的発想(これは巷間伝わる一般用語の「自己中」と意味違いますから誤解の無いように)の抑制、
思考する事項において何かと自分が中心人物になっている発想を切り替えるって事ですね。
「自分がどうこうなど瑣末な話なので(ジャーナリストが社会現象を検証しているのですから取材対象とその検証に力点があるのであって、そもそも自分が登場す余地など無い)、これは自分がどうこうとかそういうどうでもいいこと抜きの話さ」
というような”立ち居地”を定義してしまうんです。
自意識でそれを事前に定義すれば(強迫意識の関心事項はもっぱら自分の事ですから)認識が無意識的干渉で偏向することを除外できます。


>それと最近感情に波があります。
>さっきまでは私は協調型の人と供依存になるつもりはないと強迫構造を抑えられてたのに今は何を言っても強迫構造が勝ってしまって抑えられない時があります。
>また同じ理論で強迫構造に訴えかけつづけると最初は鎮静化できても、途中から強迫構造がふつふつと沸き上がってきます。
>ただ何においても根本は依存したままで根本から変えるのが難しいです。

これは認識に間違いがあります。
結論が間違っている
■「上記のような事象により結論→根本から変えるのが難しい」
『あたかも”根本”が存在するように(無意識に肯定してしまっている)語られています』

これはかなり大きな意味の”過失”だと言ってもいいでしょう。
「あたかも偏向する方向の意識(強迫意識)に”根本性”があると”無意識”に肯定しちゃっている」んです。
強迫意識は自我全体にとっては根本じゃありませんから。
(強迫意識の根本はありますが、それは前述の「強迫構造に訴えかけつづけると最初は鎮静化できても」のように自意識によって(強迫意識は自意識に干渉する反対語として)干渉可能なのであり”聖域”だからこそ打つ手が無い強迫意識の根本的原則は壊れている事が証明されている)

一見些細な言葉使いに見えますが、脳内連想的には重要なので(無意識に韻を踏んでしまう)注意したいところです。
(言うならば強迫意識は”わかりにくい”であるとか”理解不能”な要素が幼児期の自我にとって”一種のセキュリティーホール”を形成し、そこに誤った補完論理ソフトを導入してしまったようなもので、現実プルーフの世界に寄って立つのではなく→”一種のセキュリティーホール”を根拠に寄って立つ存在であるからこそ『幻想』なんです)

さて、前述の結論を上記の認識で修正すると
結論の方が以下に変化します
■「上記のような事象があるように、問題のコアはどうすればいのか私の手の内にあるが(自意識マター化可能)、どうにも依存症特有の反動(中毒下における禁断症状のように)がある。現象としてはダイエットのリバウンドに似ているかもしれない」

全く無知なところからダイエットに取り組み、
しかもダイエットに取り組む理由(なぜ無茶食いしたのかについての”ネタバレ”)は解明したとしても、まだまだ反動は残る。
これは想定内の事だって事です。
 ↓
自分をからめるから(強迫意識特有の視野狭窄)わからなくなるんです。
(社会学であるとか、ジャーナリスト、歴史学者、文化人類学の立場で考える)

『現代社会のダイエットにおけるリバウンド』
この題名で文化人類学であるとか、社会はジャーナリストとして論文書けばいんです。
間違ってもその結論は「根本が変わっていないからだ」とはならないでしょう。
言い換えるなら
「根本はとっくに変わっている。やっかいなのは習慣性(依存性)などの技術的アプローチとなる。どんな手法に解決策があるだろうか?」
論文の関心事項はこっちになります。
仮に「根本が変わっていないからダメなんだ」だとしたら?
これジャーナリストの言葉じゃありませんよ、そのまま『鬱的思考』ですから。
(自分の事のように自己嫌悪的な内向性思考になる)

話を脳内連想性を逆手にとって”根本”を使って更に言い換えてみると、
「現象を客観的に考える時のものの見方の根本が(スキさえあれば強迫心理を肯定しようと)まだ干渉されていて、(巷の意味と違う心理的な意味での)自己中心的発想に偏りがちなんだな」
 ↓
>「根本が変わっていないからダメなんだ」
「こういう発想しているからいかんのだ」


『現代社会のダイエットにおけるリバウンド』
「未だに本音にも無い、偏向快感依存に引っ張られている。←ネゴシエーターとしての自意識の立場上の力量不足だ」
テクニカルに”ネゴシエーターの力量”ってものを考えればそこに答えがある訳で、
(ここはそれこそ自意識マターなので個々人で手法は違っていい部分です)
更に”ネゴシエーター”を抜き出して考えればよりシンプルになります。
言葉としては”ネゴシエーション”を”営業”に置き換えてもいいでしょう。
「プロの営業マンとしていかにあるべきか」
シチュエーション的には以下です
 ↓
「そんな商品いらないんだ○○がいい」
(設定:認識間違いだけでなく、○○なんてものが詐欺的商品である)
この状況で、本質的に問題を解決する商品を自分が販売しているとして、
営業のプロが、
「それは違うんです、○○なんかじゃ逆効果なんですよ、今この私の商品を・・・」
心理学的過程を経ていれば”強迫意識”という言葉に異論が無いように「○○なんてものが詐欺的商品である」という営業にとっても最も厄介な認識誤解部分は解決している訳で、残りのプロセスは「今この私の商品を・・・〜」だけでいいことになります。
(そこで「やっぱり○○が」となればこれは単なる”蒸し返し”になりますから論外→明快に「ナイナイナイ」とナンセンスである事を再認識する場面ですが、若干それも後退してしまうなら「やっぱり○○がなんて思ってしまうんだよな」と反省含めて弁解的認識とし、”蒸し返し”について間違っても正当性や権威性まで蒸し返してしまうような勘違いは避けるべきところでしょう)


■公開掲示板上の各スレッド過去ログにおいて書いてきた事ですが、
最後の部分『自意識によりどういう方向を選択するか?』
ここはメンタルとは関係無く、個性の範疇として自分で選ぶ事になりますから、
(強迫意識と知って、それを個性として受け入れる方法だってあります:状況を現実として認識した段階(自意識マター)でそれ以上の鬱的暴走は起きませんし、強迫意識的自分なるのものを何がなんでも解体しなければいけないなんて法律もありません:共同幻想協調人格すら一種の強迫認知なのですから)
以降のポイントは「自己決定ありき」なです。
 ↑
これはメンタルと関係無く思春期の迷いのように誰彼にでもある悩ましい過程ですから。
「さて自分はどうするか?」=「ネゴシエーターとして何をどう交渉するか?」
自立以降に後発的に獲得される自分らしさなる自我は、意識的に(自己選択により)獲得されますから、
(前述と被りますが強迫意識も個性として自意識で認知して詩人のような人生を生きるって世界も無いワケじゃありません:インフォームドコンセプトじゃありませんが自分で選ぶところは自分で選ぶところです:メンタルな問題として特定できるのは「無意識領域の強迫意識を知覚できず自意識には打つ手が無い構造的な問題」を”構造的に破壊”することであり、強迫意識が『自意識マター』として自意識が認識可能な視野に入れば、それこそ強迫意識構造の根本は既に壊れている)
ここは前段のリバウンド云々より重要で切り離して考えるところで、
 ↓
ある意味、リバウンド云々をあまり大きな話だと誤解してしまうと論点がそっちで忙しくなってズレてしまいますから(リバウンド程度の問題はその”根本”が解決済みで既に自意識マターなのだから当事者である自意識としては「それは(視野に入った)どうにかなる」として→)、
「さて自分はどうするか?」「本質的に重要(根本)なのは(今現在)むしろこっちなんだよな」となります。
自己中心的認知と同様にメンタルな問題を過大評価してしまう事もあるって事です(それが間接的に強迫意識を権威的に後押ししてしまう場合もある)、ここは切り分けていかないと、
強迫意識ってものが視野に入って以降は順次(同項目は)『自意識マター(自己決定事項)』に切り替わりますから「自意識マターは自動的に拡大する」のであって、、「さて自分はどうするか?」に戻る。


流れ全体を俯瞰で見るとわかる筈です
上記の流れであれば思考は自己中心性ではなく、ジャーナリスティックな客観性に立脚しています。
(前段部分と繋がりましたね)
若干抽象的になりますが、そこに答えがあるって事です。

引用なし

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