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「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。



1029 分析 ふくろう 2009/05/04 00:30
はじめまして、Kagewariさんのサイトを拝見しまして
強迫構造のところが自分にも当てはまるような気がしまして
メールさせて頂きました。

状態としては漠然とした鬱が続いていまして、無気力な状態です。
特に仕事のこととなると力みというか、できもしない理想が頭の中を
支配してしまい現実とのギャップに苦しみやる気が持続しません。

仕事も転々としており、もう30半ばなのですが、正社員経験は半年間のみ
それ以外はフリーターや契約社員(現在)で気がつけば、半端者だなという
嫌悪感で一杯で、何もやり遂げたことがないというコンプレックスが
強いです。

いわゆる道徳的共同幻想というよりは『何かクリエイティブ
なことをしなきゃという』という抽象的な幻想に苦しめられている感じです。
強迫なのか自意識なのかよく分からなくなっています。若い時は妄想ベース
のモチベーションで行動しまくり、虚構的な人脈を作ったり、虚言を
無意識で行ったりしました。最近はいい加減自分を騙せないことに気づき、
身動きができない感覚になりました。

現在もクリエイティブな仕事(契約社員)に就いてはいるのですが
いつも『このままでいいのか自分』という正体不明な呪いに
悩まされています、そのくせ具体的な行動には移せていません。
行動すると、また虚構的な振る舞いをしてしまいそうなので。

自分の足元を見つめ確実に前進できる状態になりたいです。
長分で申し訳ありません、分析していただけたら幸いです。


1030 Re:分析 kagewari 2009/05/04 23:48
文面から検討しますと
(※正式な分析は個人情報の聞き取りも必要なため有料メール扱いになりますから公開掲示板上での分析は書込みログを情報とする概略になります)


>特に仕事のこととなると力みというか、できもしない理想が頭の中を支配してしまい現実とのギャップに苦しみやる気が持続しません。
>何もやり遂げたことがないというコンプレックスが強いです。
>道徳的共同幻想というよりは『何かクリエイティブなことをしなきゃという』という抽象的な幻想に苦しめられている感じです。

基本的にこの現象は『反動形成』です、
強迫意識とは権威者の神格化があったり自意識バレバレになってしまうと、容易に自分でも「それはないよ」と判断されてしまう内容含まれてきますから通常強迫意識は無意識化され現象として表面化するのみです。
この場合ダイレクトに「○○しなくてはいけない」と強迫意識保守傾向によりステレオタイプな行動様式が半ば強制され(過剰な社会適応意識など)同時並行で、興奮を伴った(主に不快感)問題が連続するとか、強い内向性で鬱的発想に傾斜(人間関係等の問題を悪循環に連続させるためには表向きの適応が形だけでも必要になってしまうので)する等、快不快原則で欲求の代謝(不快感に依存)が習慣化し継続度合いによっては構造化するものですが、
強迫意識が『軽微(この軽微という意味はまたセンシティブなので説明必要になるんですが)』である場合、
無意識に隠れる(モジュール総体で言えば潜在意識)強迫意識は『反動形成』によって鏡像のように自意識で動機形成されます(反動化する現象を交換条件(というかコストとして支払うことで)に無意識的な概念が自意識に浮上する→沈んでいる天秤が新しい重りを反対側に載せると浮上するような現象)。

これは意味合いとして何かと言いますと、
潜在化する強迫意識が「かなり近い線まで本当に実現できるのじゃないか」的な視界にある時(容易に自分でも「それはないよ」と判断されてしまうほどの落差がない)、『極端な成功』であるとか『(自己愛的着想が満足するような)芸術的成功』であるとか『いかにも自分は特別な才覚の持ち主だ(特別も自己愛的連想)』を満足させれば→まんま潜在意識の欲求は実際の行動により実現可能だ、
このような動機形成に固執する現象です、
(よって鬱やボーダーのような実際の人間関係の恒常的悪化は起きない→動機形成そのものが自己愛的依存性の快感原則を折り込んでいる)

ある意味偶然「クリエイティブな仕事がそこそこできてしまう」などの環境が、反動形成でいけそうだ(と自覚があるのじゃありませんよ)な動機形成を引だしてしまっているとも見えるし(なので軽微の判断が難しいのです)、或いは強迫意識そのものが結構現世利益的わかりやすさがあって(強迫意識の発生年次が幼児というより年少者レベルであったなど)「反動形成しちゃう」等の特徴によって
現在そうなっちゃていると
 ↓
>若い時は妄想ベースのモチベーションで行動しまくり、虚構的な人脈を作ったり、虚言を無意識で行ったりしました。最近はいい加減自分を騙せないことに気づき、身動きができない感覚になりました。

ある意味その”軽微(軽いって意味で無いですよ→ここはなかなか説明難しいところなので慎重に理解してください)”な度合いによって、
「これまではどうにかこうにか演じてしまえた」といった話です。
なので、自意識には「それは本音ではない」という認識もはっきりしていて(反動形成は自意識に偏向した動機形成として認識されますから)、
同時にこういう意識もはっきりしていて
 ↓
>いつも『このままでいいのか自分』

反対にそういう感じの存在の希薄さがあまりに強いので
 ↓
>行動すると、また虚構的な振る舞いをしてしまいそう
>虚構的な人脈を作ったり、虚言を無意識で行ったり

等の(中には自意識マターで選択した行為もあると思われるのに)全部”インチキくさくなってしまった”、
ここは推定になりますが、
上記の「虚構的な人脈や虚言」の一部には逆に”本音”も含まれている可能性あります。
ここは以下の可能性も含まれるという意味です。
 ↓
反動形成の背景は「実は自意識で確認できるレベルの数倍上(実現不可能レベルじゃないと強迫にはならないので)」となるので(深層心理は世界的な名声に繋がるようなナンセンスなレベルの成功じゃないと満足しない)、見かけ上就職できたどんな職業も潜在的にはNG(皮肉なことに強迫性のある動機形成は現実化してしまえば100%不満となる→その尺度が”ナンセンスなぐらいのレベル世界的名声”なので)となりますから、ある意味絶対「この仕事でOKである」のように満足してはいけないのであって、
断念されたり解体された人間関係の一部に(全部ひとからげの幻滅的解体により)『自意識の本音選択行為』も含まれちゃっているケースもあるのです。
これは反動形成という形で、鬱構造のような強度の(この強弱の判断も慎重にお願いします)自意識抑圧が無いので、
自意識の自意識たる判断や認知はしっかりありますから(自意識全体が抑圧されるような構造がない)断念された仕事や人間関係の一部に「あとから考えればあれば本音だったかも」が含まれても不思議ではないという事です。

有料メール的アプローチとしては強迫意識成立当時の詳細な人間関係等からコアとなる強迫意識の実像を探る形になりますが、現在の状況から考えれば以下のアプローチで様子を見るみたいな形から初めてみてもいいのじゃないかと思います。
■『反動形成』というロジックそのものにカウンターをあててみる
方法としては
「成功系の話は”全て馬鹿馬鹿しい事だ”と断定する(これを哲学信念とする)」
「役にも立たない”馬鹿みたいな発想”をそれこそ俺の道だと断定する(これを哲学信念とする)」

直近の事例から実際にどんな感じでやってみるかと言いますと
>もう30半ばなのですが、正社員経験は半年間のみそれ以外はフリーターや契約社員(現在)で気がつけば、半端者だなという嫌悪感で一杯
 ↑
この話を上記の概念を導入してデ・コードすると以下となります
 ↓
30半ばまでクソったれなスーツ組等にならずにフリーターから契約社員と渡り歩く俺はまったく俺らしいアウトローな人生生きているぜ、
クリエイティブな仕事(笑
馬鹿じゃネーのか、よっぽど俺の今の人生こそゲージツじゃネーか(それこそこのレベルじゃまだ足りネーか?)

自己嫌悪どころか「誇らしく自慢話にする」
(これは冗談じゃなく本気でやってください)
自慢話にできないのならば理論武装してください
ディベートの授業だと思って、それを嫌悪する側の人物を完膚なきまでに論駁するロジックを語れるまで、本を読むとか勉強するとか(弁護士のように)徹底的に理論武装するのです。
※場合によってはそのまんま当座『30代における自分の信念』になっちゃってもいっこうに構いません(自意識が自由度を確保して以降「いやはやこれは違うな」と思えば勝手に解体されますから)

的なアプローチで(自分の)様子をみてみる
これで自意識は見かけ上の自由度を回復します。
実際に30過ぎてどうたらこうたらなど「どうだっていいことだ」ぐらいに考えて(これをグチグチ考えないように与件化してしまう:いっちょあがりの見解に固定)、「さて、えーっとどうすっかな」と動機形成を(その都度)仕切りなおししてみるといった感じです。
1031 Re:ご返信ありがとうございます ふくろう 2009/05/06 02:58
今回のご丁寧なご返信と先日の誤送信に対する迅速かつ的確なご対応、ありがとう御座います。

分析に関してですが、まず前半部分、僕の状態が軽微な(非現実的過ぎず、抽象的であらゆる意味の隠れ蓑となりうる)強迫意識に縛られるゆえ、反動形成を繰り返しているという点は理解しました。これは、間違っているかもですが、現代はこういう一見すると善で過剰すぎない価値も強迫観念化しがちな時代なのかなと勝手に考えてみました(バリバリ近代の時期(過剰で大きな物語)から脱構築を繰り返して近代後期へみたいな)


また僕の場合は理念と現実のギャップ(現実認識のずれ)が明らかに発生しているのでkagewariさんのご指摘通り、自己愛的依存性の快感原則が構造化していることも認めなくてはいけないと思いました。また正直実感もありますし。

それと
>「虚構的な人脈や虚言」の一部には逆に”本音”も含まれている可能性あります。

の部分が少し分かりずらかったです。自分の感覚としては本音を含んでいる感を感じてはいますが。これは言い換えれば、一部本音(自意識)は含まれるが、大半は強迫意識にもってかれているというニュアンスでしょうか?


>「成功系の話は”全て馬鹿馬鹿しい事だ”と断定する(これを哲学信念とする)」
「役にも立たない”馬鹿みたいな発想”をそれこそ俺の道だと断定する(これを哲学信念とする)」

処方箋としてカウンターをあてていただいた部分ですが、僕の場合現実として自己愛的依存性の快感原則構造化の症状みたいなものが現れているため、敢えて極端だけど上記の心構えでやるのが良いということですよね? 逆にクリエイティブにご活躍されている方はkagewariさん含め現実に存在しているわけで、そのような方が上記の哲学を実行するのは変ですよね。クリエイティブな成功系それ自体が幻想なのではなく、現状と不一致な行動をとる僕自身のどこかに軽微だが強迫観念化しているという状況というか・・・・
まずは、現状を極端にでも肯定し、現実的前進をする、その延長線上に変化がある可能性が高いということですかね?


最後に僕がこれらの強迫を抱えるようになったきっかけは、大学卒業時、就職を考えた際に目標が見当たらず、流されるように音楽やっている連中とつるんだのが発端くさいです。周りには実力あるひともいて、デビューした人もいて、いつもプレッシャーをかけられ、それがコンプレックスとなり、自分が凡人なのを認めたくなくて、音楽を断念しても違うものなら・・・とあれこれ妄想し、時に行動しては破綻するの連続の人生な気がしています。ちょっと言い訳ですが、僕らロスジェネと言われる世代は就職氷河期や大学時モラトリアム期にオウム事件など発生しそれらに過剰反応しすぎたのかなと反省気味に思います。

っが今後はご指摘頂きました上記カウンターに従った行動を試すつもりです!


1032 補足しておきますと kagewari 2009/05/06 22:07
>現代はこういう一見すると善で過剰すぎない価値も強迫観念化しがちな時代なのかなと勝手に考えてみました
ここは社会学とか文化人類学が被るんですが、
何でしょう「キャッチコピー型の営業における賞味期限論」のような、半ば幻想論を折り込んでいるようで(首謀者は)ありつつも消費者の一部はマジになるような「枠組みの曖昧な危うい共同幻想」が”消費されていく”のですよ。
経済政策における流行といえばいいでしょうか、
何でしょうね最後は自業自得で”手詰まりになる”ような、

概念としてはR&Dだったりスクラップ&ビルドであったりまーあるんですが、
保守論を構えて考えていけば「保守とは言語化されていない先人の(潜在的)哲学的平原を守ることにあり(なので国家としては宗教性に関連する保守反動リスクもあるみたいな)」→つまり共同幻想が大きな物語故に(潜在的正当性には仮想的でも普遍性の概念があった)無茶も多く壊れやすい反面どれだけの反動形成(大きな物語)を実体化せしめる(極論エジプトのピラミッド)→となるので”実体化せしめる”という現世利益的実存を伴うってところがミソなんですよ。
現象から類推される正当性は結果により証明されるのような、
しかし「スフィンクスの鼻がナチスの軍事演習の的に使われて壊れちゃた」じゃないですが、
保守哲学って事実上選民主義というかエスタブリッメントであるとか秘密結社のような”繋ぎ手”によったとしても伝言ゲームであるのと同時に、元来その普遍性は「現世利益的実存により証明される」のであって、
所詮「現代社会のピラミッド」はその実存が”違っちゃっている”事実をもって既に保守哲学の実存は現存していない事も証明されるワケです、

構造論的に無理であると、
エデンの園の逸話まんまです、
知恵の実食ったら保守哲学の揺りかごは壊れるのであってその瞬間「幻想」であり、集団心理として考えれば「全ては多数決(市場プルーフ)により合理性を担保するだけの強迫観念(合理性があるので強迫と呼ぶのは本来適正じゃないのですが構造としては強迫機能を有する)」であるのは間違い無いのです。
これが「豊かさの減衰曲線」みたいな(経済効用の体感がGNPと比例しない)なんでしょう数学的限界といいましょうか、こういう現象によって(潜在需要としての)夢(インセンティブのある幻想)は社会現象としての形を保てなくなる(賞味期限やスケールがシュリンクする)。

バッハ→ジミヘン→エグザイル(無理ありすぎのたとえでスイマセン)

あるポイントに気が付きませんか?
ビルボードトップの売り上げは下がっても、ニコ動含めて新譜と呼べそうな代物は幾何級数的に増えている
集合的発想の需要は目減りしているが、オリジナルへの欲求は高い
この現象の先は「対個人」なんですよ、
現象が「マクロ→ミクロの総体」へシフトする。
「メジャーな成功は現象として=幻想性の増大を証明する」というパラドックスを生みだします。
どんどん成功なる概念はチープ化しておりまして、
なんとなくわかりますよね?
その先に民主主義がある(実存主義的”不条理”による存在証明)。

※この辺の話を続けると文明論になってしまうのでここまでにしますね


>これは言い換えれば、一部本音(自意識)は含まれるが、大半は強迫意識にもってかれているというニュアンスでしょうか?

ここはですね、
推定も含まれるのでなんともな部分るのですが、
明快に断念された行為とは言えなくても「腰が折れたかっこうの企画の一部」などに実は本音も含まれているだろうって事です。
つまり、総体として”自分の本音がインチキくさい”現象があるため、「おいおいそれは本音ですって」なる反論が自立的にできなくなっているって事です。これまでの過程であれこれ思いついた話の一部には「強迫意識さえなければ(反動形成も起きずに)その道で一筋だったかもしれない」なる企画や動機が”インチキくさい故に”まとめて全部葬られてしまっている可能性もありますって話です。

といって、過去に葬られた企画をサルベージしましょうって事じゃありません(時制として違ってちゃっているのですから)。
過剰に”インチキくさくなっている”事も反動形成やその背景における現象の一部ですって事です、

わかりやすい事例でたとえるなら、
人間関係の局面で、自己愛的虚言で壊れてしまった友人の中には「本来(自分に強迫的傾向が無く素を見せていれば)親友と呼べる人間もいたのだが」のような話です、


>逆にクリエイティブにご活躍されている方はkagewariさん含め現実に存在しているわけで、そのような方が上記の哲学を実行するのは変ですよね。
>クリエイティブな成功系それ自体が幻想なのではなく、

私は自分ではクリエイティブに活躍しているとは思えないのですが、、
ここを現象として「クリエイティブに活躍している」と仮定してみた場合(仕事上本当に”クリエイティブに活躍”している人も知っていますからその人目線で考えてみましょう)、
■まったく矛盾しませんよ。

何故なら活動の結果がクリエイティブな成果だったとしても、そこに関与しているのは(ざっくばらんに言えば)クリエイターに過ぎません。
言うならば作品としてクリエイティブな活躍をするのは”作品の方”であってクリエイターじゃないですから。
何で言えばいいでしょうかね、
「プロ野球選手としてご活躍の、、」
「いえいえプロ野球選手ですから」
なんとなくわかっていただけます?
しつこく書くと
「プロ野球選手としてご自慢の剛速球を、、」
「ってあのプロ野球選手なのである程度球が速いのは常識で、、球速表示で打ち取ってませんが」
「哲学的に言えば活躍しているのは僕の手によって投げられた”球の方”です」
「確かに先発ローテとしては活躍している方だと思いますよ」
最後の部分の心理っていうのは、
基本「自分としては(その世界で)よくやっている(いろんな意味で)」ということで、
(既にプロ野球選手であること自体本人にはユニークではない)
話を戻せばクリエイターなのだからそれはクリエイターなんですよ(笑
活躍も何も、
その存在証明として関わる要素にですよ、
「やっぱり正社員でしょうか?」
「は、、プロ野球は全員独立事業主で球団職員じゃありませんよ失礼な」
ここよっぽど
「チクショー、アウトローっていうかヤクザな人生を俺って奴ァヨ〜」
ここはやはり誇りですよ、
(誇りか否かのリトマス試験紙は「そこにナルチシズムが介在しているか?」です→介在したらNG)
違いますか?

ここで最初の話に戻ると
 ↓
「メジャーな成功は現象として=幻想性の増大を証明する」というパラドックス

価値論における原則は「希少価値(ユニーク)」である

少々極端に過ぎる暴論を仮説として挙げるとするならば、
学生紛争時代の「アングラ演劇(インディ)からの商業演劇(メジャーレーベル)への批判」は文明論的に筋論としてはあっているんです。
(但し”完全にフリーに演奏するとJAZZとも呼べなくなるのに”フリーJAZZをどう定義すればいいの?のような構造的な不条理が残る→不条理により証明される実存)

※この辺にしておきましょうね、やり過ぎると心理学離れちゃいますので


>まずは、現状を極端にでも肯定し、現実的前進をする、その延長線上に変化がある可能性が高いということですかね?

微妙に違いますね
「現状を肯定し、前進等の(馬鹿馬鹿しい)概念を否定する」です。
『今の俺でいい。前進等クソ食らえである』
この時初めて
「大上段に構える話は一段落として。おっ、そうえいばあれって・・・」などのように”思いつく(アイデア)”
(何の役に立たなくても一向に構わない)動機形成が”とっかかりとして”ニュートラル系ですよって話です。


>きっかけは、大学卒業時、就職を考えた際に目標が見当たらず、流されるように音楽やっている連中とつるんだのが発端くさいです。

これは投影ですね、
投影によって”強迫の取り巻き”が舞台設定を仮想で作ってしまい、潜在意識の欲求がじゃじゃ漏れしてきたというところでしょう。
(かといってス自我のトレス蓄積にも限度というものがあるのでその時音楽だっただけで、そこをスルー回避したとしても”別の舞台設定”で投影が起きただろうということは推定されます)

>周りには実力あるひともいて、デビューした人もいて、いつもプレッシャーをかけられ、それがコンプレックスとなり、自分が凡人なのを認めたくなくて、音楽を断念しても違うものなら・・・とあれこれ妄想し

本音も隠れているのでは?
この論議に戻るなら、
「実力あるひと、デビューした人」が取り巻きで(=馬鹿馬鹿しい奴ら)
仮説として音楽が好きだ(普遍性で考えれば商業性となんら関連性は無い)というのが”本音である”という考えも成り立つんです(である可能性がある)、
(以降「音楽が本音だった場合」の仮想上の話ですが)
しかし音楽が好きだ=ミュージシャンとは限らないので(関わる角度は多数ありますから)、
その本音が行為として何だったのかまでは推定の域を出ません(自意識の腰が折れてますから)
論議をシンプルにするならば「実力あるひと、デビューした人」なんかの馬鹿馬鹿しい奴らに気を取られて、肝心の自分にとって音楽なる本音がすっかり後回しになっている。
(公開掲示板では自主規制というか書けませんが、”フェチシズム”のたとえ話で考えるとわかりやすい筈です)
 ↓
>自分が凡人なのを認めたくなくて、音楽を断念しても違うものなら・・・とあれこれ妄想し

話は偏向して(音楽それ自体には全く意味が無くなって)「特別な事で成功した人」なる概念に執着(これは明快に強迫意識が自己愛的な肥大により勘違いに至っている自画像→人間は普遍的に平等なので構造矛盾であり”一種の人種偏見”でもある→「プロ野球選手としてご活躍の、」)、
自分が音楽を好きであるという本音も同時にくだらない事に気を奪われて同時に葬られてしまった。

これは上記説明にあるように「である可能性がある」であって、
仮設ですから。
そんな感じの話になってないかカウンターを当ててご自身で確認してみる(自分の様子を見る)ことからでいいのじゃないでしょうか。
※それこそ本格的な分析をしたら音楽への系統も強迫性の連想だったなんて結論もあるかもしれないのですが、強迫認知はあくまで概念であって具体的関連性が「強迫”縁”」であっても、縁起(アイデェンティティー)としての有効性を全て否定する根拠にはならない。

「え、そうなるとあれかも、これかも」と考えてみるだけでも現在の立ち居地から(何かの)場所が変わるだろって話です。
(放置してしまうと何から何まで腰が折れて何だかわからなくなってしまいますから)
1033 Re:補足しておきますと ふくろう 2009/05/08 14:23
冒頭の集団的共同幻想(保守哲学含む)が解体されつつあるという話、興味深く読みました。本質的価値と肥大化した価値の位相関係のようなものを正確に判断しようという心構えが変なものに流されなくなるポイントかなと思いました。強迫観念を帯びるという意味では個人の性格や身体などによる部分もあるので、強迫がどの角度から自分に突き刺さってくる可能性があるのか把握するためにもこの客観的俯瞰的視座は有効だと思いました。

>過剰に”インチキくさくなっている”事も反動形成やその背景における現象の一部ですって事です

この説明が分かりやすかったです。


>「現状を肯定し、前進等の(馬鹿馬鹿しい)概念を否定する」です。
『今の俺でいい。前進等クソ食らえである』

やっぱりここが肝ですね。現在の立ち居地でこのニュートラルな出発点を目指します。強迫は長い時間かけて染みついた癖なので、時間かかりそうですが。すでに落ち着きを取り戻しつつある実感もちょっとあります。

>何故なら活動の結果がクリエイティブな成果だったとしても、そこに関与しているのは(ざっくばらんに言えば)クリエイターに過ぎません。

このくだりも幻想を解体する具体的認識方法として参考になりました。
後は、ご提示頂きました事柄を意識的に実践すれば、大丈夫な気がします。
本当にありがとうございました。


それから、最後にひとつだけ質問させて頂きたいのですが、今回自分の強迫性と向き合うことでいろんな面がみえました。自分が強迫を取り除きたいと思ったのは、反動形成による一時的快楽を伴うとは言え、時に依存的にもなるし、鬱も招くし、日常に支障をきたすし、他人や社会にも迷惑が掛かるなという合理的判断からでした。強迫発生時は、論理的思考も歪みますが、身体感覚としても不健全でドキドキするような焦りと力みが伴います。

強迫的なものを有するメンタリティを評価する軸は多様であるべきだと思います。それは強迫的なるものが公的なもの(特に政治)関わるのとプライベートに関するのでは意味や重要度も違ってくるとは思うからです。抽象的で哲学的な話かもしれませんが、特にプライベートの関係で発生する、恋愛や性関係などに於いて。例えば、SM等の倒錯的関係に於いて依存的であるにも関わらず両者の合意のもとで成り立つものなど、第三者的には、気持ち悪いと思う方もいるとは思いますが、基本は他人の目に晒されないため迷惑はかけないものと思われるものに対して(依存構造が当事者同士で合意的パッケージとして成り立つもの)。一概に良い悪いの二元論はナンセンスかもですが、強迫依存が大抵機能しているように“個人的には”思えるものも多いと思うのですが。

Kagewariさんは、そういったプライベート事象に対してどのようにお考えでしょうか? 精神分析の観点から依存もある程度は文脈次第で必要なものなのでしょうか? 基本的には「ナシ」でしょうか? これまでの分析経験ふくめ、ざっくばらんで結構なのでご意見お聞かせ願えますでしょうか? 

すみません、大変お忙しい方であるのは十分察してはいますが、最後の質問として倫理感みたいなものが聞ければと思います。『強迫と依存は善か悪か、文脈次第では必要悪かみたいな論点で』さわり程度で結構です。よろしくお願いいたします。
1034 それは”サブカル”なんですよ kagewari 2009/05/10 18:55
まず、
>最後の質問として倫理感みたいなものが聞ければと思います。『強迫と依存は善か悪か、文脈次第では必要悪かみたいな論点で』
心理学には「いいも悪い無い」のです、
これは普遍的にありません。
倫理観もありません、
概念に客観的普遍性が無いので(上記の概念は社会的には”思想宗教意イデオロギー”の持ち分野で個人にはその思想との帰属(アイデンティファイ)か、個人で独立系のアイデア(信念哲学美意識)の持ち分野になります)、心理学はこれを「不自然な動機形成が存在しなければ”存在は後段倫理的問題などと解釈される現象を派生させない(例外は異文化の衝突)”ので倫理観等の意識の外部化は特別必要無い(あくまで個人の主観によって選択されるのが筋→この選択が重大だが自我構造としてのプライオリティーは低い→どうでもいいがどうでもよくない論の根拠=たかが野球なくしてされど野球を発見できない)」と位置づけます(ここは原始共同幻想の正当発現性を担保する話にもなるんです→幻想だから正当性がある)。
※文化人類学的見方をすれば、この原始共同幻想社会への権力構造のある組織が覇権の概念を持つときその幻想は反動化して極論○○教義のような(・・・ここあえて書きませんがわりますよね)「権威無くして権力無し」(社会学的な意味の強迫構造がヒエラルキーだったりするのであって:封建主義)

又強迫意識はフロイドで言えば超自我、自我構造論で言えば「強迫意識が常識や道徳野のロジックを制圧する→これが自意識を後段抑圧する仕組みの典型事例」のですから、
分析やカウンセリングの場ではここにカウンターを付けて「倫理や道徳はクソの役にも立たない(非効率なだけでステレオタイプを失っても自意識は即興含めてその場で考えますからこれは補完可能なのです)」ぐらいで調度よかったりするので、公式的には余計に「いいも悪いも無い」と考えます。
ある意味原始共同幻想社会の正当発現を前提にすれば”より幻想は”→どうでもいい(が微妙にどうでもよくない)世界であって自然、
よって公式的には「どうでもよくないことなど無い」となります。
※むしろこれは社会学や法学(社会契約論的に)で考える部分でしょう、

端的に言えば心理学の組成は(共同幻想的見地から偏見含めて皮肉を込めて言えば)スタンスとしては『アンチ道徳』なんです、
(これは強迫的な悩みに対峙する場合ですが”そうなっちゃう”)
そう彼らには見えるでしょうし、そういう偏見があることを予見できなければ心理学やっている人と呼べないでしょう。
結果論としてですが、そういう見方をされるのは一面として事実ですし、

学問的にも、仏教哲学なんかに見られる(仏教の宗教哲学は無意識の解体に挑戦するベクトルにあるので”可能かどうかは別”にして→それを解脱と呼んで自意識すら相対化しようとした”経”による言語論的な”無常化”とでも言えばいいでしょうか→HDD謎の不可視領域をフォーマットして空いた領域には”経”の文字がビッシリだみたいな→みようによってはワイルドな人類ヒト科をロジカルな彼岸にロジカルによってナチュラルに捕らえるとどうなるかみたいな仮想モデル)「人間ごときが道徳を知っている等言語道断(それを知るのは仏なので)、徳をつみたい等の”現世利益的発想”こそ(煩悩であり下品な自己愛に過ぎず)外道である」みたいに彼らは考えますが(彼らのアンチテーゼは”慈悲”)、
そういう話を「はーなるほど何も何して何がこうなるかもって仮説なんですね」と傍観するのが心理学です(笑
それだけ第三者性は強いんですよ
(これが所属社会のインサイダーになってしまうと体系的なフロイド心理学を維持できなくなるので、都合の悪い部分だけ道徳論理化にOK出してして一部だけ都合よくつまみ食いした”なんちゃら心理学”みたいな、、、と、ここで自主規制します(笑、、)


■しかし上記のような方向で十分以下の質問にも答えられるんです。

この話は”サブカル論”なんですよ。
 ↓
> 強迫的なものを有するメンタリティを評価する軸は多様であるべきだと思います。それは強迫的なるものが公的なもの(特に政治)関わるのとプライベートに関するのでは意味や重要度も違ってくるとは思うからです。抽象的で哲学的な話かもしれませんが、特にプライベートの関係で発生する、恋愛や性関係などに於いて。例えば、SM等の倒錯的関係に於いて依存的であるにも関わらず両者の合意のもとで成り立つものなど、第三者的には、気持ち悪いと思う方もいるとは思いますが、基本は他人の目に晒されないため迷惑はかけないものと思われるものに対して(依存構造が当事者同士で合意的パッケージとして成り立つもの)。一概に良い悪いの二元論はナンセンスかもですが、強迫依存が大抵機能しているように“個人的には”思えるものも多いと思うのですが。

強迫や抑圧の問題を分析するのが心理学になりますが、
必ずしも結果としての行動が強迫的行為であってもその動機形成に強迫性が無ければ”全然アリ”なんです。
つまり「確信犯的に自意識に選択されるナンセンスな行為」は「どんだけナンセンスであってもメンタルな問題にはならない」からです。
その動機形成のプロセスそのものが「強迫的では無い」のですし、同時に結果などどうだっていい(心理学の関心項目ではない)と考えますし、
又結果論的に言えば「自意識リードによる動機形成の自己責任(行為の所有権や著作権)の担保」こそ重要と考えますので(もっともらしかったり確からしい記憶じゃなくて、確かな記憶:実存)、とにかく重要なのが動機形成の自然化(社会的には民主化)にあると。

心理学的な『共依存』は全く別の意味です、
両者無意識リード(自覚の無い)によるスカウティング(強迫意識保守に利用できる)により「現実との関係性とは全く別の意識」によりこの謀議に巻き込まれ(自意識が)、結果論的には自意識の過失共犯となってしまうような(自己愛投影の劇場を快感原則で求めているだけで自意識が抑圧されるからこそ選択された関係)、予定された悪循環の関係性であって、当事者にとっては「同じSMだとしても」100%被害認知であり嫌悪感含めて結果としては不快感による興奮依存によって関係が持続するだけで、それは「サブカル的趣味性」とは似て非なるものなのですよ。

しかしなぜサブカルなんて(見ようによっては強迫的行為のような)現象が多数あるかといいますと、
そもそも人間にとって大人の自我を獲得する前は(反抗期の現実プルーフを得るまで)子供の自我は全員倒錯しているとも仮定できるので(家族愛的快感原則)、社会の場には強迫的発想は”ごく自然”に存在します。
又、ここは前回の話と被るんですが
>>強迫認知はあくまで概念であって具体的関連性が「強迫”縁”」であっても、縁起(アイデェンティティー)としての有効性を全て否定する根拠にはならない。
強迫時代を生きてここから脱出した生還者にとって、強迫時代の行為は強迫縁という縁起(アイデェンティティー)であるのは間違いなくて(強迫時代に至るという世界観は間違いなくアイデェンティティーなのですし)、
この現象は強迫離脱後に内省(過去の再検証)によって、自意識にサルベージされて「後付けで自己責任が担保され」所有権や著作権として「自分のもの」になります。
当然その時の着想にエキセントリックであるが故の面白さがあれば、習俗としてこれ社会的にも「サブカル認定」あるんですよ。

ここ重要です
 ↓
>両者の合意のもとで成り立つものなど

合意の成立にはその概念が交換可能な理解や信頼が無いと成立しない、
サブカルとして社会認知されない行為に合意は成り立たない。
(認知されない希少性までを保持すると”単独行動”によってしか追求できなくなります→「バンドの解散とその後のソロ活動」)

ご存知のように北斎などで知られる浮世絵(春画エログラビア)の時代から性倒錯は余裕のサブカルであって、原始宗教や歴史における各原始文明には”とてつもない習俗”が普通にあったりします。
しかしこれはサブカルなんですよ、
(学問になるほど近代的な権威性のある道徳論も無いワケですし:古代文明は地域による集団性に近く制度的集権性とは微妙に違う)
趣味性(や文化)として認知された上で自意識に自己責任を伴う形で(本音であると)選択されているんです。

なんでしょう
ここは最初の『アンチ道徳』じゃないですが、
法律さえ犯してなけりゃ、好きで選んだ事なら何をしたっていい(どんなに人から馬鹿にされようが選択における所有権や著作権が明快:ここに実存主義的不条理論や”希少性”による価値論が被ります)んですよ。
「コード進行どおりに演奏しなくちゃいけないなんて誰が決めたんだ」
しかしそれが実存するロジック(動機形成時の”アイデア”)を保持できずに「自分でも何してんだかよくわからない」なら失敗かもしれません。
心理学的には判断の尺度はそういうもので自然になります。


> Kagewariさんは、そういったプライベート事象に対してどのようにお考えでしょうか? 精神分析の観点から依存もある程度は文脈次第で必要なものなのでしょうか? 基本的には「ナシ」でしょうか? これまでの分析経験ふくめ、ざっくばらんで結構なのでご意見お聞かせ願えますでしょうか?

依存関係は何も生みませんよ、
”共存関係”とは180度別の世界の話です(競争関係とも違う)。
(共依存は「相互不信の理」みたいな話で、共存は相互信頼の結果)
じゃ依存の意味とは?
経済界で言えば「関係を固定化し主体性を十分発揮できない状態(現実時間の進行を潜在化とか無力化する)」、
これはどうにも関係を固定化するのが合意的な場合にのみ結果論的に是認されるもので(公共事業や業界や政官財)、背景事情が許すなら自主性を回復するのが経済における市場の公正(ナチュラルな最適化の原則が機能するための条件)にとって不可欠なのは言うまでもありません。
1038 ありがとうございました ふくろう 2009/05/21 23:15
>端的に言えば心理学の組成は(共同幻想的見地から偏見含めて皮肉を込めて言えば)スタンスとしては『アンチ道徳』なんです、
>はーなるほど何も何して何がこうなるかもって仮説なんですね」と傍観するのが心理学です(笑)それだけ第三者性は強いんですよ


宗教やイデオロギーからもフリーな成立過程かつ、立ち居地なんですね。KAGEWARIさんの場合は、社会学っぽいものと関連づけて、考察しているので、読み物としても十分楽しめる内容だと思います。


>必ずしも結果としての行動が強迫的行為であってもその動機形成に強迫性が無ければ”全然アリ”なんです。
つまり「確信犯的に自意識に選択されるナンセンスな行為」は「どんだけナンセンスであってもメンタルな問題にはならない」からです。


とても分かりやすいです。ただ、サブカルが認知された昨今ではありますが、上記のように自覚的に成立していないものも多々あると感じます。数あるジャンルに早期コミットし自覚的な人はその分野で活躍し結果はハイカルに認定されるみたいなのも見受けられますし、反対に強迫化してコントロールできず犯罪化しているものもある気がします。クリエイティビティと妄想が異なる
うに、自覚的サブカルか?強迫化した倒錯か?言葉では分かりますが、僕のような未熟者にはまだ明確な判断ができないです。経験だとは思いますが。というか個人的には今の社会って自然な動機形成のほうが稀で、自分含め、倒錯野郎で溢れかえっているように思えます。


>しかしなぜサブカルなんて(見ようによっては強迫的行為のような)現象が多数あるかといいますと、
そもそも人間にとって大人の自我を獲得する前は(反抗期の現実プルーフを得るまで)子供の自我は全員倒錯しているとも仮定できるので(家族愛的快感原則)、社会の場には強迫的発想は”ごく自然”に存在します。
又、ここは前回の話と被るんですが
>>強迫認知はあくまで概念であって具体的関連性が「強迫”縁”」であっても、縁起(アイデェンティティー)としての有効性を全て否定する根拠にはならない。


強迫が自然発生する場面は多々あるわけですね、僕は専門家ではないのでそこまで詳しくなる必要はないかもしれませんが、その辺は楽にゆとりをもって構えようと思います。強迫”縁”も財産って言葉は驚きとともに勇気付けられました!


>合意の成立にはその概念が交換可能な理解や信頼が無いと成立しない、
サブカルとして社会認知されない行為に合意は成り立たない。


ここをきもに命じて、これからの人生、適度にはみ出しながら楽しく生きていきたいです!


最後に、最近は強迫的なものも少しづずつ静まりつつあり、自意識っぽいものが顔を出しつつあります。考えに具体性が生まれ、続けるべき企画か撤退すべきものかひとつひとつ具体的なフィージビリティを行い慎重かつ冷静に判断しています。前は自己嫌悪の自分を覆うように錯乱しながら、情報に躍らされてました。今は現状肯定、そのためのロジック上の肉付けという観点から徹底的にインプットしまくっています。中途半端だと思っていた状況(ただ、くすぶっていたという事実だけは認めようと思っています)も解釈によっては面白い立ち居地だということにして精一杯暴れまわるつもりです。この度は本当にありがとうございました!KAGEWARIさんのブログも今後も読ませて頂きます。ダークサイドや裏を読む経済・社会分析(他にあまりないので)が面白いです。今後も応援したいと思います。