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「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。



929 相談というより愚痴かもしれません ナポリ 2008/04/04 15:51
現在生活保護を受けて6年ほどになります。
ただ鬱病などの所謂「病気」ではないため通院はしていません。
何度かCWから「このまま何もしないと受給は難しい」と言われたので
通院したこともありましたが、いろいろ事情があり通うのをやめてしまいました。
その後CWから働くように言われましたが、働く自信もないし、働くと余計に
お金がかかり、かえって不安が増えそうなので躊躇していました。
担当のCWが換わり、新しい人が家庭訪問に来た際も、働く意志が全くないわけではなく、内職ならいくらでもできると説明しました。
また人格障害系なので、通院して薬を飲むということに意味を見出せないと
考えていることも話しました。
その場はある程度納得してくれたようですが、先日、定期的に届く文書の中に、
担当者の直筆で「このままでは受給が難しい〜云々」と書かれていました。
いつもそういった問題(受給が難しいと脅される)に直面すると、
生きているのがいやになってしまいます。

自分の場合、働かないといけないんだ!と強迫的に思うことはありませんが、
それが救いでもあり災難でもあるのです。

先日NHKのドキュメンタリーで「名ばかり管理職」というものをやっていました。
会社は利益が毎年増え続けることが当たり前の目標になっています。
そのために人の「愛社精神」などを利用して、人材の使い捨てをする。

EUに後発で加入した国には、昔ながらの方法でチーズを作っている小さな農家があります。
でも、EUの市場に乗せるためにはその方法では基準に合格しません。
ある程度の設備投資をして、衛生基準などを満たさないといけないのです。
昔ながらの手作りチーズのどこが悪いのでしょうか。
むしろおいしそうだと思うのです。

私個人には関係ない話なのですが、上のような話を見聞きするたびに
とても虚無感に襲われます。
そしてやはり生きているのがいやになります。

「名ばかり管理職」の話では、労働基準局が調査・指導などをしているのですが
もし、地域の政治家とつながりのある企業だったら、どうなんだろう。
その規模が大きければ、国がそんな企業を助長させているとも言える。
そしてそんな国から生活保護を貰ってる自分。

頭の中でそんなことを考えると怖くなって、TVを観たり、映画を観たり、
ゲームをしたりと思考を停止させてしまいます。
自分の目の前にある「働く・通院する」と言った選択から逃げたいがために
関係のない社会の話を持ち込んで話を大げさにしてるように感じます。

なんていうか、心臓をぐっと捕まれるような不安を感じるたびに
その不安の源は「生活保護を打ち切られるかどうか」ということで、
それが自分の生死に関わる(物理的に食べられなくなる)ことで、
なぜそんな不安を感じてまで生きている必要があるんだろうと思ってしまいます。
例えばCWの勧めに従って働いて、1年間継続できたら安楽死できるという権利を
もらえるのなら、必死でやるかもしれません。

とりとめもない話になってしまいました。すみません。
930 Re:相談というより愚痴かもしれません kagewari 2008/04/05 06:25
社会面等に数々の事件があるように昨今の行政には多大の問題があります。
(道路行政だけじゃ無いですよ)

方や国際標準の名のもとにちっとも公正とはいえない不安定な市場に合わせて経済のグローバル化(海外に工場を出しても投資の理由が人件費だけだと早晩経済成長で人件費は高騰し又短期間で別の新興国へとナンセンスな循環となる)を薦めるのは結構ですが、その反面国内の系列の慣習で自立的な営業力の無い各産業の中小零細工場は倒産が続き空前の自殺者を計上しています。
俯瞰で観れば『不公正』なのです、
業界団体に任せるのには無理があるにしても、ベンチャー企業のため専用の株式市場を造ったように(これもライブドア国策操作で潰していたら意味が無いんですが)、流通インフラの構築も同時に行わなければ(国内には透明性の高い市場が無いのも同じ)本末転倒なワケです。
※護送船団の名残の経済体質である事はどんな経済学者にもわかっていた事

足を引っ張る業界団体にメスを入れるとか(そもそもこういうところが天下り先になっていたりする)、営業力というかサヴァイヴァルの方向性を判断できるシステムってものが本来必要な話で、そういう新しい方向性は現在の官僚体質には期待できず経営悪化する中小零細企業は大変な状況になっています。
その中で、「道路の予算だけは何とかしろ(その道路整備で余計に地方の過疎化が進んでいる事も地元では常識なのに)」と莫大な予算の話だけ大騒ぎになっています。当然ここには政治利権もある、

その中で生活保護の予算は比較にならないほど小額で(昨今急激にこれが伸びているのはそもそも政府の失策)、高齢化社会で福祉国家にならざるを得ないのも誰だって何年も前からわかりきっていた事で、この予算の手当て(消費税の増税など)が必要な事も誰にだってわかりきっていた事です。


その予算がひっ迫する状況で、末端の役人に「なんとか切り詰められないか」なる通達が出ること自体”ナンセンス”で、
その状況で、本来の彼らの仕事は「より内容の充実している福祉サービスの向上」でなければならないワケで、本末転倒なのです。
”福祉行政が仕事”なんですからね
>担当者の直筆で「このままでは受給が難しい〜云々」と書かれていました。
これは、サラ金の取立屋と同じです。
担当上司や、地域の政治家に投書する等して堂々と抗議してもいい事です。

それこそ警備員が「自分の身は自分で守ってください、このままでは警備は難しい」と、警備員の給料を自分は多額に貰っておきながら言ってのけているのと同じで(教師が給料貰いながら”これ以上授業は続けられない”と意味不明な話をしているのと同じ・看護士が”入院期間が長いのでこれ以上ケアできない”と給料もらっておきながら自分勝手に宣言しているのと同じ)、職務怠慢どころかほとんど犯罪だと言ってもいいのです。
彼らを雇っているのは、受益者含めて市民であり彼らは”その仕事をするために給料貰っている”んですよ「その仕事を閉鎖するべきだ」等判断する権限がある筈無いんですよ(言うならば建主や建築士が指示して建築中の建物で、工事担当している左官工の上司が”これは勿体無いから少し手を抜け”と言われて「建主が目の前にいるのに」”設計図通りには塗れないですね”と詰め寄っているようなものです、その工事の正規の料金を彼は給与として貰っているのにですよ)。

実際社会面における事件の事例では、福祉担当者が殺人の主犯であると言い切っても間違いじゃありません。
同様事件の事例でも(本来なら必要無いにも関わらず)「病院で生活保護が必要だと言う名目の診断書が必要」”であるかと誤解されるような”思わせぶりな窓口行政をして(思惑は”できれば切り詰めたい”)、深刻に悩んだ家族が心中を企画し寝たきりの親を殺すという事件でした。
窓口の人間は事件後「診断書が必要とは言っていない、誤解があったかもしれない」等言い逃れとしか言えないコメントをしていますが、これが行政による殺人であるのは明白です。

ここをですよ、福祉の受給者だと言っても「そもそも現在消費税以外の納税を行っていない」としましょうか?
しかしご存知のように、たとえば年金ですが現在の高齢者は掛け金数十万でその10倍以上の年金を支給されていたりします(あまり報道されていませんが)。又、ナポリさんは多額の納税をしていないかも知れませんが、家族の援助の限界等を規約とする生活保護の場合一時的には援助の対象者である家族に代わり国家がそれをサポートするのですから、その保険掛け金の支払いを行っているのは親であって、莫大な税金を生涯収めているのであって(構造としては親が掛けていた生活保護保険の適応対象者になっているのと同じ)、自分で直接応分の費用を支払っているか?と考える事はナンセンスです。
働いて国家が補償する最低限の生活を何らかの事情で意地できない状態の市民に、最低限度の生活を”保証します”と国家は契約しているのであって、原理的には当該国家は、生活の豊かさの提示によって労働と生産性によって多大の利益を保証し(失業率の問題)義務教育含めてその富の分配を受けられるシステムを持っているのが近代国家です。
つまり、個人的利益として仕事を選択する事が合理的である事が国家の方針でもある。
ですから、国家の側が考える「デフォルトとして市民は自ら職を求める(豊かさへの欲求として)」という部分は国家の側が定義している要素であって(実際国家の運営上最も注意が必要なのは”失業率”です)、
『それができない』→「やむを得ない事情がある」事はこの時点で国家の論理の側から明白となります。

そこで「最低限の収入でも十分私は豊かである」とするなら、これは豊かな世帯であれば十分家族の援助によって生活水準を維持できるレベルです。
しかし、身内が消息不明であるとか、身内も高齢や病気かちで収入が無く同時に資産も無い等の事情がある場合に、納税による掛け金によって保証されている保険が適応されるのが”生活保護”です。
※現実失業率が存在するように、そもそも何も障害が無くても「やりたくても仕事がみつかならい」状況なんですよ?
「仕事をしてもらわないと」な発言が有効なのは少なくとも失業率ゼロの状態で始めて有効な話です。
また、そこで労働意欲を経済原則として考えた場合持ち得ないのだとしたら、それは経済学的には労働法上の問題だし、単純に生き方として「自分の力で収入を獲得したい」という意欲が保持できないのであれば、それはメンタルな問題が介在しているか「それほど経済的豊かさを嗜好していません」という意味なのですから「勝手な国家の想定(経済的豊かさを欲求する筈という定義)」外であるとの意味であり、そのニーズに答えるライフスタイルを営める恒久的なシステムを考えるのも国家の側の話です。

それができなければ、この国は「憲法違反をしている」って事ですよ。

説明長くなりましたが、
つまるところ、正規の保険金を保険屋が「ちょっと支払いたくないですね」と言っているのと同じですよ。
しかもその保険金の運用が、利回り含めて目論見を間違ったので「支払額が滞っています」これは保険屋の運用ミスか過大広告であると言う意味で、それを受益者の責任であるかのような発言は『頭がどうにかしているぐらいナンセンス』なのです。
少なくともその人物は”憲法違反の犯罪者”です。

冷静に考えてみてください、
行政の管理官の立場から考えれば
「ハローワークに並んでいる人にこそ就職の斡旋を優先させるべきなんじゃないですか?」
今保護下で、本当にメンタルな問題で正社員等ハードな仕事に意欲がもてなかったり(内職ならいくらでもできる等環境によっては就労の意志はあっても)、就労できてもそれが継続できる自信が無い尚、そのニーズに応じて福祉行政の質を「どのようにすれば行政サービスの向上となるのか」考えなければならない(それで高額の給料貰っている)のは役人の側なんですから。
同時に労働行政している官僚は、希望の求職者に十分仕事を供給する事にすら成功できていないんですよ?
確かに政治の責任でもありますが、実質予算編成含めて我が国の政策には深く官僚組織が支配的で、彼らが『失敗している』といっても過言じゃないでしょう。
我々は、彼らにその仕事をする給料を払っているのにですよ?
職務怠慢で開き直られたら詐欺でしょう、

>EUに後発で加入した国には、昔ながらの方法でチーズを作っている小さな農家があります。

ここも上記に関わる話です、
政治的選択というのは常に当事者責任のある政策判断であり、当然そこには”トレードオフ”の関係があります。
民主主義の国家では「その賭けの選択のために選挙がある」んです。
選挙の結果選出された代議員によりその政策ミスがあるのだとしたら、これは市民にもその責任があると言わざるを得ません。

繰り返しにまりますが、
この国で誰ひとり「生活保護を廃止しようじゃありませんか」と公約して当選している政治家はどこにもいないでしょう。
(少なくとも私は聞いた事がありません)


>上のような話を見聞きするたびにとても虚無感に襲われます。
>そしてやはり生きているのがいやになります。

これは強迫構造が道徳を宿主とするからで、
道徳的な判断が起動する時に常に強迫意識が自意識を抑圧しているためです。
強迫的快感(脳内では不快な興奮も”快感認知”です)の結果として、極端な悲観が結果として再生産される(=鬱構造)ものです。

実際のところ「上のような話」と「生きているのがいやになる」には、直接の関連性はありません。
「上のような話」が「生きているのがいやになる」結論を得るトリガーとして関連性を持っている。
のです、
本来の外交的欲求(自意識マター)が構造的に維持するのが難しい状況下で、足元を掬われるように「生きているのがいやになる」的発想に引っ張られてしまう(ノスタルジー)。

本来なら?

「オイ役人、ちょっとコイお前、コイツの上司出せここにいるのか!」
「チーズを昔ながらの手作りで造らせろよ、何とかしろいい加減、最近の社会はどうかなってんじゃネーのか」
怒るところですよ。
本来自意識マターとして自覚を持って堂々と怒って自らの意志を明解にするところ(それを民主主義と言います)で、
「生きているのがいやになる」になっている。
ここには甚だしく関連性として矛盾が介在しています。

図柄で考えてみるなら?

■自覚を持って堂々と怒るところで、「生きているのがいやになる」になっている。
上記の文章の
<ところで、「生きてい>の、
「で、●「生き」の真ん中の●は何か?と考えるのです。
数式で考えるなら、そこには『話が逆転する記号』が入っている事になります。(分数の割り算みたいに)

「怒ったって意味は無い」

現実世界で、自意識の意見を堂々と述べるべき対象者に『聖域化傾向』がある。
(幼児期からの強迫構造なら『神格化』であっても不思議じゃありません)
「神様に意見してもナンセンス」ですからね。

しかし現実の対象者は「単なる木っ端役人」なのです。


木っ端役人が犯罪者まがいの恫喝をしてあまりにも腹が立ったので抗議しようと思ったら、私は「生きているのがいやになる」。
これ言葉になってませんよね?

しかしこの文章をデ・コードして
「”あの”親にどうしても言いたい事があって、それを言おうと思っても、、そんな事を考えるだけで私は死にたくなるような気持ちになるのです」

ここで問題なのは「実際その親子関係を見直しましょう」なんて見当違いな話では”全く無い”事です、
重要なのは「どうして無意識に”木っ端役人と親を同一視”してしまうのか」という認知”誤解”の部分です。
トリガーとなっているのは道徳的認知(鬱等の強迫系の人格の場合、道徳性には退行化による時制としての幼児性があり、反抗期を自然に経過した自我に比べて非常に強いレベルで道徳の正当性根拠が”象徴化された両親等のエディプス対象者のイメージとなる”)の根拠として正当性の対象者である、強迫構造の対象者が『無意識の視覚に入る』ためです、

ですから、道徳的認知の場合には常にこの部分の自動的な連想の切り分け(強迫構造の原型たる象徴化された親のイメージが無意識の背後に立つ事)「認識の過剰な部分全て自意識の本音じゃないから」と確認する。
又、そこで自己嫌悪的な興奮とならぬように自意識マターを起動する(顔洗、外の風にあたる、腹筋背筋縄跳び等の反復性のある運動)。
道徳的認知においては「善悪論的思考」を制限し(構造上善:親・悪:自分みたいな構図がモデルになるので)、「論理的解決の方法を冷静に考える(政策であるとか、具体的な戦術等)」善悪的判断ではなく、戦略的解決の方法論に集中力を振り向ける事で解決します。

かといって、それは容易な事じゃありません。
しかし、それに準備するのは容易です。

>「生きているのがいやになる」

「生きているのがいやになるんだよね〜、ま、それは冗談だけど」これを口癖にして、縄跳び50回で一拍置いて「何の話だっけ」と考え直す事です。
931 理屈では分かるんですが、難しいですねー ナポリ 2008/04/05 12:42
> 本来なら?
>
> 「オイ役人、ちょっとコイお前、コイツの上司出せここにいるのか!」
> 「チーズを昔ながらの手作りで造らせろよ、何とかしろいい加減、最近の社会はどうかなってんじゃネーのか」
> 怒るところですよ。

例の「名ばかり管理職」を観たあと私は泣いてました。
確かにノスタルジックな感傷の気持ちもありましたが、泣きながら自分自身で
「あれ?泣いてるけど本当は怒ってるんだなー」と感じました。
これは自分にとってはすごい発見でした。
最近は感情(これもよく定義できませんが)に振り回されることは
少なくなってきたと思っています。
映画を観て感動して泣いた人が、映画館を出てしまえば「ご飯でも食べる?」と、自然に日常に戻るのと同じように思います。
かといって常に平安でいられるわけではなく、いろいろな気持ちが起きますが、
当事者意識はあまり感じなくなりました。

> 選挙の結果選出された代議員によりその政策ミスがあるのだとしたら、これは市民にもその責任があると言わざるを得ません。

なんだろう、選挙にすら行かないのに、国策への批判もないだろって感じです。
じゃあどうすればいいんだ?と聞かれても具体的には答えられないし。
それこそ「文句だけは一人前」という言葉が頭をよぎり、道徳的に許されない気がしてしまうのです。

あ、↑で答えが出てしまいました。
父親から似たようなことを良く言われました。
だからだったんですね。
自分の頭の中に父親が住んでるみたいです。

> 「生きているのがいやになるんだよね〜、ま、それは冗談だけど」これを口癖にして、縄跳び50回で一拍置いて「何の話だっけ」と考え直す事です。

問題は「生きるのがいやだ」と感じる=身体が不快な感覚になることなのです。
動悸がするとか、肩にずっしり錘が乗っかったような感じとか。
「生きるのがいやだ」という言葉は、他人に伝えるために言語化しただけで、
上記のような不快な感覚を適切に現してはいないかもしれません。
その言葉を選んだ自分に責任はあると思いますが、どういうわけかそう表現してしまうのです。
なんていうか、言葉よりも感覚が先なんです。
 脳が何かを感じて身体に不快な感覚を与える
 ↓
 その感覚を感じて脳が「生きるのがいやになる」と思う
多分ずっとそんなことを繰り返してきたので、反射的にそう思うんでしょう。
そしてその反射をストップさせるために、縄跳び50回は有効だと思います。
でも難しいです、正直。
胃がもたれてるときに、脂っこいものを食べたくないような。
ただ、理屈が分かればあとは経験でなんとかなるかなーと思います。
だけどこれから先、一体何回繰り返すんだろうと思うと、また・・・。
と、思うこともあります。

思うことに思い、また思い、また思い、と延々と続きます。
屁理屈を次から次へと繰り出してるみたいです。
933 Re:理屈では分かるんですが、難しいですねー kagewari 2008/04/07 04:40
ポイントはここですよ。
>それこそ「文句だけは一人前」

いかに大事な事か。
ここにも被っています
 ↓
>選挙にすら行かないのに、国策への批判もないだろ

前者は独裁政権の権力サイドの典型的な台詞で
後者は、民主主義的可能性を否定する敗北主義の評論家の典型的な台詞です。

しかし
>「チーズを昔ながらの手作りで造らせろよ、何とかしろいい加減、最近の社会はどうかなってんじゃネーのか」

この意見は前者の「文句」じゃないし、後者の「選挙すら行かないのに(そもそも当事国の市民じゃない→選挙権も無い)」にも無関係な論議です。しかし前者後者の連想によって「生きているのがいやになる」。
これはいかにも無理のある(現実としてまったく関係していない)連想で、在り得ない前提条件の元に”結果だけが独立して発生している”とすら言っても間違いでは無いでしょう。

つまり重要部分な部分は
>トリガーとなっているのは道徳的認知で(中略)強迫構造の対象者が『無意識の視覚に入る』ためです、

であって、道徳的な認識が事象としてあると”オートマチック”に、「生きているのがいやになる」的本来どうにも無理のある(全く関連性が無いと言ってもいい)結論が構造的に追体験として再起されている。事になります、
ここは脳内論議になりますが「不快感であっても興奮は脳内で快感分類」と同じように、『なんの事無い欲求不満や退屈』の隙間に”割り込むように”意図せざる無意識の連想によって”勝手に(オートマチック)そうなっている”のであって、
事実関係の認知として

「いやはや、これは不思議な事だ」と明解に事実から切り分けて正解なのです。
謎謎やっているのでは無いので、正解も何も無いんですが、印象として他に言葉が無いのでここはご理解ください。
「あれ?この不快感は”違う違う”そういう場面じゃないから」な追従によって切り分ける時⇒「その行為により”自意識マター”が起動します」
リハビリのように、この認知に対するカウンターを習慣化していけば大幅に不快感認知は後退します。

そしてここの部分
 ↓
>問題は「生きるのがいやだ」と感じる=身体が不快な感覚になることなのです。
>動悸がするとか、肩にずっしり錘が乗っかったような感じとか。
>「生きるのがいやだ」という言葉は、他人に伝えるために言語化しただけで、
>上記のような不快な感覚を適切に現してはいないかもしれません。

強迫構造とは言い換えれば「無理のある」とか「どう考えても矛盾する意識」に、無茶でも(道徳的意識の権限をもって)正当性を付与してしまうロジックで、その構造がここに明解に表現されています。
ぶっちゃけ「矛盾するロジックを特権的発想で、強引に道徳的結論にまとめてしまって自意識の出番を奪う(力技で丸め込んでしまう)」ワケです。
その強迫意識を通過した結果、初動の認知はオートマチックに「生きるのがいやだ」の結論として召還され、「生きるのがいやだ」の召還に成功すると、自意識が無抵抗状態に抑圧されてしまうのでこれを自立的に止められなくなり(抑圧された自意識は”薄々なんか変”と感じていても)、『最上級の正当性により”生きているのがいやになる”がこの世の真理でもあるかのように仮想される』ワケです。

最初から読み直していただければより深く理解していただけると思うんですが、
つまるとこ「自意識の干渉(素の現実認知)の排除に成功している」結果が「生きるのがいやだ」となるわけです。


>その言葉を選んだ自分に責任はあると思いますが、どういうわけかそう表現してしまうのです。
>なんていうか、言葉よりも感覚が先なんです。

無意識に、事実を改竄するプロセスが実装されている証明ですよね。
圧倒的な優先順位で鬱的結論を導き出すロジックが”無意識”にあって、これは現在の自意識から”アンタッタチャブル”な領域にある。
>これは強迫構造が道徳を宿主とするからで、
「強迫構造の原型たる象徴化された親のイメージが無意識の背後に立つ事」
を、プロセスとしても現しています。

事実関係の流れで追いかけると、
「ちょっとした欲求不満」ここから解釈していくと、とてもわかりやすいのです。

その「ちょっとした欲求不満」が、空腹や難しい問いの答えだとしましょう。
ここでオートに「お母さんお腹すいた(マターだ)」「お父さんこれどういうことかな(マターだ)」のような形で、権威者に声がかかり→ここは既に内向するイメージの中で道徳律の正当性権威の象徴ですから、道徳を宿主とする強迫意識が”自動的に起動”し、
何故か結論は(本人の自意識でもちょっと変だなと自覚があっても)「生きるのがいやだ」になってしまう。

この「生きるのがいやだ」が呼び出されている背景は何かと言えば。

その「ちょっとした欲求不満」が、空腹や難しい問いの答えだとしましょう。
ここでオートに「えーとねチャーシュー麺大盛」「○○さんさー(上司)これでいいかな〜」のような形で、現実当事者に声がかかり→自意識マターが自動的に起動し、結論が「やっぱ味噌ラーメン」「あっそう、こじゃやっぱ甘いか」になる”筈”の現実が壊れている事になります。

現実の当事者より(強迫構造の原型たる象徴化された親のイメージが)強迫的意識に”優先権”があり、現実世界における他者の認知を『上書きするように』投影が行われ、そのストーリーの登場人物がいつのまにか「強迫構造の原型たる象徴化された親のイメージ」になってしまっている。

深い葛藤がらみの記憶の中で「強迫構造の原型たる象徴化された親のイメージと私」の絵柄は
>脳が何かを感じて身体に不快な感覚を与える
ように、不快な記憶(動悸がするとか、肩にずっしり錘が乗っかったような感じ)であり、そういう状況における定番の感覚が”追体験として再現されている”。
「ノスタルジー」です。

当然「何とかならないか」的な気弱な状況
※役所の人間が”上から”何かクレームをつけてきた
ともなれば爆発的にこの強迫意識が出番とばかり全面に出ます。

「何とかならないか」として(何らかのアイデアが必要な状況)あれこれ考えると
「なるほどそうか、そういうのもアリかな」と安心するのではなく、
それ以前に、
「酷く不快だ」という認知に優先順位のフラグが立っている。
なので、あれこれ考えるプロセスの腰が折られてしまい「何故か結論は”生きるのがいやだ”に置き換えられている」。

「生きるのがいやだ」なる言葉の原風景が、
「わかりにくい親を前に幼児特有の生命の危険に及ぶ不安感を感じていた当事の”掬いようが無いほど不安げな自分の絵”」
である事は説明の必要が無いでしょう。

「何とかならないか」のシーンが、「誰かを頼ってみようか」であればよりダイレクトに”強迫構造の原型たる象徴化された親のイメージ”が召還され、自意識は圧倒されて(幼児期の強迫構造の原型たる象徴化された親のイメージに対峙している当事と同じ感情が反復され、事実関係を無視してもその当事の感情を押し出す事が優先される)、自分ながら打つ手がない形に”陥ってしまう”ワケです。

確かに時間もかかる部分ではあるのですが、
ここは慎重に、冷静に、
「心理的なプロセスが如何に無茶な現象として起きているのか」なる認知を進めて、
『自意識マターの起動によりこれを阻止する』
ことが重要です。

召還されているのは”前例主義的正当性根拠”なのであり、これは最高裁判決における判例主義ととてもよく似たものです。
ですから「前例主義の適応」が成立するに足る”『自意識マターの起動によりこれを阻止した』形の実績”を、積み上げれば
「目には目を歯には歯を」のルートにより”各個撃破”可能であると、
地味なアプローチですが、最善策であるのも間違いありません。

>その言葉を選んだ自分に責任はあると思いますが、どういうわけかそう表現してしまうのです。

ここまで自意識の視界に入っているのなら(スナイパーの感覚で言うなら”見えた”って事です)、
「現在の自意識には十分その力がある」と見て間違い無いでしょう。

>それこそ「文句だけは一人前」
そのとおりです、
「馬鹿言っちゃいけないぜ、これでも俺は”文句だけなら一人前”なんだ。そう簡単に引き下がると思うなよ。なめた口きくととんでもない事になるぜ、それがわかって俺に言っているんだろうな」という意識で、
>屁理屈を次から次へと繰り出してるみたいです
強迫意識の自我防衛的”抵抗”の好きにはさせない。
■目には目を歯には歯を
「悪いが屁理屈なら俺は負けない。」
強迫意識から「自己の尊厳を守る」って事です。
「縄跳びしちゃうぞコノヤロー二重飛びまぜ交えるぞコラ」のように、
”現実の自分”によりこれに対峙するってことです。
934 否定が多くなりがちです ナポリ 2008/04/07 17:12
気持ちが内向的になっている時、自意識マターを発動して気分転換を図ることがあります。
「とりあえず、なんか作って食べよう!」とか「ちょっと缶コーヒーでも買ってくるか」とか。
お腹が空きすぎて目が回るくらいまで放置することがよくあるのですが、
これは子供の頃の日曜日の朝と同じ感覚を味わっているのかなーと感じます。
(朝起きられずに昼近くまで寝ていたので、あまりにお腹が空いて気持ち悪くなった)
料理して食べた後は、すっかり内向的な気持ちはなくなります。
料理をすることや、食べながら映画を観たりするので自意識が活動してる時間が長いからだと思います。
でも、近所に散歩などに行く方法だと、いろんなことが頭に浮かんでしまい、あまり効果がありません。
近所の桜を眺めたりすると、そのときは「きれいだなー」とうれしくなるのですが、
全てがわざとらしく感じてしまうのです。
「わざとらしく桜を見てる」とか「大してそう思ってないのにきれいーなんて思ってる」とか・・・。
純粋にぱっと「あ、きれい!」と思ったときは多分「素」なんだと思うんです。
そこに「自分」が出てくると、否定的なことばかりを考え付いてしまいます。
この否定的な自分は、自己嫌悪がひどかったときにまず自分の感情を疑うことを始めて見つけたものです。
その結果、自己嫌悪(というか対外的なものに無関心になり内向化する)のからくりがわかったのですが、
それを利用して、というかもともとが理屈っぽいのでなのかもしれませんが、
自分の思うことの多くを否定してしまうようになりました。
泣きながら怒ってる自分を発見したのも、否定的な自分があればこそだとは思うのですが、
「素」の部分で感じたことまで否定するので困っています。
恐らくぼんやりと歩くだけではダメで、やはり強制的に身体を動かしたりと、
意識が身体的な疲労感とかに行かないとダメみたいですね。
その点ではやはり「縄跳び50回」は理に叶っています。

でも、こういう理屈が分かると、すぐに強迫がこれを取り込んでしまいます。
「縄跳びするぞ!」と意気込んだ瞬間、「なんでそんなことするか知ってるよw」と、
影でほくそえんでるのが見えます。
で、それが不愉快で余計にやりたくなくなってしまいます。
思う壺ですね・・・。

結局、私はやはりノスタルジーを引きずったまま生きていたいのかもしれません。
「生きているのがいやになる」と思う不快な快感が捨てられないのかな?と。
そう思うと、否定的なことを考えないよう病院に通って薬を飲むのを嫌悪するも、
思う壺なのかもしれません。

今回はCWからの連絡が来て大きく気持ちが動揺しましたが、何もないときにはわりと平和に生きています。
もちろんいつCWから連絡がくるかは分からないので、そういうことを思いついた瞬間、
動揺しますが、忘れていることも多いです。

私は非常に道徳に厳しいのですが、道徳を踏みにじるような場面を見ても、それが個人ならしっかり腹が立つのを自覚できます。
今回の相談で、象徴化されているから国や企業といった個人的には手が出せないものに、
こういった感情を呼び起こされるんだ、とわかりました。

kagewariさんの生活保護の運用に対する考えは、とても面白かったです。
CWが最近は鬱だけでなく人格障害系の受給者も増えてきたと言ってました。
本人に辛い症状(眠れないとか)がない限り、障害は治らないと医者が言うのだから、
医者に行くこともできないし、もう少し世の中が変わるといいのにと思います。
外に出られなくてもできる仕事(一昔前の内職ではなく、データ入力とかPCを使う系統)も、
余っているようなら紹介してもらえるようになるといいなと思います。

多分↑のことをCWに言えばいいんでしょうね。
(かいつまんで言うと「内職ならしますので紹介してください」)
CWの名前を忘れたのも、不安を大きくしている要因の一つかもしれません。
あるいは、不安を大きくしたいためにわざと忘れたのかも。
なんか、細かいことがいちいち気になるので、実行に移せません。
でも、ここにいろいろ書かせてもらい、少し対策が見えてきたように思います。

ノスタルジーも悪いことばかりじゃないし、セピア色の思い出みたいな部分もあります。
「生きるのがいやになる」と時々感じながらボチボチやってみます。
(縄跳びはしませんが、腹筋などの筋トレは取り入れてみます)

935 Re:否定が多くなりがちです kagewari 2008/04/08 18:50
>いろんなことが頭に浮かんでしまい、あまり効果がありません。

ここは一段次のステップに移行しているためです、
外出は恒常的ストレスの無条件一部開放を促しますが、対人恐怖に見られるように外出そのものが”現実を提示”する形で不安のきっかけとなることもあります。
「現実をリアルに感じられるか」
この段階で、とにもかくにも恒常的ストレスが蓄積する部分とは別次元となります、

一瞬”素”で感じるとなんともないのに。

こういう事なんですよ

「あれはいい時計だよ、ムーブメントの自動巻きの設計が又素晴らしい」
「そこで君はどうするの、その時計買うワケ?」
「おっ、うーんどうかなぁ〜・・・」
ここから”考える”わけです。
一体何を思考しているのかと言えば、
・身の程知らずの買い物か
・そもそも今時計を買う必要あるのか
・これだけのものを買おうってんだから相当の贅沢だ
・この時計がいかに素晴らしいか、僕の見立ては確かだ
・よく考えればもっとも長い時間身に付けるもので猛烈な減価償却だ
・さて、ここで諦めてcasioのGショックを買ったら?
・そもそもえーっと今クレジットの枠はどんだけ
・この購買意欲は強迫心理か?
・まてまて発端はお気に入りの時計が壊れた事に始まるだし、、

弁証法やらあらゆる秘術や屁理屈を駆使し、自分の経験を総動員して”自分なり結論”をだす。
カウンターと反動形成
これある種科学でああったり物理であったり経営学であっあり哲学でもある。

何をしているのか?

美しい花があったとして、
それを『絵に描こうと思った時』の”画家の苦闘”
この行為こそ「現実を掴む過程」です、
現実を”自分の物”にする過程です、
「自分の物になる=自己責任=当事者意識」これ三位一体みたいな代物で、

その結論に「自意識マターの判断の名において、この結論を僕の現実であるとここに宣言する」に責任を負う=それが当事者自分において証明されたって事ですよ。

その時「自信満々か?」「迷いは無いのか?」
当然自信満々である必要ありませんし、迷いを残していても構わないのです。
自意識マターにおける思考の結果であればいい。

これを『パスカルの賭け』といいます、
『賭けと夢』

乱暴に要約して「人生は賭けである」と言う人もいますが、
それはそういう意味なんですよ、
「それを保証してくれ(エディプスの人)」という思考そのものが強迫的介入なんですよ、
その保証人は克己として立つ自分自身(自己責任)なんですからね。


>ノスタルジーも悪いことばかりじゃないし、セピア色の思い出みたいな部分もあります。
>「生きるのがいやになる」と時々感じながらボチボチやってみます。

そのとおりです、
無意識に現象として起きてしまい、自覚の無い”ノスタルジー依存”がやっかいなのであって、
自意識マターとしての「黄金のノスタルジー」はあっていい。
「そういえば、あんなことや、こんなことが”あった”んだな」と、回顧する思い出が”現実”である時、しばらくそこで休憩するのも人の営みですから。
それが黄金であるのは、そこに当事者として介在する自分の過去がリアルであるからで、

意外とそんな時に「あっ」とか、
全然関係無いアイデアを思いついたりするものですよ。
937 なるほど! ナポリ 2008/04/09 09:54
> 「それを保証してくれ(エディプスの人)」という思考そのものが強迫的介入なんですよ、
> その保証人は克己として立つ自分自身(自己責任)なんですからね。

自意識で思いついた思考を保証してくれ!という欲求があったんですね。
自己責任は取りなくない、賭けをして損をしたくない、という気持ちがあったと。
いろいろと気ままに思うことはできても、裏付けがないと選択できないという構造は、
まさに、道徳の賜物であるとも言えますね。
「絶対=道徳」に近い基準があるからこそ、その選択が道徳的にどうなのかということに固執する。
本人の意識には選択の決定が道徳の支配下にあるとはみじんも感じてないのですが、
恐らく背景には絡んでいるのかなーと思いました。

さきほど担当のCW宛に手紙を書き、散歩がてら投函してきました。
CWの言う「このままの状態」が変わったわけではないですが、少なくとも行動を起こしたことで、
気持はかなり楽になりました。
恐らく読んだCWからまた何らかの反応があると思いますが、それはまたその時に考えようと思います。

医療機関ではありませんが、こういった掲示板を利用して精神的な悩みを解決しようとする行為は立派に「治療行為」だと思います。
医者に通って薬を出してもらうだけが、精神的な悩みの解決方法ではないと思います。
そもそも医者に通える状態ですらないのですから、「働くか医者に行くか」という二択を押し付けること自体おかしいような気がします。

共同幻想が壊れつつある現在、これまでの常識では追いつかない状態に世の中がなっているのに、相変わらず基準は一昔前の常識を押し付ける。
でも多くの人がいろんな問題を抱えながら薬を飲みつつ会社に通うという現状を見ると、しかたないのかな?とも思います。
ノスタルジーで過去を美しいものと思う自分は、できれば昔の社会のままであって欲しいと思います。
そこからはみ出る人間は少ないほど幸せなんじゃないのかと。
まあ、もう取り返しはつかないのでしょうが。

これまでの相談者の過去ログを読み、自分では分かっていたつもりでしたが、今回の返信でより理解が深まりました。
「分かってること自体を疑わせ、保証を求めている」と。
これからは「くじびきでもするか?」と自分に問うようにします。
ありがとうございました。