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「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。



486 妹の治療への関わりかたについて相談 TG Mail address 2005/12/31 17:26
下記の「泣く」という相談、わたしもそうです。父親と母親の前で何を主張するにも泣いてきました。そしてその度に親(両方)から馬鹿にされてきました。「体裁」や「常識」や「ルール」を重んじる(といえば聞こえがよいのでしょうが)家庭でそのルールは父親が作ってきました。父親の作ったルールに従わなければ肉体的・精神的に虐待を受けてきました。当然、それを虐待と呼ぶようになったのは10代後半になってからです。家では「教育」という言葉が用いられました。親に何か大切な話(進路や運転免許をとりたいなど、または友達の家に泊まりたいなど)を持ち出すとき、ルールに従がわなければ「おまえには俺に話をする資格などない!」と怒鳴られ一切耳をかしてくれませんでした。ルールというのはきちんと親の前に正座するなどです。命じられた家事を少しでも怠ったり上手にできなければすぐ罰の対象になりました。それは、わたしを口で馬鹿にするなどです。母親はわたしを「がさつな女」と呼びました。ちなみに母親は父親の妹も同じくがさつと呼びました。わたしたち姉妹の前で母はよく父の家族の悪口をいいました。

なのでわたしがなぜ人前で大切な話をするとき泣くのかというメカニズムはわかる気がします。

でも今回相談したのはこのこのではありません。実は3歳下の妹のことです。

わたしの一番古い思い出でもあり一番最悪な思い出は3歳のころのことです。父親が母親を蹴り飛ばし、鼻血を出している母がわたしにタオルを持ってくるよう呼びかけているシーンです。父は自分のいうことをきかない対象を破壊することで怒りを静める人です。被害にあったのはわたしと母親でした。母親はわたし曰く「無教育で無知な専業主婦」です。わたしの無教養嫌い、専業主婦嫌いは母に対する気持ちからきています。妹は非常に頭がよく、親からの体罰を逃れて生きてきました。有名校にはいり“なんの問題もなく”生きてきたように思われる妹に変化が出てきたのは数年前です。大学院に進んだときからおかしくなってきました。現在自分は海外に住んでいますが、日本に一時休暇帰国したとき偶然にも妹のカウンセラーからはじめて電話をもらい、妹が過呼吸症にかかったときいたとき、驚くよりも「・・・やっぱり」という気持ちが先立ちました。まるで構えていたかのように。自分だけ酷い思いをして、妹の精神が健康でいるわけがない、という仮定にたいしてです。

むしろ自分は感情を押さえずぶちまけてきました。そのため余計親から酷い目に合わされてきました。親が悪いということは15歳の時に自覚しました。それいらいアダルトチルドレンであることは自覚し続けています。にも関わらず、今でも何度も自分は単に被害妄想を持っているだけではないかとも思い、自信をなくします。心理学も勉強しました。なのでそういう被害妄想も異常ではないこともわかっているつもりです。

妹は現在精神科に通っています。抗ウツ剤も何年か飲み続けています。自傷もしてきました。洗剤を一本丸ごと飲んでもいます。妹はON OFFの激しい人で、Binary Codeで生きているんではないかというくらい、ONの時はテンポが以上に早く早口でしゃべりを止めない、またOFFのときは自分でベットから起き上がることすらできない状態です。

前置きが長くなりましたが、必要な情報と思いましたので上記をかきました。ここからが本題です。
相談は、そんな妹の治療に自分がどのように関わればよいのか現在すごく悩んでいます。
わたしの予想ですが、うちの妹の症状は彼女自身が抑圧してしまった(また抑圧された)感情によるものではないかということです。妹は両親が大好きですから、父が母やわたしに加えた虐待、また母がわたしに加えた精神的虐待(妹にも加えてないこともないですが、そのせいで虚食・過食を妹は経験してます)のことを、先生に一切話していないというのがわたしの予想です。

なので妹に言いました、先生にちょっとお話がある、と。表面をつくろう「良い子」(スーパーヒーロー的)の妹なので、口ではいつでも調子のよいことを言います。家族であれば誰でも先生とお話ができるよ!などど。当方、海外に住んでおり妹は日本に住んでいるため会話はメイルなのですが、そう調子のようことを妹は言い続けても、いざ「わかった、じゃ先生の電話番号と名前をくれる?」というと返事がまったくこなくなります。すでに何回かPUSHしましたが駄目です。


これは本人が拒否していると受け取ってよいのでしょうか?その場合、無理におなさい方がよいのでしょうか?わたしとしてはわたしからの話(本当の話)が治療に役にたつと思い、先生と話がしたいのですが、わたしもアダルトチルドレンですから、もしかして治療のためといいつつ、実は自分の親に対する不満を妹の精神科の先生にぶちまけたいだけじゃないのか、、、などとも思ってしまい、どうしたら良いのかわかりません。

妹は裏ではわたしが何を先生に話すのか気づいていると思います。妹と親のことで話をしたことはありません。わたしの家庭は非常に秘密主義の強い家庭で、大切なことは何も話してきませんでした。また、わたしの大切なことは話そうとする度、または勇気をもって話をするたび親の前にすべてぼろぼろに崩れ去っていきました。
妹は学歴では自己実現をしました。がんばりにがんばりぬく人です。自分の病気も自分なりに分析して精神科の先生から誉められているようですが、親の虐待のことは一切話をしていないと思います。

勿論、自覚のない患者に精神分析のようなことは危険であることは承知しています。なので自分のやろうとしている行為が妹にとって危ないことである可能性も考えています。その一方で、もしかして治療に役立つかもという思いも脱げきれません。

妹自身は「罰」を逃れてきましたが、例えば狭いアパートの一角で、わたしと父親が進路のことで毎日のようにもめ、何かわたしの態度が気に食わなければ父はわたしの顔面を畳にぶつけたり、その時のわたしの悲鳴や大声(わたしはわざと大声で抗議してきました)を妹は自室できいてきたはずです、多分感情を一生懸命殺しながら。
父は母の大切にしているコレクション(ヨーロッパのお皿)をわたしに投げつけている時、母の悲鳴、わたしの悲鳴と父のどなり、そんなものの犠牲になったのは、実は妹ではないかとわたしは予想しています。ちなみに父のことばかり書きましたが、わたしがうらんでいるのはむしろ今は母親です。父の暴力も結局のところ母に従わないわたしを見て「ムカツイタ」から行っただけだろうと。母は平気で馬鹿みたいなこといったり、また浅はかな話にこっちが突っ込むと、「お母さんは何も知らないのよ」とすぐ開き直ります。

自分は悲鳴をあげ、堂々と親を責めで10代、20代前半を過ごして20代前半でやっと親元(日本)を脱出しました。10代後半は自殺も考えましたし、親元で毎日のように苦しみを日記に書き綴ってきました。(その日記を「ぶち壊すからもってこい!」と父に脅され全部自分で処分しましたが)
海外に就職し、経済的に独立し、そのおかげで親を殺さず済んだと思っています。それ以来は物理的に離れたせいか、普通の親子のように電話で会話もできるようになり、お互いを訪問し合ったり、プレゼントを送りあうまでになりました。それでも一度もめた時、親にはっきり今までの過去のことを話し合いたいと電話でいいましたが父親から、「おまえが何を言っているのかさっぱりわからない」とRejectされました。親に自覚はまったくありません。父は自営業をしており社会的な常識や知識を持っており理論的ではあります。母はまったく駄目です。父もそんな母のいうことは全部馬鹿にします。(馬鹿にされることを平気で本気で言い続けるのが母なのです。例えば人種差別的発言など)

自覚があるのは、この家庭でわたしだけです。そのことで、自分の記憶が間違っているのかなど責めることがありますが、本などで親の子に対する虐待説を読むたび、「そうそう、これだ。うちの親もまったく同じことをしてきた!」と納得します。

長くなりました。
妹の治療への関わりかたについて、アドバイスいただければと思います。

487 Re:妹の治療への関わりかたについて相談 TG Mail address 2005/12/31 18:38
現在の状況について少し書き足します。

妹は結婚しているのですが旦那が忙しいときなど母が遠くから新幹線でやってきて妹の家事や面倒をみています。本人も自傷は自殺じゃないから、といっておりますが自傷で気をつけなければいけないのは、間違って行き過ぎないことです。(致死量を超えない)そのため旦那がいない時など母が泊まったりしています。


妹が「気晴らしに」といって旦那と一緒にわたしの所に尋ねてもきました。わたしと話をすることは気晴らしにもなるようです。メイルでもキャリアなどの話をしたりします。旦那も非常に協力的で結婚前から見せていた現在の症状が見せるたび近くにいてCareをしていました。

以上、少しでも参考になれば。。。
488 Re:妹の治療への関わりかたについて相談 kage 2005/12/31 22:07
二つの見方をもってみましょう。

ひとつは、特定の環境を見るための「両親の世界」です。
もうひとつは「ある家族を冷静に見る」という第三者の目です、
この両者に違いがあるのは、相対的な関係で個別に説明しても大きな違いはありませんからちょっとわかりにくいと思います、
ですからこの両者がどんなものかは全体を読んでいただいてから印象として受け取ってください。

『父は自営業をしており社会的な常識や知識を持っており理論的ではあります。母はまったく駄目です。父もそんな母のいうことは全部馬鹿にします。』
全てはここから始まっているといえます。
夫婦の相性として、元々無理があります、
そしてここで登場する「父親像」ですが、
「社会的な常識や知識を持っており理論的」
「自分のいうことをきかない対象を破壊することで怒りを静める人です」

既に矛盾しています。
上記の合理性は『使い分け』によって担保されています。
「社会的であったり理論的なのは知識のレベルで、実際の運用は暴力的である」シーンが違うので両者は合理的に両立するように見えますが、この「使い分け」こそ抑圧のためのパラドックスです、
本来「話は一見理論的で常識のある人間に見えるが、その実暴力的で粗暴なのが本性で、彼の常識論なるものはそれ自体一種の強迫でしかなく何ら彼自身を表すものではない。結論、彼は無教養で神経質な男なのだと思う」となってなければならないからです。
後者の解釈が何を意味するのかと言えば、反動としての母親の解釈「彼女は、無教養のくせに父の家族の悪口を言った」の内容自体が変容するからです。
つまり彼女の批判性には一定の根拠が成立(父親への無条件の肯定)します、
何故なら「父親こそ粗暴で無教養な男だ」という前提から考えれば、母親が受けた暴力も「母親の話の合理性に対して、その実神経質なだけで教養や理論的な部分は口ばかりの父親は、持ち前の暴力でしか対抗できなかった(自分の常識的な部分や理論的な部分は表面だけの話で、彼自身の自我にとっては抑圧のための“お飾り”に過ぎない事がそれを証明します)」という話に変り、結論として

「わたしの無教養嫌い、専業主婦嫌い」の根拠は成立しないのです。

この「わたしの無教養嫌い、専業主婦嫌い」とは、父親の常識的理論的人格に対する肯定であり、「親元で毎日のように苦しみを日記に書き綴ってきました」の根拠は『話せばわかる人だ=理論的な側面への肯定』でなければ辻褄が合いません。
つまりTGさんの無意識には非常に強く「父親の強迫構造を擁護(彼が常識的で理論的な教養ある人間)」が隠れていて、妹さんの高学歴志向も同じ流れにのっかっていると見るべきでしょう。

「両親の世界」で見るなら、近代の日本では「理屈っぽい」事自体が卑屈であるなどの印象があり、保守思想の本質的な部分に関わるのですが「素で表現され本人にはそれを何ら説明できないことこそ本質的な体現である」とする面があり、当時から「反動としての(結果左翼がそうである事も歴史的に証明されました)理屈っぽさは、言論のための言論に過ぎず聞くに値しない」世界がありました。
わかりやすく言えば「口の達者な奴=軽蔑の対象」であった時代があったという事です。

何かを無から実現させるための新しいアイデアや、発端は反動だとしても実効性あるものにするために格闘した後に理論化されたアイデアは「新規なので常識論に見えない」のです。
わかりますか?
きっちりと裏付けのあるアイデアは、むしろ常識から見れば異質であり、口達者には見えないのです。
「それは又見たことも聞いた事もない話だね」な時、保守的アイデアすら反発を起こす事は無い=つまり個性です、
個人の合理的アイデアです、
それが単に反動的であるときこそ『常識の衣』を纏います。

「両親の世界」から見ると、そこにあった夫婦の関係とは、口ばかりで単に神経質で粗暴な男と、口下手だが教養のある女との「かみ合わない争い」だったと見るべきでしょう。
(現在妹さんを気遣って妹さんの家庭の面倒まで見ている母親のイメージも、この前提から見るほうが明解になります。そして「母の大切にしているコレクション(ヨーロッパのお皿)」この部分もです)
■ひとつ話をデ・コードしてみましょう
父の暴力も結局のところ母に従わないわたしを見て自分自身の常識の部分が刺激されるため、もっぱら父の自己防衛で行われていて「ムカツイタ」から行っただけだろうと。母は実際言葉で“それ”を話す事は苦手で、一見無教養に見えますから(高学歴の現代社会ではそれを理路整然と話せない事はむしろ恥ずかしいという常識がまかりとおっていますから)恥隠しで平気で馬鹿みたいなこといったり、また浅はかな話をします。こっちが突っ込むと、当然母の話は恥隠しの付け焼刃なので「お母さんは何も知らないのよ」とすぐ開き直ります(そんな話最初から言わなきゃいいのに、、)。
そんな風に本来常識的な母親はもっと堂々としていればいいのに、自分には教養が無いといらぬ不安を持つものだから、話がよけいややこやしくなるのです。実際私は父親が常識的論理的人物だと思っていましたから、家庭内の合意として「無教養な女=母親」の言いつけや手伝い等、無意識にバカらしくてあまりやる気にならなかった(父親が喜ぶとも思えず)ものですから、そんな争いは絶えるとこがありませんでした。
むしろ「お母さん本当はこういう事が言いたいのでしょ」と私が助け舟を出せば良かったのかも知れませんね。でもそんな事年端もいかぬ子供にわかる筈も無く、最初から無理な相談です。
考えてみれば、全ては「閉鎖的な家庭」が原因なのでしょう。
家庭の閉鎖性は、父親の仮面を暴かないように擁護する要塞の役目を持っていたのだと痛感します、誰かよその大人が介入していれば交通整理じゃないですが「おいおい、それはおかしいだろ」と(誰が誰をという事も無く)たしなめてくれていたかも知れません。それを傍から見ていれば子供の感じる印象も違ったでしょう。

私は、そんな要塞で大人になりました。


家族の関係はどうでしょうか?
第三者の目で俯瞰から見てみましょう
TGさんの言葉を借りるなら、妹さんは「両親の虐待を告発していない事が抑圧のベースになっている」となります。
※実際カウンセラーの能力を確認できないので、無責任な事は言えないのですが、現在日本の医療におけるカウンセリングで、両親の行動と自我の関係を(経験的な補足はありますが)理論的に結びつけ治療に反映させる力はありません。精神分析的な解釈自体に懐疑的であるからです、その解釈はカウンセラー個人のパーソナリティーに負う部分が大きく、果たしてカウンセラーへの報告にどれだけ意味があるのかは、残念ですが「正直疑問」と言わざるおえません。
これは私からの現代医療に対する批判ではなく、医療というものは社会的サービスとしての法的存在ですから、それを超えるリスクは法的に明文可能な範囲に限られるため、実際学派が割れていたりむしろ人文系に現在属している精神分析を診療に取り込むことは公には不可能であり、「精神分析は公的診療の部分を越えていて、個人の自己決定の元で選択されるもので、公的サービスではない(歯医者の治療における「保険の効かない領域」)」のです。
結果として「精神分析的アプローチの自己決定としての選択」は、個人の自立という文化が背景に無い限り社会的に仕事として成立しないため、その内容を医療の現場に求める事は最初から難しい話で、、
一見矛盾するように思えるかも知れませんが、それが現代メンタル医療の現状で「患者から申し出のある症状の緩和」これに特化しているのであり、根本的に自我自体を取り扱う事はほとんどありません。

ですから告発自体には意味はありません。
大事なのは「自分で認知する」事です、
告発とは、第三者が「その人物の認知を確認」する現象であり、当事者にとっては事後的なものに過ぎません(精神分析の過程でそれが大事であるのは、最初に話す相手が構造的に「分析者に対して」であるためです)。
前述注釈にある通り、「カウンセラーに必要な情報を提供する」事に実効性が乏しいのですから、
最も大事な事は
「妹さんがTGさんに、それを話す」
この一点に限られると言っても過言ではありません。
(現在妹さんに、それを話す対象者は他にはいないのですから)


「何故私に話さないのか?」
或いは
「私にさえ話せないほど(自分自身に積極的根拠すらない)に、“それ”は深く沈んでいるのだろうか?」

妹さんの話を読んで感じた事ですが(あくまで伝聞なので私の話は推測に過ぎないことをご理解ください)、
コンプレックスの対象は父親です、
実際に(ご自身の話ですと)「大暴れした私」に比べて、妹さんの立場から見るなら「私は構ってもらっていない」からです。
TGさんにも心理学的な知識がおありのようですから、ストレートに話ますが、
「偽り(教養的である側面)が破綻している父親こそ彼の男としての本性」と自我は定義します。
「父親の男としての本性」とは何でしょう?

「何故私を殴らないのか?=私はお母さんやお姉ちゃんのように愛されていない」という不安です。

『男が興奮して大声を出している。』
いかにも性的アピールすれすれの言動です、
本質的に教養ある人(性的欲動を合理的に自我の表情に取り込んだ人)なら「静かに話す時こそ恐ろしい(=本気である)」ぐらいな世界を持つものです。
「本音と本音で、腹を割って話をした(深い関わりを持った)」
この会話には緊張感があり恐怖感すらあるでしょう(彼の静かな会話には、本質的な教養に裏打ちされた強烈な破壊力があるからです)。
ところが「常識的であったり理論的な話がいかにも口ばっかり」な印象にある時、その人の自我にどうやって触れればいいのでしょう?
その会話に「恐ろしい」ほどの緊張感のあるシーンは?

彼の場合、それは暴力でしょう。
ここで彼の人格がよくわかります、自分自身の仮面に過ぎない常識や理論的な側面が『(脅迫的反動に過ぎず)本物では無い』自覚があるんですから、そんな話(常識的且つ理論的話)は「一番恐ろしい(自分自身の仮面が暴かれる恐怖)」ので、自分自身を安全圏におくために「本質的に教養ある人と同じようになるためには、恐怖感によってそれを補完すれば良い=短絡的には暴力的であればいい」となります。
大事な事ですが、暴力的な彼も「関心が無ければ、無視するだけで暴力を振るわない」のであって、この幼児の発想は一定の根拠があるのです。
「家族に暴力を振るう男」⇒「彼に暴力を振るわれている」=「彼の家族だ」=「父親と子供の濃密な関係」

ここでTGさんにも、妹さんにも「父親の虚像」がコンプレックスになっている事がわかるでしょうか?

父親にとって、自分の暴力的な側面は彼自身最も恥ずべき行為であり、同時に常識的論理的な人間だと思われる事は彼を強迫しストレスになるだけです。どちらも現在の父親には受け入れがたい行為で、
彼が望むとするなら
「あなたも大変なんだね」という理解でしょう。


■わたしの一番古い思い出でもあり一番最悪な思い出は3歳のころのこと
「歪な形に見えるが、これが本当に父親に愛されているという事なのか?」
3歳の人間にもそのエロチックとも言える「次元の違い」は確認できます。当然幼児が性的な関係を歓迎しないように、当時の記憶は不快な筈です。
「母親は特別か」

そもそもの始まりは
「この男女の結婚は失敗じゃないのか?」という疑問がない限り解釈不可能です(夫婦関係継続のために反省する場合でも、その着眼は必要になりますから)。しかし、んなことを幼児に考えられる筈ありませんから、それを無理やり肯定するロジックを受け入れなければなりません。

「社会的な常識や知識を持っており理論的」
「自分のいうことをきかない対象を破壊することで怒りを静める人です」
このパラドックスです。




話を妹さんに戻してみましょう。
彼女が恒常的な不安ストレスにさられていることは間違いありません。
「偽りの仮面に過ぎない、『望まれない高学歴』なるものに傾倒した閉塞感」は、まるでその要塞の欺瞞を飾る装飾程度の意味しかなく、

自分のレーゾンテートルは、単なる“お飾り”か?
(無意識は、父親の虚像に気がついていいますが、無意識の領域なので「言葉としてそのまま認知」する事はありません。感じるのは「不安感・不快感」というストレス信号だけです)

実存感の欠如は輪を掛けます。
「愛されたお姉ちゃんは海外で暮らしている」
私は所詮出来そこないに過ぎない。
彼女の発想は「父親の虚像」の延長上にあり「そのお姉ちゃんは『普通の親子のように電話で会話もできるようになり、お互いを訪問し合ったり、プレゼントを送りあうまでになりました』両親に愛されている」

つまり妹さんの自我から見るなら、TGさんは既に「向こう岸の人」です。
事実とは違いますが、妹さんの自我から見るならそうなるのです。
「あの3人」として、
●妹自身は「罰」を逃れてきましたが
正反対です、「この家族の虚栄のために自分は犠牲になってきた」ぐらいの体感でしょう。

これが自傷の動機です、
そして「海外へ」という部分は、「私を置いて逃げた」ようにも感じているかも知れません。
妹さんが先生に両親の虐待の部分を話していない根拠も説明がつきます。
彼女のテーマは「私は所詮出来そこないに過ぎない」であり、虐待がらみの暴力的な側面は「あの3人の話」という認知であっても不思議ではありません。


妹さんとの関わりを再構築するためには「秘密主義の家族」に風穴を開けるのが一番です。
TGさんですよ
既に彼方は他人です。「海外に就職し、経済的に独立」
その家庭から独立したのですから、


昔の言葉になりますが「同じかまどの飯を食った戦友」として、第三者の立場から「あなたはどうしているの?」と、関わるべきでしょう。
そして、「その夫婦」との関係も、いかにも親子関係である必然はどこにもないのです。

『普通の親子のように電話で会話もできるようになり、お互いを訪問し合ったり、プレゼントを送りあうまでになりました』

ここ矛盾しています。
「先生に告発する」ほどなのにです。
「あの家庭は失敗だった」である筈で、それを「普通の親子のように、、」何の意味があるのでしょう?
私は、親子関係の対立を奨励しているのではありません。
「あなたは親として失格だ」としても「人間失格」ではありません。
個人と個人としての関係を(彼の親友が「それはお前が悪いと思うよ」と忠告しても個人と個人の関係は破綻するどころか、その深さが証明されるでしょう)再構築すれば良いのです。

つまり、
「海外に就職し、経済的に独立」した私は、ひとりの大人として彼らと関係は続いている。なんせ歪な家庭だったから、彼らとの関係は「普通の親子」とはおおよそ呼べないものだけれども、今は本音で話ができている。
彼との関係、彼女との関係、どうや彼らは今でも夫婦のようだが、私にはそれもどうかと思う部分もある。「若いカップル」みたいなものか、
各個人とは本音で話しが出来ているので、それぞれ大変なのだと思うが、自分で考えても「あの二人に育てられる」という環境は、第三者的に見ればおおよそ子供が育つべき環境ではない。しかし時代的な背景を見れば、そんな夫婦は特別ではなく、自分の人生は「家庭後」自分で掴むしかない。

心配なのは妹だ、



「彼女だけが、まだあの時代に生きている」


カウンセラーに話を通す事ではありませんよ。
妹さんと「姉妹」ではなく、「お互いの尊厳を認めあう人間として」
あの時代が何であったのか語らい合うべきです。
事実をひろい集めていかない限り、妹さんだけがその記憶の世界に取り残されてしまいます。
彼女の自傷は、そんなノスタルジーが引き越しています。
彼女の夫が見込みのある奴なら、先ず彼と話をするべきでしょう。
見込みとは、妹さんの彼の見込み違い(後述参照)の意味です。


心配な点がひとつあります。
葛藤のある人の恋愛構造は、無意識にその抑圧構造を保守する着眼点を恋愛性とし認知します。ですから、彼のパーソナリティーは「あの時代との関連性に都合のいい登場人物」として無意識に選択されている確立が高く、彼に本質的解決を期待する事は彼自身の自我を危険にさらす可能性が高いです。
ですから、彼がどんな人物であるのか、十分に考えた上で彼と話すべきです。彼には難しいと思ったなら、必要以上に彼を関与させないようにするべきかも知れません(場合にもよりますが、彼の関与が構造をエスカレートさせる可能性もあります)。
妹さんの彼への恋愛性が彼の一部に過ぎず、彼という人間が「妹の感じている印象と違う」と思うなら、頼りになる存在になるでしょう。


厳しい話になってしまいましたが、「その時代の当事者として私は選択する」という自己決定がTGさんにあるなら、妹さんと話すというアプローチしかありません。
それは同時に「もしかして治療のためといいつつ、実は自分の親に対する不満を妹の精神科の先生にぶちまけたいだけじゃないのか、、、」を解決するでしょう。
489 Re:妹の治療への関わりかたについて相談 TG Mail address 2006/01/03 12:19
お正月そうそう早速お返事をいただきましてありがとうございます。
指摘いただいた部分、とくに自分の母親に対する憎悪というのは父の自分の妻(わたしの母)に対する感情の移入だったという点、特に図星だと思っています。
日本にいた頃は母よりむしろ父を責めていました。父が圧倒的な破壊力を持っていたからです。
海外にきて仕事をするようになり社会的にも成功しはじめた頃から、父の肩を持つようになったのかもしれません。それは、指摘にある通り、父の虚栄に自分が翻弄されているのでしょう。ここの部分は自分でも気づかなかった部分です。つまり父はファルスなんですね。

ただし母が常識のある人であったかということについて再度詳しくお伺いします。まずわたしから見ると、母が常識であったとはおもえません。母は、「自分は常識人」「おまえ(わたしのこと)は非常識な女」と言っていました。わたしは勿論その逆を信じています。おっしゃられている「本来の母親の常識的なところ」というのは、夫(わたしの父)の暴力という権力に出会う前の母の「本来の常識」のことを言っているのですか?つまり、母は元々は普通の人であるが、間違った結婚に自分を合わせようとしたために、自分もモンスターになってしまったと。。。英語のことわざでこういうのがあります。Be aware in the fighting with the monster that you don't become the one.
意味は、モンスター(怪物)退治には気をつけろ!自分が怪物になってしまう恐れがある。

母のわたし(たち)に対する虐待はむしろ「腹いせ」のようなものばかりでした。
母が父の家族の悪口をいっていたのも指摘されたことで「ああ、そうか」と糸をほぐすようにわかってきました。確かに、父の母(わたしの祖母)にとってわたしの父は「自慢のまな息子」でした。田舎出身で田舎では父の祖母は村の村長さんだったものですから、それをことあるごとに自慢もしているのです。わたしにとっては祖父・祖母は母方も父方も良いおじいちゃん・おばあちゃんの記憶してかありません。ただ、こうして母の記憶として予想としてたどってくと、我慢しがたい環境はあったとおもいます。父の妹(わたしのおば)はわたしが親戚の中でも一番好きなおばさんですが、父のことは恐れているようでもあり、でも絶対的尊敬をもっています。でも「御兄ちゃん(わたしの父)は長男で甘やかされて育った。親戚からも皆からも。ケーキが分けられると、御兄ちゃんの方がおおきかったもん」と言っています。

母からしてみれば自分が夫の暴力を否定することもできない。(わたしからみれば弱い母親)
でもその夫の暴力的なところを無視し、みてみぬ振りをする、しまいにはそんな夫を奉り信仰している夫の家族は、憎い存在なのでしょう。ぼけがかかってきた夫の母親の面倒を母は今とてもよくみています。妹の面倒と姑の面倒です。父の妹もみていることはみていますが母の負担にくらべたら低いです。というのも、父の母が自分の娘に面倒をみられるのを拒むからです。離婚したおば(父の妹)は自分の母(わたしの祖母)のところに身を何年もよせていました、一人娘の一緒に。ところが最近おばは実家をでて娘(わたしのいとこ)と暮らしはじめました。わたしの妹からきいたことですが、「どうもおばあちゃんと喧嘩したらしい。出て行けといわれて、わたしは○○坊(自分の息子、わたしの父)と将来暮らすんだから!」と、おばを追い出したとのことです。

おばのことを考えたことありませんでしたが、もしかして自分の母親(わたしの祖母)とは何か葛藤があるのでしょう。仲良いところしかみたことがありませんから。でも、かといって、うちの父は自分の母の面倒見がよいかといえば、それも表面的な部分だけですね。仲良く話をしているところは記憶がありません。いつも母を使って自分の母親を面倒みてきました。ぼけてからは私の母のところに祖母がしょっちゅう電話をかけてきますが、父が出て話の相手になることはないです。それはいつも
母です。おばがいたとき、おばが「わたしがかわるわ」とわたしの母に言っても、母はそのまま「いや大丈夫」みたいな手しぐさをして、自分がぼけた姑の世話をしていました。日本に一時帰国したときにちらっと目撃しただけなのでよくわかりませんが、印象としては「普通」でした。父が自分の母親の面倒を妻に押し付けているという光景が、わたしにとって普通ということです。

表向き理論的で中身は暴力。これはわたしが15歳でACと自覚していらいずっと父に抱いていた感情であり憎しみでありわたしが父のことを人に話すときはこのように表現していましたが、ここ何年か(日本を離れてから)は別な見方をしていました。そこで再認識させられたわけです。

暴力的な父が悪いのに、それをさしおいてそれに耐えている母を責める気がありません。しかし、しかし、子どもとして、娘として、あの時お母さんが勇気をもってそれに対抗してくれればこんなことにならなかったという恨みはあります。つまり弱い母親に対する、自分を救うところか父に荷担していた母を恨む気持ちです。母もわたしに怒ると「死ね」とか「おまえは病院にいけばなおるが、割れた皿は元に戻らないんだからね」などと言いました。母がわたしを蹴るときはみていて非常に醜いものを感じました。父のような破壊力はなかったのでわたしの身体的に痛めつけることは母はなかったのですが、母がわたしを部屋に追い込むまで蹴り続けるとき、それはわたしを蹴っているというよりなにか(それは父への抗議なのでしょう)を恨み尽くすような勢いでした。ちくしょうー!と言っていましたし、「おまえが(父親の)いうことさえ聞けば、わたしがお父さん(わたしの父)から嫌みいわれたくて済むんだよ!」と。




なので自分自身も分析をうけて今までの過去の整理をしたいと思っていますが、今回は妹のことです、自分の整理をせず妹にどうやって?とも思いますが、妹に話をするというのは自分が恐れていたこと、自分の過去が否定されるのが恐かったんだというところにまでは達しましたが、問題は、妹に過去のを話すのは果たして安全か??ということです。
妹の認識をしらないので、わたしがこんなことを話したら「何いってるの?」っていわれるかもしれません。もちろん、100%同意してくれるかもしれません。それはわかりませんが、「自覚のない患者にいきなり精神分析みたいなことをして(言って)危険はないのか」ということです。妹は過呼吸に悩まされ、鬱になやまされ、突然涙が止まらないというものに悩まされ、しまいには自傷しています。自分では自傷は仕事のストレスを発散させるため仕事場で洗剤を一本飲んだといっていますが、、、ま、仕事がTriggerだとしてもそれが「原因」でないことはわたしにもわかっています。でも妹は分かってないと思います。知らない、気づいてないとおもいます。そんな人にどのように話をもちかけたらよいのか、迷っています。まずわたしが考えているのは、今から話すことはショッキングなことかもしれないから、先に先生によませてもよいし、旦那と一緒に読んでもよい、ということを前置すればよいのかとも思っています。また、自分も妹と話をしてきませんでしたから妹が何を考えているのかわからない、なので自分の話をきいてもらおうと思っています。危険なアプローチでしょうか?なにか具体的にこれは避けた方がよい、などありますか?

(だからその安全性を先に精神科の先生にきくというのもあります。わたしが心配しているのは妹に自殺されることです。妹との対話が必要なことは十分わかりました。でも、どのようにアプローチをすれば安全かということです)

よろしくお願いします。

490 Re:妹の治療への関わりかたについて相談 kage 2006/01/04 10:36
何点か説明します。

まず『母親の常識』への背景説明です、

TGさんの記憶は主観によります(関係他者との腹を割った話による検証が少ないからです)、そして又TGさんには父親との間に未だに葛藤が存在しますから、その印象はデフォルメされ「事実であっても」統合性において問題を残しています。まだ事実関係として十分に整理されていないと考えるべきでしょう。
パラドックスとは、本来関連性のある事柄を断片的に認知してしまうために起こります。「実際に何らかの被害にあった人は自分の被害を起点とする記憶の断面に必然的に意識が向かいますから、関係者の主体になる父親について『父親一族サーガ』のような認知が自然に構成される事は通常ありません。」
つまりドキュメンタリー映画のメッセージのように「結果それは何だったのか?」的アプローチがどうしても後退(実体としての被害認知が意識では上位の認知になるのが自然なので)してしまうのです。

たとえるなら、
ご子息を殺害された家族が、殺人の実行行為者のビヘイビアーを冷静に考える等という事は精神的にも不可能で(裁判の役割は、これを明解に解き明かす事だからです)、動機の面でも“必然性”がありません。
「何故そんなことをしたのか?」
よく聞く話ですが、着眼は俯瞰から見た構造分析ではなく、「誰が何をしたから」的直接的関与の部分になるのが正直なところで、それが自然しょう。
つまり、犯罪被害者が、犯罪心理学の研究員と同じ視点を持つ事自体無理がありますから「当事者の直接的認知には構造的に、デフォルメされた偏向やパラドックスが混在する可能性が高い」と考える方がむしろ自然です。
ですから「人は話す」のです、事実を求めて

「泣き出してしまう話」の室内劇認知(当事者意識の強すぎが、背景事情をデフォルメして認知してしまう)と同じです。
印象や、記憶が(個別の内容は事実でも)結果として全体の背景をデフォルメしてまうのです。
葛藤のある家族が、ほぼ100%近隣社会からも孤立しているのは何故かといえば、信頼置ける「近所の誰さん」という大人が関係すると「それは俺ならこう考える」とか、実際に仲裁に入る事で『相対化』するため(主観の後退)、精神的な葛藤(主観による内向的解決)には至らないのです。

つまり、精神的な葛藤は、被害実体と比例しません。
因果応報では解決する事は無いのです。

「言葉のやりとりだけで自我は葛藤構造を折り込んでしまいます」
貧乏な家庭でマジな暴力が横行しても「何やってんだバカ野朗」と、怒鳴り込んでくる近所のお兄さんがいると、それはそれで「全体像を掴むイメージ(相対化)」を取り込めますから、自我には葛藤が発生しません。
頭が割れて10針縫った人より、言葉のやりとりで強迫された人の方が葛藤構造を持つ可能性が高いという事は驚くどころか、自然なのです。


実際の被害実体や、その内容は精神分析的には「被害実体に比例する重大性認知」ではなく「構造的な矛盾に比例する認知」でなければなりません。
しかし、当事者には「被害実体に比例しない」じゃ、十分に説明されない限り(分析)納得がいきません。
ですよね。
被害当事者であるのなら、自分の被害実際を中心にした認知になります。
結果構造的に「被害認知に比例する当事者意識の合理性が、結果として全体像をデフォルメする非合理性の根拠になる」のであって、精神分析とはこれを補完する『第三者的視点の関与』そのものなのです。


■「母親は常識的だ」の解説です、
前回説明しましたとおり、常識とは「難しい言葉を使う」とか「いかにも合理的なロジックを操る」等の技術的な話と全く関係ありません。
そして、常識的な人物は「精神的に葛藤構造のある人物」にシンパシーを感じる事は構造的に不可能であり(「常識的である」という意味は、本来人間なるものは結論として常識の範囲内に修練されるものであり、度を越すものは悪に過ぎずこれは社会が許しませんから自己認識で修正されるのだから結果として常識に修練されるというアイデア=保守思想です)、これに対する“危機感が無い(常識への信頼)”からこそ常識人足るのです。
つまり常識人としての判断は「自分で病院行きなさい」であって、専門家でもない自分自身が行動を起こす事ではありません。

実際有料相談の場合「両親の結婚のなれそめ」「両親のビヘイビアー」が問診事項に含まれます。プライヴァシーの問題もあり、公開掲示板ではそこまで出来ないのですが、これは重要なのです。
つまり「両親が婚姻関係を継続する根拠」を考えなければならないからです。ここまで伺っていませんから、あくまで推測になるのですが、
「母親は自分の娘を、問題のある一族から守るために離婚して何故守らなかったのか?」

これへの回答は「お母さんは常識人であったから」です。

近代日本では、主婦とは裏方であり、自分の個人的な幸せを考える事はエゴイズムとして軽蔑されます。
子供達が危険であるという認知は、「彼(夫)の人格には問題がある」になりますが、先ほど説明しましたとおり常識ある人にはその危機感を感じる認知がありません(信頼関係の方が大事なので)。
つまり父親から「とても辛いので、心療内科に行こうと思う」という告白がない限り彼女にはそれを認知出来ないのです。
彼女にある選択とは「離婚ではなく、お父さん病院行った方がいいよ」になりますから、彼から何らそのような発言が無ければ、認知できないのです。
現実彼は彼の家族の誰ひとりからも「お前は病院に行った方がいい」と勧められた事実はありません。
※アメリカなら、家族に暴力を振るったという事実だけで、十分「グループセラピーに通ったらどうか」と勧める人物が近隣にいて不思議ではないのです。
しかし彼の言動は、彼の一族から特に問題とされた事実がありません、
そうなると告発者は彼女たったひとりになります。


常識とは、属性に対する正当性認知の事なので、彼女の心理を考えるなら「少々問題のあるこの家庭を、自分の身を捨てでても、如何に保守するのか」となります。
※TGさんの幼児期の言動も、彼女の目からは「問題のある家庭の問題のひとつ」として認知されたと推定されます。

つまり、彼女に対する責任を考える場合、それは「戦後民主主義的意味で、独立した個人の意見は無いのか?」という個人主義的自己責任についてあり、「子供を守る」という社会的常識は当てはまらないのです。
何故なら、保守的常識人にとって子供を守るとは「家庭によって社会的金銭的に子供を守る」事を意味するので、「貧しい片親の子供」という境遇を自ら招いてしまう結論は「自分のエゴ」に見えてしまうのです。
近代であっても「自分で自分の身を助ける」との自主性は生きているのであり、子供は自分で自ら育つもので、常識的認知では「家庭とは、子供が大人になるまでそんな厳しい社会から守る存在」です。自分が主婦であるとの常識ある人なら余計にそう考えるでしょう。


ですから、彼女への批判とは「家庭における母親を離れ、ひとりの女としてその子供の(個人的)母として危険性を考えなかったのか?」であるべきで、
常識的な批判ではなく個人の人間としての彼女の個人的意見(エゴ)に問いかけるものになります。
つまり常識としての母親失格ではなく、個人の人間として“母である女”として「やるべき事をやったのか?」という問いになります。

「家庭を壊し、子供を連れて逃走することが何故出来なかったのか?」という問いです。

これは常識的な人の考える事ではありません。
自立的な考えを持った、個人が自己責任で考える事です。
このような考えは「子供を心配する家庭における母親の心理」ではありません。
何故なら母親と妻は家庭における属性として同義であり、母親らしい配慮とは同時に妻としての配慮を意味します。
つまり結婚の選択で失敗した「自分個人の自己責任(エゴ)」に対しての感覚が無い限り思いつく事も無いでしょう。


非常識な人なら在り得るんです。
「第一自分が我慢ならない、あいつは完全に犯罪者同然だ」
「これでは“自分の”子供が心配だ」
「生活も何も、まずこういう状況自体が許せない。自分がこんな男と結婚してしまった(自分と子供に対して)責任を取るために、子供を連れて逃げてどんな仕事をやってでも生き延びてやる」
(彼女以外にかれにの人格に問題があるという認知を持つ人物はいないのですから)この人は常識的な人物でしょうか?
不思議に思えるでしょう
「そう考える人は、そもそもあの男と結婚しない」

ここから考え始めれば、彼女の心理をもっと深く知ることができるでしょう。
>あの時お母さんが勇気をもってそれに対抗してくれればこんなことにならなかったという恨みはあります
違うんですよ。
「何故この女性はあの男と結婚したのかが不思議だ?」
まずそんな疑問が素朴に浮かばなければ変なんです。

そして

何故今彼女の人生を心配していないのでしょう?
血相変えて「お母さんが心配、離婚するべきよお父さんの一族の面倒まで見て、いったい何処まで人がいいの?それが結果的に娘達の精神状態にどんな影響を与えてしまったのかがわかる?あなたひとりの話じゃないのよ」
>普通の親子のように電話で会話もできるようになり、お互いを訪問し合ったり、プレゼントを送りあうまでになりました

これは大事なのです。
妹さんに話をするにしても、しないにしても、話の事実関係が整理されていなければならないからです。
「自分とその夫婦との関わりの整理なしに、妹さんに何を話しても欺瞞にしか聞こえないでしょう」


■妹さんの衝動について説明しましょう。
彼女の衝動の源泉は「孤立」です、属性(家族)としての存在の意味の無さです
本来「個室」「個人」「自由」「個性」「孤高」これらは個人の利益でありむしろ『快』ですが、家族のノスタルジーに囲まれている自我にはその反対です。属性の対立概念(自立)になるからです。
ノスタルジーが継続してしまう理由は「結論のなさ、納得のいく解決がない」=「過去にならずにわだかまりとして残る(その想いがノルタルジーを引き起こします)」になります。


実体(生)と感覚(無意味)との一致を求めて自傷は行われ
それは自己愛の形になるため、性的衝動性と結びつきその興奮は「快」と脳に認知されてしまうため「繰り返される(依存)」のです。
繰り返す過程になると「自分の意志と関わり無く」です、
しかし自殺衝動は、死のうとしているのではありません。
繰り返し起こる反復性(依存)がそれを証明しています。死んでしまったら繰り返す事はできません。
心配なのは事故の危険性です

精神分析には、自己嫌悪の防衛としての反動的衝動の結果、相談者が強く感情的になる場合があり、何より相談者自身が自らの意志で分析を依頼するところがその暴走を阻止する力を(準備する事自体が自意識の味方につけたことになります)担保します。
しかし、分析者には常にリスクを負わなければなりません、
分析者であってもです。
交渉している当事者が、高層ビルの屋上の柵の外を歩いている事には違いが無いからです。
つまり、幅60センチの道を歩く事は危険ではありません。本人に転ぶ意志が無いのなら、より危険性は無いでしょう。
しかし、それが高層ビルの屋上の柵の外なら「足を滑らせる心配」は常にあります、

本人に死ぬ意志は無いのです、
ストレスの緩和がのノスタルジーに追いつけば阻止できる
黙っていても危険水域に達する可能性はあります。そしてこれを完全に予測する事は不可能なのです、
現実の死が「事故」だからです


■相談が技術的な心配であることはわかります。
お話するとすれば、
技術的だけの回答なら「むしろ効果が無いでしょう」となります。
何故なら、精神分析自体の信憑性を担保する『転移』が起きないからです。
先生が話すならどうでしょう?
精神分析を特別に独学していない限りそういうアドバイスを適格に説明す事は不可能ですし、相談者が望んでいない話を一方的に話してもそれは空回りしてしまいます。
妹さんにもそれは不快で突飛な話でしかないでしょう。
しかし、あなたが妹さんに話す話は精神分析である必然もありません(前回も私はそのつもりで話すべきだと言ったのです)。
TGさんが当事者だからです。
同じ事実関係を共有している人物(他者)なのですから
だとするなら、精神分析的なアプローチの危険性を考える必要はないでしょう。
おそらくそれは精神分析にならないからです。
連想性の認知ではなく、同じ事実関係の共有者の『告白』なのですから。


■だとするなら、技術的ではなく「両親の話が危険すぎるのでは?」
既にこれは技術的な問題から離れます。
同じ環境の体験者が同じ体験について語り合う。
確かに全ての刺激はリスクを伴います。
しかし考えてみてください
一見矛盾する指摘と思うかも知れませんが、妹が危ない状況にあり現在妹から特別に拒絶されていない状況で、何もしないでいられる人がいるでしょうか?危険だから?既に危険だからそう思っているのです。
それは、あなたの本音ではないでしょうか、違いますか?
>あの時お母さんが勇気をもってそれに対抗してくれればこんなことにならなかったという恨みはあります

話が精神分析的であっても、そうでなくても、
「きみに話したいことがある」
それは本音ですか?
それが問われているのです、
それが一番大事な事だと思います。
「わたしが如何に苦しかったのか、あなたの気持ちはよくわかる」と

前回お話しましたが「家族の共同幻想」に介入する当事者としての『他人』の存在は有効です。
話は被りますが「母親が常識的母親として対峙するのではなくひとりの女として対峙する事が求められた」ように、「兄弟姉妹を離れ、かつて姉妹と呼ばれた人物にひとりの人間として関わる」その行動自体が、家族のノスタルジーを解体する行為になります。
精神分析的な関わりを持つと考えるのではなく(実際本質的な精神分析の理解がないと分析自体無理です)、精神分析的である事=「リアル」を伝えれば良いのです。

正直に申しますが、精神分析や心理学的知識のある相談者の防壁は非常に強固です。何故ってその知識の大半は、分析者や精神医療関係者カウンセラーへの移転を防ぐための(自分が上であるとの)自己防衛のために使われます。
精神分析も心理学も「事実への確信」が理解の上で大事であり、方程式があるのではありません(力動論につてい誤解してはいけません)。


ここからは私の個人的意見ですが、
精神分析の過程は「戦い」によく似ています。
常に状況証拠しかない事実(過去)の立証において、完全に矛盾無く再構築したシーンができあがると、相談者の話との相違点に驚くぐらいの差異が生じます。
この差異こそが葛藤構造であったりパラドックスです、
当然抑圧されるべきものは、道徳構造(超自我)を利用し無意識に「一見合目的に抑圧されている」ので、これを認定(自意識に上昇させる)までに「葛藤を無力化し」至らせなければなりません(これにより同時に反動の結果としての強迫構造は消失しますから)が、相談者の自我は(抑圧構造の番人として)全力でこれを阻止しようとします。
戦いが始まったら一歩も引けません、それは再構築した事実関係が嘘であると自分で認めるのと同じです。
その戦いは数年かもしれない十数年かも知れない、分析者の精神状態が危機的状況になる可能性も強く(セラピーの研修では、自分自身の精神状態を守る限界につていも研修が行われます)、一部医療の現場でおきる診療拒否に近い動きは、その限界点から見定められています。

相談者や、患者が「自分自身で違和感を感じ」これは何か?と積極的関与がある時には、その後の経過は早いしリスクも少ないですが、
先ず論点がズレている時
例えばより重大な問題があるのに、質問の内容が瑣末な事実関係に限定される場合、これは本質の抑圧構造を保守するための「ガス抜き的体裁」を目的とします。分析者や医療関係者はここで考えます、
果たして「要求されている事にだけ対処するのか(医療はここで線を引く傾向が強いです)」、或いは本質に切り込むのか?

私は有料相談の場合、常に「次回の分析の継続を望みますか」を確認します。
そして常に「継続が回避される可能性を想定し、何らかの投げかけを最初の回答から担保する分析を想定します」、
これに答えはありません。
一部医療関係者から精神分析は危険であるとの指摘がありますが、これはそんな側面から在り得る事で(確かに学派的には意味不明の専門用語と妙ちくりんな力動論からナンセンスな分析が行われる危険があるのは事実です。ですから分析内容が理解不能な時点で、それは危険であると考えるべきでしょう)、確かに「わかってしまう」危険性は精神分析にあります。
その理解を、今後の相談者の人生に期待するのか?
私はその結論として「自己決定の相談」というカテゴリー、その『枠組み』でそれを担保しています。


私が心配するの事はむしろ
TGさんの話が、妹さんに論駁されてしまう可能性です。
その時TGさんがそれをどう受け止めるのかです、
491 Re:妹の治療への関わりかたについて相談 TG Mail address 2006/01/04 21:17
夕べ妹にはすでにメイルを出しました。自分の話をきいてほしいというスタンスで、まず自分があってきた被害とその時感じたこと、自殺未遂、自傷、葛藤などを書きました。今日貴方からのお返事をいただいて読んでいて、精神分析は無効ということ、当事者として話をするべきという回答があって正直ほっとしています。素人+家族に対して行うのは危険ということで分析的な話は割けるというのは課題で、口調は十分気をつけて「妹に」向けて書きました。


わたしにとっては、彼女が同じ視点をもっていてくれたら安心しますが、妹の視点は全く違うかもしれません。拒否またはこちらの話を覆すような返答がきたら、今度はどうしたらよいか迷いますがまだ反応がかえってきてないのでまずそれを待ちます。

貴方の「常識人」の定義理解しました、Noted。

母がなぜ父と結婚をしたか、それは始めに考えました。母の父親(わたし祖父)も封建的な人でしたから(祖母に肉体的暴力を振るったかは知らない)親から刷り込まれたのかもしれません、「女はだまって夫についていけ」と。(連鎖的)
母の虐待への荷担については自分がいじめっ子側にまわることで自らがいじめられるのを防衛していたのだと思います。

また、なぜ母を「助けない」か。一つは自分の持っている母への葛藤と、もう一つは50代後半にさしかかる母に今「自覚」させたところで母が一人でいきていこうとはしないからです(※下記)。母が今「自覚」した後、予想として彼女はどういう行動にでる可能性があるのでしょう?(これは質問です)
自分の母親(わたしの祖母)が夫(わたしの祖父)に耐え切れなく退職後離婚をしようとしていましたが、結局しませんでした。
母は、「年寄り夫婦の夫が亡くなった後、女はなぜか元気にいきるものなのよ!」と言います。これは彼女の願いと受け取ることもできます。わたしが母に言わないことを決めたのは、過去に散々「裏切られている」のと「言っても無駄だと」思っているからだと思います。また、母が父にそれを“告げ口”して自分が父に酷い目に会うなどそういう心配も含まれています(母による告げ口は今までありましたので)。と、ここまで書いて今更のようであり典型的のようでもありますが、最後の理由として、あの夫婦は仲が良いからです。二人で生活を楽しんでいるからです。それを両親から取り上げることに対するわたしの罪悪感があることも否定しません。また、だから自分の虐待説は自分でも「うそ」に聞こえるのですが、これもある話。

(※わたしは母の「母親・妻」というRole以外を知らないので二人旅行に誘っても「わたしはお父さんがいないと空港へも一人でいけないし、間違った飛行機にのっちゃうかもしれないから行けないわ、誘ってくれてありがとう」といって断られました。間違った飛行機にのるというのは、わざとそれをしようとしても難しいでしょう。母はわざとみえみえの馬鹿な回答をして自分が“行かせてもらえない”ということを訴えようとしているのか?それとも“わたしはあなたと二人になりたくない”というメッセージなのか?−二人になったら父のことでわたしにいろいろ突っ込まれ人生を考え直すのが面倒と思っているのか?それともわたしが受け取った印象通り、自分じゃ一人で何をするのも恐いのか?この回答についてはいろいろ考えさせられましたがいまだ意味不明です)

10針縫った人より言葉による脅迫をうけた人の方が葛藤が強いというのは確かにありますね。わたしも父に肉体的暴力を振るわれたとき、傷が残ってくれれば!と憎憎と願ったものです。そうすれば「外に知らせることができる」と。なにせ近所や知り合いからの両親に対する評判は良かったですから。うらやましがられて育ちもしました。その分余計わたしの葛藤が深まるわけです。

上記にも少し出てきた内容に関する質問をしたいのですが、わたしもそうですが、たぶん他の人でも“虐待”を受けて育った子供たちが両親が虐待したと告発するのをためらうことがよくあります。それは、わたしの場合、「だって楽しいことだっておおいじゃない」というものですが、これに関してはどのように思われますか?


有料相談をやってらっしゃる点を忘れていました。無料掲示板にこれだけの返答ありがとうございます。



492 Re:妹の治療への関わりかたについて相談 kage 2006/01/05 03:53
非常にわかりやすい話ですよ。

私はファーストフードの店に入るのが苦手ですが、どこだかのお店がお勧めだと友人に声を掛けられたします。
どう返すのかと言えば(前提は「ファーストフードが苦手なのは私の個人的事情」「勧めてくれたのは親切」)
「いやぁ僕ヵーファーストフードのメニューも読めなくて、とんでもないもの注文しちゃうんだよ。食いきれないほどビックサイズなんて頼んでしまったら大変だからね」
後半は冗談ですよ、
やんわり「ファーストフードの情報自体僕には必要ないんだよ」というおことわりを、相手を不快に感じる事無く伝える典型的会話です。


「乗る飛行機を間違える」
これもコテコテの典型的な常套句です。
旅行の誘いを断る時の、
話のスジは非常にわかりやすい
「わたしはお父さんがいないと空港へも一人でいけないし」
ここで説明されていますよ
お父さんと一緒の旅行なら楽しいが、自分一人で旅行に行く等面倒なだけで楽しくも無いし苦痛でしか無いからですよ。
(TGさんに会いたいと考えている場合「普通親元に帰ってきてくれるものでしょう」と考えるのが親なら自然です)
そして「一般に旅行は楽しいとされています(これも現実は違います、近所ならまだしも何時間も飛行機に乗るのが楽しい人はいないでしょう)」むげに断ったら話がトゲトゲしくなる
「自分はバカだから」という話の冗談で(自分を笑いの種にして相手をかばい)断っているのです。

これもっとも上品な断り方ですよ、
相手を思いやっているのです。
※実際私の両親は北海道に暮らしていますが、「東京旅行にきたら」ほとんど(ほぼ一度も)言った事がありません。彼らには面倒なだけだと想像つきますから。


「どう、今夜イタリアンレストランでも?」
「残念ねぇ、私ねオリーブオイルで酔ってしまうの。あなたに恥ずかしいところお見せするワケにはいかないでしょう?」
話し手は、自分に原因がある(誘った人物は悪い人では無いが、個人的に特別な好感は無い=自分が)のだから、それに相当するように自分をあるいみバカにするような話に変えて(自分に原因があるので「お前と飯食うわけ無いだろう」と言うのは不適当ですからね)、やんわり断るものです。
これ実に自然な会話ですよ


前回お話しましたが、彼女の認知は「自分は立派な母親だ」です。
いじめの片棒等という意識はただのひとつもありません。
怒りっぽい人だけれど、立派なお父さんがいて、私は彼の忠実な良妻だった。子供達にもしっかり教育したので、二人とも立派に育った、
これだけです、ハッピーエンドです。
子供時代の話は
「確かにあの子は、少々手がかかる子だったけれど私はその子をだからって嫌った事は無いのよ、だって私は母親ですものね、母親ってそういうものなのよ」


彼女に対する蔑視は、大好きな父親の妻だからです、
夫婦という共同体は独特で(家族のコア夫婦が「赤の他人」である事が、私の「家族とは他人の始まり=家族の意識は幻想に過ぎない」的認識の根拠です)、ヤクザの「同じ杯交わした義兄弟」が「血を分けた兄弟」より深い縁になるように、赤の他人が家族のコアになるんですよ?それに摩訶不思議な縁を意識しない人はいません。
そして、「暴力の理由を葛藤的な内容を認知できず、あいつは殴るからな的程度の認知だと『10針縫うから問題とはならない』の原則が働いて問題意識は軽いのです。」
現実問題単体認知で“殴られる”ぐらい人には何てこと無いのですから、
陸軍士官学校の厳しい訓練は、そこいらへんのいじめなんかの比ではありません。傭兵部隊の訓練なら実弾飛んでます、
彼らは内向的に悩みません、
前提条件が違うんですよ
「崇高な常識人で、私を愛してくれるので、特に彼の態度は優しい筈だ」
この人物に殴られるのとは、(それを認知する当事者の)背景が違うんです。

夫婦の視点だと、彼女が彼自体を偶像化(彼女にコンプレックスは無く、むしろ自分の今プレックスの投影=恋愛が利いているだけですから、彼は象徴化の代行になります。恋愛の熱は相手が象徴化対象者とは別人の「尊厳ある個人=他人」だと再発見しその人物像を知る過程で醸成されますから、構造的には偶像投影の失望を経ているのです)する可能性は無いのですから、心理的に夫を対象にしたパラドックスや葛藤構造は発生しません。
殴られた→「痛ぇじゃネーかマジで」というリアクションです。
『偶像化された人物に殴られる』という認知は彼女の自我にありません。

それでも、彼の実情を知る人間が「離婚を勧める」
これ問題無いですよね、心配して(これの説得試みる友人なんてよくいますよね)
しかし「彼女は平然と大丈夫だから」これはアリです、
夫婦の間柄だけならですよ
この環境下で『子供に葛藤が発生するリスク』があるんです、
子供でも認知しやすい「ステレオタイプの社会的権威」が両親のどちらかにあれば、そのリスクは余計高くなります。


現実、神戸の震災後のインタビューですが
「あん人は暴力振るう人やったけど、死んだら寂しい」
■これが夫婦です


しかし同時に
昨今の個人主義的覚醒によって
「子供が独立した今、離婚したい」
■これも又夫婦です。

前述が「保守的常識人」である傾向わかりますか?
後者は「進歩的個人」になりますね、
その後者でも「子供が独立したので」という『良識』が残ってしまっていますよね?
共同幻想とは「社会的合理性」で「自己責任とはリスク」の事です。
ですから『個人的な判断が“常”に社会に求められるべきだ』という合意性はなかなか成り立ちません。そこは自己責任でケースバイケースになるのです。

「竹を割ったような普通の人」そんな世界は美しいのですから


>“虐待”を受けて育った子供たちが両親が虐待したと告発するのをためらうことがよくあります。それは、わたしの場合、「だって楽しいことだっておおいじゃない」というものですが、これに関してはどのように思われますか?


ここの背景に『アメリカにおける過剰な統計』を説明しなければならないでしょう。
現実アメリカでは、捜査官の行き過ぎで告発されてしまう親も発生してしまっている状況です。
これは何かと言えば、
加害者の側から考えてみればわかる事です
この人物は脅迫的に暴力を振るってしまっている(依存)のであって、事実認定として妻はそれに敏感ではない。
(DVとは、前回恋愛についてお話しましたが、恋愛対象は自分の葛藤構造を保守する人物に投影され、被害妄想を元々持っている人物が、印象と現実を一致させるため、暴力的である神経質な素養のある人間に無意識に惹かれてしまう構造の上にあり、当然暴力を振るう側は脅迫的行為になるので、被害者が無意識にその人物の神経を刺激する言動を取ることでエスカレートし、彼の弱点を被害者側は“無意識に”見抜いているという側面があり、家庭内暴力とは正確には分類が違います)
つまり加害者に感じるのは「想像を越えた不快感を感じ、結論暴力で収めた」となりますから、自覚があるとするなら「ほんとうにしょうがない奴で殴らなきゃわからない」となり、妻が保守的常識論の持ち主なら「怒ると暴力を振るってしまう仕方ない夫」だけ、となります。

つまり、
虐待を意識している人物は両親の側に存在していないのです。
(幼児虐待とは、殴り殺してしまったり、特に3歳未満などの乳幼児に対しても行われるのが特徴で、その背景には幼児に対する自分自身の自己嫌悪の投影が無ければ動機形成を証明できません。つまり虐待する側に精神的に明らかな鬱傾向がなければならないのです。自傷する代わりに自分の再生産である実子に自分の幼児期の姿を見て耐えられない状態になっているからです。そして、血の繋がらない養父が行う虐待は又別で、「幼児性愛的な暴力性」によっているので、その人物に性犯罪者的な傾向が無い事には動機形成を証明できません)

つまり、神経症であったり、鬱傾向を発症する「葛藤の発生」における、構造的虐待認知とは『結果』であり、当事者の中で実行行為者の側に虐待の意志も認識も存在しません。それは『結果』子供の側の認知にのみ存在するのです。

ですから、この心理的背景を幼児の立証責任において証明する事は大変難しく、
自ら告白する場合でも、実体として「自分だけがそう思っているのではないか(これは事実です)?」という部分がありますから、なかなか表面化しません。
現実問題、この場合両親の行為は虐待かと言えば(上記説明の通りです)正確には虐待ではありません。
『両親(あるいはそのどちらか)の人格に神経症的問題があった』
これが正確な表現です。
ですから、神経症的問題点を刺激(正に地雷を踏むです)していない時の関係は良好で(この部分でも暴力の行為者が、何ら自分に問題が無いと思っている事を証明します)、楽しい思い出もあるワケです。



一時米国では「鬱などの原因を家庭内の性的虐待の結果」と診断するのが流行りました(これは彼らのキリスト教世界から、イメージとして強烈なインパクトがあるため『分析者の逆移転』として一気に広まったのです)。
前回お話しましたね
精神分析の特徴は分析者には「聞く前からわかってしまう」
ここで、一部の未熟なカウンセラーが米国において「虐待をわかってしまった」と勘違いしてしまい、分析の過程が『誘導尋問』と結果として相似してしまい、医療統計で「ちょっとそれはあり得ないだろう」的な数字にまで至っているのです。
当然キリスト教右派にとっても「家族と伝統の再興」は重要なテーマですから、「左翼・右翼」ともにこの認識に利益性があったのです。


因果応報では解決しない。
これお話しましたね、
つまり、親に土下座させれば解決するなんて事では無いのです。
根本的には「父親こそ人格に問題のある、教養の無い男だった」とコンプレックスの前提をランディングさせ
>あの時お母さんが勇気をもってそれに対抗してくれればこんなことにならなかったという恨みはあります
ではなく、
「彼の人格の問題は、彼の家庭内のどんな事情で起きたのか?」
という疑問でなければならないのです、

そこから見るなら
「あの男と暮らして、幸せを感じる常識ある女」
というシーンは、切ない話に変り、
そこから見た時の「家族の肖像」が初めて事実となる。のです、



だからこそ、妹さんにも(同様に高学歴的迎合を行ってしまっているのですから)
「なんだか勉強ばかりして、意味無かったね」
「そんな事無いよ、理由はどうあれ沢山勉強する事は自分のためにもなるじゃない。良かったんだって自分を誇りに思わなくちゃ」
な会話に収斂されるべきなのです。

>母が今「自覚」した後、予想として彼女はどういう行動にでる可能性があるのでしょう?
そして予測ですが
お母さんには「妹さんが何故こうなったのか」の結論として、自分の夫婦生活にある「自覚」が生まれる可能性があります。
(その話がスムーズにできたらですが)
しかし、予測としてお母さんは「自分の責任をとる意味でも、ここに残る」と言うのではないでしょうか。
それでも彼女が「一体あの家庭で何が起きていたのか」について、認識することが(妹さんの面倒もみているのですから)、妹さんにとってとても大事な事だと思います。
※このような例で、後から夫婦が離婚する事もありますが、そこには「お母さんがひとりの女として自立の方向を向く」事が前提になり、
ここは彼女の自己責任(選択)となります。
493 とても似ています (‘へ‘) 2006/01/17 22:22
ひどい暴力はなかったけど、似たような家庭でした。
読んでいてとても苦しかった。

今ではほとんどの事実が解明された。
だけど頭では理解できても心が追いつかない。

すっかり歳をとってしまった父親。
小さくなった姿をみるのが恐い。
憎しみをぶつける相手ではないとその姿は語っているから。

時間がないのに、どうしたらいいんだろう。
いつか私のことすら思い出せなくなってしまうかもしれない。

病気の猫をみるのが怖くて、最期まで会いにいけなかった。
今度もやっぱり間に合わないかもしれない。
そのかわりに私が持っていくと、昔思ったことをまた思い出した。

現実が見えない世界に行きたい。
そうしたら強くて恐い父親がきっとまだ現実に存在してる。
力のなくなった弱い部分は、私がそっと持っていく。
あの人はいつまでもあのときのままでいて欲しい。
もしかしたらそれがあの人に対する罰なのかもしれない。
罰だけを与えて、自分はその姿を見る事はない。
そうじゃなくて見るのが怖いのかもしれない。

たかが家族なのに
496 Re:とても似ています kage 2006/01/18 00:51
たかが家族ですが、「自分の人生のはじまり」はそこにあり、
そして変る事はありません。

だからこそ、たかが家族なのでしょう。
それは自分の過去に対する想いと似ています
たかが過去でも、自分の過去ですからね、
ノスタルジーや葛藤を過去に還す事は出来ますが、自分の過去を変えることはできません。

しかし、今想う場所から覗くなら「それは違った物語」なのです。
過去は“変り”ませんが“替わり”ます。
物質が元素に還元されるようにです、
悩みとして、ノスタルジーが追いかけてくるように
事実に還元された記憶は、ゆっくりとですが同じように後を追いかけてきます。
事実がノスタルジーに追いついて、
そして追い越した時に、記憶の中で別の表情をした彼に会えるでしょう
現実は、又一から新しく始まるのです。