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「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。



370 感動を体験する Mail address 2004/09/30 16:17
学術的に私の頭では、証明できない出来事があります。
よろしければ、次の文章について教えていただきたいです。
分野違いでしたら、ごめんなさい。

今世の中は、「感動」に飢えています。
よって「感動ビジネス」なるものが成立し
その市場は5兆円にものぼることが事実としてあげられています。

感動に関するアンケート2003(google)を参考にしますと
10代20代が感動探しをするものの1位の媒体が「映画」です。
以下の順位をみても「小説」「知識を勉強する」など
客観てきに、つくられたもしくは他人がつくったものを見る。
そういった類の感動ばかりです。

ここで、ひとつの疑問があがりました。
では、何故自分で感動を体験することを選ばないのでしょう?

憶測で考えますと、感動を得る体験をするためには
勇気・行動力がいると思います。しかも、自分がみた感動(映画など)を
超えようとするあまりに、それら勇気・行動力までも大きくなければいけない。
などの理由を考えましたが、根拠がなく確信をもった理由に出会えません。

そこで、精神からみた学術的な見解があるのでしたら
お伺いしたい次第です。
371 Re:感動を体験する kage 2004/09/30 18:33
「感動探し」既にひっかけ問題(パラドックス)です。
何故なら人生に「感動的なドラマ性がなければならない」なんて事だったら大変です。感動も様々で小津安次郎的なしみじみとしていて奥深い感動は人生それ自体への実存を『認識できた人が』感じるのであり、「感動する人生」なる枠組みが最初にあったら大変です。
まさか10代20代がタランティーノやリュック・ベッソンのファンで、「映画のような感動を勇気をもって」なんて事になったら血の雨が降ります。

そもそも感動探しなる事を企画した人物の狙い(動機)は、近頃の子供の志向の一端を知りたかったからであり、「感動体験」なる商品がエンターテイメントであるのは、『普通』を形成する共同幻想を補完するためで、古代には年一回だけの神と交信する儀式や、婚礼、祭りがエンターテイメントだったのですが(このエンタメを仕切る人物が=支配者乃至その配下で、普通が拾い上げられない誇大性はこの人物に投影されカリスマとなります)、共同幻想の崩壊は、このカリスマの普遍性が減衰する現象を発生させます。
村長(+シャーマン)>キリスト>毛沢東>昭和天皇>美空ひばり>長島茂雄>田中角栄>都ハルミ>ビートルズ>山口百恵>中曽根大勲位>アリス>クリントイーストウッド>石原知事>ブルース・スプリングスティーン>小室エイベックス>ツンクグループ(モーニング系)>ゆず>浅野忠信

つまり、社会秩序の維持のためエンタメは誇大性の投影を吸収しなければならず、その評価が金額で表される市場経済化では、それぞれが専門性を持つため(普遍性の後退に合わせて、個別対応しなければならないからです)総額表示によって「一定の威厳を残滓として残している」と考えられるのです。

話は戻りますが、感動する素材はどこにでも(どんな人生にも)あります。憂うべきは「春に咲く雑草の花や、初めて釣った魚や、一枚のデッサンや、初めて食べた魚肉ソーセージ」そんなささやかな事に感動する、知性についてでしょう。

感動は体験するものではありません。
「生きているという事は感動的なのです」
372 Re:感動を体験する Mail address 2004/10/09 12:03
「感動」というとらまえかたでは、現在の私にとって
到底答えを出せるようなものではない と思いました。

ご意見をいただけたことにより、すこし光が見えました。
このままでは、所詮若者のたわ言として扱われる結果に
なりそうでした。

私も「感動」を自分なりにつきつめていった結果が
「生きていること」と最初に提唱していたで、はっとしました。

どうもありがとうございます。
本当に感謝します!
373 いえいえ kage 2004/10/09 12:33
以前何かの番組で、華氏911のマイケルムーア監督の(この人にも問題ありとおもいますが、、)ドキュメンタリーTV番組(この人はアメリカの田原みたいな人なので)をやっていました。「ガン・コントロールと全米ライフル協会NRA」についての特集です。

内容はともかく、、、彼もマスメディアが「営利目的で国民の不安感を煽る」というポイントを最重視していました。これは共同幻想の宿命で「自らがそれを解決する」とのプロパガンダによって、求心力(共同化によるリアリティーの提供)を発揮しようとする、それです。
企業で言えば、これをCMと呼びます。
巷の情報には、パラドックスによって、時折「ツボにはまる」的な、不安感の醸成が行われます。つまりアンケートの答えは既に『誘導されている』なんて事は常にマスメディアには可能(彼らには悪意は無く、構造としてそうなる事があるのです)で、市場調査の(リサーチやアンケートの学問が専門にありますから)方法論事態に、その傾向が折り込まれていると言えるのかも知れません。

共同幻想に「元々引っ張られぎみだ」=「他人にどう思われているのか気になる」という傾向の時には、この刺激はかなりのストレスになったり、ステレオタイプの超自我にに取り込まれてしまったり(「補完的に」、正にカウンターカルチャーで問題無いのです。「鵜呑み」は問題となります)するのです。