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「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。



189 誰にも言えないから 匿名希望 2003/06/05 02:45
ここに書きます。

バイト、無断で休んでしまった。
もう行きたくない。
もう頑張れない。

なんとかやってきたけど限界かもしれない。
眠ってそのまま目が覚めなければいいのに。

心配してくれる人がいる。
私がこんなだと、ずっとその人は心配し続ける。
いっそいなくなった方がいいのかもしれない。
190 Re:誰にも言えないから kage 2003/06/05 04:00
 バイトを休んでしまった事は、今後バイトに行けない理由には小さいし
 限界なので、今後もバイトに行けない状態の初日を意味するなら、バイトを
無断で休んだ事自体はショックに繋がらない。

 「バイトを無断で休む事」が落ち込むトリガーに使われている証明です。

 心配する人のために死ぬのは、最も矛盾(心配に比較して死なれる事の方が
よほどショックだからです)した行為だし、それが不快なのだとすると、心配
される事自体が不快な筈ですが「心配して”くれる”人がいる」の文面は、少
なくとも不快を表現していません。むしろ逆にありがたいイメージでしょうか。

 言葉のつながりに、矛盾が生じています。

 そもそも「今日一日バイトを休んでしまった」事だけが事実です。それ以下
でもそれ以上でも無いでしょう。
 おそらく自己嫌悪の狙いは、最小の投資(一日無断欠勤すること)で、最大
の(死にたい)効果を得るための連想の完成でしょう。

 狙いは「バイトにいけなかった事実」を利用した「ダメな自分の拡大解釈」
です。何故そんな事をするのでしょう?
 つまり(キーは逆転ともいえる矛盾ですから)「役に立ち賞賛を浴びる自分」
以外の行動で満足を得ないように、手足を縛っているのだと思います。

 「そんな事やっても意味が無い」というイメージでしょうか。
 
191 レスありがとうございました 匿名希望 2003/06/06 04:01
自己嫌悪の呪いから解放される日は来るのでしょうか。

決して「死にたい」訳ではありません。
自己嫌悪を生み出す思考を止めたいということ。
それにこの自分を生かしていくために働くというのが
無駄と言うかなんというか・・・。
神様じゃないから「生きていく値打ちのあるなし」なんて
私自身には判断できることじゃないんだけど
不安が不安で(なんか変ですね)明日という日が疎ましいのです。

未来は決して明るく希望に満ちたものなのではなく
ただ漠然とした不安に覆われた、お先真っ暗な状態に感じて。

何度も心配させてしまって気を煩わせることを考えると
心配など絶対に掛けないという保証のある状態(=いなくなる)に
なった方が、よっぽど相手にとっては楽なのではないだろうかとも
思います。
或いは心配を掛けることが、自分にとって「みっともないこと」だと
そう思ってるのかもしれません。
自分のことぐらい自分で始末できなくて、どうするんだと・・・。
今ふと、そんなようなことを私に言う、親の姿が目に浮かびました。

多分、相手が一緒にいて楽しんでいる時の自分のよりも
相手に迷惑をかけたりしてる時の自分の方をずっと深く覚えて
いるんだと思います。
「だから私なんか・・・」の材料にするために。
物心ついてからずっとそうやって生きてきたから、今さら簡単には
変えられないような気もします。

そもそも「生きる」って、そんなに頭で考えなければ
いけないことじゃないはずなのに。
動物だったら、そんな迷いがあったら食われてますね。

なんて言うか、もっと必死に生きたい。
銀行の残高が0になっても、そこで生命が絶たれるような
そんな危機感もないし。
今日食べるものを手に入れられないと。明日へ命を繋ぐことが危うい、
そんな状況でならなりふり構わず、もっと必死に生きていけるような
気がします。

取り留めのない文章でごめんなさい。

194  不安と罠 kage 2003/06/07 10:47
 天変地異、素手では決して敵わない野獣、飢え。
この不安は文明に取り込まれない限り、常態「人の不安」として君臨して
きました。その対象はお祭り、祈祷、宗教です。この対象性で人は不安を、
無力化しています。現代の漠とした不安は、後者の神秘性の破壊によるもの
で、その分顕在化した不安は、文明と破壊と経済に取って代わったのです。
一見矛盾しますが、現代社会の「希望」とは「不安の解決イメージ」であ
って、自作自演の三文芝居に似ています。

原始社会の「希望」って何でしょう?おそらく「安定」を意図する部族の
繁栄(成長ではありません)だったのでは無いでしょうか。
極端にいうなら「希望」とは「明日太陽が昇ること」だったのです。
ネイティブアメリカンの神話には、神の怒りで「太陽が昇らない」という
世界の終わりの話があります。
つまり「明日太陽が昇ることすら彼等には不安だった」のです。
文明化で、不安が少なすぎて「安心の喜び」は後退し、不安は矮小なもの
に代わったにも関わらず、不安は人を苦しめている。

 これはいったい何でしょう。
「希望の幻滅」そして「根拠の無い成功の脅迫」
神の幻滅が親であるように
希望の幻滅は、小規模の成功の継続を義務付けた(脅迫)。
民族(人類と認識されたでしょう)絶滅の不安が、個人の存在意義の不安に取って代わる。
困った事に、巷で通用する「マトモ」への幻滅は「事実」であり、転じて明日の
生活への無力感からの脱却を妨げてしまいます。

 話を「希望」に戻しましょう。
「希望」は「不安の解消する可能性」ですから、「希望」の材料は「不安」です。
「希望」の発生を妨げるのは、自身の「不安」の過小評価なのです。
自己嫌悪とは、自らの不安さえ矮小化するのです。
つまり、「個としての自分の命」の過小評価でしょう。
自らの命の儚さを知る時「不安」は「希望」を創造するのです。

 それを回復する鍵は、他者の命への想いではないでしょうか。自己嫌悪と引き換
えに手に入れた(自らの命の過小評価=死の恐怖が縮小するので)「万能感」は、
他者には感じられないからです。
相対として感じられる他者への「弱者(無能)のイメージ」を、「軽蔑」から
「慈愛」に変える時、「希望」は産まれるのかも知れません。
195 希望が「安定」を意味するなら 匿名希望 2003/06/11 12:05
確かに今の不安が説明できるかもしれないです。

これが自分の仕事だと思えるような働き場所もなく
愛する人と結婚するわけでもなく・・・。
そういった、一見「自由」とも思えるような暮らし方が
きっと自分には「不安定」に感じるのかもしれません。

もともとの原因は「家庭の安定」だったのかもしれません。
「安定して家族に愛されていたい」。
あるいは「安定した平和な家庭であって欲しい」。

今日の「幸せ」が明日も続くという保証がどこにもないことを
身をもって知っているから、それを思うと憂鬱になります。
そしてその「幸せ」は、共同幻想に縛られたものなんだろうと。
誰かを何かの役割に当てはめて、その中で感じられる幸せなんて
きっとちっぽけで下らないと思ってる。
「木を見て森を見ず」のように、そこにいる相手の姿が
押し付けた役割の中にしか見えなくなってしまうから。
そしてそのことが愛する人を傷つけた。

自由が怖い。
自分の自由も、愛する人の自由も。

まだ「独り」にはなれないような気がします。
戻れる場所、帰れる家を望んでる、そんな気がします。

196 Re:明日続く保障のある「幸せ」 kage 2003/06/12 00:49
は、ありません。「幸せ」とは儚いもので、子供の時の日曜日の夕方のような
ものです。
 望んでいるのは「幸せ」では無い証拠でしょう。
 「幸せ」だと実感するとマズいんです、ですから慌てて「これは続かないのだ」
と否定しようとやっきになります、理由には事欠かないでしょう、元来「幸せ」
は儚いのですから。

 何故「不安定な家庭の再現」を望んでいるのでしょう。おそらくそれが自分を
対象者に表現する条件として、必要だからです。
 対象者は問題のある人物が望ましく(次々とその問題も思いつきます)、環境
は経済も含めて不安定であることが望まれます。そこで初めて自分を表現できる
のでしょう。抗議の意思として、落ち込み不快になる事です。

 おそらく数々の疑問や抗議の言葉が、その時代にあったのでしょう。それは恥
意識や実質的恐怖心で抑圧され、自己嫌悪の構造を迂回して表現されることにな
りました。
 自分の意思を表現できない状態を「我慢」と言います。ストレスです。
 自分の意思を表現する事が第一義的な「快」である場合、その環境自体を同時
に再現し、そこで自分の意思を自己嫌悪を経て表現しなければなりません。
 しかし、意思表明する相手は別の人物であり、かつ、当時の対人認識は子供特
有の「親の過大評価」によっていますから、現実の両親ですら対象者ではありま
せん。
 終わりの無い鬱の循環構造です。
 他者に向けられる過大な悪感情は「親の過大評価」とパラレルの関係であり、
事実関係から大きく離れます。
 無理のある特定のキャラクターでないと困るんです。
 ですから、該当者の自由時間は脅威となります。

 言い換えるなら、現実や事実が妄想にとって脅威だからです。物語が破綻して
しまいます、自分の意思を表現できる手段を、嫌悪に寄らない言葉で獲得した時
必要とされる環境への想いも消滅すると、考えていいのではないでしょうか。
197 幸せは安定しないものかもしれませんが 匿名希望 2003/06/13 04:43
また、そんな日曜日の夕方を迎えられるという安心感があれば
幸せは「安定している」と言えると思います。
きっと問題は「こんなことは二度とないのだ」という
悲観的な感情を伴うことなのではないでしょうか?

そのホンワカした日曜日の夕方が、何か理由があって
作為的に生じたものだと、疑念を抱いているのです。

「嫌悪に寄らない自分の意思の表現」ですか・・・。
分かるような気がします。
そしてそういった相手を前にすると、とてもリラックスできることも
経験で知っています。
どんなつまらないことでも、素直に言葉にできる自由はとても
気持ちのいいものです。
あるがままの自分を受け入れられているという安心感があって。

とても迷っています。
自分はそういう人と生きていくのがいいのではないのかと。

少し問題が現実的になってきたような気がしてます。
趣味や行動パターンの好き嫌いや、時間のすれ違い。
そのことを「こうしたい」と言えないことが、より遠ざかることへ
繋がっているのとは思うのですが・・・。
199 「嫌悪に寄らない自分の意思の表現」 kage 2003/06/14 03:33
 それは、感情のままではありません。
 感情は嫌悪意識(無意識の)を満足させるものを多く含みます。
 小規模の嫌悪意識への満足は、全体の構造を温存させるための利回りのような
もので、その表現は自らをその構造に縛り付けます。
 つまり「優しくしよう」や「のんびりしよう」としたら、その行動は首尾一貫
していなければならず、不安からくる逆転(嫌悪は基本的に行動を逆転または、
反転させます)がおきると、初心を満足させる事は不可能になるからで、言行
一致を意図してはいないのですが「その気持ちはわかる」のような間接的証明
ではなく、自分自身で「行動は初心に倣ったものだった」との認識を自分で掴ん
で初めて「嫌悪に寄らない自分の意思の表現」は完遂されたのです。
 不思議な話ですが、このときその行動が相手に「どう評価されたのか」は、
全く意味を持ちません。つまり「不安」による自分の行動への疑念が構造的に
起こり得ないからです。

 繰り返しますが「どう思われるのか」では無く、自分は「自分をどう評価する
か」によって行動をつかさどった時、嫌悪は入り込むスキを失うのです。
201 決して感情のままではないつもりですが 匿名希望 2003/06/15 07:57
やはりそうじゃないんでしょうか・・・。

何も変わっていないんですね、きっと。
いつまでたっても、過去を引き摺って生きている。
もう、理屈なんてどうでもいいから逃げ出してしまいたい。

ごめんなさい。
kageさんの答えは私には難しすぎてよくわかんないです。
203  感情論 kage 2003/06/15 12:53
 感情は食事を例にとると、先ず味覚が感知します「甘い、苦い等」次に経験
記憶と照合が行われ、より大まかな分類「美味い、まずい、その他、、」に、
分類され、一般的にはここで感情と呼ばれる認識に至ります「・・・!」です。
 さて行動の選択はその次です。「・・・!」を伝えないとストレスになりま
す、それは情報の共有なしに対人関係の安定は無いからです。
 それが意見の一致をみなくても、現在の刺激に応じて次の行動に移る情報を
決定付ける補完的情報収集が会話だからです。
 おわかりでしょうか?
 独りで食事している時、この補完的情報収集は必要ありません。
 何をしているのか、と言えば、軽い証明による事実認定のすり合わせです。
 逆に言うと「まずい」と思ったものが、覆される可能性があります。
 ベタな話で恐縮ですが「まずい」と思ったものが、フォアグラである時、
少々レストランで食事をしている友人は「これが美味しいんだよ」と言うでし
ょう。
 つまり、二つの事が言えます。
 1、自分ひとりの会食は補完的な情報収集の必要が無い。
 2、複数の人物との関係の時には、感情が情報に覆される可能性を、受け容
  れなければならない。

 何が言いたいのかと言えば、1の時には言葉になりません。つまり表現の
必要が無いからです。これは「認識」です。
 「嫌悪に寄らない感情の表現」がテーマですから「表現」しなければならな
いので、1のケースは無意味です。
 つまり、感情情報は、会話によってその機能的意味合いが覆される可能性を
担保できなければ(さかさまになってもいい、という受容性です)、それは、
補完的論証の無い感情の伝達ではあっても、情報の共有(会話)ではありませ
ん。交渉の余地の無い事実認定を「感情論」というのは、この現象の事です。

 感情を伝えるのに「美味いのか、まずいのか」は意味を持たないんです。
 何故なら「私が感じたまずいは、美味いなの、へーそうなんだ」だからです
最初に感じた「まずい」が否定されていないんです。

 もし言葉の機能的意味合い自体に意味があったら?
 「こういう状態の、こんな雰囲気は必ずこうに決まっている」だとしたら?

 それは感情の表現では無いのです。
 表現されたのは、感情では無く、状況設定の構造です。
 こういうこんなものは「ますいに決まっている」時、最初に感じた感情は、
否定はされていないかも知れませんが、それ以上に全く表現されていないの
です。つまり感情表現より以上に「状況の固定的言い切り」を自分に言い聞か
せる事が優先されているのでしょう。
 事実から、離れ、感情は表現されない。恒常的ストレスと引き換えに、嫌悪
意識は満足します。嫌悪意識の狙いは有無を言わさない「認定」なのですから。
 「自分が悪いのだから・・・・、・・・に決まっている」です。

 機能的意味合いが覆される可能性の『幅』は文化です。大事な事は「どこまで
覆されても平気なのか?」ではありません。「交渉の余地はあるか?」なのです。

 このとき「何を言ってもいい自由」を獲得します。
 ある意味「全く間違えていても全然OK」だからです。
 自分を自分で評価する、というのは「美味しい、まずい」に妙に拘っていない
か?って事です。
204 Re: 感情論 匿名希望 2003/06/15 14:59
分かりやすい解説、ありがとうございます。
思うことを書きますね。

たまたま人から聞こえる「〜に決まってる」って言葉が、
最近とても耳につくようになりました。
でも、そんな言葉を言ってる人の表情には
嫌悪意識ではなく、自分の「常識」が誇らしげであるような
そんな表情が見て取れます。
きっと大方の人は、そんな家族の文化を嫌悪意識なく受け入れて、
自分の文化としているのでしょうか。

最初は歪んだ常識を守るための「〜に決まってる」ですが
会話の中で修正されることもあります。
なぜなら、相手がそれを納得しない場合(嫌悪意識の場合は特に)
躍起になって正しいことを証明します。
だけど、どうしても無理があって、説明している自分自身でも
どこかおかしいと感じてくるからです。
そして時にはその「〜に決まってる」が、「やっぱり違った」という
結論に達することがあるのです。

リラックスできる相手との会話では、それがあるのです。
歪んだ常識を持ち出して、それが明らかにおかしな意見であっても
「間違っている」と否定するわけではないのです。
「どうして?」と理由を聞いてきます。
その積み重ねが、「〜に決まってる」と嫌悪意識が言わせるときの
妙な緊張感や孤独感を取り除いてくれました。

かと言って、気楽に「〜に決まってる」を言えるからリラックスできる
というわけではありません。
臨戦体制(一人家族ごっこは戦争のような気がします)が解除されて
『「〜に決まってる」攻撃』を発動しなくてもいい状態に置かれることが
リラックスできると感じていると思います。

きっと今までは、誰かを巻き添えにして家族の検証をしてきたんだと、
相手を戦場に引きずり込んでいたんだと思います。
今は戦いたくないのです。
戦いのない、平和な気持ちでいたい。
そう思うとき、とても愛する人が遠くに感じます。
でも「他人」だと感じるほど、不思議とその人の存在そのものが
とても力強く感じるのです。
そして同時に自分が孤独だと感じます。

自立するときなのかもしれません。
支えなしに、誰かを愛する人生を歩いていかないと。

こんなものが欲しかったわけじゃないのに。
思ってたことと全然違うことになってしまいました。
ただ、ずっと側にいたかった。
でもきっとそれは偽物の「家族」としてに過ぎなかったんですね。

家族の問題は死ぬまで私に付き纏うし、それが私の個性でもあるのです。
「〜に決まってる」と言い切る私は、決してなくなりはしない。
だからそれを生かせる場所で生きていくのがいいと思うのです。
言えないで飲み込んで正論を無理やり受け入れるよりも
気楽に言い放って柔軟に修正できる方法が、私には向いてるような気がします。

まるで自分自身が真っ二つに引き裂かれるように痛いのは
その支えであった相手が「他人」ではなかったせいでしょう。
でも、これを乗り越えないと、私はずっとその人を「家族」としてしか
見られないような気がします。
205 kazoku論 kage 2003/06/16 00:18
 kazokuとは何でしょう。
 かぞく、家族、昔任侠は「清水の次朗長一家」のように家族を雛型に、組織
を形成しました。文化の共同体です。
 同じ文化を共有する時、共同幻想となりそこから「常識」が発生します。
 交渉可能(自分の意見を発言可能な領域)な『幅』です。

 話している結果「え?違ったかな」と思えたら『幅』の広さは既に確認済み
ですから。もっぱら問題は、その結論に至る経緯での苦痛であって、言い張る
行為は「実は自分でも疑問のある、無理なアイデア」です。
 実は言いたくないのです。
 言えないとストレスになるのは、自分の意見に対する「不安」の反動でしょ
う。「言いたいから」ではなく「〜に決まっている」を連想させてしまい、
つい先走って頭を占領させてしまうからです。

 これはいつまでも継続しません。既に『幅』の広さが確認済みだからです。
 「葛藤」が「目に見える自己矛盾」に変容した証明です。
 時間が解決するでしょう、引き裂かれるのではなく、双方に理由はあり、
その黒白は『幅』の中で修正されるのですから。
 これは経験記憶になります。
 経験記憶は自我構造の一部になり、自己嫌悪のアンチテーゼとなるでしょう。
 最初の「〜に決まっている」は少なくとも、投影されなくなり、現実の家族
にその対象は限定されるのです。

 
206 楽な方に流れていきたいのです 匿名希望 2003/06/16 01:32
経験記憶を積み重ねる余裕が、今の私にはありません。
もう、既に私の中に経験し存在する「リラックス」の中で
穏やかに生きていけたらと、そう思うのです。

きっとその人は世界中の誰よりも私のことを知っている。
だけど、私はその人が「分からない」ことしか知らない。
そして「分からない」ことが、私を不安にさせるのです。
私には考えられない「常識」がその人にはあって
それに私はついて行けないのです。

何の約束もしたわけじゃない。
ましてや恋人でも夫婦でもないから、その人がどう生きようと
私には何も口を挟む権利はないのですから。
ただ、自由に生きていって欲しい。
そう心から願うだけなのです。
そして恐らく、私とその人とはこれ以上一緒にいられない運命なんでしょう。

「幅」の修正は私だけに必要なことで、その人はあるがままに生きているだけです。
そしてまるで別世界に生きているようなその人を思う時、
いくら修正したところで追いつかないような焦燥感を感じます。

振り出しに戻っただけなんだとそう思います。
「退屈でつまらない」日々はやはり正しかったんだと。
心が解けていくのに、私にはある程度のプロセスが必要なんだと思います。
「恋人ごっこ」で作られる「共同幻想」が。

愛する人とは、恋愛の対象でいたい。
あまりに客観的に自分を見られるのが、怖くなったのかもしれません。


なんだか恋愛相談みたいになってしまいましたね。
自分の中では結論は出ています。
丁寧にレスを下さったこと、感謝しています。
また何かあったら、書き込ませて頂きますね。
ありがとうございました。
207 経験記憶に作為の必要は無いのです kage 2003/06/16 05:34
 一度、二度と自分の言葉の「〜に決まっている」が覆されるって事は事実
認定ですから、意識しなくても今後それは経験記憶になるんです。
 自分にそうと気が付かない作為的な嘘を付く事は不可能です。
 イメージとしては「自分に催眠術をかける事はできない」でしょうか。
 自己暗示は可能でしょうが、これは有り得ません、何故なら以前の葛藤を
セールスマンの様に再び自分に企画する事が、無意識には出来ないからです。
おそらく、それは追加的な「サブカルチャー」の形を取るでしょう、例えば
新興宗教、自己啓発セミナー、哲学の誤解読み等です。
 成功してもそれは「サブ=補完」に過ぎません。
 「〜に決まっている」が覆される前に導入されない限り、それは定着しま
せん。

 むしろ問題は「自分の中では結論は出ています。」ではないでしょうか。
 これは未だ残る「〜に決まっている」だからです。
 「苦しみから逃れられないに決まっている」に至る証拠集めのために、
(無意識に)掲示板に書き込んだ事に、結果なってしまっています。
 俯瞰から覗くなら、それは又「苦しんでいる状態=他者への批判的姿勢」
の構図(自己嫌悪)で「〜に決まっている」に支配されているままの事実
認定ですから、かなりの無理が生じます。

 つまり『既に私の中に経験し存在する「リラックス」の中で穏やかに
生きていけたら』というのは、事実ではありません。
 何故ならその利益が現在保持されていないなら、それは営業されたサブ
カルチャーの可能性が高いからです。一部の快は自己嫌悪の満足であり、
リラックスというより、自分を解放させない状態の「擬態」ではないでしょ
うか。おそらく、これは自分自身の「覆しのアイデア」を断念させるため
の説得材料として過大に評価されているのでしょう。

 「あまりに客観的に自分を見られる」をデコードしてみましょう。
 「ありのままの自分を、ごく自然に見られる」です。

 おわかりでしょうか?現在の「覆す自分」は嫌悪意識にとって敵です。
 あってはいけないのです。現在の不快には少なからず嫌悪意識の復活の
ための試みが含まれています。
 「振り出しに戻っただけ」ではなく、「振り出しに戻りたい」という、
無意識の振る舞いです。

これも自分に覆されるでしょう、経験記憶に作為の必要は無いのですから。