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Kagewari 精神分析相談事務所  HP  BLOG  過去ログ  有料メール相談 

「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。



1117 返信 他人の目がこわい hako 2010/08/17 01:37
はじめまして。hakoと申します。

私は、中学〜高校くらいにかけて、よく人に指を指されて笑われたり、顔や風貌のことで色々嫌なことを言われていました。
今、25才ですが、いまだにその時のことを思い出して辛くなることがあります。
今、悩んでいるのは、人の目がこわくて見れなくなる、というか、たとえば普通に職場の人(同性・異性問わず)と喋っていても、ふと目を見ると、その人の本音が見えてしまうような気がしてしまって、「結局容姿が劣っている自分は見下されているんだ」と思ってしまうんです。街中にいるときも、こっちをチラっと見てくる人が気になってしょうがありません。イライラして勝手にキレそうになってしまうこともあります。(こっちをチラチラ見てくるような人は、容姿が普通〜自分より上の人に対しては、同じことをしないという気がします)
他人の、無遠慮な視線に過剰に反応してしまいます。容姿で悩んだことなさそうな、電車や道で下卑た笑い声をあげているような、チャラチャラした男性に対する嫌悪感もすごくあります。死ねばいいのにと思うこともあります。

過去の、「自分の知らないところで自分が(容姿から)判断された」経験が、トラウマになっています。
初対面の人(得意先の人〜コンビニの店員に至るまで)とは、ほとんど目をあわせられません。

容姿のコンプレックスから、職場では「自分はひたすらへらへらしていなければ、人から受け入れてもらえないんだ、仏頂面のブスと思われて、誰からも相手にされないんだ」と思い込んでいます。笑いたくもないのに笑っている自分が嫌になります。

視線恐怖(嫌悪)を克服するために、心の持ち方のようなものがあれば、アドバイスお願いします。
整形などで顔を変えることはできますが、かろうじて変われたとしても、心の問題や、憎しみは消えないと思うので…

お忙しいとは思いますが、宜しくお願いします。
1119 返信 根本的なところから認識の”ズレ”があるんです(誤変換多く校正しました) kagewari 2010/08/18 21:16
意外な事と思うかもしれませんが『容姿』とは極めて心理的なものです、
もう一段この話には奥行きがあって『容姿』は文化や時代で変遷します。
後段の話はこれだけの説明ではまだ理解が十分では無いと思うので補足しますが、それこそ未開の民族の中には素直に異文化の人間からはおぞましい位容姿をピアスのようなもので変化させ(場合によっては目をそむけたくなるくらい)人としての外観を損なっているとしか言えない文化習俗を持つ部族も実在します。
簡単な差異はファッションに見られるように一時代の流行は異時代の常識では笑い者であったり、これも不確定なものです。

つまりこの世には普遍的に『容姿が云々』などという差異は構造的に存在しないんです。
あり得るのは時限的であったり、仮想上の流行論的な変遷(ここには多分に共同幻想が関係します)の中の誤差のようなもので、
(現実ルネッサンス時代であれば現代社会のモデル体系は顔を歪めて忌避されるでしょう)
 ↓
■ここからが本題です
 ↓
「それは大いに社会適応であるとか共同幻想社会との関わりの中で発現している”極めて主観的な着眼”である」

ここまでの説明で更に理解が別の方向に流れていると思うので説明を続けますが、
当該する文明社会における”美意識”というものは(ここにも大いに共同幻想が関係しますが)芸術的昇華を前提とすれば存在するでしょう。
そこから逆算するならば、
 ↓
「容姿なるものに差異があるとするなら、その時代の文化の名において美男美女だけである」
(人類が歴史的に延々と繰り広げてきた容姿関連の話は「半分は健康状態の判断」「半分はSEXアピールに対する文化としての集団心理」です)

更に付け加えます、
上記の”美男美女”の概念はレア(希少性)という価値論の根本に関わる論理的結果に過ぎません。
(数的に過半数を超えれば”普通”に評価が下がる)
言ってみれば”社会的評論”などいうような代物に近い、

何を話しているのか訳がわからないところあると思うので、対比で表してみましょう。

「社会的評論としての”美”は言い換えれば公的論理である」
「容姿の差異における”醜悪”は主観である(その合理性を証明できない)」

ここまで話してもまだ意味が不明でしょう、
更に説明を続けます。

「自分は美しいと主張すれば社会がそれを認めない限り(一般的意味の)ナルチシスト(自己愛主義者)に過ぎない」
「自分は”醜い”と思うことは、その段階で”被害認知”と等価であるため結果として(心理的意味の)ナルチシズム的な社会不適応的な現象でしかそれを証明できない」

私が言わんとしているのはですね、
仮想上であろうと論理的結果だろうと、人の醜悪を「自分ひとりで勝手に主張したところで何の証明にもならない」って事です。
”醜い”であると反論しやすいでしょうから逆で説明しましょう、

■「私の容姿が美しいあまり人の視線が気になり視線恐怖になってしまいました」
構造的にはhakoさんの言っている話は上記と等価なんですよ。
(自分じゃまったく気がつかないでしょうが鉄板でそうなんです)

これは近代共産主義が台頭した時の「プロレタリアート革命論」にも近い話で、
「私は金持ちだからとそれを証明するのは難しいが、自分は貧しいと主張するのは容易である」
「しかし、私は貴族階級であると主張する事は(それが事実であれば)絶対である」
わかりますか?
後段の話の貴族階級(アイデンティファイ)の証明は共同幻想(階級社会)ですよね?つまり主観ではないから絶対になる。

悪魔の証明じゃありませんが、
「そうですね、それは確かに美しくは無いかもしれない(レア度により成立する美男美女論)」
こう話すことは誰にでも容易です。
以下の説話も等価の同文であるのがわかります。
「いえいえ家なんかたいした事無いですよ、せいぜい中流の下ってところですから」
”金持ちではない”であるとか”美しくはない”はアリなんですよ、
何故なら『レア度により成立する法則』の逆さだからです、
(金持ちの証明や美男美女の証明は自分ひとりではできない:だから長者番付やミスユニバースがあるんですみ←社会的証明)

構造的に説明できない=構造的に否定もできない
ので、
 ↓
「そうですね、それは確かに美しくは無いかもしれない(レア度により成立する美男美女論)」
こう話すことは誰にでも容易です。
以下の説話も等価の同文であるのがわかります。
「いえいえ家なんかたいした事無いですよ、せいぜい中流の下ってところですから」
”金持ちではない”であるとか”美しくはない”はアリなんですよ、


ここでようやく話はつながったかと思います。
>「結局容姿が劣っている自分は見下されているんだ」と思ってしまうんです。
 ↑
この論旨は成立しないんです、端的に言えば”事実認定できない”。
実は話している当人hakoさんにもそれがわかっているんです。
ですから「思ってしまうんです」という文法になっている、
わかりますよね?「思ってしまうんです」の背理は→「違うのに」或いは「必ずしもそうとは言えないのに」或いは「それは濡れ衣なのに」
※本文の意図は”違う””そうとは言えない”が「人が自分を見下している」にかかっていますが(そこは別途後述します)、文章全体のロジックとして前段の括弧無い全体に”思ってしまう”が掛かっている。
ここでも「いえいえそうだとしても”容姿が劣っている自分”を私は(思ってしまうで)否定していませんよ」という単純な反論あるかもしれませんが、この論旨はナンセンスなんですよ、この被害認知の肝は自分の容姿では無く、それを根拠として(その証明が容姿になっている)自分が周囲から見下されている事が問題のコアであり、仮に100歩譲ってあなたの容姿が劣っているとしてもその結果周囲の人物が概ねあなたを見下しているのでは無いのだとしたら(思ってしまう否定)被害認知と容姿は無関係であり結果容姿どうこうを始まりとする話は成立しない事になる。

注)実際にここは以下により証明
>整形などで顔を変えることはできますが、
これに関連する複数の事実がありますが(プライバシーに関わるので公開掲示板ではこれ以上詳細は言えません)、仮に(簡単に言い換えれば”美人”に変化しても)その状況が事実関係として実体を伴って変化しても、全く問題は解決しないのです。これは事実です、
そして根本的な反証として
「実際に”美しい”事を根拠としてそこから以降の話の流れはhakoさんと全く同じ論旨の悩みを訴える事例は少なくありません」事実です。
(美しいに始まる構造を説明しだすと今回の同じ分量の説明が必要なのでそこは省略します、4時間ほどもらえれば容易に説明できます)


事の発端は?
>中学〜高校くらいにかけて、よく人に指を指されて笑われたり、顔や風貌のことで色々嫌なことを言われていました。

この話は実体として「(その発端に根拠が不鮮明な事で有名な)いじめ」に近い現象です。
掲示板の過去ログを読んでいただきたいのですが、いじめ論って奴の大半は「既に社会的共同幻想が崩壊しているのにそれに適応しなければと強度のストレスがかかっているだけでなく、文部省なりの方針で時の権力によって寿司詰めで管理されている”群れ”と、何らかの原因(メンタルなど)でそのストレスの埒外にいて社会との関係に個人的事情で関係性が保てない個人との衝突」です。
つまり『相互にお互いがお互いに対する意識はそれぞれの事情で全く噛み合わない』ため、非常に解決が難しい。
それだけでなく、そもそも現代社会(共同幻想は崩壊)において、問題のある社会(学校制度)を保守する方向で問題を解決するのだとしたらそれは別の意味で本末転倒になります。
(いじめる側には意味の無い共同幻想適応を止めさせなければ根本的解決になりませんが、それにはクラス制度そのものを破棄しなければならないので構造的に文部省が動かない限り解決にはならい:無理に解決しようとすれば本末転倒になる→ですから現状はいじめられる側はフリースクール等に避難・いじめる側には”打つ手なし(彼らには強度ストレスが以降も継続)”な状態です)
※特に「いじめ論」は過去ログに多数論証がありますから読んでみてください。

さて、となるとですよ?
今この今です、hakoさんは何をしているのでしょうか?素直に定義してみましょう。

「相談の形で、自分個人でできる解決策は何か無いかヒントなりを求めている」となります。
言い換えると
「自分個人のサイドからこの悪循環を止めるアイデアなりはないだろうか相談してみよう」

<一度や十度ぐらいでは必ず上記説明”読み違えています”からここまで相当回数反読してください>

再び本題です。
この誤解「容姿が劣っていると”思ってしまう”」
そして、前段説明の
『金持ちの証明や美男美女の証明は自分ひとりではできない:だから長者番付やミスユニバースがあるんですみ←社会的証明』
 ↑
この部分が
 ↓
>中学〜高校くらいにかけて、よく人に指を指されて笑われたり、顔や風貌のことで色々嫌なことを言われていました。

事の発端にかかり(社会的評価を下されたと思い込んでしまい)、誤解が環を広げているんですよ。
冷静に考えればわかります、
いじめの心理は社会心理として”異常な状態”であり、彼らは決して「冷静な審査委員でも無いし統計分析する官僚でも無い」
株式やらの世界で言えば『風説の流布』です。
簡単に言えば「デマである」、

■事実の認定は慎重に行わなければなりませんが、
この際hakoさんの実像としてその容姿がどうであるとかには全く意味ありませんから(異論ある場合には前段の説明を100回くらい読み直してください)心理的側面として非常にやっかいなのはむしろ以下の部分です。
 ↓
>イライラして勝手にキレそうになってしまうこともあります。
(『「結局容姿が劣っている自分は見下されているんだ」と思ってしまうんです。』をデ・コード編集します)
 ↓
>「結局容姿が劣っている自分は見下されているんだ」と勝手に(どうしても)思ってしまうんです。
>電車や道で下卑た笑い声をあげているような、チャラチャラした男性に対する嫌悪感もすごくあります。
 ↑
ここまでの説明を前提に考えれば「すでに的外れの濡れ衣」であることは明白で、
(重要なことですが、”電車や道で下卑た笑い声をあげているような、チャラチャラした男性”は誰しもが普遍的に不快であり、取り立てて問題ではないとうか、、それは問題は問題なのですが、疑いようの無い個別の事実なので(自分と関係無くこの世には不快なものがあるという論)それ自体論議のテーマにはなりません)

なのに、これがエスカレートしています。
 ↓
>死ねばいいのにと思うこともあります。

わかります?
私の説明にあるように、壮大な”前フリ”は実は論旨にもなっていないし、根拠としてもバラバラだったり事実関係がつながっていない。
それらの”前フリ”は何のためにあるのか?
これが言いたいからがための”前フリ”なんですよ。
 ↓
■『死ねばいいのに』

一見この動機は不特定多数に向いているように(それこそ)思ってしまいますが、全く違うんです。
”前フリ”でどれほど苦労していることか、
様々な話を連ねて(と言っても本人はまったくそうだと思っているし、その反対に以降に続く結論は無為意識で全く自覚が無いのですが)、『死ねばいいのに』の方向を異性の集団に向けているんです。


この(『死ねばいいのに』対象)大反転の鍵は”性差”ですね?
ここで全てが繋がるんですよ。
>「結局容姿が劣っている自分」
この意識には自分自身の性差なるものが深く関係している。
性差って何か?
子供が大人になるって事です。
他者に快感代謝的興味関心が沸き、自分自身のSEXアピール(前段美醜論の話読み直してください)に強い関心を持つ、

これに拒絶があるんです。
(だから発端が「中学〜高校くらいにかけて」=思春期なんですよ)
自分が大人になる事ですよ、
『死ねばいいのに』
と思っている対象は思春期で「ガツガツ大人的快感を求める(チャラチャラした男性)みっともなく目立つ若者」です。
(一般的には彼らのような”群れ”は少数で実際みっとも無いので周囲は逆に気にも止めないのですが←それがみっともない若者にもわかるので、大声出したり騒音出して暴走したり”気に止めろよ”みたいなアピールするんです:これは幼児性サディズムと同じ構造:暴力のネタ元)

この心理の背景には、自分が性的に大人になる事に対する嫌悪感のようなものが被っている。
言い換えれば「自分が性的に大人になる的な世界」に対して『死ねばいいのに』と思っている、
 ↑
しかしこれじゃ文章になりません。
深層心理は何を思っているのか?
>心の問題や、憎しみ

この答えは子供時代の人間関係にある筈です。
(大人にならない=子供であり続ける=親子関係等に代表される子供時代の人間関係は心理的に無限に継続)
「無限に継続」
>憎しみは消えない

だから「憎しみは消えない」(自分が子供であり続ければ=親子関係等に代表される子供時代の人間関係は心理的に無限に継続)
様々なルートを辿って、その心理が「所謂”たちの悪い若者達”(特に男性)」に性的拒絶を梃子の原理として反動的に投影されている。

加えて、hakoさんのそんな心理は隠せませんから(共同幻想適応系の人格は潜水艦ソナーのようにそういう違和感に神経質なぐらい敏感です:それが何のことかはわからないが違和感を感ずく敏感さは共同幻想適応人格はとても強いんです:社会通年的にわかりやすくいえば”オバサン社会の心理”のような特徴は、共同幻想適応系人格全般に見られます)、周囲はそこに違和感を感じ、
(それを彼らが好感と感じる事は考えられませんから)
むしろ彼らの側から(彼らの集団心理における潜在意識として)無意識的ですが、hakoさんから(俺らが)嫌悪されているとか、蔑視されていると受け取られ、実体としての社会の中でも諸問題が派生する。

極端に言えば
「死ねばいいのに」がそのまま文字通り見透かされることはありませんが、
少なくともhakoさんが嫌っているような雰囲気は(hakoさんが隠しているつもりでも)大半のケースで「薄々バレています(限りなく”バレバレ”に近い)」

それこそ人の興奮は(遠赤外線として実体伴うって説もあります)、相手に伝わるもので、その対象者が潜水艦ソナーのように(見かけと違って)繊細なぐらい神経質(ビビリ)だったら?
(怖いホラー映画を観ていて本気で怖くなったので、大声出したり無理に笑ったり、歌いだしたり→下卑た笑い声をあげているような、チャラチャラした男性)

特に関係があるわけでも無い人物に「死ねばいいのに」と思われているんですよ。
(声まで聞こえないが”なんか変な感じ”としてそれが相手にバレている)

これじゃ悪循環は止まらない。
「自分個人のサイドからこの悪循環を止めるアイデアなりはないだろうか相談してみよう」
と思うんでしたら回答を探す事です。
 ↓
>死ねばいいのにと思うこともあります。

「死ねばいいのに」:この心理は子供時代の人間関係の中の何処からきている心理だろうか?
1120 返信 Re:根本的なところから認識の”ズレ”があるんです(誤変換多く校正しました) hako 2010/09/11 20:10
ご回答、ありがとうございました。何回も読みました。きちんと
理解できているかどうか怪しいですが、レスを読んで思ったことを書きます。

「死ねばいいのに」というのは、kagewariさんの言う通り、思春期から今までに起こったことと照らし合わせて、この世の男性全員に思うことです。
ちゃんと意識はしてませんでしたが、そう言われて、ああそうなんだと思いました。
容姿の悩みと、容姿(が一番の原因だと自分では思います)によって男性に攻撃されてきたことは、今まで誰にも言えませんでした。私にとって、男性は敵なんです。攻撃されて当たり前、だから自分を守らなきゃいけない。個人的な性格とかそういうもの云々より、まず第一に、男性の、男性としての性質が嫌いです。怖いです。どんなにいい人そうに見えても、やさしそうに見えても、やさしくても、結局男性は、自分より弱い(と判断した)ものにはどこまでも残酷になれる生き物だと思っています。この世の男性の99.99%くらいは、です。

私は容姿をあまり着飾らないので、男性にとっては、男でも女でもないただの弱い生き物に見えるんだと思います。たとえば、私が整形して着飾って「女」になったら、寄って来る男がいるかもしれません、でも私はそれが気持ち悪いです。女を強調するのは私が今まで心の底で「死ねばいいのに」と思ってきた男に、自分からエサを撒くようなもので、そんなのはとても嫌です。だから大人(=女性)になりたくないのかもしれません。性的な目で見られることも、気持ち悪いです。

男性からしたら、そりゃこわいし、はあ?って感じですよね。これも言われてみてはっとわかりました。道ですれちがった女に「死ねばいいのに」と思われるんですもんね。
でも私は、その道ですれちがった会ったこともない私のことを何も知らない男に、「ぶち殺すぞ、ブス」と言われました。そいつは坊主頭の高校生か大学生っぽい感じでした。その時、私は別のこと(家族のこと)でいろいろあってすごく気が立っていました、心の中が陰鬱で塞がっていました、でもすれ違った男を睨んでいたわけじゃないし、完全に無防備でした。
言われた瞬間、「あ、来た!」と思いました。なんていうか、今まで起こったことの集大成だこれは、みたいな感じがしました。で、ぱっと振り向いて、「うるっせえよ!!!!!」ってキチガイみたいな声で叫んでやりました。
そのあと、自転車で走りながら(自転車に乗ってたんです)、動悸がして、喉が震えて、泣きました。言い返したけど、怖かったし悲しかった。いつもこうだったなあ、って思いました。すいません、話が長くなります。これは、今日起こったことです。

「なんでなんでなんで?」って、いつも考えるんです。理不尽なことが起こると。
その時の相手の気持ちも、本当は考えたくもないけど、考えてしまうんです。
当然なのは、私がそこに存在しなければそれは起こらなかった、私の容姿が女として普通かそれ以上なら「それ」は起こらなかったってことです。
坊主頭の男はクズだと思います、そんなクズにぶち殺されなきゃいけないほど自分はブスじゃないと思います。でも、その時の、ありとあらゆる状況が、その坊主頭の精神状態が、私が外へ放っていたすべてのオーラが、そいつに「ぶち殺すぞ」と言わせたんです。女性に「ぶち殺すぞ」なんてすれ違いざま言われたことなんてありません。いつもいつも、そんなことをするのは男です。男性の性がそうさせるんじゃないですか?自分よりも劣っているものへ、弱いものへ、異性として自分の益が発生しない者へ。どこまでも残酷になれる。

憎しみは消えない、っていうのは、私がこれから先どんなに満ち足りた人生を送れたとしても、幸せになることがあったとしても、「ぶち殺すぞ」という言葉を、声を、あの時の目をはっと思い出しては、苦しくなって泣くんだろうなってことです。私があの時されたことをそのままそいつに仕返すのは不可能です。私にとっては大事でも、相手にとっては取るに足らないちっぽけな出来事なんです。
日々が過ぎれば過ぎるほど記憶が重くなっていく気がします。
いきなり思い出しては、発作みたいに苦しくなって泣いてしまいます。
その苦しみにどう立ち向かえばいいのか、どう打ち勝てばいいのか、わからないんです。
長々と本当にすいません。しかもkagewariさんが男性であるということを度外視して書いてます完全に。
いろんなことがあって情緒不安定すぎて、正気を保っているのが苦しいです。
(いろいろ、原因があるんですよね、私自身に)
1121 返信 概ね理解されているんだと思います kagewari 2010/09/13 16:30
理解された上であれこれと抑制が効かない状況(文章の破綻)になっている。
今回の返信の中のいくつかの文章は、ロジカルという概念で言えば「文章レベルで破綻していて」=「事実や・自我の本音、そのどちらでもない」と断言できます。
つまり、そういった認知は脳内でも認定されていないし、現実にも存在しない(本音ではない)。

■リアクション(『被(こうむる)』構造)として、そうなっているだけです。
 ↑
これ何のことか解説しますと、
ロジカルとして存在するとか、脳内で認定されるとか、本音であるとか、こういった現象は主体的に(あるいは個別に)「独立してその概念や論理を保持できるもの」です。
わかりやすいイメージで言えば『補助輪無しで走行する自転車』

しかし今回の文章の大半(概ねすべて)は自己完結性のある論旨が一つもないのです。
 ↓
>その時、私は別のこと(家族のこと)でいろいろあってすごく気が立っていました、心の中が陰鬱で塞がっていました、
>でもすれ違った男を睨んでいたわけじゃないし、完全に無防備でした。
>「うるっせえよ!!!!!」ってキチガイみたいな声で叫んでやりました。
>当然なのは、私がそこに存在しなければそれは起こらなかった、私の容姿が女として普通かそれ以上なら「それ」は起こらなかったってことです。
>男性の性がそうさせるんじゃないですか?自分よりも劣っているものへ、弱いものへ、異性として自分の益が発生しない者へ。どこまでも残酷になれる。
>憎しみは消えない、っていうのは、私がこれから先どんなに満ち足りた人生を送れたとしても、・・・
>いきなり思い出しては、発作みたいに苦しくなって泣いてしまいます。

この論旨の形を維持するための(それこそ数学的に言えば必要十分条件)前提は何か?
・自分の容姿
・男性差別
今回の文章を試しに「男性」という言語を「○国人」という言葉に置き換えてみてください。」
レイシストのいわれなき人種差別の文章そのまんまです。
つまり『論旨は同じである』
人種差別主義者の心理がルサンチマンなどを発端にする投影(本来の解決すべきストレス元は自分の側にある)であるのは言うまでもありません。
通常人種差別主義者は階層的に「貧困層」であったり、極端な民族主義者のような内面に強迫性を認めざるを得ない人格で派生します。
(リアルなナショナリストは文化的に自国の保守性を信念として重視しますが多民族を人種差別的な偏向で見ることはない)
歴史的な大問題である第二次世界大戦当時のドイツにおけるユダヤ人差別(欧州にユダヤ人差別が恒常的に存在しているのは事実ですが)これがエスカレートした背景は、当時のドイツがベルサイユ条約などの第一次世界大戦の国家賠償などで経済的に困窮状態であった事が遠因であるのは言うまでもありません。
又、米国における黒人差別で有名だったKKKは”プアホワイト”と呼ばれる階層抜きには語れない。

こういう論旨には必ず『スケープゴート』にあげられるような事件がまことしやかに広がります。

(自転車が倒れないように)論旨を維持するために(人種差別を合理的に説明する自己完結性のある論旨など存在しないので)「何かの証明」であるとか「これが証拠だ」のような”補助輪”が必要なんですよ。
(たとえは飛躍しますが、わかりやすい実例として畑違いの犯罪心理学の話から考えてみると、はた目から見てまったく動機不明の不特定多数の他者に傷害を負わせる通り魔的犯行もほぼ100%が内面に元となる動機が別個にあって、犯行動機はその投影に過ぎないため(それを現実の犯行に及ぶ決断をするという部分は犯罪者特有の心理で行為に及ぶ分は強迫とは関係ありません)、犯人自身も後から「どうしてそういい犯行を犯したのかはっきりと動機がわからなかったりする」=それはあたりまえです。不特定多数の人物に傷害目的の動機が成立するなんて世界は人類のどこにも存在しません。こういう場合に最も多く聞かれる証言「○○なら誰でもよかった」はその動機が投影現象に過ぎない証明です。「○○なら誰でもよかった」の○○は、時に『男性』だったり時に『女性』だったり時に『子供』だったり時に『○国人』だったり本当に『誰でもよかったり』様々です)

奇しくも今回登場するエピソードは、かなり高い確率で前回私が「容姿の悪さ」などの事実関係を何か自分が発言するロジックの前提として証明する事は構造的に不可能であることを証明したからですよ。
つまり「容姿の問題と男性」という強迫的幻想は非常に不安定になり、論旨自体を維持するのが難しくなった。

困った強迫心理には、それ(容姿で話を構成できなくなる不安)を補完するために「これが証拠だ」なるエピソードで意地でも「容姿の問題と男性」という強迫的幻想を保守しようとそれを衝動化する動機があります。


■思うに上記の「困った」という部分が一番理解難しいところなので補足しますが、
 ↓
脳内では快でも不快そのどちらでも『興奮は100%快感分類』なんです。
当然それが恒常的に続いたり慢性化すれば”快感依存”になります、
(万引きを繰り返したり、アル中になったり、性依存症や当事者には一時的にも不快という依存症は枚挙にいとまがありません)
卑近な例ですが性倒錯におけるSMであったり、一般的にはジェットコースターやホラー映画もその外郭にあります。
私は脳生理学方面の専門じゃありませんが、脳内快感物質(脳内麻薬でもいいですよ)のひとつであるドパミンは快感物質ですが暴力的衝動時にも分泌するなど(大ヒットする映画の何大要素みたいに思い出してくれれば簡単『性・暴力・スリルとサスペンス』)、強い興奮とその代謝は端的に言えば『快感経験』であり、脳の役割として快感記憶の再獲得が求められますから(動物における本能のコアのレベル)それが習慣化すると一種の依存症になります。
(見方を変えれば鬱病も一種の依存症なんです。他にも自傷や自殺衝動の反復など全てその類型といってもいい)


『性の拒絶による轟轟とした憎悪のような興奮』
 ↑
これは性行為(広義の性衝動なのでこれはダイレクトにSEXの意味ではありません”着飾る”や”男性の出世”なども含む文化全般に至る性衝動と考えてください)の代償満足として対比関係を構成しているんですよ。
(動物としての性衝動を『心理的性の嫌悪』により抑圧していますから、自我はバランスを取るために『男性への敵意や嫌悪や殺人衝動』などによりこれを代償満足の形で代替している。しかし、性衝動のような現実世界では無く一度内向へ抑圧された衝動は反動であるとか強迫特有の誇大・肥大などのバランス係数をへて極大化し(正面にある本質的行為が抑圧されて別の行為による代替なので極端じゃないと交換できない「アイスクリームがダメならお菓子を100袋買ってこい!」)自我のバランスを取っているが、極端な興奮は過剰な快感依存ともなりこの興奮獲得が恒常化・慢性化する)
 ↓
「男は皆死んでしまえばいい」

近代における米国南部における”プアホワイト(荘園の黒人より食えない貧農層などが実在したんです)”が、
「黒人は皆殺しにすべきだ」

現象・構造としてどういう二次的派生心理かわかりますよね?
上記は両者ともに本音ではありません。


■次に『無意識』と『自意識の抑圧』を理解してください。

知らない間に何かしているときに
「○○さん何してんの?」
「えっ?」
と、驚く時に
「無意識にやっちゃった」
という場面ありますね。
(厳密に言えば錯誤行為みたいなものなんですが)

簡単なモデルですがここに「無自覚にロジカルで知的な行為が、まったく知らないところで行為化される」事が証明されます。
(その極端な例が伝統的心理学におけるフロイドの夢分析になります)
極端に言えば自意識が抑圧されている状態は極度に集中力が低下している状態と同じです。
(今何をしているのかも自覚が無いレベル)

そして、
>その時、私は別のこと(家族のこと)でいろいろあってすごく気が立っていました、心の中が陰鬱で塞がっていました、
この状態の興奮レベルは、ヤケ酒で強い酒を飲み酩酊状態とかなり近いレベルに自意識は後退(抑圧)していると見ても大外れじゃありません。
ご自身それを証明しています。
 ↓
>完全に無防備でした。
=「完全に無意識で(自意識が抑圧されていて)はっきりいって自分が何をしているのかもはっきりわからないぐらい私は動揺しており」

この場合ですね、
 ↓
>でもすれ違った男を睨んでいたわけじゃないし
この記憶が100%正確では無いことが証明されているんです。

家族の問題等での憎悪や興奮は(無意識に)ほぼ間違い無く顔に出ていたでしょう、
且、常々家族に起因する心理問題が内向世界で変質し『男性』へ投影固着している人物が、
(しかもそれを証明する理由として「容姿」を振りかざしていたが、よく考えると「自分の容姿が悪いことは証明できない」と説明うけたばかりでその根拠は不安定になっているときに)
男性とすれ違った、
そこで同時に何か無意識に独り言でも言っていたとしたら?

同様のケースを私は枚挙にいとまがないぐらい知っていますが、
100人が100人「チラっと見ただけで、誰もジロジロなんか見ていない」という証言のほぼ100%は周囲が呆れるぐらいジロジロ見ているのであって、
『性への嫌悪』を抱える女性の一部には性的暴力の被害者に「無意識に全く自覚なく」自ら確率の高い選択をしたり、
特にDVの大半は暴力を受ける女性の側にも強迫心理が関係します(父親に対するコンプレックスなど)、
(DVの被害が拡大するまでなかなか離婚が選択されないのはそれが理由:共依存の一種だからです)


『本当に被害にあったじゃないか!もう証明の必要のない間違い無い証拠だ』
(しかしそれが男性全般を殺戮してもいい理由では到底ない事は説明の必要ありません)
心理的には、この補助輪があれば(少々「容姿の証明が揺らいでも」)十分男性への憎悪や殺意を構成できるんです。
(脳内は現実では無いですから)

又、容姿で証拠を固めようとする場合があります。
>私は容姿をあまり着飾らないので、
この状態はそれが暗示されているだけですが、
拒食症による異常な痩身や、
過食症が関係する極端な肥満。
このように容姿を(心理的興奮の証拠を固めるため)健康を害するレベルまで貶める場合も少なくないのはご存知でしょう。

拒食や過食の場合でも(社会との関係であるボーダーではありませんが)男女関係などの境界における問題として発現することが多いって流れに関してあえて説明しなくても理解いただけると思います。


■繰り返しますが
今回の返信の中のいくつかの文章は、ロジカルという概念で言えば「文章レベルで破綻していて」=「事実や・自我の本音、そのどちらでもない」と断言できます。

個別に話し出すときりがないので、
典型的な箇所で証明しましょう。
(同様の矛盾は各所で散見され、結論日本語の形になってますが実は全て意味を成していないって話に繋がるんです)
>男でも女でもないただの弱い生き物に見えるんだと思います。
 ↑
この状況の人物に男性が興味もつ筈無いですよ。
(心理的にも穏やかで何の気配も表に出していなければ存在すら確認されないでしょう)
簡単ですよ、
男性は女性に惹かれるのであって(そのキャッチコピーのひとつがセクシーで美しい)、そもそも人類が歴史的に女性が女性らしい容姿に変形し(他のサルと比べてくださいよこれほど雌雄で外見上の差異があるのは派手な容姿で繁殖原則を構成する鳥類の一部ぐらいです)、さらに化粧をすることで、男性を自然界では到底不可能な労役に付かせたんですよ?
(動物の本能には自分が死ぬかも知れない戦争や家族全員が食えるような労働を継続したり住宅ローンを支払い続ける行動原則など存在しない)
原始時代のその原型が進化して広義の文化として現代の人類もその系譜にある。

イスラム教で女性全員に外出時にヴェールを被り容姿を見せないようにしているのは「男性を守るため」です。

根本的矛盾は
>男でも女でもないただの弱い生き物に見えるんだと思います。
>たとえば、私が整形して着飾って「女」になったら、寄って来る男がいるかもしれません、でも私はそれが気持ち悪いです。
そして現状男性への憎悪や殺意がある。

おかしいと思いませんか?
この心理状態が成立するためには、
理由はどうあれ)男性全員は私が歩けば皆振り返り・・・
とならないと対象が男性全般って話の定義は成立しません。
心理の根っこが”性への拒絶”や”性への嫌悪”であるため、結果論的に対象が男性全般になるんですが、
容姿はともあれ「男性の側を性悪説として成立させるロジック」が自分固有の容姿(いい悪いどちらでも)になると、これ発端や前提を自分を中心にしなければならず(いい悪いどちらで)、
『私の○○が○○だから、男性全員は○○だ』
○○の内容が何であれナルチシズムである事わかりますよね。
いい悪いどちらであってもこういう構造そのものが”自己中心型”で”強迫性特権階級意識”となります。

まったく自分でも思ってもみないロジックに完全に陥ってしまっています。

参考までに「容姿がいい」方を強迫の梃子にして『男性全般を蔑視』状況を成立させる女性の場合「自分は何もしていない」「人間関係を円滑にさせるために善意で話かけただけ」と発言しますが、き取り調査するとほぼ100%「一般常識では明らかに自分から男性を誘惑」していて(これは共同幻想社会にバレバレ、というか”目にあまるぐらい”明快)、実態は自分から男性を過剰に誘惑して(本人は自意識抑圧でまったく自覚がない:記憶がないレベル)、男性といえば色恋沙汰となり⇒待ってましたとばかり『男性は汚い女性を性の道具にしか思っていない』という構造で『男性全般を蔑視』状況を成立させるケースも珍しくありません。
(性依存症であるとか、不倫関係以外の男性関係が無いなど様々なパターンあります)
上記の様に『容姿』に関しては、着目いいでも悪いでも同じ『男性全般を蔑視』状況が成立するのは『性の拒絶や性の嫌悪』の反動や投影的発現として典型的なパターンです。

勿論問題は自分自身の『性の拒絶や性の嫌悪』であり、二次派生の男性云々は全て派生的幻想で全く意味が無い。
『性の拒絶や性の嫌悪』があるのは、大人になることへの拒絶で、自分が誰かの子供であり続ける事への強迫的執着(激しい不快興奮や強い快感依存的など”不快パターンでも快パターンでも”そのどちらでもあり得る)であるとか、自我が『現実世界』である「時間の経過(大人の年齢)」を拒絶し、内向(自意識抑圧)自我が無意識的幻想寄りの現実との乖離に陥っている証明です。



>私は容姿をあまり着飾らないので、
 ↑
これはですね、現実化を避けているんですよ。
果たして着飾ったらどれぐらいの男性が私に興味をもつだろう。
に比べて、何故か「私は容姿をあまり着飾らない」とすると、
不思議と
男性全てが私をって話が始まり、、


仮にですよ?
彼を睨み付けた時(本人の自覚は視界に入っただけ現実は睨み付け)の状況が、
「汚い男性め!私を犯したくってしょうが無いんだろう、このブタが。男性は全員ブタだ死ねばいいのに」
こういう心理が無意識に顔に出ていたら?
男性から見れば、
「(着飾らないので男でも女でもない容姿を意図的にしている人物に)そもそも100%あるワケないだろ、うんで、その上何言ってんだあんた。すれ違っただけの人間になんてこと言うんだよおい、それは明快な侮辱であるだけで無く喧嘩売っているより悪質だろ」
だとしたら?
>「ぶち殺すぞ、ブス」
この言葉もどこまで正確かは推定の範囲内ですが、
そもままの文言だと仮定して解釈すると、
「男でも女でもない容姿の人物相手に俺が無我夢中で追い回すとかってあるワケ無いだろ(俺が幼児性愛偏向倒錯の所謂変態って意味かよ)、いかにもそれが男性的ってさ、ってことはあんたは自分で私は女性としてどんな男性も無我夢中って意味になるのわかってる?おかしーーだろおい。だって”ブス”だろ(男性は”無我夢中”がトンデモ級の言いがかりだって意味ですよ)。しかも赤の他人に死ねばいい最悪だってあんたさ、どういう喧嘩の売り方なんだ(あんたの殺意が明快なので殺される前に)ぶち殺すぞお前。」

ということですよ。

■根本的なところは本来上記の説明は必要ないぐらい明白で、
以下を繋げてみれば簡単です。
>男でも女でもないただの弱い生き物に見えるんだと思います。
=『子供』
私にやたらと関わってくる(家族)
そして思春期に発現する『性への拒絶』は「反抗期の不全」であり=親子関係における強迫心理の証明である。

つまりこの憎悪の元は、母親か父親のどちらかとhakoさんの間のエディプス的な強迫心理が本質で、男性がどうしたこうしたってのは派生的な物語に過ぎないって事です(本質的な問題から自我が逃げるための幻想)。
注)女性全般を女性がヘイトする形の心理に陥るケースもあり”性への嫌悪”出現の形も様々ですから、hakoさんの状況が現在男性ヘイトだから単純に発端が父親との関係であるかのように早合点するのは間違いです。ここは詳細に考えないといけない部分なので(又同様のケースは何らかの形で夫婦そのものの共依存関係が成立している場合も多い)。


■ご自身自分では気がつていないしょうけれど(目の端っこに薄っすら見えている程度かもしれません)
上記私が説明した事は『おおよそhakoさんは承知』していて、
実は説明の必要の無い話なんですよ。

今回唯一有効な破綻していない文章があります、
以下の2行の文章です。
(端的に言えば返信は以下の2行だけでよかったんですよ)
 ↓
>いろんなことがあって情緒不安定すぎて、正気を保っているのが苦しいです。
>(いろいろ、原因があるんですよね、私自身に)

hakoさん自身それ(前段の私の説明)を薄々わかってたってことです。
(だから上記の2行がある)
ここが全ての問題のコアです。
1123 返信 Re:概ね理解されているんだと思います hako 2010/10/21 03:41
お礼を言うのが遅くなりましたが、返信ありがとうございました。
自分が、無意識に或いは意識的に、異性に敵意を撒き散らしているんだなってことがわかりました。自意識過剰で、「(ブスなのに)自分が無条件に良く見られたい」ってどこかで思ってるんだと思います。そんな自分がすごい恥ずかしいです。
あれから、男性とすれ違う時は、注意しています。また何か言われたらどうしようってびくびくする時もありますが、kagewariさんにはっきり言ってもらえたことで、ずっと自分の中でしか問答できなかったことに、ひとつ区切りをつけることができました。ありがとうございました。

そして、kagewariさんの言う、

私にやたらと関わってくる(家族)
> そして思春期に発現する『性への拒絶』は「反抗期の不全」であり=親子関係における強迫心理の証明である。

に関して、すごく思うところがあり、今回また相談させてもらいたいです。

自分で考えてみて思い至ったのは、「私は母親以外の人間には誰からも愛されないかもしれない」っていう恐怖があるんです。
kagewariさんの分析に当てはめていくと、上記の恐怖(不安)を「やっぱりそうだろう」って何がなんでも実証したいがために、醜形恐怖だとか、異性が憎いとか、人間不信だとか、何をやっても結局うまくいかないんじゃないか、とかそういうことを思ってしまうんじゃないか。「ほら、お前は結局誰からも愛されない、何もうまくいかない、結局母親以外お前をかまってくれる人はいないんだ」って感じに。
母に対しては、とてもひと言で言えない複雑な感情があります。
母親として、これ以上無いって程お世話になった(高校生〜21歳くらいがピークでした。醜い自分への整理できない感情と、それに付随する色々な出来事で荒れていました)、どんな醜態をさらしても見捨てずにいてくれた、って感謝している反面、すごく嫌だなって思う時があります。感謝して申し訳ないって頭では思っていても、会うと横柄な態度をとってしまったり、話していてイライラしたり。あと、依存するのがすごく怖いです。
4年くらい前、一人じゃなにもできない(くせに横暴)な自分が嫌で嫌で、実家の一駅先に部屋を借りて一人暮らしを始めました。母と同居していたときは衝突が絶えなかったし、上記の「母親以外からは誰からも愛されない」をどうにか払拭したかったんだと思います。
「家族(母親)には頼りたくない、母はいつか死んでしまう、一人でも生きていけるようにならなきゃダメだ」って強迫のように思って、不自然に関わりを無くそうとしていました。
でも心はいつも不安定でした。母と関わっても、関わってなくても、問題や不安や自己嫌悪は際限なくやってくるし、騒音トラブルと近隣恐怖が2件続いたことで神経もまいってきて、一人でいると過去のトラウマもよみがえるし、死にたいとよく思うようになりました。今はだいぶ落ち着いていますが。

母とは普通に接したいんです。でも、今もなかなかできません。性格も趣味もまったく違うし、私の精神的なことは、理解できないんだろうって思います。表面上は、私のことが心配とか、やっぱり可愛い、とか言うけど、こっちから何か真面目に話そうとすると「なんでそういうこと言うの?」とか、「そんなの当たり前じゃん」的なことを即言われたり。「なんでこの人はこういう風に言うんだろう…言いたいことが伝わらない、話ができない」ってずっと思ってきました。ふとした瞬間にすごくイライラして何も話したくなってしまう。昔みたいに横柄な態度を取りそうになってしまう。
私が調子がいい時に母の具合が悪かったり、母が何かしようって言った時私が鬱の真っ最中だったり、状況が合わないんです。こうしよう、ああしようって思っていても、うまくいかないんです。
でも母は「家族だから、たった一人の子供だから」って言葉を掲げてくる。
なんでこんなにも母親に対して色々思っちゃうのかわかりません。
性格が合わないなら合わないで、それはしかたないことなのに。

私には姉が一人いますが、姉は私と違って社交的で友達も多く、母親や家族(私)に対して執着していないように思います。もしかしたら不満もあるのかもしれないけど、絶対に口に出さないって感じです。大人なんです。私が、思春期にあまりにも横柄な人間だったからか、「もうあきらめた」って思ってるようにも思えます。姉とは数年ほとんど口をきいていません。姉とのことも悩みです。

なんで普通のことが普通にできないんだろうって思います。
普通は、家族と(気があわなくても)それなりに折り合いをつけてやっていくものだろうし、普通は、近所の人とも普通に接することができるだろうし(私は近所の人が怖くて、挨拶が苦手です。「あそこの家の駄目な子供だ」って疎まれてる気がして。自分でも異常なくらいだと思います。克服したいです)、でも私は、やらなきゃやらなきゃって思ってやっとできる(もしくは思ってもできない)って感じです。

家族や近所のこととなると感情がコントロールできなくなります。理性をどんなにかたく持っていても、逆らえないんじゃないか、この「うまくいかなさ」に呑み込まれるんじゃないか、って怖くなります。不安でしかたないんです。

今、金銭的な理由と、どっちにいても精神が不安定なら戻ったほうがいい、という理由で、実家に戻ろうとしています。
でもまたうまくいかないんじゃないか…と恐怖にかられます。
思ってると実現してしまうような気がするので、恐怖を掘り下げて考えないようにはしていますが。

家族とのコミュニケーションと近所付き合いをうまくやっていくには、どうすればいいでしょうか?不安なことは深く考えないほうがいいんでしょうか?
長くなって申し訳ありません。
アドバイスがあれば、教えてください。

1124 返信 本文の前に前書きあります、前書きを十分に読んでから本文読んでください。 kagewari 2010/10/21 18:29
公開掲示板での返信には外郭的となる限界ありますので、
そこを前提に以下読んでください。

■今回のレスはかなりショッキングな内容となっているかもしれません。
■必ずある程度心理的に平静で余裕のある時に読んでください

又、記載内容の表面的部分で自我が興奮して内容を判断できなくなる可能性もありますから、
十分に繰り返し「底に書かれている内容」を読み取ってください。
直線的な意味以外の”関連性”や”関係性”ここが重要です。

それから以下を読んで、急いであれこれ考えないでください。
推理小説のように緻密に、冷静に「何がどうなってこうだっかかも」と辿るように考えましょう。
その先の結論は簡単にすぐわかるような場所にはありませんから、
読んだ後、その直後に考えても「何も結論は得られない」ぐらいのテンションを保つ事。

又、抑圧された記憶が時間経過の中で解除される(何か思い出したみたいな)事もあります、
ですから「とにかく結論を急がないで遺跡発掘ぐらいの時間的スパンで考える」、

以上条件を十分徹底の上、以下読み進んでください。





(あえて行間空けます)









<本題>
さて、話のメインはここですね。
>「私は母親以外の人間には誰からも愛されないかもしれない」っていう恐怖があるんです。

恐らく100%この話がボタンの掛け違いの始まりだろうと、
現実は『逆さま』だと高度の確率で推定できます。
 ↓
「人を愛するなどの感覚(自立する大人でしか共有できないので)が欠落している人物の代表格が母親」だからです。

で、
強迫心理のコアは(幼児期にも母親の言動の異常さに薄々気が付いていたのに)
母親との共依存関係(互いの強迫心理を担保にする相保障みたいな多重債務関係)への固着が強迫心理のコアで、
「同一化」とかで表現される事もある依存関係が成立してるため⇒その条件が成立するためには常に自分は”子供”でなければならないため、母親との共依存関係を強迫的に肯定するために全てが順番に並んでいる。
(絶対条件のような強度優先順位が『母親との共依存関係』となっている)

これを肯定するために「全ての男性社会への殺人衝動」が二次派生している。
そんぐらい(矛盾や無理難題が噴き出すほど)この『母親との共依存関係は歪に偏向している』って事です。
(それを正当化すると自動的に男性社会全体をヘイトする事になるレベルって事です)

「結局母親以外お前をかまってくれる人はいないんだ」と強引にこれを成立するために
 ↓
『醜形恐怖症』が必要とされた(或いは呼び出された)

ほぼ100%hakoさんの”段階的本音”(強迫心理の解体過程の中間状態って意味で”本当の本音”じゃありませんよ)は、
「死ねばいいと思っているのは男性では無く母親」ですよ。
>すごく嫌だなって思う時があります。
 ↑
こっちが本音


母親との決して離れない関係を無理くり肯定するために、子供が自分の個体自立を犠牲にして『母子一体』の強迫心理を捏造した。
こういうケースの主犯(これいい悪いって意味では無く関係性の意味ですよ)は”母親”でしょうね。

犯行の手法は以下
娘を醜い子だとその評価を間接的に定着させ、社会と娘が自立的関係を築く(=自分から離れる)事を恐怖し、特に性的自立により自然に娘が大人の年齢になって自分の手元から離れる事を避けるため、人間の外見ってものはどういうものでとかの人生訓を語るのと反対に「外見に悩む娘を庇う」という巧妙な手法で外見恐怖を正当化し(実はお前の外見は醜いと言っているのは母親である)、20の年齢の超えても尚『過干渉』という『虐待関係』を成立させ、娘は自分自身の性的自立(年齢)すら外見恐怖の中に織り込むほど(性差が目立たない=子供のような服装)自意識や自我の発育を『抑圧(弾圧)』し、押し込まれた生への欲求(生きるモチベーション)は閉塞状態となり(簡単に言えば便秘)、その反動で(抑圧されている部分を被害と計算してそれに応分に敵うような弁済として)「男性社会全員が死ねばいい」という偏向に至る。

※男性社会全員が死ねばいいこれの暗韻は=「世界が自分と母親だけになればいい」

ところが決定的な論理矛盾は、
男性社会全員を殺すと、自分の『醜形恐怖症』の根拠を喪失します。
つまり母親に庇ってもらう必要が無くなってしまう。
(簡単に言えば「ド・ナンセンス」)
「狼がくるぞ」
こういうデマを飛ばしている首謀者は「ほぼ間違いなく母親」でしょう。


母親は『自分自身(母親)の不安や強迫から逃れるために子供との依存関係を必要とし』
子供を自分の強迫心理正当化の道具として”取り込んだ”(憑りついた)。
■当然強迫心理ですから「自分が何をしでかしているのか」母親にもわからんのですよ、
無意識にこういう母親像でここまで彼女はきてしまったんです。

>でも母は「家族だから、たった一人の子供だから」って言葉を掲げてくる。
 ↑
典型的な「嘘っぱち」です。
(しかし彼女(母親)は心理的に全く自分の嘘(欺瞞)に自分でも気が付いていない)

>私には姉が一人いますが、姉は私と違って社交的で友達も多く、母親や家族(私)に対して執着していないように思います。もしかしたら不満もあるのかもしれないけど、絶対に口に出さないって感じです。
 ↓
傍目から見ていて、
「これはマズイ私は逃げよう」と彼女なりに直観したのでしょう。

>今、金銭的な理由と、どっちにいても精神が不安定なら戻ったほうがいい、という理由で、実家に戻ろうとしています。

これはお勧めしませんね、
断固一人暮らしを続けるべきです。
所得的に困るようなら地方自治体の福祉相談窓口に相談してください。
(福祉請求のアリバイ的に心療内科や精神科に一度通って診察カード作る方が何かと安心かもしれません)


母親の人格にどういう(彼女なりの)問題があったのか?
それは彼女(母親)の子供時代の情報や特に彼女(母親)の夫婦関係の情報が必要になります。
(男性蔑視の元ネタは彼女(母親)の深層心理になるのじゃないでしょうか)
個人を特定するプライバシーに及ぶ部分もあるので、有料メール以外ではこれ以上は難しいのですが、
表現として間接的というか、個人を特定されないように上記情報があればその先も「ある程度まで」ですが分析可能です。

彼女(母親)の人生には”何かが”ある筈です。
そして今回の返信にも何故か登場しない”父親”、
今後はあまり自分の事を考えずに、
「問題を抱えつつここまできてしまったある夫婦の物語(サーガ)」
ここに集中して自意識マター(自発的自立的思考)を投入していけば心理的フェーズが変わると思います。

1116 返信 管理人告知です、先の話ですが「OTDが閉鎖」になります。 kagewari 2010/08/16 14:15
ブログの方でアナウンス済みですが、この掲示板を置いている契約サーバであるOTD・BBSの閉鎖が決まりました。
http://kagewari.seesaa.net/article/159151126.html
現在のところ過去ログ検索ボードだけでなく、現行掲示板ページもも過去ログHTMLとして保存して閲覧できる方向で考えてます。

掲示板の運用に関してはHPで利用しているレンタルサーバへ実装する形で検討中。
(同じように他社レンタル掲示板と契約って手も無いじゃ無いのですが、文字数制限や過去ログの保存容量などOTD的”限りなく無制限”なものはそれほど多くなくってか、OTDの経営を圧迫したのもその仕様にあったらしいんですが、、)
公開掲示板運用の当初目的(相談プロセスの公開や相談以前で何か参考となるログ閲覧希望に対するログの公開)は事実上終わった感もありますが(これだけ膨大な容量と件数を閲覧できる心理系サイトは無い筈で)、まだまだ継続の方向です。

仮の話ですが、掲示板を閉鎖する場合にはブログ「Kagewari 精神分析相談事務所・沖縄分室」を心理学テキスト系メインの運用として(結果として何らかの相談に対する返答となるような)、現行の公開掲示板同等の形に格上げって形があるかもしれません。
元々ブログには掲示板機能ありますから、個別のやりとりはコメント欄で補完するって手も無いじゃないですから。
掲示板の方も当初から事実上一対一のやりとりを原則とするので、ノーマルな掲示板運用とは若干趣旨が違うもので、
意味合いは違いますが、昨今各ポータルサイトが実装している・”ヤフー!知恵袋”とか”MSN相談箱”等この場合は「コミュニティーサイト的運営を試みている」ように、どうういう運営が適当なのかはともかく通常の掲示板スタイルが適当かって論議はあると思う(同様サイトをgoogleも過去に実験的に実装したことあるみたいで現在は廃止の模様)。
これらのサイトはネットで調べ物している時に検索結果として何かとヒットするもので、各ポータルの試みは副次的にネット内のQ&A事例の蓄積(社会資本)となっている一面ある。
<参考リンク>
http://chiebukuro.yahoo.co.jp
http://jp.msn.com
http://oshiete.goo.ne.jp

※因みに上記は所謂日常的相談や個別の技術的相談などを目的とするコミュニティーサイトなので、人生相談等「平場の意見を聞いてみる」的用途はアリです。しかしメンタル・心理系の個人的な相談には不向き(極端な保守的意見やその反対に時限的共依存サロン化の可能性もある)。

てなわけで、心理系の掲示板運営に適した”一般的掲示板以外”の専用サイトみたいなアイデアではブログ・コメント機能の方が(返信はブログ管理人に特定されるので)便利なのかもしれない。これも少々どころか大規模なカスタマイズを前提とするだろうけど(この場合もブログサーバだって永久不滅じゃないからって部分は残るが)、
Twitterに見られるように「文字数制限をかける(短歌的)効用」って部分も検証必要かもしれない。
※これ考えると又大変な事になるのでまだまだ先の話です。

■話は戻って、
さて『新掲示板の立ち上げ』なんですが、
えー予定は未定です(笑
OTDも閉鎖前の猶予期間が後半年以上はあるので、まだまだバタバタする状況でもないでしょう。というか本来は以前某HPに掲示板実装したことありますし、気の早い人なのでとっとと次の掲示板を立ち上げちゃうところではあるんですが、ブログ『住まいの心理学』の引越しで倒れそうな状況でして(俺も歳かなぁなどと感じる今日このごろ)、しばらく掲示板移設関係の話はご勘弁な感じです。
http://kagewari-retour.seesaa.net/

そんなワケでこの掲示板は「暫くこれまでどおり」です。
新掲示板の立ち上げが決まったところで又告知します、


1090 返信 母親のこと maccha 2010/03/27 17:22
母親が大好きで幼少期は母親の言うことを聞くことに一生懸命でした
これについて
好きなら言うことを聞かなければならないか?おかしい。
好きだという私なりの表現が、いうことを聞くことだった。
しかし、この時点でもう、私は、子供ではなくなっている。
従順な子供のふりをしている大人。育ててもらっているわけだし、仕方がないから自分をださずに子供のふりをしよう。そのほうが得だから。いつまで。大人になるまで。私が母を好きになるまで。

子供ではないのに子供のふりをする。芝居をする。どんどん大人になる。ますます〜しなければならないが増える。芝居が芝居でなくなってきている。超自我の肥大化。何のメリットがある?
自我はなぜ受け入れた?自分の足をひっぱっているのが自分。
自分が苦しむことで母を苦しめたかったから。
母はどこかで大人になる私を拒んでいる。

緊張の原因を私の幼少期の取り込み方にあるのではないかと思い、母親との事にあるのではと思い、検証してみる。超自我の見直し。自我の再構築。

過去レス読みました。内容の理解はかなりあやしい。
ヒヤヒヤしながらキャッチボールをしているのは私もそうだな、と思った。
しゃべりながらキャッチボールをする。
無駄話しながら、無意識にキャッチボールをする。
無意識の世界を共有しているような安心感がない。




今、現実に起こっていること。
父とのこと。
携帯を最近買い、父が私の携帯番号に4や9があり、よくないので変えるようにといってきた。
父が先祖が気になるので番号を変えたかと。母はかえてあげればすむことだし、という。
変更しとくわ。といったものの、一拍おいて考えると変更する必要あるのかな、と思う。身体は動かない。変更するの、嫌なんだな、私。
父の先祖なんかどうでもいい。
私の携帯を私のお金で買って電話代も自分で払って、別々に住み・・・
番号かえるだけのこと。でも、もう嫌。
別に、弱いものいじめをしているわけではないので・・・
1091 返信 Re:母親のこと kagewari 2010/03/28 22:15
>しかし、この時点でもう、私は、子供ではなくなっている。
>従順な子供のふりをしている大人。育ててもらっているわけだし、仕方がないから自分をださずに子供のふりをしよう。そのほうが得だから。いつまで。大人になるまで。私が母を好きになるまで。

というかですね、
文化人類学的といいますか、人は「社員である前に自分」でしょ。
家族法人も法人ですから。
属性として「部長(母親)と平社員(子供)」のような属性や関係性はあっても、あうんの呼吸といいましょうか信頼関係といいましょうか、実態は「個と個の尊厳」が前提なんですよ。(特に昭和以前の大家族主義時代の方が家族社会はより法人っぽかったので当時の方がそういった認知に迷いが無かった)
個人が誰かを超えて「立派な○○商事の正社員になるんだ!」というのはこれナイ話なんです。
(あるとすると”栄光の巨人軍”のような既存の上部構造的権威性が明快な場合→家族法人で似たケースは”名家”とか”貴族・武家”とか”歌舞伎の○○家”とか)
「どうか○○商事に入社させてください」と土下座したワケじゃないですから、
素で○○家に生まれちゃうのであって、

仮に「部長と社員の絆」のような信頼関係ある場合→「単に上司と部下の関係を超えて」と言いますよね?
言葉として「単に親子関係を超えて」という表現が無いのは家族法人の場合滅多に辞職や解雇事例が無いので(身分保障)「上司と部下の関係を超えても同じ親根関係の枠の中で言葉にしてもいいだろう」という(特殊な法人といいましょうか)、ここもあうんでそういうことになっているだけで、実態は同じですから「濃密な絆の親子関係」があるとするならば実態は「単に親子関係を超えて濃密な信頼関係がある」なんですよ。
つまり信頼関係のベースは法人としてのクラス(階級)上の関係性では無く(他人と他人同様)個人ベースだって事です。


「従順な子供のふり」というのは「上司に正社員として認めてもらおうと必死になっている」のと同じ状態なワケです。

今回のケースをザクッと説明すると
「パワーハラスメント下にあるのにストックホルム症候群(わからない場合にはググればすぐwikiが出ます)みたいな現象で、当事者が権威者にそれを”好感”だと勘違いしてる」という事です。
(当然人類ヒト科の幼児特有の”習性”として、記憶も定かじゃない時期からベーシックには両親に好感を持つ状態から始まる事も言うまでもありません。古い印象記憶として残存する)
 ↑
※重要な要素として強迫的関係により自我そのものの強迫意識を親子関係を媒介にして伝達させるタイプの親は幼児が”赤ん坊時代(大人の他者的不安感が無いため)”過干渉とも受け取れるぐらい溺愛するケースも多い(赤ん坊時代だけです→生意気に口を利くようになると正反対に親が不安状態になり神経質になり子供に対して警戒感の方が強くなる)。


極端なたとえ話をすれば、
「ある日突然別の次元にタイムスリップした。その次元では私は暴力団の構成員で、組のやることや下っ端の私がやらなくてはいけないことは不条理極まる違法行為ばかりだったのですが、当然そこから抜け出す事などできません。知らない間に私は直属の”アニキ”に気に入られようと必死になっていて、アニキは随分無茶な人なんですが、ある日等は・・・・”お前もいっぱしのヤクザになってきたじゃネーか”と声を掛けられた私は、、、その時です私が”アニキ”に一生ついていきます!←のようにワケわからん状態になっていたって事です」

わかりますよね?
この構造が投影なり連想されれば「会社の同僚との会食」←こいつが過剰なぐらい緊張の場と化す事が。



>携帯を最近買い、父が私の携帯番号に4や9があり、よくないので変えるようにといってきた。
 ↑
ですから、この現象も「電車でとなりの席に座ったオヤジがそんなエピソードの話をしていた」のと同じ感覚で聞けない方がおかしいんですよ。
仮に同じ話を(事前に知らずに)となりの席のオヤジの話として聞いて、それを友人に話す自分って設定で考えてみてください。

「って話聞いちゃってさ(爆笑」
「(涙流して)、バ、馬鹿じゃんって、4や9って何よそれ、二つあったらさ携帯番号何桁以前にお前090全部ダメじゃんみたいな(笑」
「あり得んと思わない?」
 ↑
相手が誰だろうと同じ反応でいんです。
(これぐらいの勢いであっても全然おかしくないでしょう)

で、「それマジなん」な状態で、
(いやー無理クリ角立つ話になるのもなんとやらと思えば)
「そんなに気になるなら変えてもいいけども(笑い堪えて)、うーんどうたもんか」
結論「どっちでもいい」(言い換えると”どーでもいいこと”だってことです)

カウンター意識して少々極端な話にふりましたが、そんぐらい思考や認識のファンダメンタルを切り替えて初めて「現実」が見えてくるって事です。
逆さに言えば現在の状況は「SFまがいのタイムスリップした主人公みたいに”ありもしないトンチンカンな話”の中を彷徨っているほど現実離れした認識下にある(存在もしない世界の話をしているかのように)」って事です。
(それぐらい大きな幅で立ち居地を切り替えて考えてみてください→次から次と記憶の過去事例の意味や話の筋が変わってきますから:エピソード的に意味が逆さまになる記憶もあるでしょう)


※それから公開掲示板は閲覧する人向けの公共性から維持しているものですから、続きの話の場合には新しくスレッド立てないでください(マルチポストみたいになってしまうので)。新しいスレッドを立てるときは閲覧しずらいぐらい伸びちゃった時か、時系列的に随分後になったであるとか、独立したテーマで違う話になる時にお願いします。
1092 返信 Re:母親のこと maccha 2010/04/03 19:27
パワハラを好感だと勘違いしていた。間抜けなんですね、私。
当たってる、と思う。

で、これからどうしようかと思っています。
今、お昼ごはん人と食べる時、右手が震えて、力が入らない。会話は適当にして、自分ではあまり気にしないようにしている。気取っても仕方ないし、とか思ってみる。
左利きを小さい時に矯正したからかなとかも考えるのだけど・・・



スレッドの件、了解しました。気をつけます。
1093 返信 いくつか補足すると kagewari 2010/04/04 20:19
>母はどこかで大人になる私を拒んでいる。
>父の先祖なんかどうでもいい。

で、前回のたとえ話を繋げると、

「(暴力団の)組を抜けるだって!」
「(ストックホルム症候群)人質から解放して欲しいだって!」
「(超体育会系の)○○商事を辞めるだって!」
 ↑
全部の言葉に以下が続きます→「この裏切り者」

すっかりあっちの世界まで現実を通り越し、演劇や映画のシナリオも通り越し、簡単には想像するとも難しい妄想の世界にいってしまうわけです。
自意識の本音は

「ったって、裏切りものってあなた、、も〜、どうしたものか。。。」

強迫意識が無意識的在り方を利用して、知らない間に(事後追認的に)自意識共犯の構造に巻き込まれて、言い訳考える役回りまでおっ被されるというですね「おーも〜」みたいな図式は、
上記の図式を認識して「あちゃ〜っ」と現在の自意識にバレれば(=無意識下から浮上)止まります。
『一拍置く』の仕掛けで常に修正も可能になります(判例化や習慣化の阻止:同時に”逆判例”攻撃)。

曰く「悪循環の”環”」に関しては一段落するって事です。
(ここの仕組みがよくわからなかったので、心理学以前は宗教哲学が”業”と呼んだり当時の人は随分考えたところです)
強迫心理の威力的な部分が落っこちたみたいな話になりますから、
「あちゃ〜っダメだこりゃ」的認知は重要ですから、しっかり確認しておきましょう。
(反動や抵抗起きるとその認知を撤回させて宗旨替え反発みたいに元に戻そうする動きが出たりします。ですから事前にそれを予測して「この一線は絶対死守」的に認知を政治的信念レベルに押し上げておけば防波堤になりますから:認知をある程度予測的”高さ”に上げてあかないと防波堤効果が無い→ちょっとした水位上昇で決壊してしまう)

を踏まえて、
 ↓
>で、これからどうしようかと思っています。

急場困らないのであれば「いっそ会社も辞めてしまおうか」ぐらいの幅で考えていいところです。
(そういう発想を深刻に考えると失敗→軽く「あちゃ〜っダメだこりゃ。ったくもうね、いっそ会社も辞めちゃおっかな〜」と薄笑い込みで言えるような認知じゃないと→「おーも〜」みたいな図式認識がまだまだ中途半端だって事です)

会食に関しては(既に経験的判例が出来上がってしまっているので)
「暫く俺は会食苦手な人間だからな〜」←確定させてください(ココ今現在のアイデェンティティーの一部です)。
堂々と自己紹介で言っていいです、
或いは、ブラックジョークのひとつもくっつけて「会食するとゲロ吐きそうでーす」と大声で言えるぐらいの勢いにしておく。
 ↑
そりゃそうそう簡単に知り合いの間で言える事は無いでしょから
(無理して言えばいいってことでもなく、どうしても言うべきだってことでもない)

そう言う自分の姿(「人呼んで会食恐怖の”○○”と申します」と仁義切ってもいい)をイメージするって事です。
冗談半分に誰もいない部屋で声に出して(台詞回しのように)言ってみて、感じを体感しておくのもいいでしょう。

普通にですね「冗談じゃ無いよ、飯ぐらいひとりで食わしてくださいよ」と言ってもいいんです。

逆説的に言えば、そう言えれば
「苦手なのは十分承知しているんだけれど、ここは付き合いとして顔だけ出すとかでいいから」
という状況設定になるので、無理シャリ会食現場に出てもそれほど極端な緊張はしません。

さらに言えば、
メンタルな問題から離脱時には誰でも一時的に”単独者期間”を経る事になります。
(これは思春期の反抗期中の各人の人格も同じなんですが、)
その後共同幻想適応型人生を選ぶのも単独者型人生を選ぶのも自由ですが、リハビリ期間は「単独者型」を志向することになりますんで、

大きな枠組みとして「単独行動を模索してください」
どうやったら昼飯を単独行動で食えるか(ってかそもそも昼飯なんて食わなくても死にません半年なり1年ダイエットだとか適当なこと言って珈琲とタバコでやり過ごすって現実的方法もあります)、ここ真剣に「戦術論」として考えてください。
その戦術の中に「おーも〜、会社を辞めちまうか」ってのもアリだってことです。
 ↑
そもそもを考えてみてください。
 ↓
>母はどこかで大人になる私を拒んでいる。
>父の先祖なんかどうでもいい。

抑圧の中心は「自立・独立」だったのであり、
現行就職先は、以前の強迫的自分が選択したものなんですよ。→端的に言えば「似非」。
んなもんほっぽりだしたほうがいいぐらいなんです。
(貯金があるなら本気で辞めてもいいでしょう→逆さに言えば辞めるために貯金するとかも現実的)

これからの自分は「まったく別の方向性を考えるかもしれない」ワケですから。
(組織も人質事件も超体育会商事も全て幻想だったんですから)


ですから、
>で、これからどうしようかと思っています。

もっと大きな枠組みで考えましょう。
あえて皮肉で言いますが「会食でゲロ吐くとか、んな事は瑣末な事だ、んな事よりもー」の次元に意識をシフトさせるって事ですよ。
(”の次元に意識をシフト”の場所でようやく『現実』だってことです)
1094 返信 Re:いくつか補足すると maccha 2010/05/10 21:04
単独行動を模索して単独者型生活を続けています。
人と親しくお弁当とか会社の食堂とかで食べるの苦手なので、なるべく避けるのですけれども、最近開き直って、1人で食べたりします。
まぁ、皆が集団で食べている時に1人ってありかなとかも思うのですけれども・・・
会食恐怖をばらす気はないのですが、コミュニケーション能力がないって言われるのはちょっと困るな、
そう思われてもしかたないし、事実かも。
ライオンが単独行動はおかしくないのだけど、しまうまが単独行動しているって感じかな。女の人がぺちゃくちゃしゃべっている中で、1人ってなんか浮いている感じで・・・浮いていてもいいんですけどね。
なんとなく違和感あるけど、しばらくこのままかな、、


1人でいるのって仕事にも影響でないかな、ただ、集団の中にいてもテンパるのはもうわかってしまったので・・・

コミュニケーション能力がないとか、おどおどしているとか言われだすとちょっと大変だな、女はうわさで決まってしまうようなところがあるっていうか、、なかなか女で一匹狼はむづかしいかな、なんて、、
関係ないですかね?環境によりますかね?
実力もないのに、一匹狼は厳しいですね。じゃ、実力を磨けば、ってやっちゃうと、きっとテンパる。
今は、しまうまが群れからはなれた感じかな、


人っていいふうには見ないしね。出る杭は打たれる?出ているわけではないけど、・・・・

ひとりがこわいんですかね。人といるともっとしんどいので、これで行こうと思うのですけど。
母子間のストックホルム症候群状態か、、、高くつくな・・・


軽く考えるくらいにならないとね、
器がもともと小さいのでしょうかね、テンション下がるとすぐ深刻ぶりたがります。
1095 返信 初陣と考えればいいのです kagewari 2010/05/11 14:31
心理学というか精神分析は特定の方向を示唆しませんから、単独者を是とも共同幻想強調タイプを是ともしませんが、社会心理的には「先進国化の果て」として「成熟した民主主義」なり「個性化」という表現で社会全体が単独者化にシフトしているのは事実です。

又、メンタルに問題のある状況からの脱却時には構造論的に誰しもが時限的に単独者のスタイルを経過しますから(反抗期過程の踏襲と同じです)、基本スタンスは単独者志向で考えて間違いありません。

ある意味時代認識とすると、
日本の場合特に女性に対する社会的強迫が強かったので、いわば日本の女性社会は集団心理として「集団強迫心理状況」にあります。
(フロイドが生きていれば分譲マンション購入に血道をあげる状況を「集団ヒステリー」と呼んだかもしれません)
時代の変遷としては、戦後突然民主化した日本の場合「ミニスカートブーム」に始まり急速に女性の解放が進むかと思われましたが、これが戦後復旧と高度経済成長の中揺り戻しがあり『短大・一般職・寿退社』なる捏造的社会属性への帰属を強迫された背景がるワケです。
(当時の女性が政治や社会に関心が無かったのはそういう強迫的偏向認知が原因です→当然これは民主主義の条件として問題になりますよね)
それが現代社会でも「結婚願望」なる(限りなく病理に近い)強迫として残留しているぐらいで、

つまり
『シマウマの群れ』と表現されたOLさんに特徴的に見られる風景はこういう社会心理を背景とした「一種の囲い込み」です。
(社会に潜在意識が固有にあるのではありませんが、仮に想定するなら『一般職として将来男性社員の女(嫁)としてあてがわれる候補を群れで管理キープしている様(処女性の管理)』なんです:補足するとその代わり男性社員は猛烈サラリーマンとして人権無視ぐらいの労働を課せられた、当時は終身雇用と嫁候補の一般職はセットだったんですよ)
表現難しいのですが、その群れのモデルとなった江戸時代以来の「井戸端会議」は、事実上会計事務責任者が業界の寄り合いで話しているようなものなので趣旨が違ってきているワケで、
昨今の女性社会は一種東西冷戦時代の東ヨーロッパの密告社会モデルのようにですね(ある意味初期の頃はどの男性と付き合っているのかなどの情報が”抜け駆け禁止”みたいに情報共有された)、ちょっとこれは問題な状況なワケです。
(※外的脅威がない限り草食動物も群れない→社会心理的に「一般職の囲い込み」のような外圧があって初めて群れが形成されます)

当然効用機会均等法を契機に、公式的に女性に対する社会的強迫は効力失いましたが(流石に同じ女性だからといって上司の部長が昼ご飯を食べる会で群れるって事は不自然ですから)、社会心理的にも「どうしたらいいものか」と試行錯誤が続いているのが現代社会です。
4大の進学率も高くなりましたし、筋論としては「若いOLさんの群れ」というのは解消されるべき社会の歪みなのです。
(それは本当に仲の良い友人と連れだっていくのはアリアリですよ)
3・3・5・5なり2や1もあってちらちらと自由にってのが本来の自然な状況ですから。

>軽く考えるくらいにならないとね、
>器がもともと小さいのでしょうかね、テンション下がるとすぐ深刻ぶりたがります。

内向化するので”器を小さくしている”んですよ。
外部に解放(情報開示とか公開性とか透明性って奴です)すると、煮詰まるって事はありません。
つまり心理的な内向や落ち込みは、思考なり認識なりの領域を(ビックバンの反対)内向させるわけで(空間を閉鎖的な領域に押し込む)、それによって「深刻ぶる」という興奮(脳内では快感認知)を獲得して帳尻を合わせる形になります(バイアスのかかった均衡と呼べばいいでしょうか)。

こうですね、あっけらかんといいましょうか。
「やった休み時間だ(ひとりで好きなところいこ)」のような開放性、
これがアンチテーゼなんですよ。
会食恐怖に関しても別段おおっぴらにしても構わないのです、
笑いながら「会食恐怖ですが何か」ぐらいの勢いで、

又、群れとコミュニケーション論は全く別物です。
コミュニケーションの主体は「個」ですから、
(営業で考えてみてください)
群れに関しては(カウンターかけて極論化しますが)「一種の民族主義や宗教団体」のように見立てても間違いありません。
そこに協調することはコミュニケーションとは言わないでしょう(笑
1096 返信 Re:初陣と考えればいいのです maccha 2010/05/17 21:41
忙しいのだろうな、と思いつつ・・・返信いただいてありがとうございます。
単独生活を模索しているとは書いていますが、自信を持って言えることがあります。
私は友達はいません。今までもそうでしたし、これからもそうだろうな、と思います。(友だちの定義にもよりますが、)
ひとり、なんですね。いつも。
なんとなく、それがコミュニケーション能力ないっていわれそうで、・・・


心理的虐待を好感と勘違いしていたって、そうとう間抜けだな、って思います。自分の気持ちがわからなかったんだから。
今、土台が崩れだして、その上に建っている建物がまだ、崩れていないような感じです。
「人の悪口をいってはならない」
「うそをついてはならない」
「あいさつをしなければならない」
「まちがってはならない」
建前ばっかりなんです。自分でもしんどいよね、これじゃあ、もたないな、と思っています。人と接すれば接するほど、マイナスばっかりになっていくので、誰とも接しない方がいいことになってしまう。
内向化しやすいのは人に相談とか冗談とか話をしないからかなと思う。ま、そのほうが楽だから、そうしないのだけど。


もう、ひと押しかな、なんて。。。
1097 返信 相当勘違いしていますよ kagewari 2010/05/18 21:32
思うにmacchaさんのイメージしている友達というのは友達では無いと思います。
それは共同幻想適応下の”付き合い”って奴ですよ、
「macchaさんあげている話は共同幻想適応のステレオタイプ」です。

話大きくはなれたところから説明しますが、
社会心理に「いじめ現象」ってありますよね。
これが発生する要因の背景は『群れの形成合意』が(共同幻想崩壊過程の中で)ストレスとなるぐらい破綻始めていてですね。所謂昭和の会社の同僚と付き合い飲みに行く事すら昨今の社会では「相当強度のストレス」なんですよ。
簡単に言えば適応所属している大半の人達にとっても疲れる事になってます、
だから「いじめ現象」が起きるんです。
何やかにやとコスト払って(正直嫌々)集団適応を保っているなかで、誰かが適応から外れていると(それ以外の構成員は半ば共同幻想が強迫意識のような働きして無理しているわけで)相対的に「特権階級意識で私達(無理してまで仕方なく共同幻想協調している)を馬鹿にしているのか」という集団心理が形成されやすいんですよ。
つまりその前提は「共同幻想の崩壊過程」にあるワケです。

更にですよ、
では共同幻想はなやかなりし頃も友人ってどんなものだってでしょう。
戦後昭和ぐらいまでそれは「同郷出身の同僚」や「昔のクラスメート」や「同期の桜で入社試験後合宿研修した仲」などですね(意味わかりますよね?)所謂社会学的なゲマインシャフト(地縁血縁)におけるアイデェンティファイ(帰属・所属元)をベースにするものが最強で、「だから当時の共同幻想は組織化集団化しても過度のストレスを発生させない」のです。
先進国化は=ゲマインシャフトからゲゼルシャフトの変遷ですから(それが共同幻想崩壊過程の始まりです)、先進国化の過程の中で”付き合い程度の友人関係”は欺瞞的関係として忌避されます。
※戦後昭和に社員旅行がストレスでは無くて十分娯楽として成立したのは「運命共同体的帰属意識(アイデェンティファイによるアイデェンティティー)」が健在だったからで(ストレスを感じるほど自意識の自由度や覚醒もない)、
ココ現代社会ではストレスとして人事管理上ナンセンスになっているところです。

で、盛んに昨今雑誌(特に女性雑誌)を賑わしているテーマは何ですか?
”個性的”や”自分らしさ”など今後メジャーになる民主主義的個人主義(実態は単独者のことです)をどうやって導入すればいいかって話なんですよ。つまり試行錯誤の中それを求めているが「ほとんどまだ成功していない」んです。
つまり、形式的な友人関係なるものに”彼女達自身本音ストレス感じている(嫌々である)”場合が非常に多くなっている。
(ここで思い出してください、社会適応そのものが嫌々でストレスになっているからこそそれを背景に「いじめ現象」は発生する。)
簡単に言えばなかなか出来ていない(適応型から単独者へ途中でシフトするのは難しいですから)。
 ↑
そんな姿と現状判断も混乱しています
 ↓
>「人の悪口をいってはならない」
>「うそをついてはならない」
>「あいさつをしなければならない」
>「まちがってはならない」
>建前ばっかりなんです。

付き合いの範囲は建前でいんですってば、
むしろその方が正しい「公式的とかフォーマルとかって部分ですから」

極端に言えば共同幻想適応な人ほど友人いませんよ。
(皆無って人が非常に多い筈です→これマジな話で、現代社会は自宅に帰ってお風呂に入ってため息みたいな人は想像以上に多いんです:比較多数かもしれない)
何故って付き合いと友人違いますから。
極端に言うと、単独者系じゃないと『自意識的友人(そういう言葉はありませんが)』とか論理的に無理なんですよ。
(共同幻想適応的な意味の親友は限りなくゲマインシャフト的ノスタルジーの世界の投影で『共同幻想適応型の合理的共依存』のようなモデルなので、親友などのイメージですと現代的な友人像にならないんですよ)
で、ここの関係性のフェーズはあまりにも違うため、単独者な人は誤解をさけるため「友人じゃない」と説明する場合もあります。
この意味は「遊び友達」「友達感覚」など→実は友人という言葉の語彙は軽薄な関係を意味しているんです。
なんて言えばいいでしょうかね「実存を賭けた友人関係」って言葉が成立しないんです。
共同幻想時代の言葉を流用すると「ライバル」とか「腐れ縁」ってのが現代社会における親友になりますので、
単独者が「○○さんは友人です」と言ってしまうと、言っている本人の心情としては(そもまま共同幻想語彙で解釈されてしまうと)”その友人を蔑視しているような意味になっちゃう”んです。
(つまり単独者同士は「友達だしな」でいんですが、当事者に共同幻想適応型の人がいると解釈として別の意味になる)
(何でしょうね〜、10代20代で若く血気盛んな単独者ビギナーは笑顔で「友達いませんから」って微妙なニュアンスで語ったりしますが、それはこっ恥ずかしいながら自慢だからなんですよ:背景には又違う意味の韻が踏まれていたりする)
 ↑
ややこやしいんですが、なにせ現状共同幻想崩壊過程の”過渡期”なので仕方が無いところでして、

つまり「悪口言っても、嘘ついても、あいさつ無視しても、まちがっても」”そういう意味の友人関係”が見つかる訳ではありません。

単独者の実存ってのはそういう意味じゃないんです。
「最初の友人ONEは”他者としての自分”ですから」
自立独立ってそういう事で、
単独者の自立は孤立(孤立の概念が成立するには所属母集団が必要)と違うように、
自立独立する主体の成立それ自体が=コミュニケーションの成立なんですよ

少々難しい話ですがじっくり考えてみてください。

『自立独立する主体の成立それ自体が=コミュニケーションの成立なんですよ』
自己完結性のある主体が無いとどこの世界にもコミュニケーションやネットワークは存在しません。
PCにたとえればOS入れてネットワークの設定やったらOKなんですよ。意味わかりますよね?
何かOSに特別な社交性ソフトとか、
なんていうか、いくつか初期的関係性のモデルなんてあったら大変で(いきなり知らないマシンとイントラとかあり得ない訳です)、

■実際精神分析であるとかカウンセリングとかかなりハードなコミュニケーションですが
「macchaさん既にコミュニケーション成立していますよ」


こういう誤解がなんで生まれるのかって、
強迫心理ですよ

ぶっちゃけ家族意識のノスタルジー(をゲマインシャフト的友人関係に投影させて)の事を友人関係なんじゃないかと誤解しているんです。
これは致命的な勘違いなので注意してください。
現代社会における友人関係は代用家族じゃありませんから。
そこへの依存を切るから→その先に自立独立があるのであって、

精神分析は共同幻想適応であるとか単独者志向などベクトル持ちませんが、少なくともメンタルな問題からの離脱過程(反抗期と同等)は通過儀礼的に誰しも単独者的スタンスに足場を置かなければなりませんから、ここ間違わないように注意したいところです。

※逆説的というかカウンター当てて表現するなら
「友達とか何のこと?友達がいるとかないとかゴチャゴチャ言って何か得する事でもあんの?どうだっていいことに思うけど」

などなどひとまずですね落ち着いてじっくり考えてみてください。
(共同幻想の状況や社会心理など他スレ等でも相当詳しく書いているので、他過去ログなども参考にしてみてください)
1114 返信 Re:相当勘違いしていますよ maccha 2010/07/24 01:16
今回、投稿するにあたってこの投稿が迷惑な投稿であることを十分承知して投稿しております。
私はすでに貴重なお時間を割いていただいて、無料でこの掲示板で精神分析をして頂いたこと、
私が長期間に渡って掲示板を占領することは他に掲示板を利用したい方、あるいは利用しようか迷っている方にとってマイナスとなること、
そして今回の投稿には私の中に依存傾向がみえることを自覚しているからです。おそらくこれが第一の目的なのだと思います。

単独者行動を模索しています、と以前投稿しましたが、ここに今の私が投稿することは単独者行動の模索には相反します。投稿することで、ひとりではなくなるからです。

不安の材料は、単独者でありたいのに孤立していくのではないかと思うことです。
職場ではかなりミスが目立ってきました。集団側からみると孤立です。以前のような協力的な雰囲気がなくなり、ミスが目立つのです。そして私も敵意を持っている人を感受してしまい、そのほうに神経をとられてしまいます。視野が狭くなっています。
かなり露骨ないやみを言われても言い返せないほど大人しい人間です。こんな人間が単独者になれるのか、とも思います。内向化を防ぐために気心の知れた人に話したりもしました。
職場をかわっても何をしてもいつも同じところでだめになります
具体的に何があったというよりは私の内面による強迫心理、自意識の問題です。
職場での状況はストックホルム症候群とどこか似ているのではないかとも思います。


母子間の話に戻すとストックホルム症候群の状態はもっとひどく、私は母のお気に入りのお人形さんの役かもしれません。それが傍にないと不安になるような、
人質は解放されれば人間としての人格を回復しますが、人形であれば、人権もなく、人間以下です。

職場では最後は集団を維持するために必要ないじめられ役(被った言い方になってしまいますが)に落ち着くのではないかと考えることがあります。集団でいる人からすればそうさせようと必死だと思います。
この状態が続けば自滅するのではないかと思います。相手側の論理の中に入ってしまっていると思います。


母子間のストックホルム症候群の話をして頂いた時、「社員である前に自分」と仰って頂いた時、自分の中でストンと何かが抜け落ちるような感覚を味わいました。
と、同時に「社員である前に自分」ということになぜ気が付かなかったのだろうとも思います。社員である前に自分、言えそうで言えない台詞、私には言えない台詞、思いつかない台詞、当たり前のことなのに言えない、私流にいうなら人形である前に自分、でしょうか。人形であることが自分(すでにアイデンティティの一部)になっていないだろうか。物言えない人形が単独者になれるのか。戦えるのか。


この投稿はルール違反です。精神分析の依頼ではありませんし、単独者って何?の質問の裏には依存化傾向がみられるからです。
吐き出すだけ吐き出しました。少し落ち着きました。


過去ログは再度拝見させていただきました。岸田秀さんの本も数冊読ませていただきました。



投稿が長期間にわたってしまい、申し訳ございませんでした。
有り難うございました。



1115 返信 まあそうそう堅っ苦しく考えなくてもいいですよ kagewari 2010/07/25 10:19
依存というより『抵抗』なんですよ。
(まー誤解されること前提に簡単に表現すれば「現実に対する反発(=否定と内向)」)
一件ズルズルと話を”蒸し返し”しているところに「我ながらこれはいかん」と自覚があるものだから心理学的意味で何かネガティブな表現はないだろうかと脳内で検索された結果”依存”という言葉が選択されているわけで、
(確かに事実関係は依存なんですが)

有料メールなどの運用として「次の相談までの猶予期間設定」であるとか「受付非受理」であるとか、完全に相談を逸脱する場合お断りする事も実際にあります。プライバシーに関わる事なので具体例は挙げられませんが、
今回の事例は「それほどではない」ですから。
事実関係に依存はありこそすれ、問題の中心は『抵抗』であると認識する方が”現実”に近いです。
(繰り返し:頭から一度読み直してください)
■まー誤解されること前提に簡単に表現すれば「現実に対する反発(=否定と内向)」って話です、

字面を追っていくだけですと「何のことやら」と思う部分あるでしょうが、こういうことです。
今回の話はゆっくり読めば「何かが書いてあるようで、実は何も書いていない」系の”パラドックス”になってます。
(※パラドックスは語彙のとおりで、何か設問や構文になっているようで実は全体の構造はトランプ手品のような”種明かし”が隠れているだけで、どこもかしこも問いになっておらず(本旨は自己愛的独白)、実は質問ではない文章みたいな話)
つまり冒頭の弁解調の印象が自我内に確認(自覚)された”気まずさ”のようなものの正体は、無意識下において『実は質問ではない』ということに薄々気が付いているため”妙な気まずい不快感”としてそれが自覚されいてるって事です。

逆さまから内実を考えてみると以下です。
 ↓
以前の相談やりとりで「確かにそうかもしれない」と(抑圧ロジックが解除されて)自意識に浮上しだした”あれやこれや”は強迫意識には大変都合が悪いため、自己防衛意識が台頭します。
脳内意識は基本(相当にラディカルな人格でもない限り)”官僚的な前例主義”を安全策として採用しているもので、経験則として強迫時代を”事実上追認の形で消極的にでも結果論的肯定”してきてしまった前例を「なんだかんだで由として」意識を元に戻す(抑圧の回復)ことを試みます。
結果無意識に過去ログなどの枝葉末節に至る部分に「全く自覚も無いのに」⇒必死になってどこか変なところはないかと探し回り、その部分に『再質問』のフラグを立てる(赤ペンでアンダーライン引くようなものです)。
※自覚の無い行為なので「普通に読んでいる筈なのに脳内CPUが何故か100%いってる」ような状況です。
(脳が必死なことに自分でも気が付かない)
 ↑
なんていうことのない現象に見えるのですが、実はこの流れが”エライこって”、

第24回『環境アセスメント』最終答申、この文章が発行されたが「細部にまだまだ疑問が残る」。同文章の最終答申としての資料閲覧に際して以下赤線部分の項目は「再検討を残す」ものとするため正規の手続きにおける閣議報告に提出する書面からは削除するように。
 ↑
脳内ではこんな話になっているんです。

まー考えてみてください。
通常の疑問であるとか、追加の質問っていうのは「前回までの経緯を与件化(事実関係認定)」した上で、それに派生する未解説な部分を「あーじゃないかこうーじゃないかと考えてみたが、どうだろうか?」的な話になる筈です。
(※事実関係の説明に間違いがあればコレ別次元の話ですが)
■重要な部分は「あーじゃないかこうーじゃないかと考えてみたが」です。
異論や疑問として挙げられた内容(ぶっちゃけ間接的な反論)が場当たり的だと「一発NG」って事ですよ(笑
仮に設問が有効であれば、その異論部分は『相当に煮詰まって考えられている筈』で、
ロジックというか着眼が仮に「淡白であったりステレオタイプの域を出ない場合」
⇒ズバリ「それは似非である(本音ではない)」証拠なんです。

端的に言えば「強迫意識の苦しい言い訳に過ぎない」。
(抑圧が壊れて自意識が妙な事(自己の回復)なんてものを考え出してきたもんだから言うに困った強迫心理が次から次と”言い訳的”反論をあーでもないこーでもないと始めている)

えーこのような時にはですね、
「オイオイ何を言ってんですか俺は?魂胆バレバレですぜ」のように笑い飛ばさないといかんのです。
※この言葉の瞬間「自意識全開スイッチON」で実行優先度の高い自我ロジックを起動して、無意識にバックグラウンドで勝手放題に動いているプロセスを事実上強制終了、自我内部の占有権を強制回復する。「俺が考えるから(忙しいから)バックグラウンドは黙れ」。

長々説明してきましたがどこの部分を言っているのかと言えば
>ここに今の私が投稿することは単独者行動の模索には相反します。投稿することで、ひとりではなくなるからです。
>不安の材料は、単独者でありたいのに孤立していくのではないかと思うことです。
>職場ではかなりミスが目立ってきました。集団側からみると孤立です。以前のような協力的な雰囲気がなくなり、ミスが目立つのです。そして私も敵意を持っている人を感受してしまい、そのほうに神経をとられてしまいます。視野が狭くなっています。
>かなり露骨ないやみを言われても言い返せないほど大人しい人間です。こんな人間が単独者になれるのか、とも思います。内向化を防ぐために気心の知れた人に話したりもしました。
>職場をかわっても何をしてもいつも同じところでだめになります
>母子間の話に戻すとストックホルム症候群の状態はもっとひどく、私は母のお気に入りのお人形さんの役かもしれません。それが傍にないと不安になるような、
>人質は解放されれば人間としての人格を回復しますが、人形であれば、人権もなく、人間以下です。
>職場では最後は集団を維持するために必要ないじめられ役(被った言い方になってしまいますが)に落ち着くのではないかと考えることがあります。集団でいる人からすればそうさせようと必死だと思います。
>私流にいうなら人形である前に自分、でしょうか。人形であることが自分(すでにアイデンティティの一部)になっていないだろうか。物言えない人形が単独者になれるのか。戦えるのか。

■<注)以下文はカウンター効果を見越して意図的に辛らつな表現もありますので心理的に余裕ある時に読み進んでください>
・ド勘違いで激怒みたいな事も考えうるので、とにかく『瞬間認知で(瞬間湯沸かし器的に)前後読まず』とならないように注意深く読んでください。
今回はかなりガチっと書いてます(強迫回帰の雰囲気が漂ってますので危機回避的表現を優先させています)。

ズラーっと各個にレスをつければ一から十まで意味になってません。
>ここに今の私が投稿することは単独者行動の模索には相反します。投稿することで、ひとりではなくなるからです。
単独者の概念ってのは、インターネットソサエティにおける”スタンドアローン”の事です。
(まー言うならば”ネットに接続する事を前提とする(その前の必要十分条件的意味における)単独自立型の個体”の事)

その対立(反対)概念は「会社内のイントラネット内の端末」に過ぎなく、自分の判断では勝手に「フリーのインターネットへの接続許可もおりない」というようなコミュニティーネットワーク(その実はクローズド)みたいなんが『共同幻想』です。
共同幻想が幻想なのは、仮想で存在する筈の上部構造サーバが”実は存在しない”ってことでしょうかね。

これ各所で書いている事だと思いますが、
コミュニケーションの主体として『独立自己完結能力を保持している個体』を”独り”と呼ぶんです。
(ベタな表現で「家族属性称号者の誇りVS独身貴族の誇り」で見てもいいですよ)
ですから、単独者には「構造的に孤立という概念は存在しない」(単独者の場合”自由”って意味ですから)、
現況として孤立という概念が存在し得るのは「共同幻想イントラネット内におけるローカルルール下のパージだけ」なんですよ。
つまり共同幻想に強い帰属意識が存在しない限り”孤立”という体感は成立しません。

>不安の材料は、単独者でありたいのに孤立していくのではないかと思うことです。
※前述の判断ミスにより設問として無効

>職場ではかなりミスが目立ってきました。集団側からみると孤立です。以前のような協力的な雰囲気がなくなり、ミスが目立つのです。そして私も敵意を持っている人を感受してしまい、そのほうに神経をとられてしまいます。視野が狭くなっています。

これは孤立じゃありません。
仕事のミスで立場悪くなるのは「あたりまえ」であって、
(孤立じゃなくて”ここは仕事するところでプライベートを持ち込んでミスしていい場所じゃない”という認知から、視野狭窄的な仕事のミスがあるって事は、仕事中にオナニーしているのと等価であるため、ソサエティが『会社の仕事時間(公的時間)を私物化しているのではないですか』とそれを(社会契約違反ではないかと)非難しているわけで→「内向オナニーは自宅でやってください」)
敵意を持っているも何も、会社内でテロリスト的立場なのはあなたですよ。
(自覚が無く、完全バックグラウンド動作におけるミスであるのと同時に、強迫心理特有の『被(こうむる)』受動認知が関係して結果論的に”その現象を被害認知でしか認知できていない”だけで、実行行為は”自覚無き無意識的不可抗力だが結果論はサボタージュ”に他ならないのです。)

※仮の話、同様の仕事を続ける場合周囲に対する自己紹介としては「正直メンタルに問題あって、普通にできることまで集中力が維持できなくてミスするケースもあるんですよ、自分でもなんとかとは思っているんですが」と”事実の共有”しなくちゃ「相手を加害者にするために意図的に嵌めているのと同じになってしまう」んですよ。←ここわかりますよね。

※逆さまに単独者的自己紹介の場合「お前ら帰っていいぞ(仕事は俺独りで十分)」だとか、「意味不明のモチベーションで人の数倍の集中力を発揮して頼まれていないところまでやってしまう”ちょっと迷惑だが有能としか説明のできない人”」だとか、少々『挨拶代わりのスタンドプレー』に寄るのは確かで、結果それも社会における私物化(少々厭味っぽくないかと)じゃないかと誤解を生むので(確信犯なので誤解じゃないかもしれませんが)、「だったら俺は独立しましょうか」な経緯を踏みつつなんたらかんたらって世界になります。
(この荒馬を使いこなせば会社の利益になるので収益に色気のある会社はなんとか使いこなそうとしてみたり、自由にやらせる環境整えたりするでしょうし、地味な公家集団的組織なら「君は独立した方が(その特異な部分)生かせると思うよ」なんて綺麗な言葉で辞職を勧められたり、そもそも単独者故に最初から「社会的労務環境は俺には合わネーよ」と気ままに流離っているかもしれません。←っても相当ハードですが、)
当然周囲がドン引きして一目置かれたりって経験は単独者の勲章みたいなもんです。或いは「オマエ仕事やり過ぎ」だとか、
(ものは試しで最初はスタイル(言えばそのふり)から入るって手法もあります。○○道などの形式主義的古典芸能の習熟ってそうですから)

<話は戻りますが>
その辺を全て周囲が察するべきだってのはいかんせん無理がある。
(管理職には部下のメンタル含めて一定のスキルは必要でしょうが、各職場において心理学的知見がマストとして求められているのではありません)

こう考えてみてください、
「高熱なのに無理をして会社に出社したのでミスが多くなり、批判される事も多い」
社員の責任として体調に問題あればそれを申告する義務ありますよね?
(肩の不調を隠して登板して逆転ホームラン打たれてちゃいかんワケで)
上司も熱があるってなら(重要度の低い仕事なり)或いは「今日は休んだらどうかね」とか同僚も「大丈夫?」とか言いますよね?

それを隠して(ってか意図的に隠しているのじゃなく無意識・不可抗力なんですが)『敵意を持っている人』ってあなた、
周囲があたかも「ハナからお前らは悪人面なんだ」みたいな判断してどうするんですか?
相手を道徳的非難するために事実を隠して「悪人トラップ」にひっかているのも同然ですよ。
(っても構造的に不可抗力なんですが、事実関係を自意識が捕捉し始めている今現在はそうは言い切れないでしょう。ある程度自意識にも察しがついているんですし、←強迫心理に都合が悪いってこういうことです。強迫心理はそんなこと(絶対的不可抗力のように)知りたくも無いんです。→堂々と被害認知を脳内で権威的に優先できなくなる。)

やっかいなのはこれが「自覚無く無意識だってことです」
(構造論であるとか不可抗力って部分)

無意識の狙いは?
『単独者など意味が無い、私は人形で、このままだと孤立するばかりである。→共同幻想適応しなさい(強迫意識の原則で)』

本末転倒ですよね?
 ↓
>かなり露骨ないやみを言われても言い返せないほど大人しい人間です。こんな人間が単独者になれるのか、とも思います。内向化を防ぐために気心の知れた人に話したりもしました。

「露骨ないやみ」とかじゃないでしょうよ、
(前項の説明読めばわかると思います)

相当怒っているんですよ、これマジに。
「なんでこうなの?(あなたは自分の強迫物語のために私を悪役に仕立ててさぞかしご機嫌なんでしょうね)」
(そこまでの心理的裏まで周囲は当然わかりませんが、共同幻想適応者特有の本能というか”察知力”ってあるんですよ。ここは瞬間速度的には単独者よか共同幻想適応人格の方が早いかもしれない。なんていうか共同幻想適応人格系特有の”潜水艦ソナー”みたいなアンテナ(適応神経)ってありますから。)

流石に心理学の知識が無い分、素人さんの怒り加減は中途半端な範囲に終わりますが、
(そこに強迫破り的な眼を持つ上司でもいて「全部わかっています。失礼ですがうちの会社の社長はいつから君の母親になったのですか?」とかまされれば目も当てられない)

「内向化を防ぐために気心の知れた人に話したりもしました。」
逆、逆、逆、
逆ですって、
正反対ですってば、
 ↓
「慌てて共同幻想(実はこの場合暗韻で強迫心理を意味する)を回復するために、取り巻きを呼びました。」


>職場をかわっても何をしてもいつも同じところでだめになります

同僚などいない仕事すりゃいいじゃないですか。
(或いはこの際診療内科などで免罪符的な診断書でももらい、失業給付や生活保護など休養優先にする手も非常に有効です。心理学に知見の無い精神科医ですら鬱の症例は「まずねストレスを遠ざけましょう(職場関係なら辞めましょう)」ですよ。)

極端に言えば(脳内で考えるだけでいいです)「道端でインチキ占い師でもやって食ってみようか」と何故考えないんですか?
何故常に職場といえば不特定多数の同僚がいることが前提なんですか?
(社員全体5人以下とかザラにありますよ)


>母子間の話に戻すとストックホルム症候群の状態はもっとひどく、私は母のお気に入りのお人形さんの役かもしれません。それが傍にないと不安になるような、

これは完璧自己陶酔、
『母のお気に入りのお人形さん』
『女王陛下にとって私は特別の存在』
同じ意味ですよ。
お気に入りって、どこのフランス人形ですかって、、
 ↓
>人質は解放されれば人間としての人格を回復しますが、人形であれば、人権もなく、人間以下です。

押井守監督の『攻殻機動隊』じゃありませんが(むしろそのパート2である『イノセンス』で顕著)、
ヨーロッパの哲学には「人形こそが究極の人間である」って耽美主義があるんです。
「人はなぜ人形を作るのか、・・・であるならば人形こそが”完全な人間”という事にならないか」
特別な人形ならなお更です。
(古くはカルトSF映画でもあるリドリー・スコット監督『ブレードランナー』原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか? Do androids dream of electric sheep?』にも及ぶ話でしょうが)

完全な自己愛的内向認知ですよ。

「人形であれば、人権もなく、人間以下です。」
 ↑
実はこの表現は”レトリック”であって、”人外”の定義が(よくもわるくも)一般的他者に対して”超越的に特別な自分”を結果論的に定義してしまうことを忘れちゃいけません。
(これに無意識下の強迫心理が結合すると→あら不思議特権階級意識:女王たる母親偶像への帰属(お気に入り)に変質します)

逆さまの表現をベタな口語で言いましょうか?
「何を言ってんですか、あんたさ、うんこもすればごはんもたべる、風呂にはいらなきゃ頭痒いし、丸三日徹夜して24シリーズを3シーズンノンストップでマラソン視聴すればぶっ倒れてグーグー寝るんだから。おもぃきし人間でしょう。」

そしてここは現代社会の日本です、
自分でやれ私には基本的人権は無いと発言するのはご自由ですが、こういっちゃ何ですけどね、
「あなたの人権は憲法が保障していますよ」、
(都合よく逃げようってたって赦しゃしませんって「立派な人権が保障されてます」)

「人権もあれば、うんこもする市井の人間である。我思う故に我アリ、人間は考える葦である。」


>職場では最後は集団を維持するために必要ないじめられ役(被った言い方になってしまいますが)に落ち着くのではないかと考えることがあります。集団でいる人からすればそうさせようと必死だと思います。

※前述の判断ミスにより設問として無効、
ってか「集団でいる人からすればそうさせようと必死」って、、、
知らない間に自分の認識が随分上から目線(失言)になっているの気が付いていないでしょう。
現実にリサイズするならば「共同幻想適応系の人たちから見れば本当(真剣)に困って」です。
(極論喉元まで「それってワザとなの?私達に誤解から悪いところあるんなら考えもするから本当は(あのミスは)どうしてなのか本音を教えて欲しい(彼らから見ると立ち位置的に強迫心理を本音かと取り違える傾向がある)」って言葉が出かかってるって事です。)


>私流にいうなら人形である前に自分、でしょうか。人形であることが自分(すでにアイデンティティの一部)になっていないだろうか。物言えない人形が単独者になれるのか。戦えるのか。

「物言えない人形が単独者になれるのか。」
立派にあれやこれやと反論しているじゃないですか(笑

そもそも物を言うべきじゃないかと(脳内想定で)考えている相手(とその内容)を間違ってる。
(気が付いていないかもしれませんが文章の”暗韻”として「職場の奴らに言いたい事がある」的フラグも入ってます)

社会に対しては「ちょっちメンタルに問題ありましてサーセン」という自己紹介だろうし、
(決して仕事のミスにおける上品な釈明でも無いし、不当な扱いだと抗議する話でも無いし、)
脳内の母親権威偶像イメージに対しては「堕ちたなお前も」という宣言だろうし、
戦うってのは、グチャグチャと御託並べる強迫心理に対して堂々と「バカかお前(俺は)」と、

「ちょっちメンタルに問題」的言葉こそ堂々と言っていんです。
「今(現在)は年号平成なんですよ」
心理学的な知見は社会に十分じゃありませんが、それこそ社会現象としての離婚などにあるように、現代社会で何がしかメンタルな問題に対して接点の無い人なんかいません。又完璧に共同幻想な人も存在しません(特に共同幻想適応タイプの人はどこかメンタルの危うさを内包しているのが現代社会です)、十分理解できなくても「そうなんだ」な部分ぐらい認知する力ありますし、気後れするような話でもありません。
(欧米に至っては「胃腸が弱くて」も「メンタルに少々問題あって」とそう違わないでしょう:欧米の認知が進んでいるのは必ずしも知見が広がっているとか民度が高いという意味ではなく、覇権的製薬会社の強い利権となっているためなんとやらって話なんですが)
 ↓
「オイオイ何を言ってんですか俺は?魂胆バレバレですぜ」のように笑い飛ばさないといかんのです。
※この言葉の瞬間「自意識全開スイッチON」で実行優先度の高い自我ロジックを起動して、無意識にバックグラウンドで勝手放題に動いているプロセスを事実上強制終了、自我内部の占有権を強制回復する。「俺が考えるから(忙しいから)バックグラウンドは黙れ」。

「俺は俺だ、(いちいちなんか)文句あんのか」と宣言することです。


>この状態が続けば自滅するのではないかと思います。相手側の論理の中に入ってしまっていると思います。

ですから上記は完全な間違い。
強迫デ・コードすると、

「この自意識の回復って気づきを認めると自滅するのではないかと思います。というか強迫心理は自作自演の”内向フラグ”をばら撒き(それにまんまとひっかかる悪役もザックザックと確保して)、無意識の内に自分が企てた”自分が主人公の被害者ドラマ”は宴たけなわで、勘違いした被害者ドラマの視聴者として無我夢中になるように私の自意識は又強迫心理の抑圧の論理にのまれてしまうのではないかと思います。」
 ↓
えーそうなんです。だから自分で(その悪循環に気づき)こりゃいかんと「私は相談したのです」よ。
(ここで初回に戻りました”再ループ”)
1まで巻き戻しましたから、今度はループさせないでください。

こういうループを切る(自覚して「バカか俺宣言」)ってのが強迫心理に勝利するって事です。

『様々な(本音じゃ)思ってもみないトンチンカンな話の渦中にある私ってものは俺(自意識)は金輪際ごめんこうむる』という”現実”からの反論です。
一番最初にmacchaさんが相談しようと思った潜在的根拠そのままですよ。
「冗談じゃないぞ俺」と、


<最後に難解話をネタとして問題提起しましょう>
実存主義哲学の元ネタでもあるニーチェの話をwikiからベタで転載しておきます。
こういう話を『なんじゃこれ』と1ヵ月なり半年なり考え続けててみてください。
(なんでしょうわからないだろうって意味では全くありませんよ。「ダイエットのため100回噛んでください」みたいな意味です。)
 ↓
■『永劫回帰』
ニーチェの後期思想の根幹をなす思想であり、『ツァラトゥストラはこう語った』においてはじめて提唱された。
「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。ニーチェにおいて、この世界の円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。

永劫回帰するのは、終末を迎えることなく時を越えて同一である物にして、且つ万物である。万物斉同。すなわち、永劫回帰は終末における救済というオプティミズムとの対比でしばしばペシミズムと結びつけて語られるが、その一方で、救済されるようにと今の行いを正す、という制約から解放された明るさもある。世界が何度めぐり来ても、いまここにある瞬間がかくあることを望む、という強い生の肯定の思想でもある。その意味で、永劫回帰は生をおろそかにしない超人にのみ引き受けることが可能な、存在と意志との自由の境地である。永劫回帰はたんなる宿命ではなく、自由意志によって招来される世界の根源的なありようなのである。

(ちょびっと解説するとこの”超人”は特別って意味じゃなくて、仏教哲学における”(強迫:煩悩を捨て)悟りを開いた仏”のように、その意味するところ半ば空想上の”完全体”の定義のような意味で、そうなるとかならなくてはいけないとかではなく、考える上で仮にそれが空想上でも(経済学で言うところの完全雇用の概念のように)定義がなけりゃ始まらないからみたいなところで登場しています)


ついでに実存主義哲学の更に元ネタのモチーフである『シューシュポス(シーシュポス)の神話』もオマケでwikiから転載すると、
(本当の元ネタはギリシャ神話「シーシュポスの岩」)
■『シューシュポス(シーシュポス)の神話』アルベール・カミュ
シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。カミュはここで、人は皆いずれは死んで全ては水泡に帰す事を承知しているにも拘わらず、それでも生き続ける人間の姿を、そして人類全体の運命を描き出した。


最初に「オチ」を言ってしまえば「だからここに我は実存するのか」という(相当に仰々しい)”現実の発見”であって、
(内向心理やノスタルジーの天敵です。なんかワケわからんところがミソ。→昔の哲学者なんかがようけ難解な文章を書いたのは、無意識の誤読でロジックが穢される事への生理的拒絶からそれを”ステレオタイプではそうは簡単にケチのつけられない文章にした”って一面もあります。心理学的には衒学的表現(難解)の意味はそれだけじゃないんですが、今回の返信に関してはそこ理解しておいて損は無いです。)

更に簡単にネタバレしてしまうと、
「なんてことが無くてもいい、その駅前ラーメン店で味噌ラーメンを選ぶのか、塩ラーメンを選ぶのか、チャーシュー麺を選ぶのか、掟破りのギョーザライスか?それが世界(実存)であり、現在に他ならない。それ以外何処に”私”の生存証明(レーゾンテートル)などがあろうものか?この至高にして至上の選択を”何人も(おおよそ強迫心理なぞが)穢してはならない”のである。」
「ダメじゃんと言いつつ満面の笑み」のような世界です。

(みょうちくりんな言い方すれば社会的に単独者が発現するルートは「第四の反抗(反抗期の)」みたいなもんで発生していて、その反抗は3つの反抗(所謂反抗期)とは異なる。単独者の出現は幼児期の記憶に対するオマージュの解体やノスタルジーの無効化(所謂反抗期)では無く「唐突な現実(実存)の発見」だからである。まーなんというか、そのような話です。→それが「オヤジ!チャーシュー麺だ」の解なんですよ。)


注)別段実存主義哲学を賞賛しているのではなくて、近代思想から現代っていうか『現代社会の単独者概念』ってのは実存主義哲学の延長に(サブカル的に)文化人類学的だったり心理学的に派生しているのは事実なので(オマージュだとかモチーフだとかリスペクトだとか影響を受けるというかアイデアのネタ元であるとか何でもいいんですが、実際に社会運動に派生してリベラル的政治運動のネタ元になるなど先進国化の先に単独者が頭角する社会的な梃子となっている)、単独者の概念を考えるにあたって参考になるってことです。

気分転換にそっちの方向で考えてみましょうかぐらいに捕らえてもらえれば、
(結論は)違ってくると思いますよ。

1106 返信 やる気の無い日々、漠然とした気持ち じよく 2010/07/14 08:02
初めまして、投稿させて頂きます。
私は現在23歳の無職です。
今年3月に会社を辞め、直後は何とでもやってやるつもりで居たのですが、月日が経つにつれやる気が消えて行き今自分が何をしたいのかも掴めない状態です。
家庭は父親と自分の二人暮しです。

高校生の時に引きこもり経験があります。しかし中学の時に親が離婚した時それを心配した母方の祖母が家に通ってくた事で、何とか克服する事が出来ました。
ですが、元々父親と祖母は余り仲良くはなく、父親が仕事を休止した時に祖母は家に通う事を辞めました。
それから1年以上経ち、私は無事専門学校を卒業して就職出来たのですが、理想と現実の格差が酷く、1月から入った会社を3月で辞めてしまいました。

幸い働いてた時は丸々貯蓄していたので、そのお金を使って昔から憧れていたオーストラリアへ行こうと思ったのですが、父親に反対され一度有り金を全部叩いてどういう場所かを調べてくる事になりました。
ハッキリ言って私としては余り無駄な事をしたくなかったのでモチベーションが上がらず、ダラダラと準備を進める事になってしまいました。

そうやってる内に月日が流れてしまい、父親がどうやら父方の祖父母に言ったらしく、電話をしてくるようになりました。
もう今となってはオーストラリアにも行く事が億劫になっています。

父親は普段は何も言わず、寧ろ息子である私にさえ声すら掛けませんが、自分の面子に掛かってくるといきなり怒り出します。
父方の祖父母が関わってきた事で、いきなり怒られました。
その事があってか、今とても精神が不安定だと自分でも感じます。

この状況を改善する為にはどうすれば良いでしょうか。
どうぞよろしくお願いいたします。
1107 返信 状況を整理しましょうか kagewari 2010/07/15 00:59
>今自分が何をしたいのかも掴めない状態です。
 ↑↓(矛盾)
>幸い働いてた時は丸々貯蓄していたので、そのお金を使って昔から憧れていたオーストラリアへ行こうと思ったのですが、

時系列の経緯はあるにしろ、現在の状況から逆算して「憧れのオーストラリア」が”反動形成”であるのは疑う余地ありません。
反動形成にもイロイロあるんですが、正確さはともかくわかりやすく言えば「抑圧された本音を表面に出すにあたって極端だったり誇大なイメージにしないと抑圧構造に太刀打ちできない」ところからくる反動で、ここ本音じゃありません。
思うに「憧れのオーストラリア」の象徴化は現行の家庭環境の閉鎖性の対立概念として”浮かんできた(抑圧から反動つけて浮上)”したもので、間違っても本音じゃありません。

だので、
(本音じゃない分モチベーション不足というか燃料切れで)
>今自分が何をしたいのかも掴めない状態です。
となっているのであって、

有利な条件を並べて「実利を獲る」事に集中すると話は早いのです。
・年齢的に若い
・貯蓄がある
この二つはとんでもなく有利な条件です。
(「現状53歳である・貯蓄もゼロでホームレス寸前」みたいな比較で考えてみてください)

言えば「まーどうにでもなる状況」です。
逆さに言えば「今すぐどうこうバタバタしなくてもいい状況」であります。

心理的ポイントは
貯金もあって、20歳を超えた人間がたかだが身の振り方をどうこうする上で”親の了解取り付ける必要などどこの世界にも存在しない”事でありまして、ここがポイントです。
『オーストラリア・カード』これがパラドックスになっている事に自分で気が付いてください。
面倒な人間ですら介入するに好都合なカード切っているって事ですよ、
そら無関係な人間でも「は、なんでまたオーストラリアへ」と言うでしょう。
自分自身全く自覚無いでしょうけれど、深層心理の罠と言いましょうかね、周辺にそう言わせる口実にもなっているんですよ。
『オーストラリア・カード』って奴がです。
(それも反動形成の仕組みのひとつでもある)
あからさまに関心をひいているとか、反発狙っているとまで言いませんが、介入の口実となっているのは確かで、
戦術論で考えればいいのですよ→「いきなりオーストラリア侵攻作戦では戦術的にどうなの」
(これ旧軍部がいきなり南進考え出した話と同じような話です)
(仮の話としてブラックジョーク的に『オーストラリア・カード』を有効にするには「俺さオーストラリアで捕鯨賛成団体作ってひと暴れしてこようと思っている」ぐらいの飛び方しないと暗韻がリセットできない。)

根本的な戦術目標は何かって「閉鎖的な家族社会に釘付けになっている」ところにつきます。
徴兵制じゃないんですから(笑
20歳超えて親と同居している事が根本的に間違いです。
(自営業で社長と部下みたいに何か合理的根拠でもあれば別ですが)

しかも
> 父親は普段は何も言わず、寧ろ息子である私にさえ声すら掛けませんが、自分の面子に掛かってくるといきなり怒り出します。
> 父方の祖父母が関わってきた事で、いきなり怒られました。
 ↑
彼らにメンタルな問題があるのは言わずもがなですから、
(脳内では「メンタルがどうかしている軍曹殿」と「パニック状態の軍令部まで押しかけてきた」みたいな話)
四の五の言わず「このまま同居を続けるのは極めて不健康である」と言い切ってしまってください。


で、今何をすべきか?
■「ひとりぐらし」ですよ。
そのために手段は選ばす(嘘も方便ぐらいの勢い)、
体裁整えるためにインチキ専門学校でも何でも構わないので(今いきなり再就職は心理的ストレスデカ過ぎに思います)、体裁のいい理由をデッチ上げてとにかく一人暮らし(いわば脱走兵でいいって事です→どうかしているのは軍部の方ですから)を実現することです。
※インチキ学校は真剣に考えなければ考え無いほどいいぐらいの勢いで、これまで全く考えた事も無かった分野であるとかがお勧め(電気工やサーバー監視など食い扶持に直結する方がベターですが極端な話映画政策学校とかでもいいですよ、)。→現行の閉鎖的状況や旧来の判断基準が干渉してこない無知の領域とすると心理的ストレスの位置関係がズレますから好都合です。


次の一手(戦術目標)は後から考えりゃいいのであって(ここで基本条件が非常に有利であるところを思い出す)、
ひとまず実現可能性の高い『現実』を回復して、実行に移す事ですね。
1108 返信 Re:状況を整理しましょうか じよく 2010/07/16 00:23
仰るとおりオーストラリアへ行く事が、逃避の材料である事はどこかで自覚していました。
しかし、もう既に10万円くらい準備で使ってしまったのでこのまま方向転換するのも何だかなって気がしています。
これから夏休みシーズンに入って旅券が高くなるので先延ばしにしてバイトする事にしました。
というか、ここに吐き出したら気が楽になったのか、バイトする気になれました。

一人暮らしですか。
確かに私はこの家から出て行きたいだけなのかも知れません。
ここに居るだけでモチベーションが萎縮している気もします。
ただ、安定した稼ぎがないですし、家賃など大きな出費が増えるとなるとどうしても尻込みしてしまうのです。

私は元々好奇心が希薄な方だと思っています。
だからオーストラリアに少しでも興味を抱いた事にすがってしまったんじゃないかなと考えたりしています。
また、最近になって己の勉強不足を痛感するようになっており勉強したい気持ちがあるのも理由の一つです。

反抗したい気持ちはあるかも知れないですね。私は彼らに本当は愛情を注いで欲しいと願っているのかもしれないです。
反抗期に居てくれたのは母方の祖母でしたから。私は父親を父親と認められていません。
私が成熟してきた現在になって、まともな世間話はするようになりましたが、寧ろその事自体腹が立っていたりします。
彼らに求める事が無駄である事も心のどこかで感じてはいます。
1109 返信 状況を整理しましょう2 kagewari 2010/07/17 08:35
ゆっくり考えれば特別難しい構造ではありません。
(心理的”だまし絵”のような話)
抑圧がかかっているところで考えるワケですから、
「思いつけないアイデアを思いつけと命令しても不毛なだけ状態」だということです。
 ↑
これだとちょっとわかりにくいと思うので、少々実際の事実関係から離れた説明しますと、
「イスラム教徒の心理になって、今日の晩御飯豚のしょうが焼きは美味いかまずいかを討議しなさい」みたいなレトリックですよ。
(実態はパラドックス)

話の前提として今現在この話を思考し発言している”じよく”さんの自我主体の時制がパラドックスになっているんですよ。
さっきと同じように少々実際の事実関係から離れた説明で話しましょうか。
「会社での顧客との揉め事に関して訴訟に発展した。その時俺は訴訟の中でも極めて実務的・専門的部分の論点を知り合いの弁護人に相談するのではなく、全く法律的に無知な両親に対して(子供時代の人間関係を前提に)聞いてみた。残念ならが建設的意見を聞くことはできなかった。」
 ↑
あたりまえですよね。

普通に考えれば聞くほうの動機がおかしいですよね?上記説明じゃあたかも答えられない話をそれを前提に聞いたみたいな話になっている。
しかも当事者の主体は時制のズレがあり、会社の業務で顧客相手に起きた事例の時制は”現在”ですか、コメント求めた対象者は現在や個別事例に精通している人物ではなく、子供時代の人間関係(10年近く前の自分)を根拠とするものだったって、、
そりゃね、
 ↓
「ある街にふらっとやってきて、今そこに住んでいる人に道を聞くのじゃなく、10年前そこに住んでいたかもしれない人をワザワザ探し、なんとか探し出してその10年前住んでいたらしい人に道を聞いたので、すっかり道に迷ってしまった。」
「あの、、オーストラリアはどっちですか?」
 ↑
こういう『抽象的文章の世界』になっているんですよ。
ところが抑圧かかっているので、ロジカルな矛盾に自分では気がつけない。
脳内の絵が”だまし絵”みたいな事になっているのに、全く自覚が無い筈です。


■ここまでの説明をレス文にあてて具体的に明示すると。
>私は彼らに本当は愛情を注いで欲しいと願っているのかもしれないです。
ここが第一の矛盾です、
ご自身の判断では
 ↓
>反抗期に居てくれたのは母方の祖母でしたから。私は父親を父親と認められていません。
という話が関連で登場するのですが、
反抗期は愛情を確認するものではありません。
反抗期とは快感依存対象の根拠となっている両親など家族内権威者への(幼児特有の)誇大イメージの現実化収縮による相対的幻滅からくる誤解による感情的破綻などの総称で(別段彼らが騙しているのではなく大人と幼児の関係から勝手に幼児が必然として家庭内権威者を誇大視するところが鍵)、客観的には脳内で肥大化している権威者イメージを現実世界の実存像に”修正アップデート”かけているワケで(極端な例だと「英雄→普通の中高年サラリーマン」へリサイズ)、
『私は父親を父親と認められていません』←この言葉は完全に矛盾していることになります。
■反抗期とは家族社会における属性上の呼称(地位)である”父親(部長や課長と同じ)”の称号が(幼児特有の権威フラグの解放)外れて、『男同士の関係』に還元される行為の事ですから、端的に言えば「反抗期が終わったので(自分が大人の男になった関係で)彼は父親ではなくなった」となるのが自然です。
つまり『反抗期によって彼が父親である事について更に認めるに至った』じゃ正反対ですから。
(これじゃ脳内の権威性が今現在も父親依存(実態があるのではなくその役割が希求され続けているという依存)であるって事になってしまいます)

一見整理がついているようで、今現在も「私が彼を父親と認めること」に殊更特別な意味がある事になってしまいます。

この矛盾を解き明かす鍵がこっち
 ↓
『本当は愛情を注いで欲しいと願っている』

※文章の順序を逆さにすると意味が繋がります。
『私にとって反抗期とは私が彼を父親と認める証明であり、本当は今でも彼に愛情を注いで欲しいと願っているのです』
 ↑
こうやって整理すると”じよくさん”にも「そりゃ〜ないわ」と本音が確認できると思います。
そのとおりです、上記の文面は”じよくさん”の本音じゃありません。

これは実数として10年前の自分じゃありませんが、過去まだまだ自分が子供だった頃の「漠然とした思い(や不満や不安)」の事です。
そんあ時制の違う過去の自分の心象風景が、何を間違ったのか現在の自分の認識に『時制を勘違いして介入している』のかと言えば(更に現在の自分の意思決定に介入しそれを阻害している)、

「その当時(流石に自分も子供だったものだから)、状況の整理ができていなかった」んですよ。

これだけだとちょっとわかりにくいかと思うので、
逆さまから言えば
■「彼(父親)は彼自身のメンタルの関係等(或いは諸般の事情)で、子供の判断では状況の整理ができないような環境(人間関係)を造ってしまった」という事です。
そして「その彼(父親)の事情は、第三者であるとか大人の立場であれば(たとえば今の自分)状況の整理が可能」なんですよ。

当時(子供時代の自分)整理すべき状況とは何か?

「彼の個人的事情により(メンタルなど・或いは諸般の事情)、彼にはおおよそ父親役(部長や課長等の家庭法人内管理職)は荷が重く、事実上職責を果たせない状況であった。当時部下(子供)役の私は、関係性に困り(トラブルを一般的な上司と部下の関係で説明不能で)、子供なりの知恵(狭い範囲でしかも幼児性デフォルメなどの過剰になりがちな認識)でそれを”愛情の問題かな?”と誤解してしまった」
注)ご存知のとおり幼児や子供は語彙として「愛情」という言葉の意味も正確に認識できません(必ず情動的誇張や主観的便法の範囲で認識している)。

そこで基礎にもどるじゃありませんけれども、細かい事のようですが「愛情」なる言葉で説明される関係性は何かって地味な論議も考えてみましょう。
(哲学的意味合いまで説明すると面倒な事になるのでその部分は省略します)
 ↓
極端な例で考えるのがわかりやすいので、ここでも極端な事例で説明します。
『陸軍士官学校の鬼軍曹教官と生徒の関係』
正に(ある意味)愛情無しには語れない関係です、
軍曹が口汚く生徒を罵ったり必要あらば暴力もいとわないのは「そこで間違ったら間違いなく戦死するから」です。
人の命かかってますから鬼軍曹教官の責任はそこいらへんの親より何倍も重いワケで、
訓練時にはそれこそ「犬畜生呼ばわり」も普通であって、士官学校の場合ウエストポイント卒業後はいきなり少尉(キャプテン)として現場で小隊の指揮をとりますから失敗したら死ぬのは一人じゃありません(指揮下の部隊の新兵がゴロゴロ死ぬ事になる)、訓練は半端なものではありません。
(※といってもそれだけ”深い愛情関係”が必要なのは自ら志願する職業軍人みたいな極限状態の職場だからですが)
訓練中はそりゃ学生諸君は鬼軍曹にも反発もします。
さて、様々な映画でお馴染みのシーンですが
(まー典型例は、リチャードギアが若手だった時代の映画『愛と青春の旅立ち』でしょうか)
それまで生徒を犬畜生呼ばわりしていた鬼軍曹は(生徒が卒業の瞬間下士官となる少尉より軍曹である自分の地位が下になるので)、
直立不動で「少尉殿おめでとう御座います」と敬礼するワケです。

説明しなくてもわかりますよね?反抗期(卒業期)を経て社会的地位が変更する(まー家族社会では上下関係まで逆転しませんが)。
そして愛情の表明は=「大人(兵士)として何が必要か、何をするべきか」の伝達責任に他なりません。

ここでひとつ考えてみてください。
鬼軍曹であるべき人物が、
「兵士、特に下士官とはいかにあるべきか(どうすれば自分を含めた部下の命を守れるのか)、個人的事情で”それがよく自分でもわからなかったら”」
これじゃ鬼軍曹役もですね、内心不安を抱えて(下手に刺激すると返答に困り意味不明に怒ったりする)、利いた風な(ステレオタイプの)紋切り型の押付けがましい話しかできないワケですよ。
しかも実は本人(父親役)が一番自信無いのですから「人間関係良好にですねあれやこれやとねほりはほり聞かれたくない」ワケです。
(一見関係性がうまくいっていないほうが彼には都合がいい)

でです。
上記のような場合、
その人に「それ以上何を聞こうってんですか?」


■さらに根本的な部分
「親は無くとも子は育ちます」
ある意味ですね、現代社会では幼児虐待が大問題として報道される事多いですが、心理学的に言えば「家族社会を構成する事それ自体が半ば必要悪的に問題視可能」なんですよ。
(文化人類学的にも”人を年齢で差別的に子供や大人とその権利を分類するのはいかがなものか”という話)
実は家族社会はかくあるべしなどという論議は相当にクリティカル(且つナイーブ)な話なんです。
(まさか「橋田壽賀子ドラマのようにあるべし」なんて話じゃブラックジョークにもならない)

ここでも極端な事例をあげましょう。
”明日のジョー”
こういうストーリーにおいて(主人公の属性設定で)最強なのは「私生児」です。
つまり、ある特定の成功(ヒーロー)物語りの前提条件として必要不可欠な要素のひとつに「私生児」ってあり得るんですよ。
そりゃ現実ってのは相対的なものなのですから、その可能性があるだけでも重大な評価基準です。
それがマストとなる在りようってのが実際あるんですから。
(現実プロボクサーになった人のかなりの数が”明日のジョー”の影響受けていたりする。「重大な評価基準である」。)

つまるところ「親子関係の破綻」それ自体では”なんら悲劇の証明にならない”のです。
言えても「まーそいう事もあるもので」の範囲、
(実際に暴力的虐待があれば当事者はそれは理屈抜きに大変ですが、この場合当事者のひとりである親に改善の責任があるのでは無く(求めても不可能だからそうなるんですから)→その親を逮捕しない社会に責任があるって事になります。ですから幼児期のトラウマなどの賠償責任は国家や社会となるのでメンタルな事情で仕事ができない場合には生活保護などの社会保障が求められるのであって、問題家族における後遺症は社会的には労災に近い判断基準だという事です→”家族法人労働災害”。)

事実は事実です。
決して「まーそいう事もあるもので」の中身を(言葉の印象から勘違いして)中途半端な理解にしていいって事ではありません。
そこは徹底的(ジャーナリスティック)な事実認定が必要なのであって、、、

『私にとって反抗期とは私が彼を父親と認める証明であり、本当は今でも彼に愛情を注いで欲しいと願っているのです』
 ↑
では無いだろうと。

『私にとって反抗期とは私が彼を父親と認める証明であり、本当は今でも彼に愛情を注いで欲しいと願っているのです』→こういう認識は”だまし絵”のようなもので(レトリックであり実態はパラドックス)、足元すくわれてしまいます。
極論「現実認識を喪失」してしまいます。
(或いは現実との乖離)
なので、
>私は元々好奇心が希薄な方だと思っています。
 ↑
こうなるんですよ。

本来のモチベーションの元となる「現実との間の快感原則(言うならポーカーテーブルに載せる掛け金)」が中途半端だからですよ。
「不全状態だった幼児期の親子関係における快感原則(ほめてもらうであるとかしかられるとか)」の過去の自分の認識に、現実への知覚の幾分かをかっぱわれてしまっている(抑圧)ので、現実テーブル上の掛け金が不足している(なので現実が面白くないと錯覚)って事です。

ここも極論で説明します。
(少々下品な表現ありますがご容赦ください)
「○暴主催のポーカーゲームに有金掛けて大勝(又は大負け)した。俺は帰りに高級コールガールも買って派手に遊んだのさ。」
「お父さんに連れられてお祭りで金魚すくいをした、成果は大漁(又はスカで)。僕は随分褒められた。」
両方の快感原則の時制がごっちゃになると?
 ↓
「社会で仕事して給料も貰っているんだけれども、何を求めるって(親の愛情というか)僕は認めてもらっているだろうか(褒めるとかしかるとか)。」
こうなると、モチベーションが維持できないんですよ。
当然現実への興味も半減します。
(大人の社会じゃ「色と欲」がモチベーションを保持しますが、かたや深層心理でお父さんの愛情論には無理がある→極論「ポーカーゲームにお父さんどうコメントするワケ」のように、構造的に関連性の限界となる)

わかります?
前回の説明における
>>面倒な人間ですら介入するに好都合なカード切っているって事ですよ、
>>そら無関係な人間でも「は、なんでまたオーストラリアへ」と言うでしょう。
>>自分自身全く自覚無いでしょうけれど、深層心理の罠と言いましょうかね、周辺にそう言わせる口実にもなっているんですよ。
>>『オーストラリア・カード』って奴がです。
>>(それも反動形成の仕組みのひとつでもある)
 ↓
「ポーカーゲーム(社会人としての仕事とか)だと話が繋がらないが、オーストラリアだと親に意見を求める自分って話が文法的にも繋がる」
■レトリックと結果としてのパラドックスの正体ですよ。


”じよくさん”の本音はですね、そんな事考えちゃいないんですよ。
自我における自分と言う主体の時制がですね、様々な経緯で少々矛盾している(場合によると10年前の自分が上位になっている)。
整理が付いていない状態だって事です。
(そりゃ当然です。直近の関心事項が「駅前のラーメンは美味いのか」な時、に親子関係なんて介在しませんから)

「ナイ、ナイ、ナイって、んな事俺の本音じゃないから」
とりあえずですね、四の五の言わず自分に宣言するんですよ。
大人の男として掛け率の範囲に入っている「色と欲」みたいなものを縮小均衡(シュリンク)させるような深層心理があったから、
(見かけ上)『好奇心が希薄であるかのような人格になっていただけ』なんですよ。

戦場は、今目の前の現実にしかないのであって、
そこに興味なかったら(ノスタルジーに引っ張られていたら)自分はおろか部下の命まで落としかねないんですよ?
そこの興味が半減ってそれは大問題なんであって、
鬼軍曹だったら?
「何ぼさっとしているんだ、死にたいのか!お前が死ぬのは勝手だが部下まで死なす気か?自分は死んでも構わないってことなら今俺がお前を殺すのが世のため人のためと違うか?腕立て伏せ500回いいと言うまで止めるな。海兵隊はクソ野郎の掛け声忘れんなよっ腕立てはじめっ!!」
或いはポーカーゲームだったら?
「テーブルにはシンシナティキッドと呼ばれた凄腕やらが集い宴たけなわ。その場で俺は”ポーカーにはあんまり興味無いし”。」
その場に命掛けて集った人達相手に最大の侮辱ですよね?
 ↓
>私は元々好奇心が希薄な方だと思っています。

思っちゃわないでください。
そこで妙に納得(だまし絵)してしまったので、そこからボタンを掛け違ってしまったんですよ。
「そんな筈ない、何かおかしいぞ(妙なもん(実は過去の自分の認識)にだまし絵のようなコラージュで俺は騙されいるのじゃないか?)」
本来ここで考えなくちゃいけないところだったんです。
(流石にそれは大人の判断なので、子供時代の自分には気が付けと言っても無理だった)

そういう話なんですよ。


>ここに居るだけでモチベーションが萎縮している気もします。
 ↑
■ズバリ正解ってことです。

無条件に自分に命令していいです。
「まず、ひとり暮らしを遂行すべし」
(成功の可否は問わず、厳に優先事項としてこれを徹底)
1111 返信 Re:状況を整理しましょう2 じよく 2010/07/17 10:49
買い被り過ぎですよ。私はそんな立派な人間じゃないです。
>『私にとって反抗期とは私が彼を父親と認める証明であり、本当は今でも彼に愛情を注いで欲しいと願っているのです』
この通りなのです。

私は思ってるよりは彼(父親)が好きなんでしょう。
だから私自身が認められる(付き合うに値すると納得出来る)証が欲しいと思ったのです。

仰ろうとしている事は分かります。自立と覚醒ですよね。
今を見ず過去に浸っている。内面の探索。
これは長年の癖になっちゃっています・・。

私の反抗期は中学2年の時で丁度親が別れた時でした。
その後祖母はずっと私の傍に居てくれましたが私自身はワケの分からない苛立ちを祖母にずっとぶつけてるだけでした。
それでも彼女は私から逃げ出さなかった。その事を今でもずっと感謝しています。
だから愛情に飢えているとかそういう事はないです。

一人暮らしは・・今はしたくないのが本音です。
オーストラリアにはワーホリビザを使って2年くらいは滞在する予定で、だから今一人暮らしをするには資金的側面を考えた場合タイミングが悪いと言うか・・。
私が父親の了承を得るのは、父親だけじゃなく父方の祖父母、また母方の祖母も心配するからなんです。関係が悪くなるのが怖いのです。

オーストラリアってのがそもそも心配させる材料なんですが、説得による一応の理解は得られています。
ただ、彼らの言いなりになるのもどうかな、と思い始めたのでお金が掛かる下見を辞めて、バイトで今から資金を継ぎ足し、そのまま乗り込もうかなと思ってます。

オーストラリアに対する想いは主に、
・英語が壊滅的だ。→身体で覚えさせたい。
・日本での就職が困難になりつつある事。→国外に耐性を付けたい。
・日本企業(労働環境)に絶望している。→日本以外を確かめてみたい。
・ぬるま湯(自立しなくても生活出来る現状)が嫌になっている。→追い込まれてみたい。
↑モチベーション萎縮の原因でもある。
・小さな国に飽き飽きしている。→広いところ行きたい。
・空気という文化に疲れている。→外国では意思表示をどう行うのか知りたい。
です。

大半は就職に掛かってます(日本の企業体質が好きになれない)。
もしも外国を見て落胆したとしても、それはそれで日本を(マシである事を)再認識する事にもなるんじゃないかと・・。

今のままでは日本の企業に再度就職する気力が湧きません。
それを納得出来る材料を海外に求めてるんだと思います。
恐らくは単純な自己の力量不足、もしくは理想と現実のギャップによって帰国する事になるでしょうけども。
或いは、を期待してオーストラリアに臨みたいと思っています。

好奇心を否定しちゃいけませんよね。ごめんなさい。
多分他者との比較による落差を誤魔化す為の思考なんだと思います。
羨望や嫉妬を(ストレス回避の為に)湧かせない様に・・。
その自らの感情抑制によってもしくは気力の発露も阻害しているのでしょうか・・。

お話しする上で、何となく分かってきたような気がします。
一人暮らしは、いずれやりたいと思います。
でもやっぱり、私はオーストラリアに行きたいと思っちゃってます・・。
1112 返信 わかり難い補足をつけておきます。 kagewari 2010/07/18 21:00
わかり難い補足をつけておきます。
考えるネタ的意味で、
(おおむね内容は理解されているようなのでレスは不要です:てかレスしない方が効果的でしょう。回答をつける格好になるのがかえって自意識の思考の腰を折って収縮の方向に結論を急ぐ抑圧系のフラグになることも十分考えられます。)


>私は思ってるよりは彼(父親)が好きなんでしょう。
>だから私自身が認められる(付き合うに値すると納得出来る)証が欲しいと思ったのです。
ご自身気が付かないでしょうが、一見文法的に齟齬が無いようでありながら大規模なレトリック(による仕掛け)が入り込んでます。
間接的に自分自身のアイデンティティ(確かにIDは直訳すれば”帰属”ですがそれは属性面での証明に過ぎません)が、親子関係を権威的最上位に拘束されている。
大人社会における(自分の仕事などの)評価対象は”社会”など更に上部構造であって、たまさかどこやらの家族法人内部の人事考課とは無関係です。
(20歳を越えた時点で父親にはあなたを上から評価する社会的資格を喪失している)
※彼が国王や家督相続を前提とした○○動の師匠や特殊な家訓を前提とした強者であれば別ですが。

この構造を”なんとなく”を根拠に肯定してしまってます。
>思ってるよりは彼(父親)が好きなんでしょう
”なんとなく”というところが最もハイリスクなんです。

無意識下にある漠然とした”思い(ガリガリとした現世利益的今の自分の本音ではなく)”が現在の自分のアイデェンティティーを拘束している。
『なんとなく、今の自分は現実を上回る価値基準(家族法人内人事考課)に拘束されているのです』
(端的に言えば彼(父親)は社会に五万といるそこいらのオッサンのひとりには違い無い←一票の重みは同じですけれど)
それこそ認めるも何も、年齢的に親子関係の範疇で認めるのではなく、仮に父親があなたを認めるとするならば『独立したひとりの社会人として』というスタンス(あなたから父親を見る場合も同じ)になるんですから。血縁だからって部分は(既に過去形で)二の次の話ですよ。
どっちに転んでも独立した個人として(どこの生まれかとか関係無く)個人的にどう考えるかって自由な本音思考を前提に事を進めないと順序が逆さまになります。
 ↑
■この状況でモチベーションを維持しろって到底不可能ですよ。
日本は家族同士でスパイ活動やっていた東西冷戦時代の東ドイツじゃないんですから、
(そこは個別の関係性に関わる事であって、個人的なアイデェンティティー論とは土台が違います。てか広げすぎって事です。)

付き合うに値するも何も、20歳超えたら『赤の他人同士です』(同じ男同士でどっちが上も下も無い)
(※大事に思う他の親族との関係にしても、それは個別に構築するものであって(必ず彼のルートを経由しなければならないって道理が普遍的であるなんて社会では無い)、血縁関係はその名のとおりで、「きっかけ」→”縁”に過ぎず(血縁という”縁”)、社会属性的関係性を個別の関係を維持するための方便とするのでは順序が逆さまになります)

後段出てきますが、彼との関係性はその一部が日本企業への不満として(バックグラウンドへ)投影され、
そのカウンターがオーストラリアという海外の図式になりますが、
(オーストラリアもカウンター論的にシニカルに捉えていればアリです←ここも後段補足参照)
■モチーフとして海外って言えば、西欧に限った話ですが『ハイスクール卒業したら実家を出るのは常識』ですよ。
(全部が全部じゃないでしょうけどモスリム社会は別として特にキリスト教系西洋はそうでしょう)

オーストラリアに何かがしかを求める前に、オーストラリア的なるもの(西洋海外)の常識は企業云々以前に18歳越えたら家出るのがあたりまえなワケで(ヨーロッパなどで家庭の所得に関係無く奨学金が受けられるのは家族権威性に青少年が拘束されないような意味があって:自力で自立可能な方向を国家が補償する。両親にペコペコすること無く自立する事を国が補償するワケです。案外高額所得の子息でも大学の学費は自力調達ってケースも無いじゃないと聞きます。)、
>一人暮らしは、いずれやりたいと思います。
 ↑
これじゃ順序が逆になってしまう。

つまり(カウンター的に少々極端に話を振ると)オーストラリア(西洋)に何かを求めるなら、まず西洋社会への参加条件として「一人暮らしが先だろう」って事です。西洋に対するリスペクトって意味でも。
(※そこいらが西洋特有の個人主義の肝なんですから)


それから、
>もしも外国を見て落胆したとしても、それはそれで日本を(マシである事を)再認識する事にもなるんじゃないかと・・。
という理解があれば、オーストラリアを注視することを止めはしませんが、
直前の文面に既に「フラグが立っている」のであり
 ↓
>仰るとおりオーストラリアへ行く事が、逃避の材料である事はどこかで自覚していました。

私は”逃避”とは言ってませんよ。
つまり今回のレスを読めば「対照表」はわかりやすい話で、
「日本企業への不平不満」への反動形成です。(意識的にやればカウンター)

私は”象徴化による動機の捏造(誇張)”だと説明しているんです。
「オーストラリアの旗がある間は→日本企業への批判は有効となる(この世界観の中に父親像も織り込まれる)」
本音は後者の方で、
相対的に前者が”浮上しているだけ”であって、それは(結果論として)虚偽の動機である。=本音では無い。

日本は随分アドバンテージのある国ですが、
(個人的には世界でも最強クラスでしょう)
『企業と国家比較』←既に相対的関係性が現実乖離していますよね?
(オーストラリア内の各企業差や日本国内各企業差の方が差が広く、国家間比較するほど両国内の各企業は普遍的な価値基準で統一されていません)

日本企業への落胆がどこの会社を指している話かわからないのですが、
極論『フリーランス』として個人で独立する仕事もあります(それほど食えませんが)。
仕事って言うから、何やらまことしやかな日本の中堅企業に勤めなければならないなど決まっている筈も無く。
(むしろ新卒入社の3割が3年以内に辞職しますから、既存企業の方が今後衰退する少数派と捕らえるのが筋→社会心理を分析すれば新卒入社時に話題となる”ブラック企業”って言葉がありますが、これは社会的潜在意識における「中堅大手全般を指している」んですよ。で、3割の人間がそれに気が付いて退職するんだと。)
日本の企業と言えば、現在のところ独立系等小規模の会社の方がメインであって、いかにも企業社会などのような権威的人事管理のある部門は”マイナー”と見ていいでしょう。
■「高層ビルのガラス窓拭きになる」とか「屋台ひいて珈琲とアイスクリームの店でも始めるか」とかですね、
(若ければそれだけバカやるチャンスもあるって事ですしね)
思考の方向性は山ほどあります。→考えるだけならノーリスク。

又国的比較をしてみても、
将来的に英語はマイナー言語となる可能性もあり(マジにドル依存が強いアングロサクソン系各国は待った無しでしょう。”ドル”がすっ飛んで米国覇権的グローバリズムがまんま戦争覇権に化す可能性も大)、ブリッグス的に考えれば中南米の方が面白いですし、単に南半球で見ればニュージーランドの方がいいかもしれない。
労使関係含めて先進国を狙うならヨーロッパの方が進んでますし、のんびりいくならイタリアや沖縄って選択肢もある。
世界的文明の歴史的経緯を考えれば学ぶべきはモスリム系アラブ諸国になりますし、そういう可能性があるのか知りませんが「カイロ大学留学」って手もある。間違いなく卒業後現地で商社関連の仕事で食っていけるでしょう。

個人的には最も開放的な”バカ国家”は日本であると考えていますけれどね(学会で気ままにユングなんて言葉にできるの日本ぐらいですし、特に心理学においてはキリスト教タブーで先に進めない各国に比較して日本は圧倒的優位があります)。
端的に言えばなんでも言える(表現の自由度が大きい)。
又、厳密に言えば経済的にも日本は最強の部類に属します。若干補足すると→中国バブルの破綻が近い(しかも中国は実質ドルペッグ制ですし、この場合内戦もあり得る)、このドル不安を前提に考えれば所謂グローバリズムという米国覇権主義もすっ飛びかねないですし、EUは現在そのグローバリズムに食われている状況、中東でイスラエルとイランにおいて戦争開始の噂もある。
そんな中で日本は外需依存から離脱しつつあるなか他先進各国と比較してまだまだ失業率が低い。
やっかいなのは米国支配による日本国内の政治的支配の継続って構図ですが、そもそも米国がギリギリの状況にあるなかいつまでも続きませんよこんなもん。国内で金融資産が適正に投資されれば”普通に経済は回復します”。又、化石燃料からの離脱も日本に最もその可能性あるでしょう。


※又、日本は小さな国じゃありません。生活文化を比較して米国の複数州の差異よりよっぽど日本国内の関西・東北の差異の方が大きいって論議もあります。なんでもアリの底無しの表現自由度含めて、恐らく先進国の中で日本は最も最先端でしょう。
個人的には、東京という都市は中世のウィーンや近代のパリ、現代におけるNYのような存在になるのでは無いかと思っています。

マスメディアなどの影響で既にマイナー派に属する「所謂日本の上場であるとか中堅企業」をあたかも日本を代表する存在と勘違いしているだけですよ。(ありゃどっかの特殊法人と同じで「もうオワリ」の存在です。それこそ皮肉込めて言えば負け組みの典型。:日本の法人の90%以上は中小零細でこっちが本当の日本企業です。)
私は職業からやたらと多数の業種について知見ありますが、概ねそうです。
→「大手だから仕方が無い」って言葉は一部の仕事関係で挨拶みたいに通用します。

それこそ『アルカディアは無いだろうか』と文明批判的に地中海辺りのマイナー国家を巡るのもアリに思いますが、

とにもかくにも、このへんを中途半端に行くと
 ↓
>もしも外国を見て落胆したとしても、それはそれで日本を(マシである事を)再認識する事にもなるんじゃないかと・・。

この言葉は”引き篭もりフラグ”になりますよ。
海外を考えるなら、それこそ十分に好奇心を働かせて考えるべきなんです。
中途半端になると別の意味のフラグが立つ事もある。


>好奇心を否定しちゃいけませんよね。ごめんなさい。
私は好奇心を否定しているとは一言も言ってません。
家族時代(過去)に認識の一部が引っ張られる関係で『現実への興味が構造的に収縮している』と言っているんです。
簡単に言えば、「目の前の晩飯と関係無い話に気を取られていて、食欲まで半減する」のと同じ心理です。

まずですね、
現段階の作戦には様々な方面に(地雷ほどじゃないですが)、引き篭もりフラグや家庭内争議のフラグがレトリックによって思考に入り込んでいるかもしれないと、その可能性を織り込んでおくべきで『その韻を不用意に踏まないように』十分注意が必要でしょう。
自分の考えを「うっかり信用しない」ってことです。
(現状本音から乖離している認識もそこに混入している可能性高いので)

十分に考えて(楽な方向でOKです)『しっかり本音プルーフしておく』ことが肝心で、事を急がないようにすることですね。
逃げ道的には「楽な方向」の出口論を重視すべきで
 ↓
>→追い込まれてみたい。
こっちは危険です、
(破綻のフラグにもなる)
重視すべきは「楽な方向」の出口論なんですよ。
■戦術論ってそういうものです。
砂漠の嵐作戦のパウエル司令官じゃないですが、本当の戦術家なら出口論をきっちり考えるべきものです。

追い込む的発想をビルドインしたいならば、
>ぬるま湯(自立しなくても生活出来る現状)が嫌になっている。
ここに一番関係するキーワードは「一人暮らしをはじめて実家との音信を切ればいい(4〜6年帰らなければそれなりに音信切れます)」のであって、
(オーストラリアの前に一人暮らしという部分に辻褄も合う)
オーストラリアに行くにしても、あてども無く旅でも続ける方が(マトモに現地で仕事にありつく前に)『オーストラリア・カード』は効果的に思います。

な部分も含めて十分考えて確信犯的に実行すれば『オーストラリア・カード』も有効でしょう。
1113 返信 有難う御座いました。 じよく 2010/07/18 22:51
お礼だけ言わせて下さい。
ここまでお付き合い下さり、本当に有難う御座いました。

先生と話している中で、自分の思想の危うさに気付かされました。
追い込まれたいという思いは自分を不幸へと導く志向性である事が分かりました。
戦術的に考えて私は自ら退路を断っていたようです。

また、一人暮らしが割とオーストラリア・カードと似通ってるという事にも気付きました。
自立と覚醒の要素では同じかもしれないですね。
寧ろ段階を踏むのであれば一人暮らしの方が先決だというのも理解出来ました。

オーストラリア・カードで最大限の効力を得る為に焦らずじっくりと考えたいと思います。
そして、自分を幸せに導く戦術を何とか練り上げられるよう努力します。

重ねてお礼を申し上げます。
有難う御座いました。

1098 返信 もう辛くないのに不安 yuttie 2010/06/18 21:39
はじめまして、yuttieと申します
ごめんなさい、長文になってしまいました
また当時や今の感覚をそのまま文章にしたので
意味がわからないところもあるかもしれません

去年、私は
色々あって
死にたくなりました

悲しさと楽しさと絶望と幸福感が同時に押し寄せて、
私を嘲笑している奴や、
私を殺そうとしている奴や
ひどい声で絶叫している奴や
そんな奴らを全て否定しようとする奴や
ごめんなさい、ごめんなさいなんて呪文みたいにひたすらつぶやく奴や
頭の中でギャーギャー喚いて
紫になったり赤になったり黒になったり

私はその間うずくまって体を硬直させて髪をかきむしって目に入るもの片端から壊して
そいつらを抑えるために自分に激痛を与えて

頭が混乱して
息を吸い続けないと死ぬ気がして
息を吸い続けなんてしたら死ぬことは分かっているのに
だから息を吸い過ぎないようにむりやり首を絞めて混乱が収まるのをまったり


そんな発作を繰り返していたら
目に入る知らない人誰でもいいから殺してしまいたくなるように思えて
別に社会に不条理を覚えてそれを世の中に表現したいとかそういうことじゃなくて
むしろ何の考えもなしに、何というか、その気持ちが思考や理屈よりもっと奥の、
本能とかそういった次元の感覚にガツンと襲ってくる感じで
頭の中で低くて小さくて強い声が
コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス…
それが来るたび毎回こらえるのに必死で
自分はちゃんと本当に周りと同じ「人間」なんだろうかなんて考えて
強く惨めな気持ちになりました

そんな自分が怖くなり部屋に閉じこもって学校を長期間休むようになりました



その頃から心配し始めた両親が
心療内科に通うことを勧めました
外出はなるべく避けたかったのですが
通院を拒否したら元々あまり好きでない両親と口論することで
「変にキレ」てしまうのが怖かったので
大人しく近所の病院に通ったのですが

4か月かけて、手首を切ったこと、気分が落ち込むことしか
伝えることができませんでした

他人と体を向かい合わせて話すと
混乱してしまうというか
いい子ちゃんで居ようと思うのか
頭の中の声も自傷の願望も殺害の衝動も恐怖感も
言うのが怖い
というか、
初めから自分にそんなものは無かった気がしてくるんです
先生は最初だけ困った顔をなさっていました

お薬や何もしない時間や時々来る学校の仲間の連絡が
私を助けてくれたおかげで

1年経った今
声やその他の様々な発作はほぼ全く起きなくなりました

3年になった私は国立の受験にむけて猛勉強しています
1年無駄にしてしまった焦りの気持や
これまでの過去からなる劣等感から
暗い世界から解放された後に射す一筋の希望に必死にすがる思いで
ひたすら勉強しています
去年の辛い気持に比べれば一日十何時間の勉強はバカみたいに楽に感じます
この前の模試は去年に比べ、いいもので偏差値30上がりました

ただ
発作が起きなくなって、
最近、あれは全部嘘だったんじゃないのか
なんて疑うようになってしまいました
私は、みんなを見捨てたくて、学校もただサボりたくて
でも自分のプライドは傷つけたくなくて
こんな話をでっちあげて自分をも騙してその気にさせて
いるのではないかと思えてきました
心療内科の先生も私に私のことについて教えてくれなかったのでなおさらです
もちろん私が先生にほぼ何も伝えなかったのでそれは当然なのですが

思えは私は家庭に不幸があったわけでもなかったし
特別な人生を送ってきたわけでもなくて。

腕を切ったのも喉に今でも残るような傷をつけたのも睡眠薬を大量に服用したのも
全部自分や他人を騙すための演技じゃないかと、思えてきて

でも
そうして疑ってくる私を否定したい私や

また、発作が起きない現在の私を
私の人格の一部を無くしてしまったんじゃないかと思う私が

不安がって、またあの時に今戻りたがっているんです

そんなことしたらどうなるかなんて
考えなくたって分かるのに


今までの私を含まない私、今までの私を認めず受け入れようとしない私とは
本当はそれは、私じゃないのではないか、なんて思って
今、不安で
せっかく作り上げてきたものを壊そうとしている
バカみたいな私がいます

でも
私のことくらい私は認めてあげたいんです
どうしたら、また安心して前へ進めるでしょうか

最早迷う時期でないのに迷ってる自分がイヤです
1099 返信 所謂急性の強迫傾向にあったと考えるのが筋論でしょう kagewari 2010/06/19 17:59
公開掲示板はあくまで概略(※)なのでそこ割り引いて読んで欲しいのですが、
(※情報取得とプライバシー保護及び費用が無料である点から)
心療内科等の利用により形骸的に収まっているところから考えて思春期特有の「急性の強迫傾向」にあったと考えるのが筋論でしょう。
(仮説としては「もうひとつの可能性」として”運悪く形骸的に共同幻想適応適正が高い”ことが原因で問題が隠蔽されやすい傾向にあり、問題発生を先送りさせていた可能性もあります:しかしこの場合も構造上は急性傾向と言えるかも知れません。参考までに慢性というは”ハードにロジカル”という構造です)

当時の様子は印象で語られることが多く、ロジカルではありませんから生理的という表現は適切じゃありませんが自我内部の葛藤構造(あるいは論理矛盾)は比較重層的でハードなものでは無く、表裏のようなバチっと(あるいは白黒ハッキリするような)明快な急性系の構造にあると言えます。
(これを”浅い”と表現する場合もありますが、これは”軽い”という意味ではありませんから誤解の無いように。深層心理の構造が重層的且つ慢性系か或いは軽層的且つ急性系かの差異です。参考までに「慢性的であれば常在違和感が(論理的:ロジカルに)継続し続ける事になる」。)

この辺を簡単に言えばどういうことかと言いますと、
個別の認知に対して様々な局面でロジカルな強迫性が重層的に織り成す形がある(慢性系)のでは無く、
表面的な自分(共同幻想:社会適応する表情)と、内面の(表層と矛盾する)自分的なバチっと明快な対立軸(葛藤)があるって事です。

で、この対立軸が何か殊更大変な事かと言えばそういう意味ではありません。
平たく言えば人類全員にあります。
典型的なものが『反抗期』で、
この現象は(自然界の他の哺乳類で言えば母集団を離れて自立する転換期)、既存の幼児期や幼年期の既成事実化している環境なり認識なりを自己否定し”現実適応アップデート”する既存自己に対する(現実認知を始めた自分の)反抗という図式になります。

しかしこの反抗期がスムーズに行われるためには(反抗期そのものが荒れる時期ですからスムーズという表現はどうかと思いますが、ま、そういうことです)、対立軸というか対決の図式が拮抗無いし現実の自分が優勢の形でバランスしなければなりません。
通常「絵物語(幼児的世界)と報道写真(現実世界)」の比較のように、一次的には『現実は常に印象に勝ります』から(印象が勝つのはロジカルにこれが理論武装される場合なのでこれは反抗期の後に哲学的覚醒があるとかこれ大人ジャンルの別次元の話)、大騒ぎのレベルはともかく”幼児期の印象は思春期の自分により上書きされ現実アップデートが行われます”。
ですからこの期間には旺盛な欲求で現実情報が取得され猛烈な勢いで現実の自分なる姿(言うならば現世利益的自分)が形成されるとも言えます。


で、
■yuttieに起きたメンタルな問題は何かと言えば、
『退行化現象』です。

あえて話をわかりやすくするために厳密に言えば心理学的に正しくない表現であるとか、意図的にエキセントリックな表現でここ説明していきますね(これはカウンター効果を狙ったもので、以降の説明に対する抵抗を中和するため、端的に言えば過激な表現で説明するのが有効だからです)。
※掲示板警告にあるように、一次的に自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れますからそこは同意の上読みすすんでください。

様々に語られる自傷系であったり自殺衝動的なもろもろの言動は「性的自己顕示(自己表現)」のようなものです、
(ダイレクトに性衝動という意味じゃありません、思春期=生理的に大人になる=新規に性衝動的モチベーションが台頭する変化が派生というフローがあるってことです)

『自傷系であったり自殺衝動的なもろもろの言動』→これを下卑た言葉で少々乱暴に説明するなら「露出狂系の性的自己顕示」と似た行動なんですよ。
連想的にイメージしてみれば更にわかると思います
(”自傷出血・生理””自殺自傷・自慰””騒ぎ事件化・顕示欲””公然わいせつで警察の世話になった・自傷で診療内科の世話になった”)
心療内科通院により表面的にこれが収まったのは、生理的な大人化モチベーションの急激な身体上の変化がなだらかに抑えられた(突然アクセル全開レッドゾーンのような状況から少々アクセルを緩めて準加速状態までレベルダウンした)からで、所謂『反抗期』のトリガーないし自己表現の転換ポイントが先送りになったためです。

で、何故通常の『反抗期』では無く、上記のようなメンタルな状況が発生したのかと言えば、
「現実の自分」を表現する上で心理的な障害(強迫傾向)があったためとなります。
「自由な自分というか、自分の大人イメージを表現しようと思ったが、自分の内面にそれをハードに抑え込む概念がある」
ぶっちゃけ強引にこれを簡単に説明すると『やたらと(不条理なぐらい)ハードルが高い』
このような(心理的)障害にぶち当たると、行為は心理的に撤退(退行)し、快不快原則のもの代替行為を脳内選択(時制で言えば思春期の行動選択からより幼い時代の行動選択を模索:幼児期の快不快原則は想像以上にグロテスクだったりするものです)、

このハードルが各人様々なんです。
親子関係において(過干渉などで)快不快原則の頭を抑え込まれている(治外法権で反抗できない)とか、
単に受験などの現実局面で過剰に不安になったとか(ここ後で詳しく説明します)、
運悪く今現在まで優等生的に(共同幻想)社会適応してしまい、既得権益的に新しい荒野というかワイルド(野生)の自分を表現するにはあまりにもリスクが高い(中途半端な民間企業ならサクっと辞表も出せるが条件のいい公務員は簡単に辞められない)などなどです。
 ↑
■とにかくなんらかの理由があった。


>本当はそれは、私じゃないのではないか、なんて思って

これ何かといえば、端的に言って「本音の自分が不平不満を言っている」からで、
現状の平和に対して根本的には忌避感情があるからです。
わかりやすく言えば「周囲に合わせているだけ(つもり)で(よく考えると誰も頼んでない場合もある)、これは私の本音じゃない」というストレス。
(前述のとうり大人になる欲求を納得行く形で表現する思考がスムーズにいっていない←バチっと抑えられて内面に逃げ込んでしまう状態)

間違っても自傷時代の自分が本音を表現していたって意味じゃ無いので、ここは誤解の無いように。
過激な行動や行為は(自然界の動物みればわかるとうり)”反動”でああるとか”緊急時”であって、基本”正常な状況とは言えない”ものです。
yuttieさんに起きた行動を簡単に説明すると、
「強度に自己愛的欲求不満状況下で、私は今まで経験したことのないハードなメイクをしてみた(ついでに衣装も派手派手なものを着用)、その時鏡に映った自分の様子が、本当の自分じゃないかと思い、、、、」
 ↑
普通に考えて、通常では考えられない衣装であるとかメイクって時点で”本当の自分”というには無理ありますよね。
これは演出ですから、
(更に過激に表現すると「本当の自分を取り戻すために整形手術を受けた」←明快な論理矛盾ありますよね)

しかし感情的に何かそこに”本当の”というフレーズが実存感あるのは、”武装”があるからです。
退行化思い出してください?
自分の素性をさらけ出す事から逃げた(さまざまな可能性ありますが端的にいえばハードル認知)、
それを乗り越えるとイメージすると(不安感から壁がデフォルメされてやたらと倍増して見える)、
■極端なぐらい過剰な武装しないと不安である。
(これが反動です)

わかりやすくえいば、
山に狩をしように行こうとおもったが、まったく経験がなく漠然と不安になった。
”素人ゆえに”やれ熊が出る、やれライオンが出ると考えてしまい、像でも一発で倒せるマグナムライフルを選んだ。
(素人なのに、素人ゆえに”マグナムライフル”というエスカレート)
しかも脳内では50口径の重火器じゃないと我慢できないような衝動になっている。


そこで、
相談ログから『ここじゃなかろうか』というポイント抜き出してみると
>3年になった私は国立の受験にむけて猛勉強しています
>この前の模試は去年に比べ、いいもので偏差値30上がりました

■受験勉強や学歴なんてものが世の中でクソの役にも立たないことは説明するまでも無いことですが、
yuttieさんの内面にも
「んなこと(受験だの学歴だの)に必死になってお前(自分)救いようの無いバカなんじゃね?」
このアイデアがあるんでしょう。

かといって「だからといってじゃー何するか」と具体的プランは無い、
(経験的に”おー鹿狩り?だったら9mm口径の軽量ライフルでももっていっか”とはならない)
既存の(共同幻想)社会適応してきた旧来の自分(子供の自分)からは
「何も具体的なアイデアないのならただの不平不満なんじゃないですか?あなた(自分)受験から逃げたいだけなのでは?」と非難され、ガチっと抵抗の頭を抑えられている。
※肝心な事は「受験から逃げたいだけなのでは?」などとえらそうに行っている子供の自分も「何故受験が大事なのか」自分の言葉(本音)で一向に説明できないんですよ。情緒的ってあたかも道徳であるかのような誤解を与えて”正しさらしさ”を演出しているだけです。
(熊が出るぞ、とかライオンが出るとかの脅しに負けているだけ)

まーね、結論急ぐことじゃありませんし、
そもそもが「受験」という記号もひとつのトリガーに過ぎません。
その言葉が「大人の自分」という概念の琴線に触れているんですよ。
(なんせ人生で受験なんてトータルでいえば”はしかの予防接種”イベント程度の価値しかありませんから)

答えは曖昧なもので、「大人の自分ってコンセプトを自由に考えられていない」って事です。
(狩の時の具体的思考のように)
案外答えは地味だったりするんです。
(エキセントリックな反動の影響で、やたらと大人の自分イメージをエキセントリックに考えるのは間違い)

「もうちょっと気楽にならんかね〜、女の子の尻おっかけるような余裕っちゅうものは俺には無いのか」のような現世利益的っていうか、現実の自分ですよね(そらアイドルだってウンコもすればSEXもするで→現実世界ってそういうことですから)。
適応って表現は適当じゃないかもしれませんが、
大人になった哺乳類が単独行動で自然界に船出するってのは、現実世界大人デビューって事ですよ。
(適応すべきは社会ではなく現実)
そこで自分はどういう武器を持ち、どういう手口で、何を糧として、どんなイメージを幸福と考え、どういう気ままを望むのか?
(これを”すわマグナムライフル”ではなく、”そ〜だな〜こんなもんかな〜私なら釣り道具?”みたいな現実スケールの中で考える)

ここがスムーズにいって無い。

解決の方法というか、善後策として「経験的にも時間が必要(時間稼ぎ)」って事ですよ。
本当の意味の”現実世界の一時撤退”、
受験に関しても”所謂勉強偽装”程度でお茶を濁して、一生懸命やっているふりして手抜きもする、
(運悪く本当に志望校に合格しても別に構いません、労働組合みたいな意図的サボタージュするワケじゃありませんので)

「なんだかな〜、なにやってんだろうな〜」十分に余裕をもって考える事ですよ。
(それに数年かかっても全然問題ありません)

のようにですね、
短期的且つ局面的にいえばですね
あなたは本音の部分で「受験勉強なんてバカみたいなじゃないか?」というアイデアを持っているのは確かでしょう。
(前述のようにそれは全然全てじゃなく、トリガーになっている表層に過ぎませんが当面そうだってことです)

でー、
退行現象ってところからここの局面を説明すれば「受験勉強なんてバカみたいなじゃないか?」なる本音の自分から逃げているんですよ。
その不快感や違和感がコレ
 ↓
>本当はそれは、私じゃないのではないか、なんて思って

(連想で考えてみれば試験紙のようにこの強迫構造の関係者が炙り出せるでしょう「受験勉強なんてバカみたいなじゃないか?」と発言して騒ぎになりそうな面子が「根拠も無くワケのわからない話を私に押し付けて(或いはそんな様子を子供の自分が自分自身に対して熊だライオンだと勝手に広げて脅かしている)、結果本音を抑圧して、なんだか自己愛的世界に逃げるはめになり、心療内科でようやくおさまるなんて事になったワケか」と→「で再びもとのもくあみ?」「オイオイ何も解決していネーじゃないか俺?」←今ココ)
1100 返信 Re:所謂急性の強迫傾向にあったと考えるのが筋論でしょう yuttie 2010/06/21 07:10
先日投稿した時に前回の投稿が一ヶ月前だったのを見て
お返事がくるのに少し時間が掛かることを覚悟していたのですが
すぐ翌日に、こんな投稿にとても丁寧な解説をくださって、
ありがとうございます、とても嬉しいです

何時間かかけて読み返したのですが、
先生のお話は私には少し難しく
私が誤解がをした上でこれに返信して、話がかみ合わなかったらいけないと思たので
私なりの解釈を下にまとめます

つまり、
私(今の私も自傷時代の私も)は幼年期の認識から現実アップデート(現世利益的自分の形成)をすべく既成の幼年期からの自分と現実認知を始めた自分との反抗期(⊂葛藤?)にあるけれど、(表面的な自分と内面的な自分とは、どっちがどうなのでしょうか?それともどっちもどっちでもないのでしょうか?すみません、わかりませんでした)
この時、現実の自分≧既成の自分のバランスをとらなければならないところ、
私は「現実の自分」を表現する上で心理的な障害があったために(つまり、現実の自分=大人イメージ、を表現しようと思ったが、自分の内面(≠内面の自分)にそれを強く押さえ込む概念・理由=例えば親の過干渉や現実的な不安など、があったために)「退行化現象」(≒自傷自殺衝動的言動)(=緊急時の反動)を起こしてしまった
ただし心療内科に通ったことで大人化(=現実アップデート)の急激な身体上の変化がなだらかに抑えられたので表面的にこれ(=退行化現象)はおさまった、(=反抗期のきっかけは先送りになった)
しかし、今私は根本的には自傷時代と同様大人になる欲求を表現する思考がスムーズにいっていないのでストレス、忌避感情をもっている
私はその状況(=強度な自己愛的欲求不満状況)で過剰な武装をしないとハードル(大人化しようとすることを妨げる概念理由)を乗り越えるのに不安である(=反動?)
しかし私はその武装によってその姿が本当の自分であるかどうかを疑問に感じている

ということでしょうか
すみません、いくら読んでも私の頭で理解できない部分もありました

去年の自分は何か常軌を逸した病気なのだったのだろうかと心配していたのですが、
先生の解説を読むに、どうやらただの思春期の症状であるみたいなようなので、安心しました

>「自由な自分というか、自分の大人イメージを表現しようと思ったが、自分の内面にそれをハードに抑え込む概念がある」

概念というか、今思い返してみれば、私は小さい頃から自分」を表現しようとする自分を徹底的に押さえ込んでしまうクセがあったように思います
また、今も大分改善はされましたが、まだ頻繁に悩まされています

何したい?や何食べたい?どこ行きたい?という問いかけには全てお決まりのように何でもいい、と答え、
他に例えば
「yuttieはケーキ好き?」なんて他愛の無い会話でも
その様な質問が投げかけられた瞬間、自分はケーキが大好物のような気がすると同時にケーキが自分の大嫌いな食べ物であるような気もして
曖昧な返事しかできず、それを聞いた話し相手の困惑と苛立ちの表情を見て物凄く惨めな気持ちになったりしていました
去年も心療内科の先生に自分の悩みを打ち明けようとしましたが、いざ先生の前に座ると自分は何も悩んでないような気がして、何で自分はここに来てしまったんだろうなんて(それは心療内科を決して信頼していないからではないはずです、両親の前でも担任の前でも散々お世話になった部活動の仲間や顧問の先生の前でも同じようになってしまいましたので)
怒っていても何が自分を怒らせているのかわからないし、
悲しくても何が自分を悲しませているのかがわからない、といった感じで、

もしかしたら、今そこが私の邪魔をしているのではないかなと思い、書きました

>■極端なぐらい過剰な武装しないと不安である。 〜

私の直感的な感覚から、今受験に備えている私は、
行き場の無い欲求不満を仕方が無いからとりあえず無理やり勉強に昇華させている、感じです
ただそれだけで、

勉強が今ほど必死になるほど人生に重要なものではないこともなんとなく分かりますし

受験勉強に関しては、違和感や矛盾はあまり感じないかなと思います


…難しいですね、でも先生のお陰でだいぶ自分に明るくなった気がします、
ありがとうございます
1103 返信 おおかた読み込めてますよ。 kagewari 2010/06/23 20:15
ちょっこっと注意するとするならば、レスが早すぎって事です。
精神分析は少々難解なぐらいがいいんです、
というかここは有料メールじゃないので、具体的事実関係を聞く事ができないので「両親の○○との関係に云々」などのように(或いはあ「両親の誰々には明快な強迫傾向がありそれを結果としてあなたに押し付けているかっこうの・・」など)、具体的に説明できないのです。
 ↓
しかし説明できない分、聞く方の精神的負担も公開掲示板であれば軽いので→軽い分「自分で考える余地が大きい」→難解で正解なんですよ。

ですから、嫌ってほどその解釈を考えていんです。
ある意味自省的に考えるテーマというか、考える方向性を提供するのが精神分析ですから。
(いわば思考の道案内みたいなものですので、精神分析=答えじゃ無いのです)
※言い換えると、公開掲示板の設立意匠は「過去ログ倉庫」であって、他の相談事例が閲覧できるところにあります。メンタルな問題は非常に類似するパターンが多く見られ(そりゃ同じ人間の考えることですから)、過去ログの閲覧は非常に効果的ですので(今回の返信で難解に感じた部分を読み解く鍵もあるでしょう)、是非読んでみてください。


■さて、個別の部分にコメント付けますが、

内面の私云々の理解に苦しんでいるようなので(更に難解になるかもしれませんが:前述のとおりそれでいいのです)、
ココ補足しましょう。

どれが本人なのか?
ここはいっちゃうと哲学論争になるので、もちょっとわかりやすく説明すると。
サッカーでも野球でもまー何でもいいですよ、
野球で言えば本来2番バッターであっても、ホームラン打つこともありますし(ゲーム内容によってはホームランを狙わないといけないケースもある)、サインが出ていないのに自分の判断で送りバントする事もあるでしょう、そこに”本来の選手”のような概念はありません。
しかし「ランナー一塁で強引に引っ張ってショートゴロゲッツー」これはおかしいんだと。
(※2番適正も現実との関係による相対的なものだったり、自らプレースタイルを選ぶもので、”なんとなく適応”するものでは無い)

サッカーでいえば本来センターバックのポジションで、高さをいかしたディフェンスが本業であっても相手チームの前線のプレスが強く結果として中盤にスペースが開けば、ディフェンスラインでパス回しするのはむしろリスクであって、センターバックがそのまま中盤まで持ち込む事はアリアリです。
当然セットプレーではフォワード以上にゴールゲッターであらねばならない場合もある。
しかし「相手チームが引いていて、自チームのサイドバックも上がり目なのに自分も攻撃参加する」これは違うんだと。
(※身長などの相対的現実や、自らポジションを選ぶなどって世界はあっても”なんとなく適応”するポジションは無い)

どれが自分でしょうかってね、
表現されて始めて自分です。
(何も自意識が関与しないのであれば、そこにいるのは唯々諾々と流れに合わせる群像が実存するだけでそこには個人の実存は無い)
少なくとも偏向や視野狭窄や倒錯や強迫などの関連で「意識していようが無意識だろうが”それは違う”」ってのが自分じゃ無いのだけは間違いない。
又社会心理として(共同幻想)社会適応している様子は政治的な社会システム上の論議で、これに参加する個人は(それが自分自身であるなどのフェーズと関係なく:それを交換するから報酬がある)どこが本来の自分であるとかさっぱり関係無い部分の話なワケです。
※共同幻想部分を極論すれば「食えればいい」のであって、社会的地位であるとかスキルってのが重要なのは国家の側なんですよ(システム設計として)、端的に言えば個人にとって(学歴もそうですが)自分の社会的属性が何であるかには全く意味は無いのです。

同時にご存知のとおりで現代社会の日本の場合、社会的にも個性化が(共同幻想の変革としても)求められているのであって、
明快な選択意思の無い社会適応それ自体が現代社会では”ネガティブ”です。


心理学的説明に及べば
「葛藤」「超自我と自意識」「無意識領域と反動形成」「強迫と抑圧」等々様々な現象がありますが、その時当事者の自我がどういう感情情報を獲得するにしろ『自我は前述のとおり流動性のある経済のようなもの』であって、
確かに完全雇用やパレート最適は好ましいが、
「どんな経済が本当?」のような論議はナンセンスなんですよ。
(設問がパラドックスになっているのわかりますよね?)
●「インフレやデフレがあるのが経済なんです」
で、論議として過剰なインフレや恒常的なデフレは”問題である”と、
少なくともこれを金融当局なり政治が放置すれば「それは正常ではない」みたいな。
解決の手法として、「何が硬直化して・・・・」
 ↑
なんとなく意味がわかりますよね?

自己愛的というか、占いでいい気分になるように「本当の私って」みたいな耽美性というのは、
それ自体がパラドックスでありレトリックなんですよ。

なんでしょうね”それ”は現実世界の中で”自らの実存を賭け”ガリガリと勝ち取るような実存のそれなんです。
(心理学的に言えば本音の継続というか、本音を担保するような意思決定や選択の過程が重要なので、結果(どんな人)は関係無い。それは各人の自由(プライバシー)領域で心理学は”人はこうあるべき”のような志向性をなんら持ちませんから。どんな人になりたいのか(あるいはどんな人なんだろうか)と聞かれれば「勝手に選べばよい」が心理学的答えです)


などなど説明しつつですね
>概念というか、今思い返してみれば、私は小さい頃から自分」を表現しようとする自分を徹底的に押さえ込んでしまうクセがあったように思います
>また、今も大分改善はされましたが、まだ頻繁に悩まされています
 ↑
今回の相談事例は『これが全て』ですよ。
やはり、本音を抑圧する仕組みがあるってことです。
経済にたとえれば、
「円安になったので、外需が伸びる筈なのに(その圧力はあるのに)、不思議と輸出を抑え込まれてちっとも外需依存GNPの数値が上昇しない」
経済障壁なり、硬直化の問題(抵抗勢力でああるとか)がありますねと、
こういう事です。
(※経済ですから上記ととえは逆さまでもよいの「円高になったので・・・」)
現実部分が「円高」で、これにどう「経済実態(本人)」が対応していくのかって話です。
(適応すべきは社会ではなく現実:共同幻想適応的表現に言い換えればと”適応すべき順番として社会より現実は上位概念である”)

言うなら自分等というものは自分で好き勝手に選ぶものです
>何したい?や何食べたい?どこ行きたい?という問いかけには全てお決まりのように何でもいい、と答え、
>「yuttieはケーキ好き?」なんて他愛の無い会話でもその様な質問が投げかけられた瞬間、自分はケーキが大好物のような気がすると同時にケーキが自分の大嫌いな食べ物であるような気もして
 ↑
これじゃそこにいるのはどこのどいつなのか誰にもわからない。
(自分もクソもステレオタイプに適応している”ある一般人”がシステム論的に観察されるだけで個体として認識できる対象者がいない)

CIAの特殊工作員でも無いのに周囲を煙に巻く態度を示すので
 ↓
>曖昧な返事しかできず、それを聞いた話し相手の困惑と苛立ちの表情を見て物凄く惨めな気持ちになったりしていました

意味も無いのに意図的な偽装工作で不審者のフリをするので(客観的第三者から見れば”あなたが意図的に曖昧な受け答えで嫌がらせをするタフネゴシーター”にしか見えない)、周囲は対処に困る(共同幻想論的にいえば破壊工作員と等価)ワケです。

話を単純化すればわかります。
>質問が投げかけられた瞬間、自分はケーキが大好物のような気がすると同時にケーキが自分の大嫌いな食べ物であるような気もして

選択ってものは”賭け”ですから。
いざ12番レース出走になって、賭けってものに挑むときに
「自分の勝ち負けばかり気にしてレースそっちのけで、どの馬が勝ちますかと質問を延々繰り返す人物」
自己愛的関心で視野狭窄となっている。
(現実を取り違えている:現実は12番レースであって「私は勝つでしょうかドラマ」では無い)

>「yuttieはケーキ好き?」
これはですね
『コイントスしますから、表ですか?裏ですか?』
同じことなんですよ。
(人生は賭けってそういう意味で、賭けの結果が自分であって、それは賭けに挑んだ自己責任を取るって意味であり、自己責任=著作権となりますから「○○を選ぶ自分が実存した」という結果を手に入れる事ができます。現象論としてその結果の是非はどうでもよくて、重要なのは『当事者の実存とその証明』なんですよ。その証明が著作物(自己責任で担保された賭けの結果)なんですよ。著作物の出来栄えがどうこうってのは個人のプライバシーであって”現実”や”実存”にとってはどうでもいいことなんです。←結果は個人的に重要な事=今日の晩飯がカップラーメンかステーキかって話であって→ステーキかカップラーメンの差異で自分が変わりますか?)

 ↑
とですね、本人まったくそんなつもりも無いのになんでまたこういう誤解が連鎖してしまうのでしょうか?

それが人間の自我の特徴で、
(読み解く鍵は認知される感情情報としての”快不快認知”と、生理的な意味の脳が感知する”快不快原則”が違うってところです。脳内の生理現象において快を判断する重要なフラグは(不快だろうとなんだろうと構わない→動物であれば特に定義しなくても主観的に快しか再現選択されない)『興奮』なんですよ)

ある情景を比較してみれば一発で理解できるでしょう。
>何したい?や何食べたい?どこ行きたい?という問いかけには全てお決まりのように何でもいい、と答え、
>「yuttieはケーキ好き?」なんて他愛の無い会話でもその様な質問が投げかけられた瞬間、自分はケーキが大好物のような気がすると同時にケーキが自分の大嫌いな食べ物であるような気もして
>曖昧な返事しかできず、それを聞いた話し相手の困惑と苛立ちの表情を見て物凄く惨めな気持ちになったりしていました
 ↑
全く同じ現象が広く一般的に誰にでも起きる場面があります。
そんなそっくりな風景、
考えてみてください。
どんなケースでしょうか?

「恋愛的関心のある人物を相手に(お互いの意思は不明瞭な時期)、食事に誘われて問いかけられた時」
私は顔を真っ赤にして、ドギマギとわけのわからない対応しかできなかった。

■上記の心象風景とそっくりだと思いませんか?

『自己愛的関心』とはそういう意味です。
じゃーいったい、自分は何を勘違いして、何に(自己愛的)興奮していたのか?


幼児期は大人的な情愛的快不快は(潜伏期なので)、大人の性欲のようなあけすけなものはありませんが、
幼児期の性愛的満足なり快感などの対象者は誰ですか?
(説明しなくてもわかりますね)

「親の顔色ばかり気にしてビクビクしている自分」
(時制から言えば10年ほど昔で既に脳内フォルダ内でも”過去”に格納処理されている筈の”幼児の自分”が、バリバリ現役なまま自意識より上位者のような振る舞いをしている。SF小説のように幼児の自分が脳内の小人みたいに存在するワケじゃありませんから、そういう概念が自我ロジカルに今でも関係性を残している:フラグによって反応するモジュールとして現役であるってことです=哲学的に言えば”ドグマ”)

突っ込んだ話になれば(公開掲示板上では限界あるので具体的には言えませんが)「母親主犯論」なり「父親主犯論」なり「嫁(母)姑共同謀議」なりまー様々な背景の中、
 ↓
『幼児期からそこに”私”は実存しておらず、そこにいるのは”子役偽装のうまい誰か”が似非的家族社会適応しているだけだった』
歴史的にはそういう事です。

そして
 ↓
>勉強が今ほど必死になるほど人生に重要なものではないこともなんとなく分かりますし
>受験勉強に関しては、違和感や矛盾はあまり感じないかなと思います

やってる事は今も同じだと。
(「違和感や矛盾はあまり感じないかなと思います」っても、何が言いたいのかさっぱり内容無い言葉ですよね:そこには誰もいない(賭けの姿や過程が見えない))
言うならば一般社会相手に子役(どうやっても幼児特有のデフォルメ(幼児性主人公気取り的偏向)が関与する)をやろうとしているんですよ。
(赤の他人を勝手に家人にみたてて、よき子役であるべきように自己愛的に興奮しているような状態)
 ↑
気がついてみれば、まったくもってそんなつもりも無いのであって、
そうなってしまっているとしたら「どえらい誤解しているぞ俺」と気がつきますよね。
「こりゃおかしい、ナイナイナイ、ナイってば」と、

※話がややこやしくなるので「そんなこといっても一般社会の学生は、それほど考えることなく受験勉強もしているしそんなことを・・・」云々の反論はNGです。ってか禁止(それはじめるととんでもないルール違反の話になりますから)、そんな事言い出して得するのは強迫的構造だけで、論議としてド・ナンセンス中のナンセンスになります。
(自分の中でもそういう小賢しい反論ある時には厳罰処すぐらいの勢いで、鼻っ柱へし折ってください)


■実は答えってのは簡単なものである。
 ↓
『コイントスしますから、表ですか?裏ですか?』
同じことなんですよ。

『ぼんやり(半分意識は休止状態で)帰宅コースを歩く』のと、
『気ままな散歩』には何の違いがあるのか?
後者には(右か左か・南か北か・喫茶か蕎麦かなどなど)「やまほど賭けの要素を織り込める」んです。
実存感が高いから幸福の実感もある。
(ある意味単独者はこの賭けの機会を自由自在に発生可能である)

なかなか意図的に「コイントス」を発生させられない共同幻想適応タイプの人が何故「買い物好きなのか」、
考えなくてもわかりますよね。
(この辺深く考えると鬱症状としての万引き依存や買物依存の発生理由もわかる筈です。:自己愛的賭け→無意識なその答えが万引きや買物依存である)


「馬鹿いってんじゃねーよ、ビビってなんかネーよ。裏だ!裏、決めた。裏で勝負」
こういう過程(或いはルート)を意識決定の流れの中にバシッと走らせるって事です。
現状だと意欲的に(少々ワザとらしくても)”賭け”とか”配球読み”とか、
「確信犯的な自分の犯行手口」みたいなものを考えてみてください。
その犯行手口が自分の”二の名”あるいは”クリスチャンネーム”みたいなものになります。
 ↓
「金庫破りの松」
「スリのハチベイです」
「壺振りのお竜と申します」
「ハッカーのkwskっていいます」
「パンクのjayです」

名乗って初めて誰なんかわりますよね?
(その”誰なんだ”が自分)

これを叙情的というか哲学的に考える手もある
「木枯らし門次郎と申します」
「風天の寅と申します」
 ↓
>受験勉強に関しては、違和感や矛盾はあまり感じないかなと思います
 ↑
わかりますよね、これじゃ目も当てられない。。
(wikiで「諱(いみな)」って調べて読んでみてください:「字(あざな)」ってのは自分で勝手に名乗るものなんですよ→そっちこそ現世利益的世界の自分である:現代社会で言えば主語がHNの時の自分こそ自分である)


大人になるってのはそういう事です。
そこに突っ込んで言えば答えは見つかる筈です。
(そん時邪魔する奴がいれば、そいつが”抵抗勢力”である。当面”敵”だと認定して戦略なり戦術なり狡賢く立ち回りサバイバルする事に集中してください。取り込まれて放心状態なままなら強迫意識は温存されるだけです。)

1104 返信 Re:おおかた読み込めてますよ。 yuttie 2010/06/27 16:01
御返信ありがとうございますm(__)m

一応今回も、軽くですがまとめました

「自分」とは何か
まず、「自我とは流動性のある経済のようなもの」だから、
そこに「自分」を求めるのは逆説的
それでは、「自分」とは何かというと
それは、「賭ける」こと
というのは、賭けることは「自己責任」であるので
それは「著作権」(自分のみに与えられる固有の権利(責任))であるから
そこに「当事者の実存とその証明」(「自分」)がある

だから、「著作物」=「賭け」の結果、は重要でない

しかし私の場合は「著作物」に重点を置いた行動をしてしまう…
(結果「自分」が抑圧され、よくわからなくなっている)

そんなつもりは無いのになぜ?
それは、「幼児期から「自分」は既に存在しておらず、「子役偽装のうまい誰か」が似て非なる家族社会に適応しているだけだった」10年前の状況を、今なお赤の他人(社会)相手に繰り返しているから

以上のことをよく考えて行動すれば答えは見つかるはず

ということだろうと読んだので、
そうと分かったら、早速実行だ!と思ったのですが、
なんだか最近精神的な元気がなくって…

例えば、
学校の友達先生や家族に(悪い人たちではないのに、むしろ本当に良くしてくれるのに、)最近関わるのが凄く億劫で…

また、自分は、在るのに無い気がして
その矛盾した気分が何とも辛く
実は在るべき存在じゃないんじゃないか、私自体最初から無ければおかしい事はないのに、
このままこの世から消えられたらホント楽なのになぁ、なんて考えが浮いては消え…
どんどん気分が落ちてます

カラクリはとっくにkagewari先生から教わったのに、
一朝一夕で人の思考回路?は変わるものではないのですね…苦笑

特に午前中に気分が落ちて、ここ一週間は外出する気にもなれず
朝は遅く起きて、ただ、起きても体に力が入らず正午を過ぎるまで部屋の隅でボーっとしてました
ふんばって、午後から学校へ行くのですが、
友達から「おはよう、どうしたの?」なんて声かけられても
(えぇと、私ってどうやってこの人と接してたんだっけ?)なんて、
なんとかそれらしく振舞おうとするのですが、やはり変な顔が返ってきます
―いやいや、そんなの何でもいいんだよ
と返ってきそうですが、それが、反射みたいな、絶対脊髄で折り返しているだろくらいの感覚で、瞬時にそういう思考、態度をとってしまうんです…やはりそれ以外の仕様がイメージできないので…

また授業では先生の話し方がいつもの1,5倍くらい速く感じます
板書や教科書の文も何度も読み返さないと理解できなくなって、先日、
「ちょっとyuttieさん?今ココよ?」なんて注意ですらない指摘を受けて、少し動揺した瞬間、
急に大粒の涙が溢れて、動揺が収まって平常心がもどっても結局授業が終わるまで止まらなくなってしまいました

もうこの十何年間の間で何度も経験してる感覚なのでもう慣れたものですが、
「あーぁ、またこの感じか…」という感じです

思うに、つまり、今きっと「抵抗勢力」に思い切り飲み込まれてるのですよね
kagewari先生の分析を読んだ実り、今の状況を、あぁ確かにガキみたいだなって思います苦笑

そこまで分かっていて、今なぜ何も出来ないのだろう
そう考えると、よくないと分かっているのに焦ってしまいます

そうする精神的余裕や自信がないんです
それが幼児概念の結果からそうなってしまっているのだから、本末転倒ですね苦笑

また、気を抜くと色々考えちゃって…

もう記憶が無い様な頃から私は既に「私」では無く「子役偽装のうまい誰か」なら、「私」って何なのでしょうか…
その、うまく言えないのですが強く抑圧されてずっと奥まで追いやられてしまったであろう「私の本音」は、私自身でさえ、今いくら探しても考えても、糸口すら見つからないのです…
そこで無理に「賭け」=「名乗り」によって「私」を見なす、見出すとしたら、
もはや「私」とは「子役偽造のうまい誰か」のことを、今までも、そしてこれからも指すのではないか、と結論する他ない気がして

ところで、
私は親に特別意地悪をされたわけでもなく、家庭環境が悪かったわけでもないのですが、
それでも、こんなことは有得るのでしょうか
「親の顔色を伺ってビクビクしている」子供…なんて、私には過去そんなに苦労した実感はなかったので…苦笑

ごめんなさい、何のまとまりも無く汚くて、こんなの掲示板に掲載するような文ではないのですが、
これ以上頭が回らなくって…大分失礼かと思いますが、このまま投稿します
1105 返信 補足しておきましょう kagewari 2010/06/28 21:49
あくまでも公開掲示板は外郭だったり概略だったりしますから、個別の事実関係はご自身で考えてもらう事になるので、いくつかの可能性を提示しておきます。
>私は親に特別意地悪をされたわけでもなく、家庭環境が悪かったわけでもないのですが、それでも、こんなことは有得るのでしょうか

つい先日の別の方の相談過去ログを見てみてください。
両親への好感を『誤解』する場合も珍しくありません。
(それほど人の認識なんてものは曖昧なんです:言い換えると”簡単に割り切れない”→割り切れないものを”概略”として「私には好感がある」と確信も無く”あんとなく確定的事項”或いは”与件化”している方に実は「変だな」と思わなくちゃいけないのです。所謂親子関係には快感依存的自己愛的利益関係があり(極論すると現世利益的な打算的取引関係実態がある)、互いに大人同士の個人と個人の信頼関係の部分は反抗期の後に再獲得されますし、人類ヒト科といっても動物ですから長期・生存環境的な”バンド(集団や群れ)”に対して表向きは好感のフラグを成立させるのが生存欲求のひとつでもありますから(郷土愛も同じベクトルです)、事実認定において割り引いて考えないといけないところは「割り引かないといけない」のです)
 ↑
つまり「問題があった」というのはいかにもわかりやすいベタな関係悪化とかそういう単純化されたモデルじゃありません。
(むしろそれほど単純化されたストーリーであれば”幼児にもわかりやすい”ので、これは強迫的構造に至りません。幼児にだって「お前(親)それはダメだろ」がわかるからです。←認識そのものを抑圧して隠蔽する必然性が発生しない。そういう環境化でその幼児の将来には、あったとしても”所謂ひとつの不良化”するぐらいのトラブルを抱えるにしても自我の問題に及ぶことは無い。)

ひとつの事例を加えれば、
親が(内心隠している不安など)抱える強迫傾向を、言葉にならない妙な雰囲気などの認識で感じ取り(この時幼児の自我は構造的にそれをデフォルメしてしまう)、それは具体的言葉ではないので無意識下の概念になります(自意識は言語としてのロジカルの集合なので)、
端的に言えば『過剰な尊宅(そんたく)』、
これは権威的関係をベースに認識されますから、『その尊宅や配慮』は無意識に道徳野(超自我的概念)と結合します。
結果進路選択など、ステレオタイプな認知に頻繁に関与し、
「勝手に自分が思うこと(本音)よりあたかもステレオタイプな認知が上位概念であるかのような錯覚を派生させているとしたら?」
こんな風に考えるのです。
で、「そういえば思いたるふしがあるかも」的に具体的事実関係が掘り起こされていく事もあります。

加えて説明すると、「あなたは親属性を離れた彼ら個人を、ひとりの女性や男性としてどんな人物だったのか、どんな人生だったのかのように(政治ジャーナリストが人となりを説明するように)認識できているだろうか」って事です。親属性の裏で彼らの本音はどこにあるのかって推定、
表面的には「あぁケーキは好きだよ」という(いかにも家族社会適応的社交辞令の)言葉の裏にある彼ら個々人の本音は何だろうかって立ち居地ですよ。
突っ込んで言えば「彼らにだって本音の抑圧とかあるだろう」、
(そこに無理な構造があれば強迫構造でしょうし、合理的にノーストレスで簡素化されていていれば単に共同幻想適応者のそれかもしれない)


>学校の友達先生や家族に(悪い人たちではないのに、むしろ本当に良くしてくれるのに、)最近関わるのが凄く億劫で…
 ↑
自分の自我に問題のあった当時の周辺人物やその関係(関係性において実存している関係者)は、”強迫意識の取り巻き”である事が大半です。
簡単に説明すると、自分で張り巡らした強迫意識の正当化や防衛線としての結界のようなもので、
(たとえは違いますが、少年院で更生した筈の少年がシャバに出て昔の暴走族仲間と会った時の気まずさのような)

理想的には全員に対して旧来の関係を清算するぐらいの勢いでいんです。
(今現在進行している、自分自身の本音をサルベージはじめた自分の意識から関係を再構築(リストラ)する分には一向に構いません)
簡単に言ってしまえば、
全員相手に「実はね私は考え方を変えたんだ」から始まる新しい自己紹介を済ませ無いと誰彼相手でも気まずいだけでなく、
旧来自分が半ば自作自演で張った結界(彼らとの関係性そのもの)に取り込まれて、まんま強迫意識に先祖帰りすることも多々あります。

乱暴な言い方ですが、精神分析的に言えば「旧来の関係のままなら彼らは全員敵である」と思っていい。
(言っても彼らとの関係を敵に相当する存在にデッチあげたのは自分自身なのですが)

ソフトランディング的に考えるなら「積極的に彼らとの関係を一度疎遠にしてください」。
(時間はかかりますが、個別に彼らの存在が再構築に相当するのものであれば、上記の「本音の仁義を切ってから」これを再構築する)

それから
>学校の友達先生や家族に(悪い人たちではないのに、むしろ本当に良くしてくれるのに、)
(あえてカウンター効果付けて乱暴な表現使いますが)
今回のの相談経緯を知るに付け、
はっきり言って「全く信用できませんね」。
(ある意味余情的に美化されていて気味が悪いぐらいです:どこかの宗教じゃないんですから→ドグマ)

歴史の言葉に「○○史観」のような立ち居地を表す言葉がありますが、
上記の説明は言語的に「私的快感原則史観」であって、社会的見地でも無ければ哲学的な人物描写でもありません。
(注:「本当に良くしてくれる」→その対象者は強迫的にステレオタイプに傾斜している(本音を表に出していない時の)自分自身(汎用OSデスクトップな自分)に対してである)

刑事になったと思ってください。
(探偵でも構いません・歴史家でもいいでしょう、文化人類学者でもいいです)
「情をはさむのはプロじゃない。彼らはある人物の強迫心理を構成する構造的共同謀議の容疑者なんです。」
現実の彼らの実像がどんなものであれ(彼らの”個人的”交友関係他者や第三者から見て尊敬に値する個人であっても)、その本当の姿はそんな詩的情緒で表現されるようなものじゃないでしょう。
或いは「いい人とされる証明として、(偏向中の)私に対して良くしてくれる」などという利己的評価のどこに中立性があるんですか。

本質的に彼らの尊厳を前提に語るとするならば、
むしろ前述の表現は『彼らに対する侮辱(自己愛的私物化評価)』ですよ。
人の人生はそんな生ちょろいものじゃないです。もっと生生しく、実存の中でガリガリと発現される彼らの個人であるとか本音って姿がその言葉からまったく示唆されていない。
「人間○○を語る」←ように表現できないと彼らを知っているとは言えないのですから。
(場合によっては悪辣とまで言いませんが、「彼は○○としなければならなかったのだ」のような一見ネガティブな背景説明無しに語れない実像ってものは誰にだってあるはずです。しかるにその実存は精緻な説明があるからこそリアルに”いいともわるいとも言えない実存”でものを表し、そこにこそ本質的な尊厳があるんですから、)


話は戻って、
前述の関係性をそのまま放置するとどうなるか?
 ↓
>朝は遅く起きて、ただ、起きても体に力が入らず正午を過ぎるまで部屋の隅でボーっとしてました
>ふんばって、午後から学校へ行くのですが、
>友達から「おはよう、どうしたの?」なんて声かけられても

・簡単に説明すると、自分で張り巡らした強迫意識の正当化や防衛線としての結界のようなもので、
 ↑
(無意識に自分が)仕掛けた結界の狙いどおりに、
■まんまと『引き篭もりフラグ』になる。

外出の基本は「単独行動」としてください。
(或いは独断専行・唯我独尊)
リハビリ過程として、この期間は単独者的振る舞いが必要になります。

具体的には違う話なんですが、
昭和の時代、共同幻想もまだまだ健在な時代。
共同幻想瓦解といっても世代間ギャップなどの歴史的担保の崩壊程度の時代です、
当時反抗期はまだまだ自力で正面突破も難しくない時代に思春期の若者に流行したキーワードは何ですか?
(所謂60年代〜80年代まで)
『一人旅』ですよ。
※共同幻想適応世代ですら、連想キーワードの中に実存主義的試行錯誤である反抗期時代には「(時限的)若いときには単独者志向であることだってあるものだ」が含まれていたワケです。


>また授業では先生の話し方がいつもの1,5倍くらい速く感じます
<中略>
>急に大粒の涙が溢れて、動揺が収まって平常心がもどっても結局授業が終わるまで止まらなくなってしまいました

授業など一度ぐらいすっぽかしてもいいのです。
上記の状態は自己愛的内向の(一人舞台)舞台装置に立っているようなものですから。
仮に授業に参加するのであれば
「違う違う、場所を私物化しちゃいかん、ここは私の一人舞台のステージでは無くて公共的な場所である」と頭に叩き込んでください。
デパートの食品売り場で
「ロメオあなたはロメオなの」と号泣している。
と考えればおかしいよこれって自分でも気が付く筈です。

誰しも公共なり不特定多数の衆人の前では「緊張する」のは自然現象です。
言い換えれば少々テンションがあがるというか、緊張にとるストレス限界が高まるというか、
場合によっては脳内でそれを興奮と認知する場合もあるでしょうけれど、
そこも割り引かないと、
たとえを変えて考えてみればわかります。
繰り返します、本音の自己責任担保であるとか、歴史的共同幻想適応合理性が担保されていない(言うなら強迫的偽装)”帳尻あわせのようなステレオタイプ自我”は、バンド(集団)内において、素っ裸同然の脆弱差を併せ持つんですってば、
(太宰の「人間失格」における→「わざとわざとー」と見透かされる不安のような)

素っ裸状態で緊張感の上昇しない人はいません。
これは準備不足で衆目のあるバンドに入ってしまった個人の自我がおかれた状態と似たようなもんです。
そんなド緊張な要素は個別に切り分けて、「まーね俺はド緊張しているワケだが」と事実関係を認定しておくんです。
(さっきのたとえで言えば「○○の事情で俺は今全裸なワケだが」みたいに)
その状況下で派生した内容をあたかも既成事実のように追認してしまうのは大問題なんです。

ド緊張な背景も込みで状況が誇張認定されてしまいます。
「素っ裸で僕は演説したのであった」
そりゃえらいことになりますよね?
しかし自分が素っ裸であったことを認定できずに、”私はいつもそうなる”と認定してしまうと、
(自我大騒ぎの半分は素っ裸である状況設定なのに)
「私は衆目の前で演説することに耐えられないんです(号泣」
 ↑
全体像の認識(や背景事情)が違うことになると同時に自己愛的耽美性というか「全然違う話になってますよね」


>実は在るべき存在じゃないんじゃないか、私自体最初から無ければおかしい事はないのに、
>このままこの世から消えられたらホント楽なのになぁ、なんて考えが浮いては消え…
>どんどん気分が落ちてます

強迫デ・コードしましょうか?
「自意識は(性器のようなもので)抑圧されているぐらいで丁度いいのだ、それが私の道徳であり、本音私は修道女になりたいのかもしれない。こんな”私が修道女”考えれば考えるほど耽美的な。。。」
これであなたに性倒錯かかっているなら、自慰行為始めている頃ですよ。
そういう概念のベクトルに乗っかった意識だと、自分で見破ってください。
「オイオイ何考えてんだ俺、ちょっと恥ずかしいぞ」と、



言うなら自己の回復は年オーダーで考えなくちゃいけません。
今の立ち居地から言えば、「大学卒業するぐらいで本領発揮するか(その間はこの企みをバレ無いように意識的偽装をしても、本音を抑圧するような馬鹿な真似はもう一切やめる)」。
「思うに私は自己を回復後友人であったり(場合によっては家族の)過半の人間関係を失うかもしれないが、だからどうだっていうのか、そこから私のリアルな人生は始まるのだ」ぐらいの勢いというかテンションを保っておく。

(なので当面の受験勉強などクソの役にも立たないのです。役作りも結構ですが警官役だからといってマジな警察官の資格をとったからといってグラミー賞が貰えるなんて、映画はそんな半端なものじゃありません。)

マジな話私は(本音で)自分の学ぶべき科目なんてものを大学卒業年次ぐらいに初めてわかるのかもしれない。
な状態なのですから、


>また、自分は、在るのに無い気がして
>その矛盾した気分が何とも辛く

厳密に言えば内容違うんですが、
カタルシス効果の期待があるので黒澤明監督『生きる』を借りて観て下さい。
(レンタル屋回れば簡単に見つかるでしょうし、DVDもたいして高くないと思いますから購入するのもアリでしょう)
※後から映画論評的な話はご勘弁を、私も同映画の内容は記憶の彼方ですから。

■とにかく今は『自意識の筋トレ』じゃないですが、
考えること。
急がないこと(戦術的である以上に戦略的であること)です。

大概のことは「保留中」なり適当に先送りにして構いません。
「それどろじゃないだろう俺(ここは徹底・考えるところだ)」
という認知を最優先すべきです、

1083 返信 会食恐怖のこと maccha 2010/03/17 13:04
プロフィールを拝見しまして、大学の時に会食恐怖があったとのことでしたが、どのようにされたのでしょうか。
精神分析を独自でされたのでしょうか。
1085 返信 Re:会食恐怖のこと kagewari 2010/03/17 16:57
概ねプロフィールに書いたとおりです。
(それ以上でもそれ以下でも無い範囲で全て書いてありますよ)

要約すれば元々私には偶然強い第三者性と単独者志向があり(両者は分析者の特性)、心理学を知る前から「違和感」は感じていました。
(心理学を知る前から”共同幻想”は体験的に見えてましたから)
言うならば上記の素養が強迫心理における”無意識的視野外”というか(自分で違和感は感じていましたから視野狭窄とはいえない)、強迫意識が構造化できなかったワケです(偶然その耐性が強かったといってもいいでしょう)。
アレルギー反応じゃ無いですが、自我の容量というか自意識共犯的「尻拭い」の動きも『リアルに視野に入ってました』。

人格の特性に相反する要素が強引に共存していて(仮に強迫構造が構造化すれば”臨床系”あたりに言わせれば統合ナントカになる確率が高かったのでしょう)、自意識は典型的な”アンチ強迫”・無意識は”高ロジカル強迫”のような状態で(強迫が高ロジカルなのは発現年次が遅い証明)、厳密に言えば強迫心理は形成されず、『強烈な葛藤が(正面対決の形で)永遠に継続する』ような状態だったワケです。
強迫心理は(視野狭窄が機能せず)、自分自身の自我に「その存在がバレていた」わけで(自我構造上自意識に勝ち目は無いのですが)、結果論的には『敗退し続ける自意識』という形ですね。

ですから当時は勝ち身に入るため、非常に強い理論武装欲求があり、その強い欲求が『本』『映画』『音楽』等々(銃器への関心は強迫発現以前からのものなので反動形成ではありませんが結果論的に後に強い欲求に嵩じた背景ではあるでしょう:但し強迫意識との連想キーやフラグは無いので専ら関心事項としては競技っぽく没頭していたのが実情です)、学問で言えば哲学・生物学・文化人類系の話のほとんどをこの時代に吸収しています。
(中学から大学まで)

しかしどうにも(何の本を読んでも)勝ち身に入れないワケです、
(ここは心理学的にどうしたって勝てない:無意識は自意識にとって正体不明のため)
※当時から心理学の存在は知ってましたが「うかつにも」軽んじていたんです。卑下していたと言ってもいいでしょう。
 ↓
その理由は強迫意識の影響による『誇大視からくる劇場化(過剰武装)』があったのは間違いありません。
所謂哲学なり「過剰なぐらい情緒的というか(反動としてのニヒリズム含めて)」、簡単に言えば”大風呂敷”ですね(神は死んだ的な)、そういう代物じゃないと闘争の役に立たないと勘違いしていたんですよ。
 ↑
その体感上の『強迫意識のスケール計測ミス』が致命傷だった。
(それが「相手が見えないので自意識には太刀打ちできない」所以です)
私の場合(偶然自我の特性で)「存在を認識できても実態がわからない」状況だったワケです。

しかし、その代わりに(見えない期間の代償として)三角測量じゃありませんが様々な理論武装の結果『外堀は埋まった』状態まで追い込んでいました。
(推理小説にたとえれば「最後の主犯と犯行動機だけがわからない」状態)
自分の自我に起きていた「妙な現象」における周辺的(間接証拠的)プルーフ(証明)は「何度も何度も嫌ってほど繰り返して固まっていた」と言ってもいいでしょう。

心理学への拒否感は”偶然の友人との関係”により(生き証人というか驚くほど二人の人格が”同じ”であることと誕生日が同じという偶然が”蓋然性を誇張した”結果サイドストーリーとして心理学に過剰な劇場性を付加してしまった)、
正直な話「彼のおかげで心理学に取り組むキッカケをもらった」んです。

ですから心理学の本を読んだ瞬間ガタガタと強迫意識が崩壊する音が聞こえたように錯覚するほどの衝撃ありました。
(外堀が埋まっていたので”覚醒”級のショックがあった)
「お前か」のように”理解した”んです。
読むのと自己分析が同時進行するような形ですね。
(それまでの理論武装の方向性も”数撃ちゃ当たるでいい線いってた”のもそれを加速したと言えるかもしれません)

本来自己分析は臨床系含めて「危険なので厳禁」とされているんですが(私は必ずしもそれほど強く危険性を感じませんが危険なのは事実です:繰り返しますが確かに自己分析には危険性あります)、
特に私は「読み違える(強迫意識の方が都合よく自意識共犯的ステレオタイプ武装する事もあります)」余地が無かったので(外堀埋め)、衝撃は衝撃でしたが(新聞記者が”特ダネ”を掴んだ瞬間のような感覚)、それまで意味のわからなかった文学やら哲学やらの意味が「一斉に全部わかった」等、勢い心理学の”重さ”を証明させる背景があった事も大きかったのでしょう。
自我防衛的な『抵抗』が起きる余地も無いほどの”大返し”だったワケです。
(『抵抗』の存在自体葛藤や闘争時に既に体験していたので動き方を知っていたとも言えますが)

(文学に関しては文学部的情緒性への解釈って意味ではありませんよ:作家がどういう心理でそれを書くに至ったのかって心理学特有のネタバレ的なところが理解できたワケです)
その場で勝ちどきを挙げるって事ではなく、強迫意識を破壊する『最終兵器』を手にした確信でしょうか。

そりゃ自意識マターが確立し、強迫心理の介入なり抑圧は相対ほとんど無力化されたにしろ「それなりの長期間強迫意識に拘束されていましたから(12才前後から20歳前後まで)」慣習的に”折り込まれた”ロジックは多数あって、その場で論駁できても身体的反射は一日で消える事はありませんから、会食時にはほんの一口が限界だとか集団に対する恐怖→満員電車への恐怖等々(恐怖というか吐きそうになる)、そうですね〜軽い不快感はその後6年ぐらい続いたでしょうか。
(しかしその辺の不快は全て視野に入って認識していましたから自分としては不快があっても、現象として”走るのが苦手なので息が上がる”のと違いはありませんでした:心因性特有の気まずい感じは若干ありましたが)
 ↑
この辺はリハビリ過程のようなものなので実態として心因性の不快は発生しても心理構造的な問題(希求性というか追い込まれる感じ)は全く無いって事です。
「まいったな〜、まだ満員電車だけはご勘弁だ」程度のレベルです。

注)心因性の不快のかなりの部分は強迫心理特有の「過剰な社会適応意識」が関与するので、結果論として自ら進んで不快な状況に陥るケースも頻繁なので(いわば自爆)、そっちの見当違いはケースとして”動機形成されないので”落っこちますから(馬鹿か自分のように)、実際の不快事例件数も大幅に後退します。
(元々の人格が社会適応的だったりするとここはやっかいなのですが、私の場合は元が単独者系でしたので同様場面の減少幅も大きかったと言えます)

強迫心理との闘争は『最終兵器を手にした実感』で既に終わっているんですよ(実際に戦いがあるように感じるのは”常に自意識が負けるから”抑圧なり負けて自意識共犯となる感覚や経験や追体験が闘争と認識されるだけ:私の場合には視野に入り自意識がアンチ強迫モデルなので闘争になりますが、一般的な強迫意識の場合には”過剰な興奮”となるケースが比較多数でしょう)、

強迫心理は構造論的に自意識に対して『特権的関与』ができるから相対的に強いだけであって、反対に『特権的な力』が相対的に及ばなければ(最終兵器)「何もできない」からです。
(強迫心理形成過程で”権威性”との関連は不可分であるため)

※前段の以降6年残存期間というのはどうにもこうにも超自我領域(社会適応や道徳野やステレオタイプ常識判例)に、当時のロジックが残留しているためで(後は体が”しゃっくり”のような反射で引き起こしてしまう)、
特に意識することなく経験値により消えていきます。
(何があってもその都度自分の強迫的認知を容易に論駁できる:その場では起きてもそこで現象の説明が同時に可能なので尾を引かない:体験としての対消滅みたいなものです)
1086 返信 Re:会食恐怖のこと maccha 2010/03/18 08:11
返信ありがとうございました。
私も仕事に支障をきたすほど苦手なのでどう克服すればいいのか知りたかったのです。なぜ、こうなるのかはわかりません。
超自我が強すぎるため、抑圧が多く、自我が弱いと自己分析しています。
幼少の頃は、母親が大好きでした。
性格は、気が小さく、大人しく、緊張しやすいです。
1087 返信 Re:会食恐怖のこと kagewari 2010/03/18 18:17
公開掲示板上でお話できる範囲で説明しますと
会食恐怖は二段階で考えなければならなくて、
単独行動捕食獣のそれにあるように、基本生物は食事中緊張します。
好き好んで他の固体がいる場面で食事しようという生き物はいません。
集団で食事が出来る前提は(捕食獣でも幼児期は集団で食事を取る)「その場の安全確認」が大前提になります。
草食獣で考えれば集団安全保障的な意味で群れが食事の前提にもなりますが、ここも「その場の安全確認」が強く担保され認識もされるためです。

人間の場合、ここでも幼児期からの体験と経験的連続性(或いは社会性)がそれを保証するため(本来は好き好んで会食などしたくなくても)不快感が無力化される工程が織り込まれる(モジュール的に)と考えていいでしょう。
■つまり
素で「会食自体がそれほど好きではない」程度の認識は全く問題ではない。
会食における可不可の差異があって自然
 ↓
「○○が○○なので飯が不味くなるじゃねーか」
(これ一般的表現にありますよね)

会食恐怖と体感されるっていうのは、基本的水準として『緊張(警戒)レベルが高い』ため忌避がトリガーで心因性の不快に増幅しているとなります。
(不安水準みたいに解釈してもいいでしょう)
となると、ここには心理学的意味での結果論的自己中心性(自己中心の視野が限界でそれで手一杯である)なり更に進んで内向性なりが発現しているとなります。
基本的に先進国として安全が担保されている市民社会が「安全圏」として認知されていないって事です。
 ↑
ここには複数のルートで可能性あります
・過剰な社会適応意識があり「相対的に自分がスキルとして適応水準に達していないのじゃないか?」のような不安が増大している。
(そもそも社会適応しなくちゃいけない法など無いので本筋は「社会適応そのものがどうだっていいこと」なので、そこがどうだっていいじゃなくて”○○じゃなくてはいけない”になってないか確認)
この場合、家庭法人社会において意味不明な社会性の欠如が体験としてあった場合、子供特有の強迫心理として「自分のスキルに問題があるのではないか」と考えてしまい(実は親の家族法人社会の企画に問題があるのに)、誰が考えてもわかる話ですが、家父長でも無い子供に家族法人の社会性を主体的に運営する事などできませんから→自分からは(無意識に)永久に解決しない問題の原因を自分じゃないかと勘違いする事により派生する強迫心理が原因となります。
■「超自我が強すぎる」って体感はココでしょう
(超自我に強弱なんてありません:ここも最下段に説明ありますが明快に論理的説明のつく人格傾向です→「何か理由がある」って事です)

※例外的に子供個人の才能の関係で、かなり強引に子供の尽力でどうにかこうにか家族法人の社会性を立て直ししてしまって(過労依存とでもいましょうか)その度に高度のストレス(大活躍をデフォルトに織り込んでいる)が恒常化することによる強迫性も在り得ます。


お話伺うと、もうひとつのルートがあるでしょう。
(可能性はこっちがかなり濃厚ですね)
・母子関係の『過干渉』が原因で分離不安が発生している
これは、母親の不安心理(強迫的不安:家族法人となんら関係ない個人レベルで彼女自身の自我に心理的問題がある)が原因で、子供依存であるとか子供を母親の自我(内面)の一部として(他人である子供と自分の区別が付かず)自己(母親の幼児性人格部分)を実子に投影して、ぬいぐるみを手放せない幼児のような心理的事情が母親にあった場合(延べ時間とか具体的な過干渉頻度は関係ありませんあくまでも心理的な印象性が高ければ同じ意味です)、
母子関係は幼児にとって「かなり高い既得権益(快感)」になりますから、それに依存し続ける状態を『デフォルトじゃないか?』のように誤認してしまいます。
(強迫の置き所は「母性のようなものに守られない限り私は不安になる」というロジックが強迫的に構造化する)
極論すると自分が「子供のぬいぐるみ役」に貶められている事(実態としては虐待)を「美しい母子愛世界」であるかのように勘違い(誇大視)してしまうワケです。
こうなると、他人同士の関係を前提とする社会性は「それ自体が不安の対象」となり、『常に会食どころの騒ぎじゃない』となるのです。
■この濃密な母子世界の誇張されたイメージが「超自我が強すぎる」と体感される自我の枠組み(相対として”自分”である”自意識領域”が少ない)を設定していると見ることもできるでしょう。
(「濃密な母子世界の誇張されたイメージ」の成立条件に道徳や社会適応が関連して超自我を形成←注、そこには自立独立した自分個人の自由世界は無い)



立ち食い蕎麦の会食恐怖より会社同僚などとの知り合い同士の会食恐怖の方が強く出ます。
 ↓
ここはそのまま”連想性”です。
社会性認知の前提が家族法人時代を母体とするため、親しげな雰囲気があるなり親しげな雰囲気が演出されている状況になればなるほど「違和感(不安)も大きくなる」
 ↑
この二面性は「表面に出ていなかっただけで、母子関係の分離不安という状態は実は”自分が子供時代に所属した家族法人の中に既に会食恐怖が隠れていただけ”」って事なんですよ。
わかります?
特権になればなるほど、その地位は危うくなります。
過剰な母親の子供依存なんかがあると、(分離不安として)当時から潜在的な会食恐怖の可能性は織り込まれていたんですよ。
で、「分離をトリガーに発動」

この辺を見直してみることですね。
ポイントとしては
「不特定多数の人と飯食ってうまい筈は無い」
(高級レストランだって高い席になればなるほど個室になる)
会食や飲食の重要性は会話の方だったりしますから(食事はその”方便”)、会食行為そのものを「食べ物にはほとんど手を付けなくても何か飲めればいいか」程度のジャンルの行動と定義してしまう。
(後から考えたら「あの時は偶然うまかった」とかあっても困らないワケですからね)

「家族の肖像」を考える、
配役というか、家族ドラマにおけるシナリオ上の人物設定を”書き換える”。
(現在自分が想定する人物設定が「相当間違っているのじゃないか?」を出発点にしてみる)
あれこれとシミュレーションして、「あれ?こうかも」など演出家的視点でドラマの再現性や表現性を考えてみる。

「微妙に親しいとか知り合いと赤の他人」を考える
赤の他人の方が楽だったりします、
案外自己中心的に親しげな関係を過大評価して(たいして親しくも無いのに)自分で追体験のトリガーを引いちゃっている可能性もあります。
・屋外のcafeでひとりで何か食べながらリラックスして珈琲飲んでいる時、偶然「目の前歩く歩行者がいるだけでゲロ吐く奴はいない」。
「なんだ、考えてみれば顔見知りってぐらいで全然他人だし」という切り分けにもチェック必要でしょうね。

■重要なところですが心理学的に『正格』などというものは存在しません
(人格傾向として全てに論理的背景がある:六感の特性であるとか生理的傾向みたいな差異はまた別の話)
この点に関しては
「何故”気が小さい”などという傾向があるのか?」
「何故”おとなしい”などという傾向があるのか?」
「何故”緊張しやすい”のか?」
全てに堂々と即答できるように(薄笑いを浮かべつつよく通る声で答えられるようなレベルで)、まずあれこれ考えてみるって事ですね。
(※これ自分に詰問して追い込むとかと全然違いますからね→「何故そんな面白おかしな傾向あるんだろ」のように素で考えるって事です)


今現在の情報だと、公開掲示板でお説明できるところはプライバシーの関係もあるのでこの辺までですね〜
(細かいところは他相談スレッドの過去ログ読んでみて下さい)
1088 返信 Re:会食恐怖のこと maccha 2010/03/19 07:49
貴重なお時間を割いて頂いてありがとうございます
有料相談を検討したほうがいいのかもしれませんが、恥ずかしながらお金がありません。ワーキングプアなのです。今は新しい職場にいくので自分のことを考える時間があります。仕事がはじまるとあっぷあっぷします。
問題が会食恐怖でないこともわかっています。かなりの緊張しいなのです。

しんどいのですが、しんどいことで落ち着く面もあるようなのです。うまくいくことを拒んでいるような感じ、自分を守っているような感じです。歪んでいるのですが、その歪んだ考えを修正してあげればいいと思っています。

母親が大好きで幼少期は母親の言うことをきくことに一生懸命でした。
人と仲良くしたいと思うとしんどいのは、いうことを聞かなきゃと思うからみたいなのです。
1089 返信 Re:会食恐怖のこと kagewari 2010/03/19 15:46
>有料相談を検討したほうがいいのかもしれませんが、恥ずかしながらお金がありません。ワーキングプアなのです。

これも考え方ですよ。

自分固有の分析には”それだけに”強迫心理の反動も強くでます。
ですから有料の枠組みは「主体的に相談を行う意思確認」なんです、
当然私にとっても生活がありますから無料で永遠に続ける事は不可能ですから有料の枠組みは様々な意味で重要な関係性のひとつですが(依存性抑止や第三者性の担保など)、これも考え方ですよ。
この無料掲示板の開放の意味は『膨大な過去ログを閲覧できる』という事であり(メンタル特有の共通項を確認できる筈です)他人の相談スレッドは”相談者含めて完全な第三者”となるので、自分固有の分析レポートとは別の意味の枠組みを持ちます。

自己分析の危険性が示唆するリスクに『他人の相談スレッドを読む』行為は対極にありますから”かなり余裕をもって十分に内容を読むことができる”んです。
それもひとつの「外堀」です、
「お金がありません」も考えようで、
だから今できることがあるって事ですよ。

さて重要なポイントをひとつ
(課題だと思ってください「400字20枚のレポート課題」)
>母親が大好きで幼少期は母親の言うことをきくことに一生懸命でした。

『母親が大好きで』
この記憶は正確じゃないって事です。
分離不安状態における依存性を自意識共犯的に説明する時に疑いも無く(ステレオタイプに)選択されただけで、
誰しも思春期における反抗期(自立と個の確立)に『盲目的肯定』を逆転させます。
(何が言いたいかって反抗期を体験する人の”それ以前の権威者に対する好感”は嘘ではないって意味です)
幼児期における権威者に対する好感には「無条件・無意識」な要素が大半で(好感の発現を記憶していない→反抗期で幼児期特有のデフォルメや無意識的固着を相殺し→後にひとりの個人として「関係性が再選択される」)、
わかります?
だから「〜でなければならない」となったり、
>人と仲良くしたい=(母親の)いうことを聞かなきゃ(ならない)
『盲目的肯定』を無垢と勘違いするから
>母親の言うことをきくことに一生懸命
ちょっと想像してみてください?
「妙な新興宗教みたいだ」と思いませんか。
■ひとつでも戒律を犯せば地獄に落ちる不安
(それを大好きと表現するのは正確じゃないでしょう「取り込まれていた」に近い、「囲われていた」に近いかもしれません)

この構造が強迫構造ってものです。
>人と仲良くしたい=(母親の)いうことを聞かなきゃ(ならない)
>母親の言うことをきくことに一生懸命
 ↓
だから
「しんどいのです」「緊張しいなのです」

>うまくいくことを拒んでいるような感じ、自分を守っているような感じです。
デ・コードします。
 ↓
自立して自分の考えに従って行動することを拒んでいるんです。いえ拒まれているんです”母親に従わなければいけない”と思う自分に。
自分は大人として自由にしちゃいけないんだと、
「”母親に従わなければいけない”と思う自分を守っているんだと思います」


■(課題だと思ってください「400字20枚のレポート課題」)
>母親が大好きで幼少期は母親の言うことをきくことに一生懸命でした。
 ↑
これが”どういうことか”述べよ
※条件過去ログを100件以上閲覧
1122 返信 Re:会食恐怖のこと maccha 2010/10/08 16:16
掲示板を読まれている方には申し訳ございませんが、私がスレッドの立て方を間違えてしまったので、1090〜1115にとびます。

新しいスレッドを立てたくなかったので会食恐怖のことを続けて書きます。


返信なしが希望です。お忙しいのを承知しているのと、聞いてほしいだけだからです。他の方にも。





会食恐怖のこと。

人に言った。妹を入れて5人。
職場をやめた人。パートの方1人。
職場の人にもいずれ、言うかもしれない。

人事からそんな話は聞いていない、とか話が大きくなれば、やめるだろうし、どうなるかはわからない。



こわい。



私という人間を理解してもらうためには会食恐怖のこと、人にいったほうがいいような気がする。
会食恐怖は中2。13の春からずっと。
中学、高校、一浪、大学、就職、ブランク、就職。
会食恐怖を刺激しない仕事を考えて、いろいろ、ふり幅を考えているつもり。
人付き合い下手でも仕事はいる。働かないと。お金はいる。
今は食べる(飯の種。生きる)ことだけ考えている。
 
会食恐怖のことばかり考えている自分がばかばかしくなってきている。


1074 返信 疑問に思ってたこと 早恵 2010/01/23 18:33
今回は自分のこととは関係ないです(でも少し被るかもしれない;)。もし問題があるようなら答えずに削除して下さい。

「罪を償う」とはどういうことなんだろうと考えてました。

被害者の立場からしてみたらも「これからの人生」を奪われてしまった。
仮に生きられたとしも後遺症が残って夢を諦めざるを得ないこと、寝たきりで思うように動けなくなってしまうことだってあるかもしれない。
最愛の人の命を奪われた人に対して与えた悲しみだって、その人を生き返らせない限りは加害者本人が被害者を癒せるわけじゃない。

何年か経って被害者の傷が癒えたとしてもそれまでの時間と苦しみは半端ではなく、その貴重な時間も返ってこない。
しかも気持ちの整理をつけるのは被害者本人であって加害者は何もしない。何もできない。
刑事罰や賠償金もありますが、罪人全てが死刑になるわけではない。しかも全く反省してない人が軽い刑で済むこともある。
仮に相手が反省して心を入れ替えても死刑になったとしても奪われた命や人生、最愛の人を奪われた悲しみが消えることはない。

それを踏まえた上で、「償い」なんてこの世には存在しない、ただ相手の経過を黙って見てるしかないんじゃないかと感じたんですが。
1076 返信 Re:疑問に思ってたこと kagewari 2010/01/23 22:31

まずこの話は近代法体系であるとか、社会契約説の話になりますから(基本メンタルと関係ありませんので)論説として一話完結でお答えします。
(ですからこの返信にレス等しないでください)

>罪を償う とはどういうことなんだろうと考えてました。

これは法学上も哲学上も伝統宗教神学上も
「罪を犯した人間個人の贖罪」がテーマで、被害者への弁済とは全く関連ありません。
(法体系においても刑事罰と民法上の損害賠償は別)

つまり、目の前に神様がいるわけではないので、
(そういう意味では国境は存在しますが、それを言い張っているのは人間の国家間の取り決め上の話だけ有効。紙幣の価値を知らない人には信用債券に過ぎない”あの紙切れ”にまつわる何かがあっても全く関係が無い=つまり相互に契約上の前提を共有する間でしか”弁済”の概念は成立しない)
何が罪で強制的に誰かが誰の権利を奪い独房に放り込むなり突き殺すなりしていいなど『何も決まっていません』。

問題を単純化すると、

国境も国籍もクソも無く「自らを魔王と名乗る織田信長の軍勢が襲来して片っ端から人が殺されている」とします。
「お前さ罪を償え」って、、
これコミュニケーションとして成立しませんよね?
言っている端から自分の首もはねられるだけの話です。
やられたくなければ銃を手に取るしかありません、

「罪を償う」この概念が成立するためには「同じ契約書にサインしている合意」が必要になります。
(大風呂敷を広げれば日本国憲法なり六法なり→それが社会契約的意味の法治国家って話です)
同類といいましょうか同僚といいましょうか同じ業界のルール(や取り決め)と言いましょうか、同じ宗教の戒律と申しましょうか、
法体系にも名文法概念と慣習法概念とあり、
日本はどちらかと言えば慣習法であると(滅多に憲法も改正しない→名文法のアメリカは年中憲法修正しているみたいな)
実態としてその運用は『共同幻想』になるわけです。
その共有ですよ、
「その罪の重さがわかりますか?」
共有する概念(近代国家的概念でいえば社会契約上の意識)が無ければ
「わかる筈無いだろう」と一笑に付されて<お わ り>なんです。
それだけです、

ですから民主主義の名文法的運用(どうしても訴訟社会になる)憲法改正の可能性はワンセットで、
現代日本のトレンドもそこにあります。
情緒的に云々かんぬんしても意味ありませんから、

■この部分を当事者として解釈する場合
(ここは心理学ですが)
動機形成ってプロセスがあります。
ここで「犯意」というか、「一線越えて○○な事をしてやろう」という動機形成には罪の意識がセットになります。
(それとは気が付かずにだったら?確信犯的な「犯意」というか「一線越えて○○な事をしてやろう」という動機形成そのものの実態が存在しない事になる)

つまり罪の意識を交換条件に犯意のある行為を実行するのですから
(そうでなければその行為が極端なものだと認識されないので意味が無い)
その罪に応じてなんからの社会の側からの報復(刑務所にぶち込まれるとか極論ぶっ殺される)のリスクを取っての行為になります。
「罪を償う」
というのは、この実行者が『許される条件』のことです。
(被害者への弁済とは全く関係ありません)

で、被害者がその弁済を求める場合には(当然損害賠償の権利を有しますから)自分で(民事に)訴えると、こういうことです。

状況整理しますと
そういう条件にあるので「市民には”通報義務”や”捜査に協力する義務”があり」
極端に民主主義をやっている米国の場合(当然警察が間に合わないケースもあるので)『実情銃砲の携行が義務付けられていた』んですよ。
過去の話ですが、
米国の銃の所持の歴史的原則は「市民がその権利を行使(中央政府の手の届かないところを補う)する上で銃を持つことを義務つけている」と言っても過言じゃないのです(相当暴論ですが極論するとそういうような意味でもあるんですよ)。
「必要あるときには躊躇無く市民は発砲すべし」
(米国には各州に州兵という軍隊がいますが(日本で言えば都道府県が独自に武装している)この州兵は中央政府が間違った事をしている時に、独自に知事の判断で中央政府の軍隊と交戦も辞さないために”地方自治の権利”として州独自の軍隊の保有が認められている→政治学的には『革命権』とか呼ぶ場合もあったでしょう)

仮に市民が社会契約上の規約を守るために「任意の判断で銃砲を使用した場合」それも『後から裁判で可否を考えよう』という趣旨です。

暴論になりますが、
昨今のニュースから言えば
『元検事、最後まで謝罪なし 足利事件 菅家さん『一生許せぬ』』
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2010012302000100.html
がありますが、
どう解釈すべきかと考えるなら、
「元検事は謝罪しないことで、菅家さんに復讐の動機形成を自ら促し問題を深刻化させた」
犯意ではありませんが、それに近い”リスクの高い行動をとった”って事です。
仮に菅家さんが怒りが収まらず、ショットガンで元検事を射殺したとしましょう。
「当然その殺意には情状酌量の余地がある」これが裁判の焦点になる、
これでは非常に(殺人幇助に繋がるなど)社会的に合理性を欠いてしまうので、
社会なり報道なりが『元検事の姿勢を批判する』という方角になるワケです。
(この批判が中途半端に終わる場合、その責任はジャーナリズム→とりわけマスコミ・マスディアの側にあるってことです)
又、菅家さんにも元検事を民事で訴えるなど「更なる戦い」が社会的にも求められるという事になります。
(菅家さんにも自分の人生があるワケでそればっかりやってられないでしょうし、それを求めるのも酷です。だから支援者や応援する組織も生まれる問題意識が大きければその支援組織にいつでもボランティアとして参加もできるでしょう→或いは腰砕けのマスコミに抗議の電話をするなり)

大規模な詐欺事件などの場合、国が特別の配慮で国家賠償などに応じるのも
「暴動がおきかねない動機形成を放置することは合理性を欠くから」です。
(報復の予見性なり、犯意のある側が報復の動機形成を促しているってところが鍵)
つまり、犯意のある側も大きなリスクを取っていて、
これをひっくり返すには被害者の側もリスクと取りこれに応酬するような”構え”が連動していなくてはいけない。
※それじゃー損ばかりで理不尽だという考えもあるでしょうが、そもそも国の側だっていつでも全ての文明を放棄して戦国時代に戻ったって一向に構わないのですから(そう民主主義が求めれば)、現代社会だと言ってもその合理性や権利保護とは『市民社会が権利義務を果たすなかで成立している』ものであって普遍的ではありません。
→人間って普遍性の論議をするならばここに戻るんです。
 ↓
国境も国籍もクソも無く「自らを魔王と名乗る織田信長の軍勢が襲来して片っ端から人が殺されている」とします。
「お前さ罪を償え」って、、
これコミュニケーションとして成立しませんよね?
言っている端から自分の首もはねられるだけの話で

面倒でも理不尽でも、それが現代社会であって、
気に入らないなら戦国時代の方がいいのかって話です。
(わかります?犯罪者の側には当然「戦国時代の方がいい」って人もいるでしょう。多数派を形成できずに国の方針が変わらないだけで、だとするとならば(相手がそう考えているなら)その局面では現代だろうが戦国だろうが「やるかやられるか」って善悪もクソも無い野生が人間のデフォルトだって事です)

報復権といっては”何”ですが、
つまり民主主義とは「自らの暴力行使も権利として預けられている」のであり、
(正当防衛のように暴力の行使が正当な事案も認められている)
憲法9条で交戦権を一見放棄しいてる日本ですが国際法上反撃なりの自衛権は自然権として保持されており→自衛隊があるのと同じ
忘れられがちですが、我々は税金によって武装集団を雇っているワケですから。
間接的にですが自動小銃を共同で所持しているんですよ?→それを自衛官に預けている
(国民皆兵のスイスなら全世帯の納戸には→いつでも出動できるように自動小銃が装備されてます)

ここで思い出してください、
極論暴論的解釈における米国における銃の所持です。
いいも悪いも無いのです(それは後から裁判で決着つける)
ここで撃つべきだ(正当か非正当なのかの判断は裁判前なのでわからなくても)という”リスク”は市民個人が負うんですよ。
その発砲に関して誰も事前の”お墨付き”はありません。
そのリスク(非正当かもしれず後から自分が訴追されるかもしれない)を負う事(その場で撃つ撃たないの選択)が社会契約上の民主主義社会の市民の義務です。
 ↓
何分現代社会は西部劇の時代とは違いますから
そこが→『裁判員制度』になったんですよ。
(映画『12人の怒れる男』観れば→そのまんまです)

つまり「市民として自分とは関係の無い事件における被疑者の有罪を確定し死刑求刑人として犯人を殺す実行行為の責務を自分も背負う」
(死刑廃止論議は上記にも関わっているのは確か)
関係者が勝手に自分で報復する事を紀元前の社会のように可とするのは無理があります。
(ある意味それが可な時代があったのは社会が生きるのに精一杯だったり王様の権限が強すぎで(市民社会などどうでもよく)警察や捜査機関等行政を税金で雇うゆとりが無かったから)
捜査員数百名で検挙捜査にあたる警察検察より被害者個人が優れて犯人を特定できる筈ありませんし、
警察検察ですら誤認逮捕やら冤罪があるワケで(しかも裁判で検証して初めて事実認定する)、
よっぽどじゃない限り「人違いの殺人(過剰な報復)が横行」してしまいます。
ですから社会契約的に『警察・検察』の専門家を税金で雇っているワケです。
しっかり働かない時には民主主義を行使し、警察・検察を行政として改革するしかない。

仮にそれでも(人違いの)リスクを超えて、復讐権として(アイツじゃないかと)強引にそれを実行しても、
国選弁護人も付きますし、正当な裁判で「その報復はどこまで合理的なのか」判断を仰ぐ権利が保証されています。
しかし、当然相手を間違っていたり、復讐の幅が過剰な報復であれば、情状酌量の余地も無く裁かれるでしょう。
(間違っていたらこれはどうにもなりません→合法化しちゃったら頻繁にこの間違えは起きる筈です)

或いは必殺仕事人的に、正義のなんとやらが有無を言わさず犯人を暗殺する組織をつくるとしたら?
 ↓
『元検事、最後まで謝罪なし 足利事件 菅家さん『一生許せぬ』』
怖くて誰にも任せられません
或いは秘密警察による言論弾圧や密告監視が続く旧東ドイツみたいな国になってもいいのかって話になります。


「空気と水と安全はタダ」と考えるのを”平和ボケ”と呼びますが、
自らの権利もそうですが、市民社会とは各人の日々の闘争によって守られるものなんですよ。
(これもかなり暴論ですが、、)
有志一同は皆ガンベルトを下げてコルトPEACE MAKER(平和を守るもの)45口径の6連発リボルバーを所持してくれと、
 ↓そんな近代を経て
現代社会があるワケです。


■ある意味
>罪を償う とはどういうことなんだろうと考えてました。

これは犯罪者に
「あなたは罪を償う意思がありますか?」と尋ねるような話なのです。
(この社会に再契約する意思を問う→あれば情状酌量の余地となる)
言ってみれば『犯罪者の権利』にも見える、
(償えば許されるワケですから)

原始宗教なんかであれば「許しを請う」が「宗教戒律への忠誠なり帰依となり」許される道が開く
(意味合いとしては紀元前から第人気でベストセラーの本(経典)聞いてもいいよとか、読んでもいいよとか)

ですから究極の復讐劇の場面における台詞は
「罪を償う?お前にはそんな権利は無い」
になるんです。


逆さに言えば
「あなたは罪を償う意思がありますか?」
犯罪者が「勝手にしろ」と言ってもいいんです。
 ↓
局面では現代だろうが戦国だろうが「やるかやららるか」って善悪もクソも無い野生が人間のデフォルトだって事です
基本は『サヴァイバル』ですよ

人類は現代的な文明に酔って少々調子に乗っているところありますが、
地震・洪水・干ばつ・感染症など、、
ただ同じ地球というワイルド(野生)な環境に暮らす動物の一種類です。
高層タワーに暮らそうが、自然豊かなな森に暮らそうが人類って動物が地球って自然環境(ワイルド)の中で暮らす動物だって普遍性は永久に変わりません。
どんなに高級なホテルに暮らして高額な衣装買おうが、「飯食ってウンコしている」市井の”ヒト”に過ぎないのです。
(つまり弁済に相当する利益の喪失の想定も現代社会の文明を前提として始めて有効になっている=現代社会の肯定)
 ↓
言うならば「罪を償う」などの概念は、
同じ契約書に署名した”バンド間(同族or同属or関係者or国籍・・何でもいいですが)”の契約上の取り決めのようなもので、
「(国籍はともかく)同じ日本人(として契約する市民)だから(この法の適応が)、(罪の償いとして妥当であると)わかっているな?」
な題目の中で始めて有効なものであり、
その題目(社会契約や市民社会)を合理的なものだと(法治国家に賛成し)判断するなら、その枠組み(民主主義社会)を守るために今自分に何ができるのかを考えると、、、
こういう事です。
前提が壊れることで償う罪の認識の共有もすっ飛んでしまっても「それも自然」なんですからね。

■現代文明の合理性を前提とするなら、どんなに時間がかかっても、なかなか思いどおりにならなくても頑なに民主主義を守っていく他ありません。
有権者として「独立する個人の意見を表明する」立ち居地を保持するって事です。

1079 返信 Re:疑問に思ってたこと 早恵 2010/02/28 23:07
確かにこの世のルールは人間が生きてく上で作ったもので、時代や国によっても基準が違ってきますね。
個人的感情としては一方的に巻き込まれたなら納得いかないでしょうし、殺した奴は憎くなるでしょう。
それでも納得いかないなら徹底的に戦うしかないのでしょうけど、被害にあって苦しんでるうえにさらにリスクを背負って戦うのは理不尽です。「理不尽」というのも人間の感情でしかないですが、理不尽に思います。強迫ではなくて個人的な見解です。
加害者側からしたらやったことは一生消えない。自分が犯した事実を背負って生きるしかないのかな思います。

答えてくださってありがとうございます。
1081 返信 完結というところがポイントなので kagewari 2010/03/01 00:48

完結というところがポイントなので
「返信にレス等しないでください」と注釈ある筈なんですが?
この意図ですが、文章としてレスを付けてしまうと完結した内容に更に注釈が付くのと同じ意味があるんです。
「○○しかしこうだった」的な後書き的な既成事実化です、
簡単に言えば完結している論説を覆す注釈も可能になります。
曖昧な部分を残す論点がやりとりによって前後するのと違い、個別の質問は返信によりその件の(質問の趣旨に関しての)完結した論説となって完了している事になります。
ですから、
 ↓
「返信にレス等しないでください」と注釈あるんです。

ここはレスを付けるのではなく、論説に対して(返信が書き込まれる事が質問の趣旨になりますから)考えるという部分です。

今回「後書き的」になってしまっているので、
更に修正としてレスを付けますが同様に個別の質問に対する返信になりますから
繰り返しますが「返信にレス等しないでください」

>個人的感情としては一方的に巻き込まれたなら納得いかないでしょう
これはあり得無いんです。
「今現在ここで生きている」当事者は自分ですから。
極端に言えば加害者の側も好きこんで今の時代に生きているのじゃありません、
(つまり加害者が戦国時代の人物であればと考えれば別の意味になる)

納得するとかしないとか、そういうレベルの話ではありません。
現実を生きる以外に実存しようが無いのであり(人は妄想の中で生きているのじゃありませんから)、
上記をわかりやすく極端に解釈するならば、
「権威者は、私の納得いく社会を整備するべきじゃないか」
のような受益者側の『被(こうむる)』心理が背景にあります。
少なくとも上記論旨の背理には「(私を)納得”させる”べきだ」を是としているからです。
(しかも権威史観になっている)

『突然巻き込まれた災厄』
これは相手が人だろうか自然現象だろうが同じことだからです。
(他者の存在も”そういう動物がいた”という自然現象なんですから→俯瞰で見ればいきなり熊に襲われたのと違いが無い。ですから自分自身の暴力性を法治国家という枠の中で国家権力に預けるのか、全ての権威をアナーキズム的に否定して「各個人が武装する平等性」を選択するのかって政治的論議も成立しているんです。:しかし大きな枠で言えば犯罪性のある選択は誰にとっても合理性が無いので「そもそもそれはナンセンスな世界でしか起きない」と捕らえることもできる→民主主義なり法治国家なりの選択はそういった賭けを選択するものです。賭けですから利益を保証するものじゃありません。そこに市民が一票を賭けているんですから、)
阪神大震災の時神戸に住んでいた人は、東京に暮らす人と比較するなら不平等であるとか理不尽であるとか考える事も可能でしょうけれど、その思考には何ら得るものも現実の獲得もありません。

自分自身今の時代をここで生きている事は自分自身のレーゾンテートルやアイデェンティティーに関わる事だからです。
(今そこでそう考える主体は今ここで生きているからそう考える主体として存在するんですから)

「今現在ここで生きている」当事者は自分ですから。

又、実存主義哲学には「不条理」という言葉がありますが、
意図しているのは「そこにこそ実存が証明されている」という意味で(話せば別の意味で長い話になりますので割愛しますが)、
「その不条理こそが自らのレーゾンテートルである」
『パスカルの賭け』という概念もそうですが、
(ここはブログにテキストあります)

「だったら今自分はどうするのか?」
答えはここに帰結するんです。
1082 返信 Re:完結というところがポイントなので 早恵 2010/03/01 07:00
おっしゃる理屈は分かります。その上で感じたことを書いてただけだったので。あくまで「私が感じたこと」です。
このレスでは返事を頂くつもりはなかったのですが、説明が足らなかったです。申し訳ないです。
<この話はここで終ります失礼しました。>

1078 返信 強迫構造から抜け出せなくても 早恵 2010/02/28 13:43
他の人になりきってその人の心理を読むことはできるのでしょうか?

それと最近感情に波があります。
さっきまでは「私は協調型の人と供依存になるつもりはない」と強迫構造を抑えられてたのに今は何を言っても強迫構造が勝ってしまって抑えられない時があります。
また同じ理論で強迫構造に訴えかけつづけると最初は鎮静化できても、途中から強迫構造がふつふつと沸き上がってきます。
ただ何においても根本は依存したままで根本から変えるのが難しいです。
1080 返信 強迫構造云々というより kagewari 2010/03/01 00:08
今回も個別の設問になりますから1回完結の決定稿の形でお答えします。
(※完結になりますので「返信にレス等しないでください」)

まず、よく意図がわからないのですが
>強迫構造から抜け出せなくても
>他の人になりきってその人の心理を読むことはできるのでしょうか?
ここに強迫構造の有無は関係ありません。

自分をからめるから(強迫意識特有の視野狭窄)わからなくなるんです。
心理を読むって行為は心理学なり人物観察なり人生経験なり強迫関連とはまったく別物ですので(スキル自体が強迫意識に制約を受ける事はあっても事後的にこれを知識情報経験として意識的に獲得し補完することは個人の努力の範疇ですから)、
「誰だと誰々の関係において誰々はどう考えたか」
 ↑
ここの登場人物に自分を登場させなければいいことになります。
(社会学であるとか、ジャーナリスト、歴史学者、文化人類学の立場で考える)
後は自分のスキルに応じた結論が出ますから、強迫云々の影響はほとんど無いでしょう。
(影響があるのは前述の”スキル自体が強迫意識に制約を受ける部分”のみ:推定の精度は学問など個人の努力の範疇となる)
■関心事項としては「推定の精度」は社会学や歴史や自意識的な経験や心理学や文化人類学など、個人的関心による情報取得なりで大きくレベルが変動するのですから、政治経済含めて客観的知識として(自意識にとっては理論武装)そっち方面への関心を自分なりに「どんなもんか」と考える方が的を得ているでしょう。


思考のポイントとしては
「又自分がどうこうって話?」のように、
自己中心的発想(これは巷間伝わる一般用語の「自己中」と意味違いますから誤解の無いように)の抑制、
思考する事項において何かと自分が中心人物になっている発想を切り替えるって事ですね。
「自分がどうこうなど瑣末な話なので(ジャーナリストが社会現象を検証しているのですから取材対象とその検証に力点があるのであって、そもそも自分が登場す余地など無い)、これは自分がどうこうとかそういうどうでもいいこと抜きの話さ」
というような”立ち居地”を定義してしまうんです。
自意識でそれを事前に定義すれば(強迫意識の関心事項はもっぱら自分の事ですから)認識が無意識的干渉で偏向することを除外できます。


>それと最近感情に波があります。
>さっきまでは私は協調型の人と供依存になるつもりはないと強迫構造を抑えられてたのに今は何を言っても強迫構造が勝ってしまって抑えられない時があります。
>また同じ理論で強迫構造に訴えかけつづけると最初は鎮静化できても、途中から強迫構造がふつふつと沸き上がってきます。
>ただ何においても根本は依存したままで根本から変えるのが難しいです。

これは認識に間違いがあります。
結論が間違っている
■「上記のような事象により結論→根本から変えるのが難しい」
『あたかも”根本”が存在するように(無意識に肯定してしまっている)語られています』

これはかなり大きな意味の”過失”だと言ってもいいでしょう。
「あたかも偏向する方向の意識(強迫意識)に”根本性”があると”無意識”に肯定しちゃっている」んです。
強迫意識は自我全体にとっては根本じゃありませんから。
(強迫意識の根本はありますが、それは前述の「強迫構造に訴えかけつづけると最初は鎮静化できても」のように自意識によって(強迫意識は自意識に干渉する反対語として)干渉可能なのであり”聖域”だからこそ打つ手が無い強迫意識の根本的原則は壊れている事が証明されている)

一見些細な言葉使いに見えますが、脳内連想的には重要なので(無意識に韻を踏んでしまう)注意したいところです。
(言うならば強迫意識は”わかりにくい”であるとか”理解不能”な要素が幼児期の自我にとって”一種のセキュリティーホール”を形成し、そこに誤った補完論理ソフトを導入してしまったようなもので、現実プルーフの世界に寄って立つのではなく→”一種のセキュリティーホール”を根拠に寄って立つ存在であるからこそ『幻想』なんです)

さて、前述の結論を上記の認識で修正すると
結論の方が以下に変化します
■「上記のような事象があるように、問題のコアはどうすればいのか私の手の内にあるが(自意識マター化可能)、どうにも依存症特有の反動(中毒下における禁断症状のように)がある。現象としてはダイエットのリバウンドに似ているかもしれない」

全く無知なところからダイエットに取り組み、
しかもダイエットに取り組む理由(なぜ無茶食いしたのかについての”ネタバレ”)は解明したとしても、まだまだ反動は残る。
これは想定内の事だって事です。
 ↓
自分をからめるから(強迫意識特有の視野狭窄)わからなくなるんです。
(社会学であるとか、ジャーナリスト、歴史学者、文化人類学の立場で考える)

『現代社会のダイエットにおけるリバウンド』
この題名で文化人類学であるとか、社会はジャーナリストとして論文書けばいんです。
間違ってもその結論は「根本が変わっていないからだ」とはならないでしょう。
言い換えるなら
「根本はとっくに変わっている。やっかいなのは習慣性(依存性)などの技術的アプローチとなる。どんな手法に解決策があるだろうか?」
論文の関心事項はこっちになります。
仮に「根本が変わっていないからダメなんだ」だとしたら?
これジャーナリストの言葉じゃありませんよ、そのまま『鬱的思考』ですから。
(自分の事のように自己嫌悪的な内向性思考になる)

話を脳内連想性を逆手にとって”根本”を使って更に言い換えてみると、
「現象を客観的に考える時のものの見方の根本が(スキさえあれば強迫心理を肯定しようと)まだ干渉されていて、(巷の意味と違う心理的な意味での)自己中心的発想に偏りがちなんだな」
 ↓
>「根本が変わっていないからダメなんだ」
「こういう発想しているからいかんのだ」



『現代社会のダイエットにおけるリバウンド』
「未だに本音にも無い、偏向快感依存に引っ張られている。←ネゴシエーターとしての自意識の立場上の力量不足だ」
テクニカルに”ネゴシエーターの力量”ってものを考えればそこに答えがある訳で、
(ここはそれこそ自意識マターなので個々人で手法は違っていい部分です)
更に”ネゴシエーター”を抜き出して考えればよりシンプルになります。
言葉としては”ネゴシエーション”を”営業”に置き換えてもいいでしょう。
「プロの営業マンとしていかにあるべきか」
シチュエーション的には以下です
 ↓
「そんな商品いらないんだ○○がいい」
(設定:認識間違いだけでなく、○○なんてものが詐欺的商品である)
この状況で、本質的に問題を解決する商品を自分が販売しているとして、
営業のプロが、
「それは違うんです、○○なんかじゃ逆効果なんですよ、今この私の商品を・・・」
心理学的過程を経ていれば”強迫意識”という言葉に異論が無いように「○○なんてものが詐欺的商品である」という営業にとっても最も厄介な認識誤解部分は解決している訳で、残りのプロセスは「今この私の商品を・・・〜」だけでいいことになります。
(そこで「やっぱり○○が」となればこれは単なる”蒸し返し”になりますから論外→明快に「ナイナイナイ」とナンセンスである事を再認識する場面ですが、若干それも後退してしまうなら「やっぱり○○がなんて思ってしまうんだよな」と反省含めて弁解的認識とし、”蒸し返し”について間違っても正当性や権威性まで蒸し返してしまうような勘違いは避けるべきところでしょう)


■公開掲示板上の各スレッド過去ログにおいて書いてきた事ですが、
最後の部分『自意識によりどういう方向を選択するか?』
ここはメンタルとは関係無く、個性の範疇として自分で選ぶ事になりますから、
(強迫意識と知って、それを個性として受け入れる方法だってあります:状況を現実として認識した段階(自意識マター)でそれ以上の鬱的暴走は起きませんし、強迫意識的自分なるのものを何がなんでも解体しなければいけないなんて法律もありません:共同幻想協調人格すら一種の強迫認知なのですから)
以降のポイントは「自己決定ありき」なです。
 ↑
これはメンタルと関係無く思春期の迷いのように誰彼にでもある悩ましい過程ですから。
「さて自分はどうするか?」=「ネゴシエーターとして何をどう交渉するか?」
自立以降に後発的に獲得される自分らしさなる自我は、意識的に(自己選択により)獲得されますから、
(前述と被りますが強迫意識も個性として自意識で認知して詩人のような人生を生きるって世界も無いワケじゃありません:インフォームドコンセプトじゃありませんが自分で選ぶところは自分で選ぶところです:メンタルな問題として特定できるのは「無意識領域の強迫意識を知覚できず自意識には打つ手が無い構造的な問題」を”構造的に破壊”することであり、強迫意識が『自意識マター』として自意識が認識可能な視野に入れば、それこそ強迫意識構造の根本は既に壊れている)
ここは前段のリバウンド云々より重要で切り離して考えるところで、
 ↓
ある意味、リバウンド云々をあまり大きな話だと誤解してしまうと論点がそっちで忙しくなってズレてしまいますから(リバウンド程度の問題はその”根本”が解決済みで既に自意識マターなのだから当事者である自意識としては「それは(視野に入った)どうにかなる」として→)、
「さて自分はどうするか?」「本質的に重要(根本)なのは(今現在)むしろこっちなんだよな」となります。
自己中心的認知と同様にメンタルな問題を過大評価してしまう事もあるって事です(それが間接的に強迫意識を権威的に後押ししてしまう場合もある)、ここは切り分けていかないと、
強迫意識ってものが視野に入って以降は順次(同項目は)『自意識マター(自己決定事項)』に切り替わりますから「自意識マターは自動的に拡大する」のであって、、「さて自分はどうするか?」に戻る。


流れ全体を俯瞰で見るとわかる筈です
上記の流れであれば思考は自己中心性ではなく、ジャーナリスティックな客観性に立脚しています。
(前段部分と繋がりましたね)
若干抽象的になりますが、そこに答えがあるって事です。

1072 返信 淋しさ naka 2009/11/25 22:03
おひさしぶりです。
いろいろお世話になりました。
kagewariさんにいろいろ解説していただいたこと、数年がかりで、なんだかやっと分かりました。少しずつですけど。

結局、入院するとこまでいって、親にも精神科に通っていることなどをカミングアウトして、病院でいろいろ見聞を広げることになりました。
とても親身な主治医でしたけど、特に自立の話では、kagewariさんと同じようなことも言ってました。たとえば、俺は一生親のすねをかじるんだ!、という(精神的)自立もありえるとか・・・
諸事情は掲示板なので書きませんが、家庭が穏便になりました。
私の病気のことはあまり理解しようという気はなさそう(任せておけば安心みたいな)ですが、別にそれは構いません。

ところで病院で思ったことは、結局みんな淋しいんだなということ、赤ん坊みたいに泣いてヨシヨシしてもらいたいんだなということと、観念的なことじゃなくて肌で感じる現実に嬉しさや楽しさを見つけるのが、やっぱりまだ内向的な快感に傾いて出来にくいんだなーということです。
私もまだそれは嫌になるほど根強いです。

淋しさってなんでしょうね。受け入れてもらいたいと、なぜ思うのでしょう。
1073 返信 広義で言えば時制の問題ですよ kagewari 2009/11/26 22:33
>結局みんな淋しいんだなということ、赤ん坊みたいに泣いてヨシヨシしてもらいたいんだなということと、観念的なことじゃなくて肌で感じる現実に嬉しさや楽しさを見つけるのが、やっぱりまだ内向的な快感に傾いて出来にくいんだなーということです。
>私もまだそれは嫌になるほど根強いです。
>
>淋しさってなんでしょうね。受け入れてもらいたいと、なぜ思うのでしょう。
言葉はいろいろあるんですが、
強迫の結果が抑圧で、その方向が内(向)で内向方位は脳内ですからこれは過去で、それを現象と見ると(時間の)退行で、
強迫や(その反動)が構築されるポイントは各人違うのですが、先進国特有のメンタルな問題の発現と社会構造は切っても切れない関係にあり(核家族化)、非常に高い確率でその過去は「独立法人タイプの家族社会(核家族)における子供時代」となります。

必然的に不特定多数の人物(他人も含む)が関わる生存環境とはなり難い(原始共産とか族社会とかのように)ので、
『特定人物に生存環境を依存せざるを得ない時代(共通体験として)』
ここが関係します、
これは社会構造がそうさせるワケです。
生物学的に生き物にとって普遍的に「さみしい」という衝動があるとはおおよそ考え難いので、
(捕食獣の大半は単独行動であり草食動物も多数社会固有のストレス回避本能があったりする)
そもそもが「さみしい」と表現される体感の実態はヒトの自我固有(乃至人為的環境下で同じような社会構造に”置かれる”他の動物)の現象だと考えられます。

発端と言っては何ですが、進化によりヒト科直前のサルを例に取れば幼児と言える年次で既に自分のエサは自分で確保しますから、自身の生存に関わる生命線を誰かに”握られてしまう”事はありません。
これは生殺与奪の権利を握られてしまっていることになります、
(カウンター当てて大袈裟な表現で言えば『寵愛豊かな奴隷階級』→社会構造的にはペットと同格)
簡単に言えばその自立歩行の権利や尊厳を(ヒト科への進化の代償として)奪われている、
ここ生物学的に言えば、
自立歩行だけではなく、目もはっきり見えない上に生殖行為も不能状態です。
(出産直後の幼児は猿人としての古い本能が残っているので自立歩行を試みます:原始歩行→本人歩けるつもりですから)
ヒト科の幼児は『普遍的なコンプレックス』を遺伝子レベルで抱えていると考える事もできるのであって、
(エディプス・コンプレックスの話も理解しやすいと思います)

福祉の概念(本来歩ける筈の猿人が視力障害に車椅子(ベビーカート)にオシメなんですから要介護者と環境は同じ)で言うと、
介護や介助が必要になる時の個人の尊厳の保守は、行政がこれを保障する事で担保されます。
(簡単に言うと権利として保障しないと誰かに依存する形で「頭下げないといけない状態に貶められるリスクを回避することが担保できない」)
ある意味これを社会的権限の曖昧な「単に血縁関係で直近である人物」に無条件で預けられてしまう事は本来”一定の範囲で個人(幼児)の尊厳が貶められるリスクが高い”事になります。
(なので先進国は育児の部分から保育に至るまで成長過程に福祉として”幼児個人の人権を保障するため”行政サービスがあるんです)


これは特別な話じゃありません。
『義務教育の権利』
ここ学校制度で提供されますよね?
間違っても親権者に教科書郵送して「後は宜しく」とはやらない。

非常にやっかいな部分ではあるんですが(当然親サイドから言えばその親権も基本的人権なのですから)、
当然の如く、ヒトの自我は社会ストレスを回避するために「基本的に友好的関係を模索」しますから、固有の問題が無ければ『核家族社会』の人間関係は良好となる上に各個人もその継続を求めているだろうと『ある程度の範囲で与件化もすべき』ところでしょう。

しかし、原則的に言えば、
(本来なら在り得ないぐらい極端な事例で考えた場合です)
生まれた直後から赤ん坊が身長150以上で、言語もペラペラ、当然の如く二足歩行で走ることもできる上に知識の上でも全員が高卒レベルだとしましょう。もっと言えば就職先も決まっていると、
この後は説明の必要無いでしょう。
所謂我々が脳内で漠然と考える親子関係社会は成立しません。

>俺は一生親のすねをかじるんだ!、という(精神的)自立もありえるとか・・・
先生がどこまでの考えで言っているのかはともかく、
解説補完すると、
自分の食い扶持を自力でぶん取ればいいのであって、
相手が誰だろうとそれは立派な「シノギ」だ(或いは稼ぎ)。

<話を戻しますが>
つまり、いろんな方向からヒト科の幼児は「只ならぬ環境に追いやられている」ワケです。

■更にその上に強迫意識が被るんだと

強迫意識の構造ってものは、
『誇張された象徴的権威(場合によると神格化)』
『誇大な権威の連想による自分が受けられると想定する権益も肥大』
『取り込まれた権威性が道徳を支配下に置く』等々、

なんでしょうか
「明日契約取ってこないとクビだお前」
(解雇されると明日の命も危ない特別な状況)
なんとかして神格化上司に認めてもらわないと大変な事になりますよね。非常に不安です、
パニック状態になってもおかしくない。
できれば神格化上司と懇意(同一化や既得権益的依存)となり営業成績関係無く「特別の信頼小切手」も欲しいぐらいの話です。
(つまり核家族には生存に関わる安心感は普遍的に絶対の形でのプレゼンが求められます。その上で権威者が行動の内容によっては過大なぐらいの評価をすることで動機形成にインセンティブが付くんです。この基本環境が損なわれると上記と同様のこれどう解釈したらいいのかってぐらい認識に差異が生まれる。インセンティブどころかパニックを煽るような形になる)


さて、退行化って現象も同時に考えなくちゃいけません。
退行化の心理は別段特異なものじゃありません、
「くそーなんであの時○○にしちゃったんだろう」
後悔などと表現されたりしますが、
つまり興奮フラグを伴った記憶(記憶の中でも判例的な教訓事例となるなどの優位性がある)は、通常の記憶とは処理が違います。
簡単にはローカルに保存(過去化)されない、
場合によるとリソース上で開きっぱなしなワケです(或いはバックグラウンドでファイルが開いているとか)。
フラッシュバックもこの原理です
典型的な事例が戦争後遺症PTSD
「今も交戦中の(追体験による)錯覚」
時制のズレは脳内の現在進行形のプロセスで開いているファイルの時制に拘束されますから、
(再現性が高いと言ってもいいでしょう)

これよく言いますよね?
「あー○○思い出しちゃった、○○思い出すと時間(自分)があの時に戻るんだよね」
(或いは子供時代の方言で話すと自我の時制が当時に戻った感じがする等)
他にもメンタルに関係無い状況の典型的な退行現象のひとつは
「なんで今年のCSで。。。普通無いでしょう、9回5点差ひっくり返されると思う?あーっ福盛が打たれたあの満塁ホームラン、、スレッジ見る度に思い出す。(今でも鮮明に)怒りが込み上げてくる」

ルサンチマンであるとか、
納得がいかないであるとか、
推理小説の謎解きが最後までわからないとか、
ジグソーパズルのピースが足りなかったとか、
(コミュニケーションギャップがあると上記は不良債権のように積み上がってしまう→そもそもコミュニケーション自体がヒト科が得意とする集団社会固有ストレス回避の方策なんですから”単体としての権利保全と同意”)

ここ反対の意味の(快不快的に言えば)退行もあります。
『ビギナーズラック』
「いつか必ずあの時みたいに連チャンする。次は必ず777だ、」
(負けが込んでもその期待が壊れる事無く延々と負け続ける)
本来の現実は「確率的には有力な勝ち目が無い限り100%負ける可能性の方が高い」ですが、
この認識は「次は必ず777だ、」の幻想に容易に逆転され、
「当たらないと思うよ」と言われると「何言ってんんだよ次に当たるんだって(強迫保守抵抗的現象)」となる。
(負けると反動で激しい屈辱)


■この辺が”ないまぜ”なんですよ

強迫心理の発生過程には「時限的溺愛」が関係していたり、
同時に「コミュニケーションギャップとしての強度の不快」が関係していたり、


『分離不安(快:幻想)を前提とした帰属不安(不快:幻想)による多額の借金でも抱えたような感覚の認知』
これがヒトの自我における”さみしい”の正体です。
(かなり大雑把な説明になっちゃってますが)
極論、150cmで生まれてその瞬間からサクサク歩ければこれらの問題は普遍的に発生しない。
(といっても環境もワイルド(野生)じゃないといけませんが)
思考法のヒントとしては
「えっそれはホントの事なのか?俺って生まれた時から今と同じ姿で本当は余裕で歩けるだけじゃなく勤務先も決まっていて配属先の辞令も出てただって!」


つまり「第三者の視点」とか「ジャーナリズム」とか「現実の回復」とか、
歴史的分析で以下を解き明かすとか
 ↓
(ルサンチマンであるとか、)
(納得がいかないであるとか、)
(推理小説の謎解きが最後までわからないとか、)
(ジグソーパズルのピースが足りなかったとか、)

その”錯覚”を止める事ですよ。

※ここも極論で、ヒト科の詩的情緒が何もかも「なんとやら」って意味じゃありません。
何から何まで現実現実ってことである必要もなければそういう法律もありませんから、
ひとえに「この問題はやっかい(メンタルな意味で激しく不快)なのでなんとかしたい(或いは放置すると大変な事になってしまうのでは)」という認識がある背景事情にそれがあったらって話です。
素敵な手品のトリックは知らない方が幸せですが、
請求される覚えの無い請求書は「どうなっているのか」知りたいのが筋でしょうから。
(絶対ってなことはありませんが)

1070 返信 精神分析の過程での恐怖感について相談です ななこ 2009/10/22 01:06
はじめまして。
精神分析で悩んでいるので、ご相談します。

私は、現在、精神科にかかっていて、
担当の先生に、3ヶ月ほど前から精神分析をしてもらっています。
週1回、30分の枠で、担当の先生は、まだ20代の経験の浅い先生です。
特に専門のカウンセリング所というのではなく、普通の精神科外来です。
病歴は15年くらいで、病状としては、摂食障害や、抑うつになることが多く、
一年の半分は入院して過ごしています。
病名は、診る先生によって、
統合失調だったり、気分障害だったり、境界性人格障害だったり、
どれにもバッチリとは当てはまらない、微妙な感じのようです。

今まで、いろんな先生に診ていただきましたが、
あまり、分析っぽいことはやったことがなかったので、
先生からの提案だったのですが、ちょっとチャレンジしてみようと思いました。
が、結構しんどいなぁと感じています。

分析をやってみて、
私は本来の自分に自信が無く、ずっと否定し続けてきましたが、
無理な鎧を脱いで、自分に対して誠実に生きていこう、というところまで答えが見えて、
糸口が見えてきたなぁと思う一方、
本来の自分でいることがとても恐ろしいのか、
隣人の物音も、通りすがりの人も、スーパーなどの店員さんも、
みんな私に攻撃してくるような気がして、外に出るのが怖くてたまらなくなってしまい、
友人とも連絡を取らなくなり、お風呂にも入れず、
一日中何をするでもなく、びくびくして過ごして、
外来も、タクシーにのってやっと行っています。

なんか、症状が統合失調っぽいなぁと思うのですが、
現在の先生は、そうではないと言っています。
以前、数年間は統合失調として治療を受けていた時期もあり、
母親も、統合失調です。
(家族から見たら、若い頃は人格障害もミックスしていたんだろうなという印象です)

私は育った家庭が複雑なのですが、そのエピソードも、
大人になってから、似たストレスでふっと思い出したもので、
記憶なんて曖昧だから、本当のトラウマかどうか、実際のところ、わからないのです。
本当は、被害妄想なのかもしれないし・・。

これから、まだ分析をすすめた方がいいのか、
こういった、恐怖感や被害的な反応は、精神分析の過程でありがちなことなのか、
患者としての対策などがあれば、
ご意見よろしくお願いします。

私の正直な意見としては、
きついし、経験の浅い先生にこんな重大な治療を委ねるのは怖いので、
ふつうの当たり障りない治療に切り替えたいのですが、
こういった治療をやる気を持ってすすんでやってくれる先生は、なかなかいないので、
私もそれに乗っかって、頑張るいい機会なんだろうなぁ、やめたらもったいないんだろうなぁ
という気持ち、両方あります。

1071 返信 ザックリ解説しますと kagewari 2009/10/22 16:51
医療系では症例を病名的に表記するのが業務上必要なんですよ。
実際医療系(精神科以外も)では、カルテつけなくちゃいけないですし、基本臨床的な対処となるので=統計上の分類に近い作業が「その後のあれこれ」に関係します。
(特に心理学であるとか精神分析を重視しない医師の場合は投薬の選択においてこの統計中の分類が無いことには手がかりがないの)

話は戻りますが、精神科とか関係無しにそうなんです。
実際のところは、
「○○ですね」
「ですから○○をして、○○してみましょう」
言語として”病気”をどう捉えるかにもよるんですが
「病んでいると判断できる様子の分類上に名前をつけたもの」で、
ほとんどのケースが”症例”なんですよ。
(検査で判明しているもの意外はクライアントの自己申告に統計的判断加えたもの)
何でしょう医学的に風邪って病気は無いですから(厳密に言うと)、

明快に→「一般的に認識されている言語でいうところの”所謂○病みたいな病名”」がガチに適応されるのは『特定ウイルスを原因とする感染症』『骨折等の外傷』ぐらいです。
脳梗塞とかそういうのも”そういう状態”を指しているもので、そういう病気があるのじゃないんですよ(建造物の配線・配管トラブルで考えてみるとわかりやすいかな)。

で、メンタルの場合は特に(上記の配線・配管トラブルの部位特定で考えるとわかりやすい)何かを特定する要素は無いですから、
特に医療系の場合『どういう症状を訴えている類型で、統計的にどういう投薬が対処療法の効果が高いか』という”概論”というか「○○〜○○の不快感の原因は(身体には問題なく)原因をメンタルと特定可能な統計的根拠のある状態ですよ」までなんですよ。

つまりクライアントの申告内容が違えば100%診断症例違いますし、
医師が問診で重要視した項目が変われば、又変わる。
■精神科の場合それによって投薬上の基本方針が違ってくることもあるでしょうが、その都度聞き取りしている状況に応じて症例が変化していると考えれば「何から何まで場当たり的とはいえない」事になります、→というかインフォームドコンセントの範囲になるかしらって論議です。


そこから更に突っ込んで説明すると、
心理学や精神分析では何か誤解を招くので病名・症例を特定しない方がいいんです。
(最後に言い切っている部分には個人的意見含まれているので学説として有力とかって意味じゃないですよ)
実際に問題はロジカルだし、精神分析の過程では投薬は内科的対応の範囲でも十分かと思うので(場合によっては市販薬でも対応可能でしょうし投薬を必要としないと依頼者が希望するならそれでも全然構わない)、問題は自我構造においてどういうトラブルがあるのかって事です。
※話をわかりやすくする意味で表現極端にすると「ウィンドウズXPの○○使用状況において○○のソフトを起動した場合特定の問題が発生する:場合によるとフリーズ」これに○病って病名つけますか?
しかも使用状況は個別に違っていて、市販のソフト全ての相性を保障するものでは無いので、、
 ↓
つまり求められているのは『原因の解析(分析)』と『その対処(ロジック:担当自意識アドミン権限)』
精神科での投薬処方っていうのは、マシンの発熱が激しいので冷却シートとか、リソースが大変なことになっているので強制的に全てのソフトの稼動を6割にダウン(セーフモード)とか、そういう事なんです。
症例とか病名とかって判断は「グラフィック関係?」「ハードディスクの読み書き制御?」のようなことです。

さらに精神分析的に特化すると、
問題の根本は様々な連想によって(また原因となる複合)副次的に拡大(二次的拡大もあるし反動的な拡大もある)しているので、
不快症状に個別対応するのは得策とは言えないんですよ。
■ここも問題をわかりやすくする意味でPCに例えますけど、OSが上書きインストールだとか(過干渉や虐待など論理構造取得字に無理がかかっている)、二次コピーでインストールしているとか(親を含む権威者の自我にも強迫構造)、サービスパック(反抗期:幼児のデフォルメを現実化プルーフ)の導入が行われていないとか、ネットワーク接続が遮断(内向化)されいるとか、根本的にロジカルな部分にコアの問題特定(発端となる問題の年次というか本人の個性との関係性により)を行うので「○○のソフトでどうしても文字化けする」を文字化けから追いかけても話が分散するばかりなんです。

※正確に言えばOSの導入は「この世に典型的な共同幻想モデルが仮想的にも普遍的に存在したら?」というしょうしょう強引な設定で、ヒトの自我はリナックス(ユニックス)的オープンソースであるのが事実だし、基本カーネル(脳内の生命原理、及びそもそも計算機能がノイマン型がうんぬんとかも個人別)は個々人オリジナルなワケで、実際はより複雑なんですが、現象からトラブルのコアを探る事はできる(実際印象の世界で01デジタルの世界でもありません)。


>本来の自分でいることがとても恐ろしいのか、
>隣人の物音も、通りすがりの人も、スーパーなどの店員さんも、
>みんな私に攻撃してくるような気がして、外に出るのが怖くてたまらなくなってしまい、

これは自己中心認知です、
(相対的にいえば、誰しも日常生活で特定の他人に関心のある人はいない)
『周辺がみんな自分を』
自己を中心とした環境が(銀河系がどうこうの発想してもらえるとわかると思うんですが)、
「地動説と天動説の誤解」的な状況の錯覚に意識が落っこちているとでも言えばいいでしょうか。
※参考として付け加えると「自分で考えてみればいいのです。対人恐怖が発生する原因と仕組みは何だろうか?」

この誤解認知が拡大する背景は
「内向性認知(スタンドアローン)は自己愛的認知の方向となってしまうから」で、
(自動的にそうなる:構造は『被(こうむる)』:動作パッシブ)
※スタンドアローンを発端から見るとネットワーク接続すると様々な攻撃を受けるらしい(或いは噂)→転じて:ネットワーク接続は私(スタンドアローン)を攻撃する存在だ→転じて:私ばかり攻撃される気がしてしまう

反対言えば
「外交性(ネットワーク)は(自分の人称も)自分も不特定多数のひとり(相対的実存)の方向となるから」です。
(自動的にそうなる:構造は『抗(あらがう)』:動作アクティブ)
※セキュリティーソフトの実装は「エチケットやマナー」でインターネットから攻撃を受ける事を前提としているのじゃなくて、攻撃されない状態の保持(自我における社会性→ベタベタなところ言えば『挨拶等の習慣』)は折り込まれている。或いは事後自我の個性で趣旨選択され(生き方って奴です)「俺には○○な○がある」みたいな格好で(カスタマイズもされ:本を読んで影響受けてもそのままってことはない)、そこが自分の売りとまで言いませんが少なくとも自分を規定する大きな要素(流儀)のひとつになります。
ですから自意識の腰が折られてしまうと(強迫心理による抑圧)「俺ならこうする」の趣旨選択に干渉受けるので(極論不安で煽ってダメ出ししてしまう)・・・と、対人恐怖も「ひとつの結果論」に過ぎません。


尚且つ、不安(自意識をおびやかしているのはこれまで自意識を抑圧していた”無意識下の強迫意識”)の体感があると、
その原因が内面(過去の自我の一部)にあると意識できる人は稀ですから(実際は→内面に「○○じゃないか?」という元ネタが無い事にには”不安を思いつくことができない”ため不安を煽っているの元は内面にある)、
たとえるなら
「おーさむけがする」→「今日の気温何度?どこにいっても寒いんだけど」

意味わかりますよね?


>友人とも連絡を取らなくなり、お風呂にも入れず、
>一日中何をするでもなく、びくびくして過ごして、
>外来も、タクシーにのってやっと行っています。

内向すればするほど自意識の意思とは逆に→不安の中心に近づきますよね?
そして、内向(退行でもいいんですが)=現実との接点が切れるなので
→外出の関心(アクディブ・抗・攻撃)を喪失します。
(動機形成のキッカケを失う)



>記憶なんて曖昧だから、本当のトラウマかどうか、実際のところ、わからないのです。
>本当は、被害妄想なのかもしれないし・・。

トラウマ論には少々問題あって、
何があったから何って事実認定単体には”意味が無い”のです。
「○○なことがあって、それがどんなかっこうで論理記憶として”本人に”イメージ化されているか?」
なんですよ。
同じ絵画を見ても人の印象も記憶も違いますよね?
何の絵画を見ましたかって話じゃないんです。
「どういうことがあって、どう思いましたか?」
(私の場合は関係者の経歴から何から情報伺いますから、同時にその行為は”本当はどんなものだっのか”のプルーフまでやります)

で、その「どうおもったか?(=インストール)」が→今の自我ロジックにどういう干渉(トラウマ論的に言えば)しているのか?

ですから、トラウマの存在の固有の事象には意味は無いんです。
現象というか、その過程と現在の因果関係が重要になります、
(極論その印象が嘘かホントかは関係無い、元ネタとなった事実関係を情報から類推特定して「本人の印象との差異」が鍵なんです)


>これから、まだ分析をすすめた方がいいのか、

これは自由にご自身で判断すればいいのです。
精神分析も、
投資顧問も、
経済アナリストも、
中小企業診断師も、
弁護士、
司法書士、
医師、塾教師、
みな同じです。

選ぶのはあなたです。
(参考になりそうなコメントは前段で説明したとおり)


>ふつうの当たり障りない治療に切り替えたいのですが、

投薬依存(簡単に言えば中毒)に注意して、ともかく症状を抑えて自我のプレッシャーを半ば強制的にレベルダウンさせ、余裕ができたところで自分で問題解決を考える(何らかの行動をアクディブに始めれば何らかの変化の可能性はある)というプロセスになります。
※仕事上のストレスを発端とする”現象として軽い”というか、状況が変われば”そのままの不快でもアリ”な自己決定も個人の尊厳のうちです。

しかし、
現在の状況では自分の自我が”考える要素の多さ”に追随する余裕が無い
(極端に言えばカウンセリング等の会話に耐えられない)
こういった時には、
■メンタルな問題は『無理は禁物』鉄則ですから、

休養するというか、一次撤退的に「基本投薬しかしない5分診療の精神科医か心療内科医を探す」これはアリだと思いますよ。
(薬は医師の処方で上下必要なので、自分から積極的に「少なめで」と申告するのが無難でしょう:5分診療タイプの医師には営業上投薬も過剰になるリスクも無いちゃ〜ないので)

極論メンタルな問題を解決しなくちゃいけない法律なんてありませんから、
こいつをどうするのか?(それも個性ですしアイデェンティティーの一部です)
自分で決める事です。
キッチリ診察受ければ生活保護や他福祉からの支給(事実上「それこそ”先進国病”」なので支給というか弁済に近い)に障害も少ないですし、この程度(投薬で)症状の緩和があれば自分的にはオッケーだのようなまま、自分は自分(このままで)としてそれ以外を考える(自分と関係無い要素には”自分には強迫心理が介在している”という認識が保たれる状況の場合社会問題など他者の事には強迫心理は動かない:自分で問題とその内容を意識している事が肝心なのですが)世界もあるでしょう。

それこそ精神分析の始まりの部分ですが
「それを自意識はどう考えるのか?」
選択(アクティブ)無しにズルズルとって感じだと、精神分析もあまりうまく進まないでしょう。


>こういった治療をやる気を持ってすすんでやってくれる先生は、なかなかいないので、

これは事実でしょうね、


又、この掲示板の警告文にあるように、
精神分析的なアプローチは、自意識を立ち上げて内面の強迫意識と対峙する事になるので、強迫意識からの『抵抗』(これまで自意識を抑圧してきた心理が自らの保守のため徹底抗戦に転ずる:ここもリアクション型)が発生します。
それも事実です、
(その人がどういう格好でアプローチしているのか私にはわからないので、具体的にはなんともですが、)

1052 返信 冷酷な家族 つつき 2009/08/02 15:44
金銭的な事情から家族を在宅介護をしなきゃいけなくなったとしても面倒見るつもりはない。
家族が働けなくなって、生活保護の申請も下りず、金銭的に困ってても助けるつもりはない。家賃が払えなくなって家族がホームレスになろうと、餓死寸前になろうと、手を差し伸べるつもりはない。

知り合い(家族)が困って助けを求めて来ても平気で見過ごせる残酷な自分
最低、冷酷とたたかれるけど、家族と関わりたくない。


1053 返信 どこにも冷酷な話はないのです kagewari 2009/08/03 05:31
今回のお話ですが
実は、無意識的には「一部逆転」しているんです

一見文法的にもその論旨も『家族社会属性に対する批判』に読めますよね、
又、つつきさん自身の体感もその筈だと思います。
そう(批判的文章と)感じますよね、

しかし自我の構成というものは本当にやっかいなもので、
無意識的には「パラドックのようにぐるっと回って一部話の意味が逆転」していて、
意味の逆転現象に自分自身では気が付いていない結果になってしまっています。

<以下詳細説明しますが>

現代先進国では子供が親を介護するのは「既に非常識」になってます。
日本では政権交代の遅れ等から、政策的に米国保守政策の模倣(実体は別物です)だったために、高福祉型予算への転換が遅れた結果保守系政治家がここを誤解して「ヘルパーを付ける格好で自宅介護も」な発言ありますが、これは財務省の財政均衡論を代弁しているだけで発言している当人も全く本気じゃありません(当然欧州等の実情を知っている)、後半分は票欲しさに保守派の演技をしているだけです。
又、面白がって在宅介護等の話を報道してるメディアも視聴率欲しさの”煽り”で(さしずめ報道機関が”告発するいい人演出”も容易なので)報道している当事者も当然そんな実像が常識だなんて思っていません(半分はTV視聴者を高齢者も多く知的弱者扱いして数字が取れると勘違いしている:水戸黄門視聴の高齢者にはうけると思っている)。

この辺実体をネット情報などで知っている階層では「又この”ネタ”やっているのか」ぐらいの話なんです。

事この分野に関しては政策的にも先進国の”先を進んでいる”欧州の認識は以下です。
・民主主義社会における『個人の尊厳』は各国憲法で保証されているもので、セクハラ同様血縁社会の関係を利用して個人の尊厳が犯されるならば政府はこれを取り締まらなければならない。
※低福祉で突出している米国も”姿形は保守派”ですが、幼児虐待があれば容赦なく血縁者(親)を逮捕しぶち込みますから(冤罪が多発するほど熱心に逮捕したりします)、権利意識的には同列です。米国の保守派の背景はキリスト教系保守層なので(キリスト教保守は家族より教会の権威が上なので家族社会保護に保守的熱心さがあるのではない)意図している保守思想も違っています。
(米国では夫の妻に対するレイプも取り締まりの対象です)

■で、上記の「血縁を利用して個人の尊厳が犯されるならば政府はこれを取り締まらなければならない」
ここが又誤解される事が多いのですが、
特に高福祉前衛国家である北欧における『在宅介護』の意味は
「高齢者が一人暮らしする権利の保証」なんです。
わかりますか?
高齢者が血縁者(子供)等が介護に干渉して、自らの一人暮らし(個人の尊厳)を犯す行為から政府はこれを守る(高齢者の側の尊厳を守る)義務があるんです。
日本のマスメディアは『社会的弱者』等の差別表現を何のてらいもなく使っていますが、厳密にいうと高齢者を弱者呼ばわりするのは『差別』人権侵害なんですよ。
ですから国家は、高齢者の尊厳を守るために(相対的に弱者などのように不当な扱いを受けないように)『政府が在宅介護等を援護し』高齢者の自主独立を保障するのが義務なんです。誰かの助けを必要として事もあろうか感謝しなくてはいけない立場に追い込まれてその尊厳が貶められる事が無いように、政府が介助などのサービスを提供して高齢者の一人暮らしの権利を守るんですよ。

幼児や子供の教育を親任せにできないので(親と関係なく教育は子供”個人の権利”なので)、義務教育や教育費の無償化等(子供が親に対して気後れする等その権利が侵害されないように→親から教育費が支払われえるのでは無く”福祉予算”から国家がこれを保証する)『個人の尊厳を守る』ために行われるものなんです。
高齢者への福祉も同じ意味ですよ。
 ↓
権利意識として「会社や学校」等があるように「血縁家族」も存在しますが、これも社会属性のひとつに過ぎず(殊更上等という事も無い)「その上位概念は”個人”」なんです。

※ここ理解する上で重要なのは、公職選挙法のような話で「家族間であっても投票行動を強制してはならない」同時に、自らの投票行動はプライバシーであって血縁者であってもその自由を犯してはならない。
つまり「国家社会において最上位概念は”個人”としての人権」にならないと『民主主義』の構成が壊れちゃいます。

※又「家族であった事を”離れて”」個人的に信頼関係があれば別ですよ(取引相手や親友等のように)、当然個人対個人の信頼関係の対象が偶然”元家族”である事もありますから。しかしここが個人としての相互信頼ではなく一方的なものであれば”ストーカーと同じ”です。


ですから
>金銭的な事情から家族を在宅介護をしなきゃいけなくなったとしても面倒見るつもりはない。
>家族が働けなくなって、生活保護の申請も下りず、金銭的に困ってても助けるつもりはない。家賃が払えなくなって家族がホームレスになろうと、餓死寸前になろうと、手を差し伸べるつもりはない。

これは批判ではなくて、
高齢者の人権を断固守るという応援になるんです。

ですから
>知り合い(家族)が困って助けを求めて来ても平気で見過ごせる残酷な自分

ここも違いますよ、
若干カウンター効果を含んだ表現で『極端な表現』使いますが
「残酷な自分どころか、名誉市民的に賞賛されるべき姿勢」ですよ、

なのでなんでまた
>最低、冷酷とたたかれるけど、家族と関わりたくない。
こうなるのか、
となるんです。

成人年齢を超えると親権喪失しますので(残りはぜいぜい相続権ぐらい)、
基本的に「家族じゃ無いですよ」
時限立法の”特定血縁法人”が、法律にのっとって解散したような感じです。
(古い戸籍台帳を本籍として管理しているのも日本ぐらい)
正確な表現使うならば「家族OB」となります、
『昔家族だった縁』があるのは確かですが、ここも『新卒同期入社の(家族法人)同僚との縁』みたいなもので、
基本は独立した個人が上位になりますから「旧家族関係」は副次的属性になります。
簡単に言えば「出身地みたいなもの」と言えばいいでしょうか。

戦後即時「成人の婚姻の自由(親がこれに干渉する事を違法とする)」が保証されたのも、
つまるところ「成人は自由に自分が代表者の別法人を立ち上げること(他人と結婚)が保証」されたワケですが、
その趣旨は「成人は個人であって”○○家族の誰さんでは無い”」って意味です。
(女性の立場から言えば、旧家族の承諾必要なく自由に別の苗字になってもいいですよとなる)
確かに苗字は属性として残りますが、
この苗字は単なる呼称であって『個人を特定する記号』に過ぎません。
その個人の権利を(家族からも)憲法は保障し、国家が守りますよってのが『現代民主主義国家』なんです。


ここでおかしな事に気が付きませんか?
「やたらと家族が助けを求めたら助けるのが本来は常識」と誰よりもそう考えているのは”つつき”さんになっちゃっているんですよ。
そう思うから
 ↓
>最低、冷酷とたたかれるけど

となってしまう。
ここですね、
私が前段で説明した現代社会の概念を背景に考えると
「最低、冷酷と叩くなんて、なんていう民度なのか?哀れとしか言いようが無い。」
となるべきところなんです。

そして、仮の話ですが今回の相談書き込みが以下のような文面であれば
=========================================================
個人の尊厳を誰よりも重視している私に対して某血縁者が「最低、冷酷と叩く」んです。
なんていう民度なのか?哀れとしか言いようが無い。
こんな時代錯誤な誤解は何が原因でしょうか?
=========================================================

私の答えは「依存症ですね」となるでしょう。

■説明長くなりましたが
>家族が働けなくなって、生活保護の申請も下りず、金銭的に困ってても助けるつもりはない。家賃が払えなくなって家族がホームレスになろうと、餓死寸前になろうと、手を差し伸べるつもりはない。
>知り合い(家族)が困って助けを求めて来ても平気で見過ごせる残酷な自分

この文章の大きな矛盾は「平気で見過ごせる残酷な自分」という言葉です。
平気で堂々と見過ごしているならば、そんな自分を”残酷な”等と呼びません。
「平気で見過ごせる”立派な”自分」でなければならない。

こういった発言の矛盾は「強迫心理」ですよ。

しかもこの部分
>知り合い(家族)が困って助けを求めて来ても平気で見過ごせる残酷な自分
>最低、冷酷とたたかれるけど、家族と関わりたくない。

背景に善悪の概念入っちゃってますよね。
(自覚的な内容に対して自意識主導の哲学や美意識ではなく、無意識的で興奮を伴う善悪の概念は「強迫心理」であるケースが多い)

この内容は”つつき”さん自身に自立の妨げとなる(某血縁者に対する)強迫心理が介在している事を、”つつき”さん自身の文面が表現しちゃっているのです。
 ↓
>家族と関わりたくない。

ではなく、”つつき”さん自身の強迫心理が
「無意識に自ら関わっちゃっている」んです
そしてその状況に対して(現象が無意識発なので)”つつき”さん気が付いていないんです。
つまり
「全く意図していないのに、”知らない間に”自分の考えと矛盾する話に振り回されている」形になります、

ですから先ずは慎重に”パラドックスのような矛盾する心理”が存在する事を『思い切り前提にして』
早まった考えを持たない事です。
今回の文面から言えば自分を「残酷な自分」等と認識する180度逆さまの勘違いが発生しています、
そのまま放置してしまうと今度は「残酷な自分」を前提とする”次の話””その話を前提とする又次の話”のように、矛盾する意識が次から次と拡大してしまいます。
慎重に見極めるところでしょう、
■「これまでの既成概念は一度全部チャラにして、個人的な美意識・哲学を自由に自覚的・自立的に白紙から再構築する」
これぐらいの勢いあってもいいところです。

1054 返信 Re:どこにも冷酷な話はないのです つつき 2009/08/16 14:40
>知り合い(家族)が困って助けを求めて来ても平気で見過ごせる残酷な自分
>
> ここも違いますよ、
> 若干カウンター効果を含んだ表現で『極端な表現』使いますが
> 「残酷な自分どころか、名誉市民的に賞賛されるべき姿勢」ですよ、

これが高齢者介護の話ならわかりますが、相手の生命に関わる状況だったとしても平気で見過ごせるんです。
家族としてではなく、”人として”どうかしてますよね。


一方で家族をかわいそうに思ってる自分もいるんです。親の洗濯物が干してある風景や病気の親を見てると居たたまれない気持ちになります。
家族も一生懸命生活してる風景や病気の親の姿を連想しちゃうんだと思います
だからと言って助けようという気持ちにはなりませんが…

親がかわいそうと思う気持ちは私の本心のように感じますが、親を不幸とか深刻な状況と私が勝手に仕立て上げたり(親自身も自分たちで不幸をつくってる)見下したりしてるだけなんでしょうか?
『可哀そうな人』と私自身が依存して興奮してるんでしょうか?

1055 返信 Re:どこにも冷酷な話はないのです つつき 2009/08/16 18:30
家族が親戚や友人お金を借りて返さない。
支払いもしてなくてこのままでいけば保証人が支払うことになるかもしれない。
私が支払ったら全て解決することだけど私はそんなことするつもりは全くない。
親戚や家族の友人に世話になって申し訳ない気持ちはあるけど私まで巻き込まれたくない。
おまえが支払えばすむこと、かわりにご両親のかわりにあなたがお金を返してと催促されても私は返したくない。
私には関係ない、親の責任だとしか思えない。

周りからの信頼が薄れ、何であなたが払わないのと罵られて地元にも居づらい。地元にいられなくなると私が困る。何でこっちが親の巻き添えをくらわなきゃいけないのという親への恨みや不満ばかりがつのる。
親に文句を言う前に私が支払えとはなるけど周りから罵られても関わりたくない。

私は自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴でしょ
1056 返信 どこにもそんな要素は無いですよ。 kagewari 2009/08/18 00:26
というか
>私は自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴でしょ

ここに随分拘ってらっしゃる事をご自身で何ら疑問に感じていないところが、
「何かおかしい」と思いませんか?
というか、そう思って考えてみてください。
それを意図的に傾斜を付けて(見ようによっては強引に)論証して
「何か得るものでもあるのだろうか?」と、


先ず具体的な背景事情を説明しますと
>家族が親戚や友人お金を借りて返さない
>私には関係ない、親の責任だとしか思えない

思えないじゃなくて、そうですよ?
(法的にもそうです)
そうじゃなかったら法律違反です。

>何であなたが払わないのと罵られて地元にも居づらい。地元にいられなくなると私が困る。何でこっちが親の巻き添えをくらわなきゃいけないのという親への恨みや不満ばかりがつのる。

ここも積極的に困るところはありません。
ひとつ弱点があるとすればここでしょう
 ↓
「地元にいられなくなると私が困る」
推定するに、仕事関係ではないかと思いますが、
トレードオフの選択は以下になります。
「親の巻き添えで言われ無き(何であなたが払わないのと罵られ)中傷を受け続ける(これも中傷する方の民度が問題なのですが)」
「転職も検討して思い切って都会等別の街に引越す」
どちらを選ぶかって要素がトレードオフのテーブルにのっかている事になりますが、
巻き添えを食らう環境は「どこで生まれたのか」のような属性と同じなので(関西で生まれたので関西弁です→「どうして関西弁を話さないといけない事になってしまったのか」のような話)、選択としてさーどっちを選択するのかって自意識マターになりますが、多かれ少なかれこういった選択は誰にでもあるもので(何から何まで出生に纏わる環境が後の自意識にとって都合が良かったなんてことはあり得ない:極論すれば「お金持ちの家に生まれていれば」であるとか「容姿が抜群に美しかったら」「肌が白かったら」等と同じ)、
その現実の中で、右か左かとここを選択するのが自意識の仕事でもあり、
自意識の真骨頂でもあり
→見ようによっては自意識の甲斐ってものです。
(その環境自体を云々する事自体は幻想であって現実ではない:これに対処する”現実”が実存している)

カウンター含めて乱暴な表現を使うならば
「恨みや不満ばかりつのっている場合じゃない」のです、
「さて、どうすっか(引越しでもして転職でもするか)」と考えるところ(場合)になります。
実際殊更特別な『郷土愛に溢れる保守本道派を自認する』思想でも無い限り、一般に進学等独立において都会に出るなどの行為は「自立独立」というカテゴリーにおいて、むしろ歓迎される場合も多いのでこれを「追い込まれた不運」の話へ収斂させるのには無理があります。
※郷土愛は個人的事情によるので=地元に居続ける事には特段の個人的利益がある事になる、
この場合地元に残る事を選択すると「少々の不都合は相殺される」事になります。ここがトレードオフで「とてもじゃないが相殺できない」のであれば、この時点で「地元に残る事の特段の個人的利益」は反対に不利益の前に断念せざるを得ないと結論が出ているので、残念ではあっても悲観する話にはならない(=よりマシの結論が選択されている事になるため:トレードオフの原則)。認識されるのは「よりマシな選択」となるからです。


つまり「さて、どうすっか」と考えることはあっても、
>私は自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴でしょ
と、、、
おかしいですよね?
「さて、どうすっか」と「自分本位で無責任で身勝手で冷たい私」
上記のこの両者は何の関連性の無い認識だと思いませんか?
しかし
どちらかと言えば後者の
「自分本位で無責任で身勝手で冷たい私」がなぜか結論(?)のように強調されている。


心理学的に解釈すれば
>私は自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴でしょ
ここにナルチシズム的自己愛(不快感による快感認知)が表現されている事は説明するまでもありませんが(反省や悔恨では無いので)、
その結論に至る「前段の話」は、被害認知が主たるものです。
ここでも矛盾していますよね?
被害認知なのですから、結論は「憤り」等でなければ辻褄が合わない。
しかし、結論は「自己嫌悪の積極的”主張”」となってます、

心理学的に説明してみますと、ポイントは前述の”ここ”になります。
「反省や悔恨では無い」
つまり、”つつき”さんが何故結論に「自己嫌悪の積極的”主張”」に至るのかと言えば、
その理由は「本来反省や悔恨すべきだと思っている」からですよ。
そうじゃないから→自動的に自己嫌悪の認知が発生する
 ↓
だとするとですよ?
前段の部分は無意識下における深層心理では以下の文脈になっているって事です。

「誰よりも私は、家族が借りたお金は私が返済すべきだと思っている」

前回の相談文面から言葉を拾うと
>平気で見過ごせる残酷な自分

ここで「ちっとも”平気で見過ごしていない”」って事ですよ。
これは”内心”等という自意識で認知できる浅い領域の話じゃありません、
自覚する事のできない無意識下でそういう認知が(現在の自意識と矛盾する形で)存在しているって事です。

「誰よりも私は、家族が借りたお金は私が返済すべきだと思っている」のに、
 ↓
「私はそれを平然と見過ごす」
 ↓
「それができるのは、私が冷血漢で残酷な人間だからだ」


同じ図式で、全くナンセンスなのに
>私は自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴でしょ
と認識する事を”強迫”される構造になっている。

身勝手なのは「借りた金も返さずに関係者にまで迷惑を及ぼしている家族の方」であるのは説明する必要も無いでしょう。
※金融からの借り入れであれば破産手続き等で整理可能ですが、身内や親族友人等からの借り入ればかりはなんともです。それこそ信頼関係を破壊してしまうので親族や友人だからといってお金を貸す(借りる)ものではないなる話になります。
つまりこの場合本質的には、貸した側の自己責任です。
上記のように”それは金融機関から借りるべきでしょう”と断るのが筋:金融機関の審査でも借りられない金額であれば返済の目処が無い事になる→それでも貸すのは”返せる時にいつでも”と言っているのと同じなので間違っても親族に”あんたが払え”等と請求するのは筋違い。
極端に言えば親友として「いいよ返さなくても」ぐらいの覚悟のいる話。
反対に”付き合い”程度で貸してしまったのであれば、それが返済されない状況に限れば貸した側の過失も大きい。

ですから
■そこで独白なり感想があるとするならば
「やれやれ面倒な事になりました、さて、どうすっかと考える毎日です(終わり)。」
そんな風に考えさせない強迫心理があり
あるべき自意識の判断は『180度逆転』して
 ↓
>私は自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴でしょ
と、「自己嫌悪の積極的”主張”」に至る

構造的に何が起きているのかと言えば、
『私が優れて家族に奉仕貢献しなければならない』のような無理のある認識が無意識下に構造化している。
自意識の現実判断は
「無茶苦茶な家族に閉口しています。当然私は無関係なので”平気で見過ごせる自分”を自認しています」です。
無意識化の認識と決定的に矛盾してしまいます。

「この矛盾をどうやったら合体させられるだろうか?」と考えてみましょう。
二つの矛盾する認識を繋ぐ鍵は
『私は自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴なので、それを平気で見過ごせるのです』
になるんですよ。
表現は一部正確性を欠きますが、わかりやすい表現を使うなら
「自己嫌悪を積極的に主張する(不快感)事を代償にして、二つの矛盾する概念の辻褄を強引に結合する」

つまり、
「自己嫌悪の積極的”主張”」を続けない限り、内包する二つの大きな矛盾する認識の存在に”直面”してしまうんです。
ここも乱暴に表現すると
「その矛盾を解決しない事には、自分の心理の説明がつかなくなる」
 ↓
当然本音が優先されるのは疑問の余地がありません。
却下されるのは『私が優れて家族に奉仕貢献しなければならない』方になります。
>一方で家族をかわいそうに思ってる自分

さて、
では何故に『私が優れて家族に奉仕貢献しなければならない』事が容易に却下されなかったのでしょう?
>一方で家族をかわいそうに思ってる自分
或いは、それが無意識下で温存された理由は何かと考えてみる。
答えは簡単です
「その時(それが無意識下において認定された時制:相当過去)、対象者である家族構成員は私が優れて奉仕貢献すべき人物である」と評価していたからです。
その幻想(後日というか今現在それが間違いである事は証明されています)が、
誤解であると修正されてこなかった。
誤解であると修正されずに無意識下で温存されている(或いは残留している)、

又その構造は「無意識的であるが故に、”ふとしたこと”等の連想(自意識で自覚的に選択しているのではなく)で、頭をもたげ何故か結論”自己嫌悪”の体感で完結している」←そんな状態を自分ながら疑問に思い→「やはりそうですよね(自己嫌悪の対象)、私は冷酷ですよね?」と確認したくなった。
その前の1054レスから引用すれば
>親の洗濯物が干してある風景や病気の親を見てると居たたまれない気持ちになります。
>家族も一生懸命生活してる風景や病気の親の姿を連想しちゃうんだと思います
このような
「ついそんな風に思ってしまうのです」現象
は上記構造で発生しています(一種のノスタルジー現象です)


■掲示板でここ(残酷だろうか?)が質問された理由を考えてみましょう
 ↓
「あれ?違うのじゃないか(冷酷とか違うだろうよこれ)」と”つつき”さんの自意識が(本音)思ったからですよ。

ですから本来であれば
「違いますよ、安心してください(終わり)」のレスを受けて解決なのです

ところが、
その180度反対に、
「いえいえ私こそ自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴なんです」と”つつき”さんは反論してしまっています。
それは?
「その時(それが無意識下において認定された時制:相当過去)、家族は私が優れて奉仕貢献すべき人物である」と評価していたからです。
その幻想(後日というか今現在それが間違いである事は証明されています)が、誤解であると修正されなかった。

誤解であると修正されなかった理由が、現在も継続中だからです。

※無意識について誤解があるといけないので若干解説しますが
おおおそ記憶も鮮明じゃない時代に「火を消した消防士は誰よりも勇猛だ」という一枚のスナップのような”論理的イメージ”が強く残ったとします。
その後そんなエピソード(目撃した火事単体の記憶)はすっかり忘れてしまっています、
ある日TVのニュースで、放火犯が消防士だったという報道がありました。その時何故か自分は何ら消防関係者ではないのに「消防士たるものがいったい何をやっているのか」と激怒した。
この時、無意識下に「消防士を特別視する認識」が存在していると考えるわけです。
何か自意識が積極的に関与しているのとは違います。
連想がトリガーとなって(フラグを立てて)、論理的イメージが呼び出されて”自意識が考えるより先に”一種の反射的事実認定が論理的イメージを先行させる形で浮き上がってきて「すっかりそうだと思っている」ような状態。

似た話としては
うっすら記憶に残る子供時代に海外旅行に行きました。
今思えばそれほど珍しくも無いビーチのある中堅リゾートホテルに宿泊した、その時「こんな豪勢な楽しみは無い」と一枚のスナップのような”論理的イメージ”が強く記録されたとします。
ある日(その旅行単体の経緯に関しての記憶を忘れた頃)、友人達と夏休みの行楽談義になりました。
友人は「まったくリゾート行くなんてばかばかしい僕はヨーロッパの世界遺産だね」「いえいえ僕は国内の温泉が」「そうかなあ私はいったことのない海外の旅行そのものが大事なので、いったことがないのが重要かな」・・・なんて談義が続いているとします。
そこで
「そこでさ君達いったい何処に泊まるの?」
「・・・?」
何か自意識が積極的に関与しているのとは違います。
連想がトリガーとなって(フラグを立てて)、論理的イメージが呼び出されて”自意識が考えるより先に”一種の反射的事実認定が論理的イメージを先行させる形で浮き上がってきて「すっかりそうだと思っている」ような状態。

■話は戻りますが、

仮に幼児期にその家族との間で相互依存等が暗黙の了解のように介在して
分離不安等の状況を共有していたりしたらどうでしょう?
何度か”論理的イメージ”がひとつの固定的印象として記憶に残るでしょう
(興奮や不安安心等が関係するため記憶する上での高い優先順位のフラグを有する)
それが記憶に残っている事に、自意識は介在していませんから(意識的にこれを覚えるぞと強く自覚しても、すっかり試験勉強に関係する事は覚えない)無意識下に格納されます(自意識管轄にならない)。
昔ある食材でとんでもない食中毒になったとします(ひとつのトラウマ論)、忘れたくてもその食材NGな反応は出ますよね。

さてこの時、
「あーダメダメ、○○は昔酷い食中毒の体験あって生理的にうけつけないんだよ」となるのではなく
「絶対ダメでしょう。僕は○○が大嫌いなんだその言葉も発するな!」と興奮を伴う反応になった場合、
(両者の違いはわかりますよね?)
実は前者は”トラウマ論的背景”が視野に入っていて、記憶は変化しませんが「自意識管轄下に入っている」んですよ。
印象も”大きく誤解を含むものだった”と一部修正されている。
後者は”大きく誤解を含むものだった”の修正が行われずに自意識には権限がなく、あくまでも「無意識的」である。
(修正されずに当時の印象が”手付かず”に温存されると自意識管轄に入らない:記憶の著作権のようなものです)
食中毒当時の強い”論理的イメージ”は?
「○○は悪魔だ」

つまり問題解決の鍵は「何が無意識的に温存されているのか?」と考え認識するところで、
認識して自意識のテーブルに乗りさえすれば、それは自動的に自意識管轄下に入ります。
これが保守温存され(聖域化)自意識管轄ではなく、無意識的なままである場合(自我の反応速度は自意識より無意識の方が早い:ステレオタイプ反射)無意識リードで形成された事実認定の印象を(なんら現実化修正される事無く)「すっかりそうだと思う」んですよ。
意識的な現象じゃありません、

より極端に少々乱暴な表現で説明しますと(厳密に言えばちょっと違う部分もあるんですがわかりやすい方優先します)
「合言葉は?」
「山」
「川」
のやり過ぎで、
ある日友人が
「あのさ週末登山のさ山の話」
「川!」
みたいな反射に至っているみたいな、現象だという話です。
何でしょう「自分で言った覚えもないぞ」みたいな。
(ここで他人が介在せずに「オイオイ何の話を」と言う人物が居ない場合)
山に関するTV番組であるとか街のポスターであるとかが連想フラグとなり、
「川ぁ〜っか」(無意識に鼻歌ハミングするように)
※この現象に『強い快不快』が連動する形で関与したらと考えてみてください。


この辺の構造を念頭に、前段部分を何度も反読してみてください。

結論は
「やれやれ面倒な事になりました、さて、どうすっかと考える毎日です(終わり)。」
になる筈です。


どんな”論理的イメージ”が現在の自意識を強迫しているのかと考える鍵は”つつき”さん自身が証言しています。
この言葉にヒントがあるでしょう
>地元にいられなくなると私が困る。
地元の定義に「同じ家族が暮らす」という概念を排除するのは難しいですよね。
日常表現で言っても”地元”→実家のある場所です、
ダイレクトな表現は避けられていますが、結果背景の意味は(無意識のイメージとの整合性が優先されて)「全く自覚が無いのに”そういうこと”になっている」。
 ↓
上記言葉の無意識下の暗韻は(連想によって無意識下の”論理的イメージ”による優先的認知フラグが立ちそれがトリガーとなり)
→「(私が)地元にからいなくなると”家族(私も含む)”が困る」
「私」や「地元」という言葉の背理に家族との関係性が”折り込まれていて”言葉の意味としてその関係性から独立する「個人”私”」や地域としての「記号”地元”」という部分の語彙認知の優先順位が低い(暗韻の方が優先順位が高い)、
或いは連想ステレオタイプの反応速度は自意識認定より速いので自我が体感する印象や感覚として「すっかりそうだと思ってしまう」
(同時にこの無意識下のステレオタイプは自意識管轄となっていないため→後追いで自意識によって”ナイナイ”等とチェックされる部分がスルーされてしまう)。


この言葉は別の意味でもひとつのヒントになるんです。
”つつき”さん自身の本音をサルベージするならば、
「地元?いえいえ全然拘りありません。”地元”ね〜平気で見過ごせるポイントですよ」
「え?私がいないと家族が困るですって(笑、」いやいや〜と首を振って”ご勘弁”を表現
なのじゃないかって推定です。
1061 返信 虫が良い考えをしてるから道徳心が引っ掛かります つつき 2009/08/19 18:04
> >地元にいられなくなると私が困る。
> 地元の定義に「同じ家族が暮らす」という概念
> 「私」や「地元」という言葉の背理に家族との関係性が”折り込まれていて”言葉の意味としてその関係性から独立する「個人”私”」や地域としての「記号”地元”」という部分の語彙認知の優先順位が低い(暗韻の方が優先順位が高い)

ここの意味が分からないんですが。
確かに言われてみたらどうして『地元』の部分にかかってるんでしょうね。kagewariさんにご指摘を受けるまでは地元にいるものだとばかり捉われていて『引っ越しをする』ことが視野に入ってませんでした。
でも地元から離れたくない理由もあります。彼氏や友達と離れるのが嫌です。学生の時から一緒に遊んでた仲間です。一緒にいててすごく楽しいです。新しい環境で友達がなかなかできづらい可能性もある。友達ができず、遊ぶ相手もなく、休日も家にいる状況なんてつまらないです。何より大好きな彼氏から離れたくない。
今でも光熱費の一部と自分の食事は自分持ちですが、もし一人暮らしなら家賃などもっとお金が必要になってきます。遊びたい、おしゃれもしたい、旅行や買い物にも行きたい。貯金もしたい。
都合のいい時は親に依存してますね。


> 「地元にいられなくなると私が困る」
> 推定するに、仕事関係ではないかと思いますが、

今の職場に執着はないです。夢ややりたいことがあってその会社や学校に入ったのに家族や家のことが原因で居づらくなって辞めるはめになったら家族を恨んでたと思いますが。
でも引っ越しとなったら住み込みを探さない限りは見つかりづらくないですか?住む場所がないと就職が見つからない、仕事がないと部屋も借りられない。まして今は不景気です。


> >家族が親戚や友人お金を借りて返さない
> >私には関係ない、親の責任だとしか思えない
>
> 思えないじゃなくて、そうですよ?
> (法的にもそうです)

そのとおりです。でも私も世話になってる知人です。そんな知人にお金を返さないのも罪悪感があります。
親にも世話になってます。さんざん迷惑もかけてきました。
(生活が今より余裕があった時に)私が短大に無理に行きたいと言って行かせてもらって中退し、他にも学校に行かせてもらってました。私がいじめられて辛い時には家族に守ってもらい、精神的に支えてもらいました。だから今の私があります。

もし私が知人の立場で貸したお金を本人や家族に返してもらおうとは思わない、自分が生活に困っても家族や知人に頼らないというなら筋が通ってます。
でも私は知人の立場なら、本人が返してくれないとその家族にお金の返済を求めるでしょう。その家族が返してくれないならその家族にも不信感を感じてしまいます。
自分が生活に困って生活保護も受けられない状況になれば家族や友人に頼ってしまうと思います。人には頼りたくないけど自分一人でどうしたらいいかも分からない。虫が良い考えをしてます。


> >私は自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴でしょ
> ここにナルチシズム的自己愛(不快感による快感認知)が表現されている事は説明するまでもありませんが(反省や悔恨では無いので)、
> その結論に至る「前段の話」は、被害認知が主たるものです。

そのとおりですね。本当に反省してるなら文句や恨みつらみを言わずに家族の代わりにお金を返してますよね。


> その理由は「本来反省や悔恨すべきだと思っている」からですよ。
> そうじゃないから→自動的に自己嫌悪の認知が発生する

親の借りてたお金で私も生活してたのかと思うとなおさら罪悪感があります。


> 上記のように”それは金融機関から借りるべきでしょう”と断るのが筋:金融機関の審査でも借りられない金額であれば返済の目処が無い事になる→それでも貸すのは”返せる時にいつでも”と言っているのと同じなので間違っても親族に”あんたが払え”等と請求するのは筋違い。
知人は家族がすぐに仕事について返してくれると思ってたから一時的に貸したようです。でも家族が働けないから働いてる私に返してくれと言いに来られました。
家族と別棟ならともかく、(食事は外食だから自分持ち、光熱費の一部は家に入れてますが)家族と同居で電気やお風呂は使わせてもらってるから引け目があります。

私もその借りてたお金で生活をさせてもらってたのかもしれない。私が給料を全額入れてたら家族は知人や親せきからお金を借りなかったかもしれない。私にも責任は生じるのかなと。(実際言われました)


> >一方で家族をかわいそうに思ってる自分
> 或いは、それが無意識下で温存された理由は何かと考えてみる。
> 答えは簡単です
> 「その時(それが無意識下において認定された時制:相当過去)、対象者である家族構成員は私が優れて奉仕貢献すべき人物である」と評価していたからです

病気になったら家族が面倒を看るものだと言われたことはありますが、その言葉に私自身は強迫されてないようには思います。(何かと親から干渉されて嫌味を言われたり、強引に父がねじ伏せようとしますが、私は従ってない。親から何を言われても平気です)
引っかかってるとしたら道徳心の部分だと思います。
知人や親を含めた地域・社会全体(私のまわり)が『育ててもらった親に孝行するべき』という考えで、小さい時からその考えを受けてた私はそれが当然なんだと思ってました。だから罪悪感を感じます。
周りが家族なんてほっとけばいいと言えばそうなのかと思いますが、周りは上記のような考えで、困った時は家族が助けるべきだと言われるので気になってしまいます。


> >親の洗濯物が干してある風景や病気の親を見てると居たたまれない気持ちになります。
> >家族も一生懸命生活してる風景や病気の親の姿を連想しちゃうんだと思います

何でこんな風に連想しちゃうんでしょうか?


> 私がいないと家族が困る

そうやって親を心配してる気持ちもあります
1062 返信 どうもカウンターあてる必要があるので kagewari 2009/08/21 06:33
今回は少々極端な表現使います。
(カウンターってのは強迫意識の”優位性”を言葉の上で相殺させるためにバランス可能な表現にするって意味です)
以下文面には全てカウンター的な極端な表現が含まれますが、
意図的な表現になりますので
「自分でその言葉を思いついて自分に言っている口調」で読み進んでください。

(或いは「本来そう自分で容易に思いついて不思議じゃない筈だ」的認識で:ここが容易に思いつけない形になっているのが”無意識性”の証明でもあります)

心理的に余裕が無い場合には無理に読み進まず、
時間を改めて読むほうがいいでしょう。



では、
以下各論です。


>ここの意味が分からないんですが。
>『引っ越しをする』ことが視野に入ってませんでした
>新しい環境で友達がなかなかできづらい可能性もある。友達ができず、遊ぶ相手もなく、休日も家にいる状況なんてつまらないです。何より大好きな彼氏から離れたくない。
>今でも光熱費の一部と自分の食事は自分持ちですが、もし一人暮らしなら家賃などもっとお金が必要になってきます。遊びたい、おしゃれもしたい、旅行や買い物にも行きたい。貯金もしたい。

私が指摘した以上の意味になってますね
これだと『地元』って言葉の意味が”既得権益”を指してます。
しかも地方ですから、
政治用語にたとえるならば”地域の談合利権体質”そのものです、


>新しい環境で友達がなかなかできづらい可能性もある。
これはいくらなんでも無いでしょう、
小学生じゃないんですから、
「都会の4大志望校進学を断念しました、新しい環境で友達がなかなかできづらい可能性もある」
これ言いますか?
無いでしょう。無い無い、

しかも言葉に大きな矛盾が発生しています、
>休日も家にいる状況なんてつまらないです
これを言うなら、
「18歳も過ぎて、一人暮らしもせずに実家に帰るなんてつまらない状況耐えられない」
でしょう。
そもそもメインの理由となる
>何より大好きな彼氏から離れたくない。
なんで思春期の子供たちが大人になる過程で広く一人暮らし・独立を志向するのかって、
家人の事など気にせず自由に友達なり彼氏が実に簡単に宿泊できる(だけでなくそのまま同棲するのも自由)
家人の生活時間など完全無視して(大学生の特権ですが)連日徹夜で勉強であるとかその時のテーマや趣味に没頭できるからで、
特に学生時代はバイト+仕送りで生活水準は家賃払っても(学生アパートなんて安いもんですから)お釣りがくる。

その後就職ってなればいわば社会人ですから(家族から見れば他人)
文化人類学であるとか社会契約説的な位置づけで言えば、ID(アイデンティファイ)所属上位の概念は社会の方で、
仕事優先って部分から言っても、
自分の志望先が「必ず地元にある」って、
ここですね「酒造りで有名な地方で日本でも有数の蔵元が並び自分の第一希望が酒作りだ」等のかなり特異な状況じゃないと整合性が無い。
矛盾しているんですよ
 ↓
>夢ややりたいことがあってその会社や学校に入ったのに家族や家のことが原因で居づらくなって辞めるはめになったら家族を恨んでたと思いますが。

家族もクソも無いですよ(笑
まず「夢ややりたいことがあった」としても最もこれを阻害しているのは、
”地域の談合利権体質”にどっぷり漬かった自分じゃないですか。
(自由に選択肢を広げる事を阻害している)

そして非常にやっかいなのは、
これまでの経緯で考えるならば
>何より大好きな彼氏から離れたくない。
この人物への興奮が、家族意識の投影である可能性が高い。
(その人物の実存を素で評価認識しているのではなく、強迫意識に近い線の投影(自動的にナルチシズム的興奮)による可能性も推定される)
実際現在の人間関係
>新しい環境で友達がなかなかできづらい可能性もある。友達ができず、遊ぶ相手もなく、休日も家にいる状況なんてつまらない
これって
「自分が困る」ですよね
人材として新しい場所の友人や恋愛の可能性が、対象者ベースで(絶対地元の人が勝つみたいな)具体的に比較されているのじゃない。
「面倒なので自分が困るから(相手が誰かはともかく)」
になってしまっている。


強迫意識が関係する時の典型的なアドバイスがあって、
それは以下のようなものです
■これまでの人間関係を全て一度清算してしまうのも手段のひとつです
この理由は何かと言うと、
家族時代の強迫意識の事実上の追従と、結果としての自意識抑圧:同時に強迫意識の正当性確保の意図から「スカウティング」により、『取り巻き』が交友関係や恋愛関係として実体化する事が多いんです。
(強迫意識の構造が深刻化すると『共依存』が模索される)
それぐらい”ハイリスク”なものなんです。
このメンバーは強迫意識の連想元である家族関係と非常に近しい”関係者”になります。
>休日も家にいる状況なんてつまらない
強迫意識の原型となる”幼児期にデフォルメされた理想家族”
「休日も家にいる状況なんてつまらない」この家ってのが”リアルな家”であり、
幼児期にデフォルメされた事実と離れた理想化が代用家族的に(投影によって)模索されているので、
正確には「休日も”この”家にいる状況なんてつまらない」となっていて、
スムーズに「学生にもなって休日も実家にいるのはそりゃつまらない、早く独立したい」とならない。


ここ何か幼馴染であるとか地元の同期との関係継続それ単体に問題があるって意味じゃないですよ。
強迫意識やその投影がなければ、地域社会の内部においても「大人になった後の再構成」があるのであって、
この場合地域社会への関係性は「大人になった自分の目線」で再構成されます。
ですから、
地元での人生を選択する場合には、
「同期古い人間関係・地縁血縁も大事にするのが当たり前」
のような美意識となりますが”古い人間関係”ですから過去も大事にのように”過去は過去”としてけじめもついているし、第一この大事にしましょうが美意識となっているのは「古い人間関係の”付き合い”等も大事に」と言う形で(当然本人は現在進行形の新しい人間関係が重要となるので)面倒な事もあるだろうけれども大事にしましょうと、この過去との関係は義務に属するもので「自分を楽しませてくれる既得権益」ではありません。



若干解説しますが、
近代であるとか『共同幻想』がまだまだ非常に強くてその合理性も内容を伴った『真性保守の時代(封建社会)』
この時の「家族愛・地域愛・愛国心」、
ここには地域特有の高コストの特定行事への積極的参加や、間違っても自由に職業等選べない地域社会への帰属ベースの職業選択(女性であれば自由恋愛はご法度であり地域社会が求める”嫁入り”を道徳として”刷り込み”)、個人の自由より地域社会の求める義務を道徳として保持する代わりに”既得権益”で守られるという合意に基づきます。

ですから社会学的に『ゲマインシャフト(Gemeinschaft:地縁血縁社会)からゲゼルシャフト(Gesellschaft:社会や利益的関係性)』への変遷って概念があるのであって(19世紀の論議です)、
>夢ややりたいことがあってその会社や学校に入った
>何より大好きな彼氏から離れたくない。
こういったリベラルな発想の「正反対の概念が地元優先既得権益意識」になります。

現代社会における文明論として見ても
地方の方に保守的意識が残る構造がありますから(都会より地方の方が早婚で多産)、民主主義的な個人の自由って概念から言えば対極にあり(好き嫌いに関わらず現代先進国は都市文明)、先進国的な「新しい地域意識や地方自治」とは、独創的な地域性を(保守的ではなく)地域の自由として確立していくもので決して保守的発想ではありません。
「新たに想像されたり新たに再解釈された伝統文化を地域の個性とするもの」
※若干日本とは政治状況が違いますが、イラク戦争など昨今の米国の保守化の背景は有権者の比率として(都会より地方の方が早婚で多産)保守的地域が優勢となったため(NY等の都市は比較少数派となる)、”ネオコンサバティブ”とも呼ばれる新保守主義が台頭したためで(独創的に再解釈されたのではなく反動保守に近い)特に宗教的保守層の伝統を持つ西欧ではこの「反動保守化」が政治的問題にもなってます。

■つまり”つつき”さんの本音を代弁するとですよ
>夢ややりたいことがあってその会社や学校に入った
>何より大好きな彼氏から離れたくない。

「とっとと一人暮らしして独立したい」
って事ですよ。

しかし
>今でも光熱費の一部と自分の食事は自分持ちですが、もし一人暮らしなら家賃などもっとお金が必要になってきます。遊びたい、おしゃれもしたい、旅行や買い物にも行きたい。貯金もしたい。
実態は”パラサイト”であると、
180度矛盾していますよ。
それだけじゃないんです、
『”地域の談合利権体質”に依存している』
この状況って何か?
「夢ややりたいことがあっても、何一つ自分の力で手に入れていないので(その都度どこかが依存による成果である)何も手に入っていないのと同じ」なんですよ。
(それこそその都度自分の成果としてそれを誇るのではなく地域社会に感謝しなくてはいけない→封建時代であれば”従う事は義務であり美徳でありこれを道徳としなければならない”)

なので、
西欧では独立のための進学って時には、それを機会に実家からも独立するのが”常識”なんです。
(最高学府が全寮静だったり:元々大学の元祖は神学校で出家が前提ですから)
社会人としての権利と義務、
ここに血縁社会の道徳性等持ち込まれるのは学生失格なんですよ。
学校自体政府等から援助されている組織で援助の意図は「社会的利益の還元:独立して活躍」です、
(つまりそこで後に大人として他人になる自分と実家の関係性が”再構成”される)
※欧米では18歳になれば親から独立するのが常識

上記と被りますが、
『その後の実家との関係の再構築』は”別問題”です。
大人(他人)になった”自分”の立ち居地から過去家族であった縁の深い人との関係が新たに模索されるのであって、断絶すべきって意味じゃ無いです。(後に大人同士の信頼関係があったとしても構わない)


■日本において一部に「なんとなくパラサイトでいいじゃない」な風潮が残っているのは
古い共同体では(農村社会ですから)子供が親の面倒を見るなど強い関係性があったからですが、
この部分も大変誤解される話で、

この当時というのは、家督を相続する長男と”それ以外”は人種差別並の差異があって(次男以降は農奴に近いケースもあった)、次女が女衒に売り飛ばされたり、街に丁稚奉公契約(これも人身売買に近い)となったり、長女は地縁血縁関係を強固とする先に”嫁入り”がマストです。
その背景で何故長男が親の面倒を見るのが(他の兄弟従業員と違うのか)常識なのかと言えば、
『土地資産を相続するから』です。
つまり親の面倒を見るのは「相続という金銭関係の契約」に基づいていたのです。
しかし、この取引は相続後に反故にされかねない(子供が契約違反をして親の面倒を見なかったら親は詐欺に合う事になる)
なので地域は「契約違反は地域が許さない(地域が村八分にすれば=死を意味しますから、当然相続した土地資産があっても地域の協力無しに収穫はできない)」という”道徳”を織り込んだんですよ。

そこは当然人間ですから、人間関係に「融和的好感」がある方が気分もいいですから、家族社会も円満で楽しい方が好ましいのであって各個人がそこで”運命共同体・戦友意識”を持ち”血縁の縁”によって強固に親しい友人関係を構築するケースも自然でしょうし、
”嫁入り”的に個人の自由を剥奪された女性階級(勝手に社会進出する道も無いのであって)が、唯一の快感原則の働く子供を溺愛し過干渉に近い自己愛投影を行う特異な存在となるケースも頻繁に発生したでしょう(”自分の”子供のような所有願望)。自己愛を投影していますから身を捨てて子供を大事にする事も心理的にはごく自然に発生する。
※ある意味2.26事件の引き金となる心理的根拠もこのへんにあります

因みに当時の大都会「江戸」が自由闊達な文化を築いたのは、
『巨大な次男次女都市国家』だったからで(あまり明日をも考えない刹那な人生観であった)、
当時の江戸っ子の「宵越しの金も持たネー」って言葉の意味は「結婚もしネー」って事ですよ。
(男女人口比がまったくのアンバランスだった→圧倒的多数の男性と吉原という社会だったんです)
江戸の『粋』ってのは、
「値切った後で、オイオイ釣りはいらネーよ」のようなものですが、
こういった『粋な散財』は次男次女都市国家特有の明日の事より今日の粋って美意識によるものです。

ここに突然「明治維新という名の薩長連合武装軍事クーデター」により”上からの革命”が起きて、
急激な経済成長(富国強兵)と、”軍国主義的教育”そして昭和の第二次世界大戦後の占領軍による”上からの革命(占領政策)”により、「気分のいいところだけ都合よく解釈してしまう」という”文化的堕落”が蔓延したわけです。
核家族なのに長男気取りでサラリーマンが一石(一国)一城の主なんて言葉を口にしたり、
特に軍国主義時代には農村階級が”大和魂(元はサムライ精神)”を語った経緯からサラリーマン(元農村出身でサムライの文化など知らない世代)が武士道精神を気取ってしまったり(西洋で言えば”ナイトの称号”)、
古来の『共同幻想』はグズグズになったんです。
※ある意味「古きよき農村地域の”お祭り”」などの耽美的世界も荒廃した。

なので政治的に言うならば、
民主主義的な公正さや平等意識は「まだまだ早すぎて根付いておらず」、
(フランス革命ですら150年とかそういうスケールです)
地方では”談合利権体”が定着、見るに見かねて霞ヶ関による「中央集権国家による統制」が”秩序を維持”した。
これが昭和って時代です。
親は自分の家族を私物化し(家族法人は社会的存在であって親の私物化が許されているのではない)、
社会的義務である「子供を社会人として独立させる(一種委託託児教育を目的とする教育特殊法人でもある)」義務をいとも簡単に放棄したり。
自分の既得権益拡大のため(なんら相続として取引関係の成立する財務体質も無しに)「子供の立身出世(進学競争)と親の面倒見なさい」的な野放図な私物化が暴走して、受験競争が社会問題になり(後に学級崩壊に至る)、
古来の共同幻想(伝統社会の美徳)は見事なまでに崩壊したわけです。

※何故国家財政が学校法人を補助するのかと言えば、社会契約的な国家と個人の関係を前提とするためで(家族世帯が個人的利益むき出しで本音進学の明快な意思も無く地位や名誉欲しさに強引に受験戦争繰り広げ、国立大学等の権益奪取に成功すると学校法人運営資金を含む莫大な権益を収奪する事と同義なんです)、乱用する事は計算に入っていないんですよ(家族法人は社会契約的な”市民の義務”を果たす前提で考えている)。
計算外な自体を前に教育は滅茶苦茶な事になったと、

ここが『共同幻想の崩壊過程』という文化人類学的な時代認識で
当然この時代には社会にメンタルな問題が多発します。


■さて現在日本はとにもかくにも民主主義国家になりました、
政権交代ですって意味は、こういう世界からの脱却「本当の意味の個人の尊厳」の到来を意図したものです。
※前レスで紹介した「高齢者の一人暮らしする権利」もこの線上にあります
立派に子供を社会人として輩出した、元家族法人経営者の名誉として何不自由無く(誰かに依存する事無く)その尊厳と誇りを保障しましょうって事です。(リタイアした家族法人経営者が元部下の世話になって感謝の意を表するみたいな事の無い様にその名誉を国家が保障する)

現代社会において「子供が親の面倒を見るべきだ」的発想は”道徳でも何でもありません”
極端に言えば、道交法違反なのに「付き合いなんだから一杯飲んでいけよ」に近い問題意識なんです。
※誤解の無いように繰り返しますが、当時の親子関係が各個人個人にとっても血縁の縁をベースに親友のような「個人的信頼関係」があれば、現在進行形でも大事な人間関係であっておかしくないですから、元子供が元親と信頼関係をベースにしてその後も円満に関係が続く事だって自然ですが、こういった関係者には「子供が親の面倒を見るべきだ」的発想では無いんです。
(義務では無く「親友のために人肌脱ぐ」のと同じであって関係を大事にする事は当事者にとっての”個人的利益”となるため)


話は戻りますが

しかし
>今でも光熱費の一部と自分の食事は自分持ちですが、もし一人暮らしなら家賃などもっとお金が必要になってきます。遊びたい、おしゃれもしたい、旅行や買い物にも行きたい。貯金もしたい。
実態は”パラサイト”であると、

不動産関連の話も理由になってません
内定証明あれば審査通ります。
就職決まってなくても、自己資金があれば「派遣会社に登録」して、勤務先も決まってます的背景あれば審査通る事珍しくありません。
(実際その後就職先が違っても、後に申告すればいい)
家人が保証人能力無ければ、保障会社を利用できる物件にすればいいのですし。


その状況で、
>家族や家のことが原因で居づらくなって辞めるはめになったら家族を恨んでたと思います
>何でこっちが親の巻き添えをくらわなきゃいけないのという親への恨みや不満ばかりがつのる。
「借金なんかしやがって、」
と悪態つている、
「私の”既得権益談合利権体質”を壊すつもりかオイ」
これじゃ
借金で壊された利権体質を自分で修復しなくちゃいけないってか?
「私が優れて家族に奉仕貢献しなければならない(借金返済を手伝えとか)」
悪いんだけれど”パラサイトはするが家賃は払いませんよ”
>遊びたい、おしゃれもしたい、旅行や買い物にも行きたい。貯金もしたい。
>遊ぶ相手もなく、休日も家にいる状況なんてつまらないです。何より大好きな彼氏から離れたくない。
利用できるところは利用しますが、
>家賃が払えなくなって家族がホームレスになろうと、餓死寸前になろうと、手を差し伸べるつもりはない。

この幻滅は「話が違うだろうよお前」って事ですよ、
この世界(家族社会)は、私の”既得権益”だった筈だ、
(”私は子供で特別扱いがあるべき”そしてあなたたちはそれを実現すると約束したじゃないか、のようなロジックが無意識下にあある)
借金等していないでちゃんとしろお前「私の利権を守れよお前」
ったく冗談じゃない

しかしそこで家人への罵詈雑言が並ばないのは、
 ↓
>遊ぶ相手もなく、休日も家にいる状況なんてつまらないです。何より大好きな彼氏から離れたくない。
ここが、当時(幼年期)理想化された誇大イメージで肥大化した「家族関係(約束の家族)の投影」であって、
(こっちの方が脳内の”私を中心とした家族”に近い)
無意識下で興奮している”論理的イメージ”は「実家族との関係」なので
ふとした事で(意識が先祖帰りすれば)
>一方で家族をかわいそうに思ってる自分もいるんです。
>だからと言って助けようという気持ちにはなりませんが…
 ↓
現実は「まったく利権として機能できない”できそこない”の体たらく」なので。
 ↓
>何かと親から干渉されて嫌味を言われたり、強引に父がねじ伏せようとしますが、私は従ってない。親から何を言われても平気です

平気なんじゃないんですよ、
「はぁ〜お前が何言ってんだ」ですよ
「私の既得権益を守る筈の約束が、それを借金で壊しておいて、、ったく大罪だぜお前」
彼(父)に対する蔑視となり
「どの口が上から目線だお前」って意味になる。
(しかし自分が依存している『地元』には当然家族が含まれます)
>知人や親を含めた地域・社会全体(私のまわり)が『育ててもらった親に孝行するべき』という考えで
談合組織からはその姿勢が無責任と(地域保守思想における権利義務は”連帯責任性”なので)
ですから、この悪態には「自己嫌悪の料金」が発生し、
>私は自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴で

となるが、
自立独立するつもりも、
反省や悔恨も無い。



>道徳心が引っ掛かります

って全然状況は「道徳出る幕無い」ですよ。


>>ここにナルチシズム的自己愛(不快感による快感認知)が表現されている事は説明するまでもありませんが(反省や悔恨では無いので)、
>>その結論に至る「前段の話」は、被害認知が主たるものです。
>本当に反省してるなら文句や恨みつらみを言わずに家族の代わりにお金を返してますよね。

まったく違います。
関係を主体的に大事にしていて反省や悔恨があるのならば
「私が主導権を発揮して、借金体質等にはさせなかった」
(或いは借金体質となる悪循環の現況を解決した)
でしょう。
(当然パラサイト的生活はここに織り込まれない)
後から被害者面して「私に払えってか?」これは反省じゃありません”逆切れ”です。

※ここも誤解の無いように注釈付けますが「そんな実行力云々」に意味はありません。
反省も悔恨も”できない”のが前提ですから、
つまり最後の台詞として
「結果私には主導権を発揮して借金体質等にさせないとか、そうなる原因を解決させる力も無かった」
となれば趣旨に反省や悔恨が含まれ
 ↓
それは到底無理なので
この状況は言いも悪いも無くトレードオフとして、
「さてと、じゃー自分はどするかなこりゃ(終わり)」
となり悩みも何も無いって事です。
次に何をするか考える状況であり「何かいいアイデア無いものか」と、メンタルな要素の介入する余地は無い。

又、当然に元々て反省や悔恨等無くてもいいのであって、
最初からさして関係を大事に思わずにドライな選択があるのであれば
「ちょっと家を出るタイミングが遅くなって、嫌なものみちまったよまったく。こうなる事は十分予測できたので驚くに値しないけれども、さてとっととひとりぐらしの準備でもしないことにはいかんぜこりゃ(終わり)」
この場合にもメンタルな要素の介入する余地は無い。


■ここまで何度も何度も読み返してみてください。

じゃ何がメンタルな問題の鍵となるかって
答えは簡単です
”地域の談合利権体質”をあたかも自分に確約された既得権益だと『誤解』している事に全く無自覚である。
逆さまに言えば『そんな誤解を誘発する幼児期の一枚のスナップのような”論理的イメージ”』が無意識下に高い優先順位を持ったフラグ付きで存在しているって事です。
その行動(親族の行動)がわかりにくくて理解しがたいとか、
自分の快感依存特権を守るために無意識に温存してしまったとか、
実際の親族の日常と比べると自分の幼児期のデフォルメが”違いすぎて”記憶としての関連性すら保持できていない等で、深層心理にそんな”論理的イメージ”がありそうだって自分で思いつけないと「反抗期」において、自意識管轄記憶として再解釈されず、
(「ナイナイナイ、子供だったからとんでも無い誤解もしていたんだろうな」みたいに)
深層心理にそのまま残っちゃうんですよ。

そして、その”論理的イメージ”を基点として現在の事実認定すら偏向させてしまう
(”地域の談合利権体質”への依存に違和感すら感じない)
これは自意識が記憶分類の主導権を回復できず
「自意識共犯」的に追従(判断放棄)してしまっているって事です。
(この時点で認識や判断の優先順で自意識が負ける流れが定着)

反射的に「きっとこうだ」と思ってしまう部分に疑問も持たず本音だと勘違いしてしまう。
>私は自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴で
 ↓
ある意味この判断は自意識の責任放棄宣言ですよ

もちろん責任(自己の尊厳の確保)ってのは
「いかんいかんとっとと独立しないことには」
です。



有料相談依頼じゃないので、プライヴァシーに関わる部分は確認できませんから「一部推定」として考えるならですが、
幼児期に分離不安を誘発させる親族の過干渉であるとか、親子関係を逸脱する溺愛(或いはその反対の虐待)等々、幼児には容易に理解し難い親族の行動をむりくり解釈したら(幼児特有のデフォルメ付きで)と考えてみてください。
※ここに一般教養で構いませんから「○○コンプレックス」のような快感依存の現象を絡めれば
「本人まったくそんなつもりは無いのに、普通なら思いつきそうなアイデア(ひとりぐらし)をどうしても思いつけない」
「そのくせ、そんな意図は全く無いのに家族と依存する事が至極当たり前であるかのような”とってつけたような都合のいい理由”ばかりスラスラと次から次へと(肝心な解決策は思いつく事もできないのに)不思議と立て板に水で出てきて、体感”これ道徳だ”という補強までされている」

のような現象に至るのが”なんとなく”掴めるでしょう。

これは意識下の”トリック”というか、
わかり難い『間違い探しのパズル』みたいな話なんです。
「え、いつの間にこのパズルこんな”ピース”が含まれているんだ?どこにも合わないじゃないか」
のような。

■重要なのは強引に「こんな”ピース”」をパズルに組み込む事じゃなく、
「あれ、これ関係ない”ピース”じゃん」と気が付く事なんですよ。


それから
>>親の洗濯物が干してある風景や病気の親を見てると居たたまれない気持ちになります。
>>家族も一生懸命生活してる風景や病気の親の姿を連想しちゃうんだと思います
>
>何でこんな風に連想しちゃうんでしょうか?

ここは前回レスで説明済みの筈なので(そういう意味では「レスが早いです」前の返信を反読してください)何なんですが、
「連想だからですよ」

連想について説明しますと、

たとえばですよ

友人と二人で植物園に行くミュージカル仕立てのドラマがあるとします。
「ねえねえちょっと素敵だと思わないこの○○」
「あら綺麗なお花」
「花・そう花と言えば」
(ここから歌を歌い始めて最後の歌詞が)
・・・「そう、なんて素敵な花でしょう。”あの花”のように〜ぃ」
不思議とどんな花を見てもこの歌を歌いだし最後の歌詞は
・・・「そう、なんて素敵な花でしょう。”あの花”のように〜ぃ」

「って、あの花違うでしょこれは○○」

わかりますよね、
人間の脳は、瞬間認識レベルで「これは何」を関連付けで分類します、
(フォルダの数や種類は各人の自我によって千差万別)
ここで「花と言えば圧倒的に○○」なる強すぎる”論理的イメージ”があると、
目の前の個別の花は全部ひとつのジャンル”あの花”に関連されてしまい、個別には花を認知できなくなるんです。

「いやいや違うってこの○○を見ようよ、あなたの”あの花”じゃなくって」

つまりですね
全く赤の他人の「洗濯物が干してある風景や病気の親を見てる状況」
これ、別人ですから”全然違うんですよ”

しかし”つつき”さんの心理状況は
「そんな他人の家庭の事など”全く興味が無いかのように”(実は個別に認知することができない)」
・・・「そう、なんて素敵な家族愛でしょう。”あの家族愛”のように〜ぃ」
説明するまでもなく、”あの家族愛”は自分の家族を指していると、
(一種の自己中心性認知です)

極端に言えば、この世の他の世帯や普通に自立独立していく若い人の事が”認識からおっこちている”んです。
自意識は健在ですから、当然見たものや知識は理解できるんですよ。
しかし(テストの問題が自由自在に記憶できないように)どうあっても個別の対象は何って(個別に違うものだって)優先順位は低く、
深層心理では
・・・「そう、なんて素敵な花でしょう。”あの花”のように〜ぃ」が常に再生されるって事です。

ここも強すぎる”論理的イメージ”が深層心理に存在する証明で
(現実的レベルを超えているからこそ強い力を発揮しているとも見ることができる)
言い換えるなら
『強い権限の上位フォルダに支配されて、個別のものが全部そのフォルダに格納され認識が”あの花”化する』

重要なことですが、
その記憶は「すっかり現実から乖離していて、幼児期ならではの”誤解”」だって事です。
ここは自分自身にも
「何がなんだかわからないが”違和感”だけはある」
ので、
どうにも説明に困って

>私は自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴で
なるすっとんきょうな認識で強引に矛盾する無意識と自意識の帳尻を合わせてしまっているんです。

(なんとなく気がつきませんか?)

「どうせ、そんな違和感感じる私(自意識)が悪い(無意識の特権的イメージに劣る)んでしょ」

諦めと同時に、
自意識の権限放棄、

■繰り返しますが、自我における最高権威は”自分(自意識)”です。

つまり買収やら接待付けやら賄賂やらで、
懐柔され利権体質に依存している”自意識”を立ち上がらせて

「いやいや違うだろ”自分”」
と舵を切れば、状況は180度逆転するって事です。

実際の自意識の置かれている状況は「依存症的傾向」がありますから、
そこから抜け出すには生活習慣から改めないとみたいな話にもなります。
「常に本音チェック」するであるとか、
「先ず真っ先に道徳的認知は100%全否定(悪行ぐらいに思う):初回否定って意味です自意識権限で哲学・美意識として再確認されれば”本音”としてOKを出してもいい」
等の(その都度自意識を立ち上げる)継続性が必要です。

こういった要素を担保する意味で、
安易にレスせずに、
とにかく最初の自分の相談書き込みから全文反読、
ついでに、他相談事例の全文を次から次と反読、
そのなかから、なんとなく「あれ、こういうことなんじゃ」な体感出てきますから。

『どこにもそんな要素は無い』
『どこにも冷酷な話はない』

「自分で思いつけることなんじゃないか(何がその邪魔をしてきたんだろう)」
確認できるまで読んでみてください。
そして自意識を立ち上げて考えてください、


1063 返信 彼と離れたくないです つつき 2009/08/26 17:38
> >新しい環境で友達がなかなかできづらい可能性もある。
> これはいくらなんでも無いでしょう、

可能性の話ですが、できなかった場合はつまらない生活になります。私にとって友達と遊んだり彼氏と一緒に過ごす時間がとても楽しくてじゅうじつしてます。


> >何より大好きな彼氏から離れたくない。
> なんで思春期の子供たちが大人になる過程で広く一人暮らし・独立を志向するのかって、
> 家人の事など気にせず自由に友達なり彼氏が実に簡単に宿泊できる(だけでなくそのまま同棲するのも自由)

おっしゃるとおりです。でも彼氏が地元にいるから都会に出たら遠距離になってしまいます。彼氏とは近くにいたいです。


> >夢ややりたいことがあってその会社や学校に入ったのに家族や家のことが原因で居づらくなって辞めるはめになったら家族を恨んでたと思いますが。
>
> まず「夢ややりたいことがあった」としても最もこれを阻害しているのは、
> ”地域の談合利権体質”にどっぷり漬かった自分じゃないですか。

家族が何かしでかした場合は身内まで同じように見られてそこの学校や会社にはいられなくなりますよ。


> ■これまでの人間関係を全て一度清算してしまうのも手段のひとつです
> この理由は何かと言うと、
> 家族時代の強迫意識の事実上の追従と、結果としての自意識抑圧:同時に強迫意識の正当性確保の意図から「スカウティング」により、『取り巻き』が交友関係や恋愛関係として実体化する事が多いんです。
> (強迫意識の構造が深刻化すると『共依存』が模索される)

友達の大半は関してはそうかもしれません。
でも彼氏とは唯一自分をさらけ出せる仲です。いろいろあって不満を持ったり喧嘩することもありますが、それ以上に彼氏は唯一理解してくれる大切な存在です。
家のことでも周りの友達は陰で面白可笑しく噂をしてるようですが(中にはいい子もいますが)、彼氏は家族に対して依存してる私に叱責もしますが、親身に話も聞いてくれます。家族なんだから助けるべきだとの考えをしてる彼の考えは共同幻想も入ってるかもしれませんが、彼にとってはそれが良いと思ってるから私に厳しいことも言ってくれてるんだと思います。
私も彼が仕事で辛い時があった時やイライラしたときに怒りをぶつけられる時もありますが、私も支えてもらってるのでお互い様だと思ってます。単に共依存状態になってる相手ならここまでできません。


> >今でも光熱費の一部と自分の食事は自分持ちですが、もし一人暮らしなら家賃などもっとお金が必要になってきます。遊びたい、おしゃれもしたい、旅行や買い物にも行きたい。貯金もしたい。
> 実態は”パラサイト”であると、

ここはおっしゃるとおりです。せめて今までの家賃と世話になった分金額分全額は無理ですが、できる範囲だけでも返していった方がいいですよね。



> >今でも光熱費の一部と自分の食事は自分持ちですが、もし一人暮らしなら家賃などもっとお金が必要になってきます。遊びたい、おしゃれもしたい、旅行や買い物にも行きたい。貯金もしたい。
> 実態は”パラサイト”であると、

自立に向けて考えなきゃいけませんね。
でも彼氏との関係はどうなるのでしょうか?彼とは遠距離になってしまいます。
そして資金の問題です。わがままですが、遊ぶのが大好きな私には交際費はどうしても欠かせません。一度きりの人生だから楽しく過ごしたいです。もし病気になった時のための貯金、そして親に返すお金。。
それを解決するには給料が高いとこに就職するしかないですが、勉強もできない、資格も取り柄もない私には誰にでもできる職業しかつけない状態です。まずはここを改善することが課題になってきます。











1064 返信 Re:どうもカウンターあてる必要があるので つつき 2009/08/26 22:09
>「結果私には主導権を発揮して借金体質等にさせないとか、そうなる原因を解決させる力もなかった」

これで反省という形になるんでしょうか?
私も家族が借りてたお金で生活させてもらってたかもしれません。それなら私だけ楽して逃げてませんか?
反省なんてタダであり、サルでもできます。
お金を返さないと相手からしたら何の意味もないのではないですか?


>現代社会において「子供が親の面倒を見るべきだ」的発想は"道徳でも何でもありません"

義務というより"恩返し"になるんだと思います。
もし子供が親を見る必要がないならそれまで私にかかった養育費だけでも親に返すべきじゃないですか?
さんざん親を都合良く利用(進学費用や生活費を出させてた)しておき、私が辛い時には家族に支えてもらったのに家族が悪くなった時には自分は知らんぷりなんてやはり身勝手なように思います。


>義務では無く、「親友のために人肌脱ぐ」のと同じであって関係を大事にする

周りはそんな感覚で家族を見てる人が多いです。
そんな感覚を持ってない私はいいのでしょうか?
1065 返信 課題は全然違う場所ですよ kagewari 2009/08/30 08:14
>わがままですが、遊ぶのが大好きな私には交際費はどうしても欠かせません。一度きりの人生だから楽しく過ごしたいです。もし病気になった時のための貯金、そして親に返すお金。。
>それを解決するには給料が高いとこに就職するしかないですが、勉強もできない、資格も取り柄もない私には誰にでもできる職業しかつけない状態です。まずはここを改善することが課題になってきます。

全く理屈になってないですよ。
”半分”自覚もあるため(その点では「自意識共犯」の存在も確認できる)、上記の表現になっているんだと思いますが「自分の心理状況が全く理解されていない」ためこうなるんです。
無意識と自意識との関係性に矛盾する構造があるため、ここは「自覚が無くても」不思議じゃないところで、
後段と重なりますが
 ↓
>でも彼氏とは唯一自分をさらけ出せる仲です。いろいろあって不満を持ったり喧嘩することもありますが、それ以上に彼氏は唯一理解してくれる大切な存在です。

当然彼がその構造を理解できる筈がありません。
(こういった矛盾する構造はある程度の心理学の知識無しに理解できない→順序としては”まず自分が認識する”のが先でしょう)
そんな「誤解している人物」を、
何故”つつき”さんは「唯一理解してくれる大切な存在」と認識している等と言う現象が発生するのでしょうか?
(自分でもその構造を理解していないのに)

現在の”つつき”さんが認知している「自分の心理」というのは、依存や自己愛的快感依存等の強迫性の意識であって自意識がリードする自立的動機形成では無いのです(自立や独立的思考は強迫的認知により同時に抑圧されている)。
ですかからこの構造は勿論『被(こうむる)』形の受身なので、
強迫を受ける”つつき”さんには「十分過ぎるぐらい求め”られる”欲動」を知っています。
そう強迫(脅迫)されている当事者なんですからね。
この状況を”つつき”さんは自分の心理状況だと「誤解」しているワケで、
(抑圧され抵抗できない自意識にとっては抜き差しなら無い自分の気持ちと思ってしまう)
ここが
 ↓
>遊ぶのが大好きな私には交際費はどうしても欠かせません。
>それを解決するには給料が高いとこに就職するしかない。

という曲解に繋がっていて
(上記は依存や自己愛的快感依存等の強迫性の意識であって自立的欲求では無い)
これに従わざるを得ない(この点で「自意識共犯」:強迫に負けている形になるので)状況が、”つつき”さんには「私には欠かせない条件なのです」のように体感されるんです。
(なので表現が第三者的なんですよ→自立的な動機形成ではない証明)

彼が状況を理解している的な誤解はここですよここ
 ↓
>家族なんだから助けるべきだとの考えをしてる彼の考え
そして”つつき”さんにはこういった深層心理がある
>一方で家族をかわいそうに思ってる自分もいるんです。
>そうやって親を心配してる気持ちもあります

ここで前レスを読んでください。
私は以下の指摘をしていますね、
>>構造的に何が起きているのかと言えば、
>>『私が優れて家族に奉仕貢献しなければならない』のような無理のある認識が無意識下に構造化している。

これは強迫心理の事です。
となると、
上記の現象は
「彼は私の強迫心理にとって非常に都合のいい理解者だ」
となるんですよ。

現在”つつき”さんは自分自身の無意識下における深層心理と自意識との間に矛盾する構造を抱えていて、
その矛盾する関係をどうにかこうにか「自己嫌悪」を交換条件に『強引な正当化』を行っている状況です。
>私は自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴でしょ
当然この認知は、
抑圧され「自意識共犯」に追い込まれている自意識の”投げやりな部分(敗残感)”も含まれて居ます。


つまりですね?
>遊ぶのが大好きな私には交際費はどうしても欠かせません。

こんな事実関係はありません。
こう感じるのは、強迫心理の原型が「幼児期の自分」だからで、
 ↓
>>(”私は子供で特別扱いがあるべき”そしてあなたたちはそれを実現すると約束したじゃないか、のようなロジックが無意識下にあある)
反対に言えば、
特別扱い(この場合「交際費はどうしても欠かせません」)が無いことには、子供じゃない「=強迫意識が保守できない→自立する自分に目覚めてしまっては終わりになる」という構造なんですよ。

基礎的素養として
「遊ぶのが大好きな私には交際費はどうしても欠かせません」
こんな人はいませんよ(笑
営業マンじゃないんですから。
上記の説話が何を言わんとしているのかといえば、
強迫的な衝動に近い欲動に自意識が無抵抗な追従をする形で「自分で正当化してしまわないと困る」って”自意識の立場”というか、
弁解なんですよ。
(私は特別扱いされないと不満である)
結果として”つつき”さんが何を言っているのかと言えば、
「私は自分がどうしてこうなっちゃうのかわからないので(無意識的なので)それ(お金がかかること)は私の基礎的素養なのだと、あたかも他人を観察するように思っているんです。」

ハローワークで
「私はお金がかかるので、高い給与のところじゃないとダメなんです」
(「私はお金がかかるので、おっきな家じゃなきゃ嫌」)
こんな人いますか?
「・・・・??」と対応されるだけでしょう。

つまりここも”つつき”さんの本音じゃないって事です。
 ↓
■依存的快感を続けるにはお金が必要なだけで、自立独立後の”自分”にはそれを上回る充実感や所有権(自己責任:行動選択の著作権)が発生するので満足度は比較になりません。極論自立独立すると「給与が少なくても満足度が高い」って事です(政治問題になっている非正規雇用の話は別ですよ→なので政権交代って話にもなっているんですから)。

そしてこの部分も間接的に被ってます。
 ↓
>彼氏は家族に対して依存してる私に叱責もしますが、親身に話も聞いてくれます。
 ↓
「無抵抗で無意識の共犯者となっている自意識を叱責しますが、基本的に強迫心理への理解の方が深いです。」
>家族なんだから助けるべきだとの考えをしてる彼の考え

つまり彼は「何かおかしい」とはわかっているが、
彼自身共同幻想保守タイプなので、
(情報不足なので推定ですが彼にも共依存的内面が存在する可能性もある)
”つつき”さんの強迫意識が正当化と自意識への抑圧に利用している道徳的ロジックに抵抗できずに「理解してくれる」
=「助長し正当化をバックアップしている」


全体像をよく見ると”つつき”さんの証言は「彼が”本当の父親役”」である事をほとんど証明しています。
>何かと親から干渉されて嫌味を言われたり、強引に父がねじ伏せようとしますが、私は従ってない。親から何を言われても平気です
>彼氏は家族に対して依存してる私に叱責もしますが、親身に話も聞いてくれます。
 ↓
「偽者(実父)の話には聞く耳持ちませんが”本当の父親役”の話には感激します」
■当初の相談投稿の答えがここにあるって事です。

>知り合い(家族)が困って助けを求めて来ても平気で見過ごせる残酷な自分最低、冷酷とたたかれるけど、家族と関わりたくない
>私は自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴でしょ

この文章は内容自体が相談の形にもなっていないので(自己嫌悪的な独白で相談の形になっていない)、
特別目立つところですが、
これが”つつき”さんの頭の中で『相談の形になっている』理由は
「自分でも不思議だ」と思っているからですよ。
”平然と見過ごせる自分がいます”って部分がです、
彼の親孝行発言や、街の洗濯などで家族を思う気持ちを確認できているのだが、
何故実父相手だと「平然と見過ごせるのでしょうか?」
翻訳すると、これが投稿における質問だったのでしょう。
その違和感を説明するために、
「私が個別に冷血漢だとでも考えないと説明が付かない」ためにこうなる
 ↓
>私は自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴でしょ

逆に言うと、こうでもして説明をつけないと内面の問題
 ↓
『強迫構造に”幼児の家族妄想”が位置している』←ここを発見してしまいます。

発見しちゃまずいんですよ、
依存関係として、彼に憑依させている投影現象「特別な○(原型は幼児が見た父親)」が、実態の無い勘違いである事を暴露させてしまうのですし、同時に現在パラサイトしている状況を正当化できなくなるからです。
(親孝行の気持ちがあるとか、親孝行すべき道徳性に悩んでいると言っておけば→何かすべきだとは思っている状況を先送りする格好で=いつか借りは孝行で返すのだから現在のパラサイトは親子愛の範疇で問題ないと”曖昧な正当化”に成功する)

■何度も繰り返しますが、
依存も、投影も”つつき”さんの本音じゃありません。
何の得もありませんよ、ズルズルと内向系の自己陶酔が悪循環化して快感依存から抜け出せなくなる事もリスクとして考えないといけません。
実際「あたかも彼との関係は幼児期の親子関係並に普遍的だ」と勘違いされていますが、
彼は赤の他人であって、自由意志のある個人なんですよ?
状況の悪化で彼が一抜けたした場合どうなるか容易に予測が立つと思いませんか?
別れをトリガーに鬱に至る可能性もあるし、
彼に対してストーカー的固着を引き起こす可能性もある、
 ↓
冷静に考えて、そういう関係になってしまっていると考えれば理解できる筈です。
これは、大人同士の恋愛縁であるとかそういった類の関係じゃ無いって事ですよ、



<他各論レスします>
※再度書きますが、今回のレスも私の書いている内容はこれまでの過去ログと比べて特別新しい要素は無い筈です。理想的には反読中の”つつき”さんが自分自身で気が付いて自意識の認識として確認する方が何倍も望ましい事で(強迫意識の抵抗も少なくなる可能性もある)、結果として相談の答えに延々と『反論』している構造になってますが「これは変なんです」。
考えてみてください、
反論するぐらいなら既に答えは確定していて、相談するに及ばない事になる。
相談する形があるってことは、うっすら”つつき”さんの自意識には「何か変じゃないか」って意識があるんですよ。
(或いはこのままでいいのかって)
それが何なのかって考える糸口を探るのが相談になりますから、
「考える糸口」に利用されないと意味が無いんです、
その考える糸口に反論してしまうと、「無意識に強迫意識の片棒担ぐ結果」になっちゃうんですよ。
ほんとの話、無意識に、
相談書き込みの当事者は間違いなく「自意識で」、
どうにも反論を書き込みたくなっているのは「無意識的な抵抗」、
しかし実際に反論の書き込みをする『実行行為者』は、自意識です。
ここを、安易に許してしまうと自意識共犯の形で、自意識の自立性が毀損されてしまいます。
言い換えるなら「一番最初の自意識の考えが無力化される」ことになるんです、
(やはり書き込むべきじゃなかった私は冷血漢なのだのような答えを強引に導き出そうとしているのと同じ→「冷血漢」のキーワードが強迫意識の自己防衛として鍵となっているのは前述のとおりです)

※考える時間を持ってください。
安易にレスすればするほど、話が当初の趣旨から逸脱して、
結果「親孝行問答:保守から見た現代社会」みたいな話になりますよ?
果たして、そんな論争を目的に”つつき”さんは最初の投稿していないわけで、
変だと思いませんか?
足元すくわれていますよ。
無意識が仕組んだトリックに安易にひっかからないでください。
ですから、反射的にレスを書くのではなく、他の投稿を含めてとにかく反読してみてください。
既に「考える糸口」は明示されています。

■以降各論の矛盾点

>可能性の話ですが、できなかった場合はつまらない生活になります。私にとって友達と遊んだり彼氏と一緒に過ごす時間がとても楽しくてじゅうじつしてます。

前述のとおり、彼は赤の他人で個人の自由意志があります。
その関係を(あたかも幼児期の親子関係のように)保障しなければならない義務は彼にもありません。
又、現状の依存関係から言えば、強迫心理が原因で”つつき”さんの言動が彼の心理を限界に追い込む可能性も多分にあり(強迫心理なのですから→強引に迫る)、実際に投影における依存関係が結果として問題を複雑化させたり、関係そのものを悪化させて「鬱心理の元ネタ化」するケースは非常に多いです。
既にこれまでの書き込みの文章からもその傾向が散見されています
実際に
>私に叱責もしますが
この点が暴発する可能性もあります。

又既に過去ログで説明済みの話になりますが、
「友達と遊んだり彼氏と一緒に過ごす時間がとても楽しくてじゅうじつしてます」
これは虚偽です、
依存的満足が”見かけ成立”しているだけで、
実際にその背後の条件設定に「パラサイト」があるワケですし(パラサイト含めて充実していますじゃ文章にならない)、
ことの発端は「親と推定される人物の強迫意識が原因で現在の”つつき”さんにはメンタルな問題が構造化している」と推定するのが妥当ですから、精神年齢的発想をすれば思春期以前とか思えない実父等が、借金等の家族法人取締役上の破綻を引き起こす可能性は『予定されている』と見ても大袈裟ではないのであって(同様に現在の彼氏との関係も”破綻含み”となる)、

家族の借金は友人達との依存関係と同一線上の構造だって事です。

だから言っているんですよ、
”つつき”さんの本音は「独立自立」であって、
大人の個人として確立した人間関係があれば、普遍じゃ無くても自意識が自認する範囲の信頼関係は保障されるのであって、
極論自分がしっかりしていれば「その関係は私にとって充実と呼べるものだ」と断言可能なんですよ。
 ↑
現在の”つつき”さんは上記のような本質的充足を「必死になって反論し捨てようとしている」って事です。

又、
「可能性の話ですが、できなかった場合はつまらない生活になります」
この根拠は矛盾していますよ、
何故って簡単です、
たかがどこかの街で転職した場合、今と同じ友人関係はできないかもしれないと考える根拠は
「私はそれほど魅力的な個人ではない(自信が無い)」と言っているのと同義ですが、
ここは説明の必要も無く「今の自分は大人として自立していない」→「依存関係なら可能でも大人の信頼関係を築く”自分”となっていない」と、”つつき”さんにもうっすら自覚があるからです。
自立する大人には”個性”という固有の魅力が発生しますから、自意識リードでしっかりした個人の意見があれば「話の合う他人が100%いない」なんて現象は数学的に発生しません。
又ここまでの話で気が付くと思いますが、自立独立も単独者的な領域になれば「不特定多数で群れを作る」事が固有に不快にもなります。単独行動や個人的な少数の関係である方が個性を鮮明に保てるからです(依存は0%になりますから)。
つまり話そのものがどちらの角度でもナンセンスだって事です。

※当然その個性が限定保守の範囲(地域保守型)にあれば、仲間意識も自分の個性になりますから「気の会う仲間」的な友人もできるでしょう(現在のところ同タイプの人の方が社会的にも見かけ上は多い)。何故なら「個性が限定保守の範囲」になるのですからその後友人になる側にも固有に集合性が備わっているからです。


この状況を考える上で以下のスレッド番号のやりとりを最後まで読んでみてください。
(相似する部分があるので参考になる筈です)
http://otd6.jbbs.livedoor.jp/674068/bbs_tree?base=966&range=1
スレッド番号966

>家族が何かしでかした場合は身内まで同じように見られてそこの学校や会社にはいられなくなりますよ

はぁ?どういう社会ですか?
親が犯罪でもすればまだしも、
大学のゼミでそんな話する人間いませんよ。
「関係無い」じゃないですか?
誰が親とか、何か関係あるんですか?
そもそも実社会でいきなり地元的な話されても「何のことやらよくわからない」ですから迷惑な場合すらあります。

ギリギリ可能性があるのは、
極めて内輪の人間が多い「特定地域の学校(これも家族の話が話題になるのは小中高まででしょう)」「地元の人間だけで構成されている地元の小規模な会社(大規模であればそもそも人事異動で転勤もある)」に特定される話でしょう。
 ↓つまり
そのリスクを高めているのは”地域の談合利権体質”にどっぷり漬かった自分”って事です。


>私も彼が仕事で辛い時があった時やイライラしたときに怒りをぶつけられる時もありますが、私も支えてもらってるのでお互い様だと思ってます。単に共依存状態になってる相手ならここまでできません。

共依存の意味を履き違えていますよ、
互いの強迫意識を掃き出す対象として利用するってことです。
各人個人的利益を伴って依存しているわかけですから(消費者金融の合保障のようなものです:互いに相手の連帯保証人になる保障)、その関係は快感依存のためなら多重債務だろうが、どこまでもお互いに相手を引きずり込むのが『共依存』です。
(自分の自意識を抑圧して本音を埋没させるようにです)
場合によっては、依存関係のためには相手の仕事だろうが立場だろうがが壊滅的になってもこの暴走は止まりません。
お互いにです、
しかも後期は依存関係(快感依存症のような関係性となる)が主で、互いにたとえようのない嫌悪感を抱えたり(強迫構造は興奮を快感として認知しますから)、自力で解消できなくなる場合もあります(依存症なのですから)。
※実際に婚姻関係となった後に「予定調和的関係悪化」を招いて非常に困難な状況になるケースもあります。

だからといって今現実の関係を清算すべきだと断定しているワケじゃありませんよ
当初のレスに書きましたが、
>>強迫意識が関係する時の典型的なアドバイスがあって、
>>それは以下のようなものです
>>■これまでの人間関係を全て一度清算してしまうのも手段のひとつです
>>この理由は何かと言うと、
>>家族時代の強迫意識の事実上の追従と、結果としての自意識抑圧:同時に強迫意識の正当性確保の意図から「スカウティング」により、『取り巻き』が交友関係や恋愛関係として実体化する事が多いんです。
>>(強迫意識の構造が深刻化すると『共依存』が模索される)
>>それぐらい”ハイリスク”なものなんです。

これは有料相談ではないので、プライバシーに関わる個人情報は確認していませんから、
あくまでも「外郭的な推定の範囲」になります。

そのリスクを認識して、
あたかも現在の関係が普遍的であるかのような”過信”(場合によっては妄信)に至る事が無いような注意が必要だって事です。
 ↓
>私も彼が仕事で辛い時があった時やイライラしたときに怒りをぶつけられる時もありますが、私も支えてもらってるのでお互い様だと思ってます。単に共依存状態になってる相手ならここまでできません。
こうなっては危険だと自認してくださいって事です。

実際大人同士の恋愛縁であるとかの信頼関係であれば、
こういう固定化の発想はありません。
大人の信頼関係とは”互いの個別性(違い)”を尊重する事であって、
共同体認知より個性を尊重(違いを尊重)するところにあります。
ですから、その確証は「自分がその違いを尊重している部分(認識)」で担保されるのであって、
その人(違い)を知っている深さで決まるのであって、日常どれだけ遊んでいる時間を共有しているのか等無関係ですから。
(主体的に自分は同考えるのかにより関係性が担保される→関係実態が関係性を担保するのではない)


>>実態は”パラサイト”であると、
>
>ここはおっしゃるとおりです。せめて今までの家賃と世話になった分金額分全額は無理ですが、できる範囲だけでも返していった方がいいですよね。

完全に”誤読”していますよ。
(ですからとにかく反読してください、意味を180度逆さまに読み違えている部分もまだまだある筈です)

私は、だから実際の現実が”パラサイト”を前提にした「不毛なものだ(自分で獲得した所有権の薄さだけ実存も希薄)」と指摘しているんです。
そんな条件で獲得しても、何ら自分のものとして誇れないって意味です。
 ↓
お金を返すなんてナンセンスな話じゃありません。
即刻パラサイトを解消すべきだと言っているんです。
 ↓
>>■つまり”つつき”さんの本音を代弁するとですよ
>>>夢ややりたいことがあってその会社や学校に入った
>>>何より大好きな彼氏から離れたくない。
>>
>>「とっとと一人暮らしして独立したい」
>>って事ですよ。

ですから
 ↓
>自立に向けて考えなきゃいけませんね。

こっちで正解です、
(なのでお金を返すとかどうでもいいことは考えなくてもいいのです:詳細は後述します)

>でも彼氏との関係はどうなるのでしょうか?彼とは遠距離になってしまいます。

仮の話として、
彼との関係が(前段共依存についていは説明にあるように一部推定なのですから)依存関係以外の個人的信頼関係の可能性を残すのであれば、何ら問題無いでしょう。
常識的に考えて転職含めて自立独立の可能性があるとすれば「今より都会か、近隣の別の都市部」になります。
これって、通常の地方に暮らす大人であれば休日に遊びに行く可能性のある街なのですし、
飛行機乗らなければならないほど遠いって「どんだけ遠くなの」って話ですし、
一般的に考えても電車で2時間以内であれば遠距離とは言えないでしょう。
(そこ含めても”先進国での論議”なんですから)
週末はそのまま宿泊したっていいんですし、それを景気に彼自身も転職を考える可能性だってある。

つまりこの感情もご自身気が付いていないのですが、
「自宅に帰れない」ところが暗韻(無意識で韻踏まれている)になっていて、
深層心理では彼は「本当の○役」となるのですから、帰るべき家は間接的に実家になって”しまっていて”、
表面的には彼との遠距離が問題になってますが、深層心理では「毎日実家に帰るところから離れる」事がそれを想起させているって事です。
(先進国の地方と都市部との関係で言えば”よっぽど意図的に遠方にでもいけなければ”遠距離にはならない:「東京から北海道」「大阪から九州」等)
反対に言えば、現代社会(先進国)では「よっぽど距離遠くないと通勤圏にもなる」ぐらいの話です。
今回のテーマは「地縁血縁社会」の影響下から離れる独立であればいいのですから、その小世界の外であればいいってことです。
勿論都市部の方が最低賃金も高いですし、事務職であっても常に特別な資格を求められる事も無い、
少なくとも現在の求人状況であれば、若い女性は圧倒的に有利です(非常に厳しいのは中高年の男性)。

ですから
>まずはここを改善することが課題になってきます。

これを言い訳に間違っても「学校にいってから」とか「何か資格をとってから」みたいな話にならないように。
強迫心理が頻繁に使う抵抗の決まり文句です、
実社会で求められる最大のスキルは「マジにやる気があんのか」って事で、
言い訳上手はその反対です。
姿勢の問題だって事ですよ、
経営者だって馬鹿じゃありません、見るところは見ていますよ。
(それは馬鹿もいますがその時はとっとと辞めるのが都会のルールです)


>>結果私には主導権を発揮して借金体質等にさせないとか、そうなる原因を解決させる力もなかった
>
>これで反省という形になるんでしょうか?
>私も家族が借りてたお金で生活させてもらってたかもしれません。それなら私だけ楽して逃げてませんか?
>反省なんてタダであり、サルでもできます。
>お金を返さないと相手からしたら何の意味もないのではないですか?

私をサル程度の人間だとおっしゃていますが、
全く読み違えていますよ。

文章そのまま読んでください、
どこにそういった事が書かれていますか?
「結果私には主導権を発揮して借金体質等にさせないとか、そうなる原因を解決させる力もなかっ」
 ↓
私という人物がいながら、借金体質になるなんて失態を”未然に防げなかった”と言っているんです。
いいですか、
仮にも借金体質になるような人物には、それなりの強迫心理を疑う素養がある事になります(借金まみれで得する事なんかありませんから)。
つまり人格に幼さ(強迫的認知はほぼ幼児性人格の関与なので)がある事になります。

ですから、
ここでいう『反省が成立する場合の仮定』は、
それ(反省)が成立するとするならば、以下のようなものだと説明したんです。
 ↓
「私がいれば未熟な親をきっちり引っ張って、多方面からの借金等させなかったのに」

となるので、
少なくともそう言える自分じゃなかった事を認めるのが少なくとも反省に近い線になる。

現在は少なくとも多額の借金があるんですから、
(その後になってしまっているので)
ここから反省こめて責任を発揮するとするなら、
(コンサルタントのように活躍するならば)
自分がいくばくかのお金を供出すべきだなんて馬鹿馬鹿しいこと考えないでしょう。
 ↓
「私に任せてもらえば、一ヶ月で債務に関する最適な法的対策をまとめるので安心してくれ」
・金融機関に対しては「破産宣告」を条件に債務の免減なり一部消滅を交渉
・友人関係に対しても、「破産宣告」を前提に現在支払える財産を計算して管財人として公平に幾分でも返済するスキームを作る
(債権に関しては、完全に破棄は難しくても一部無期限繰り延べ等の措置とする)
・必要があれば弁護士を立てて法的公正の元に債務を整理する

これに当事者(親)が、拒否を示せば「冗談じゃない自分で返せる」って意思表示ですから、
勝手にしろと答えればいい。
(同時にこういう人間だとわかって貸した人間がいるとするなら貸した方の自己責任も確定)


自分自身に関しては”パラサイトの解消”で無問題


ひとつ勘違いがあるので、指摘しておきますが、
『赤の他人の家に居候しているのじゃないですよ』
現実、パラサイトを幇助したのは親の責任です。
先進国的に言えば親の社会的責任は「子供を自立独立させること」であって、パラサイトの幇助は社会的責任の放棄と、利己的権利の乱用にあたりますから→彼らは独立自立させる責任を果たさずに”パラサイト”を幇助した無責任な親となり、
「パラサイトで浮いたお金を親に返す」って事じゃありませんよ。
それこそ、自分が社会において自立独立して社会の多様性の一部を構成してこなかったのが最大の責任となりますから(といってもその最大の被害者は”自分”になる)「そのお金を社会に還元する」と考える方が自然です。
(無責任な親に支払って何か意味があるのかって話です)
経済原則で言うならば、今後の自分の自立独立費用として使う事が(市場経済への貢献にもなる)筋の通った話です。
「パラサイトしていた分これから(独立によって)社会に返します」
※ここも社会で活躍とかみたいに誤解しないでくださいよ、社会における多様性の一部として実存する事そのものに意味があるのであって(一人の大人が参画すること:民主主義における一票の重みと同じ)、社会貢献等とは違います。「自立独立する大人が一人間違いなく増える」ってことに大きな意味があるんです(民主主義社会の本質)。


親の心理ってものを理解されていないので説明しますが、
子供が身近にいるってことは、家族法人における親権(会社であれば取締役)を維持し続けるって事で(地位や名誉)、
個人的利益(既得権益)ですよこれ。
この個人的利益を獲得するために、自宅にタダで宿泊させる程度「安いもの」ですよ。
昨今『子離れできない親』が問題視される事があるように、親で居続ける事には快感もあるって事です。
(建設省OBが天下り後も出身母体の官庁に影響力を保持し続けるような話)

一度独立後に、自分の会社が倒産したとかで、緊急避難で実家に帰って世話になったとかなら別ですよ。
この場合には「世話になってしまった屈辱(独立した誇りの回復)」を晴らすために、再就職後にお金を返すのも有効でしょうけれど、
これも「昔家族だった縁もある、水臭いこと言うな」みたいな(好意を甘んじて受けて感謝で返すのも信頼関係の取引慣行だろうよって合意)大人と大人の信頼関係によって解決する方が自然だったりします。


>>現代社会において 子供が親の面倒を見るべきだ 的発想は"道徳でも何でもありません"
>
>義務というより"恩返し"になるんだと思います。
>もし子供が親を見る必要がないならそれまで私にかかった養育費だけでも親に返すべきじゃないですか?

180度間違ってます。
ですから、選挙中の各政党公約は「奨学金等学費免減の政策」を掲げているんです。
本質的に就学に関しては政治マターであり(社会がこれを担保する)、
実際各世帯は現状でも、扶養家族控除であるとか何らかの支援を受けます。
又、昭和の社会慣行が「年功序列・終身雇用」だったのは、社会が「進学の所得を保証しましょう」という意味であり、
現在のその残滓は残っています。
(つまりその所得は先進国社会が提供しているって事です)
※欧米でも保守的な伝統社会であれば、親が大学の学費を出さないケースも珍しくない(高額所得でも)。その代わりに奨学金制度が充実していたりします(同様に子供が高額所得でも完全に別世帯として、高齢者には子供の所得と関係なく生活保護が支給されたりする)。

これが社会のコストである理由は簡単です
返すべきは「社会に対して」だからです。
(市民の義務)
※ここも社会で活躍とかみたいに誤解しないでくださいよ、社会における多様性の一部として実存する事そのものに意味があるのであって(一人の大人が参画すること:民主主義における一票の重みと同じ)、社会貢献等とは違います。「自立独立する大人が一人間違いなく増える」ってことに大きな意味があるんです(民主主義社会の本質)。

自己中心的に、家族家族と考えられては市民社会として「無責任な態度」だって事です。


■又「恩返し」って言葉もまったく勘違いしています

自分の子供のように大事に育てた地域の少年野球の選手が、
 ↓
「恩返しに監督の家に居候して、お金をくれた」
あり得ないでしょう。

恩返しって
「草野球なり、社会人野球なり、プロ野球なり、何らかの形で大人になっても野球人のひとりです。子供時代のご指導感謝しております」

「社会的責任としてあなたが教えてくれた自立独立の○○、おかげさまで社会で大人やっております」
親が社会的責任を果たしたのは間違いありませんよと伝える事でしょう。
その成果が独立なんですから。

そう(彼らの認知も)なっていなければ「いよいよ彼らの深層心理が彼らの本音と矛盾しているのじゃないかと」考えなくちゃいけないって事です。
<第一回レス引用>
>>そして、仮の話ですが今回の相談書き込みが以下のような文面であれば
>>=========================================================
>>個人の尊厳を誰よりも重視している私に対して某血縁者が「最低、冷酷と叩く」んです。
>>なんていう民度なのか?哀れとしか言いようが無い。
>>こんな時代錯誤な誤解は何が原因でしょうか?
>>=========================================================
>>
>>私の答えは「依存症ですね」となるでしょう。

彼らには(何らかの形で)家族依存的心理が介在しているって結論になる。
(自立独立する大人として社会的地位「親」をやってないって事です)


>>義務では無く、親友のために人肌脱ぐ のと同じであって関係を大事にする
>
>周りはそんな感覚で家族を見てる人が多いです。
>そんな感覚を持ってない私はいいのでしょうか?

彼らとの関係が、信頼関係ではなく依存関係だからです。
(個人個人の信頼関係が築けない強迫家族のような社会性の瓦解がある)
”つつき”さん個人の部分で言えば「自立独立」の本音を回復させる事が大事ですし、

”彼等”のことを考えるならば(それは彼等個人にとってもプライバシーなので越権はできませんが)、
「(私は独立するからいいけれど)あなた達はそのままで(依存症で)いいの?」
って話になるでしょう。


■繰り返しますが、
今回のレスも私の書いている内容はこれまでの過去ログと比べて特別新しい要素は無い筈です。理想的には反読中の”つつき”さんが自分自身で気が付いて自意識の認識として確認する方が何倍も望ましい事で(強迫意識の抵抗も少なくなる可能性もある)、結果として相談の答えに延々と『反論』している構造になってますが「これは変なんです」。
考えてみてください、
反論するぐらいなら既に答えは確定していて、相談するに及ばない事になる。
相談する形があるってことは、うっすら”つつき”さんの自意識には「何か変じゃないか」って意識があるんですよ。
(或いはこのままでいいのかって)
それが何なのかって考える糸口を探るのが相談になりますから、
「考える糸口」に利用されないと意味が無いんです、
その考える糸口に反論してしまうと、「無意識に強迫意識の片棒担ぐ結果」になっちゃうんですよ。
ほんとの話、無意識に、
相談書き込みの当事者は間違いなく「自意識で」、
どうにも反論を書き込みたくなっているのは「無意識的な抵抗」、
しかし実際に反論の書き込みをする『実行行為者』は、自意識です。
ここを、安易に許してしまうと自意識共犯の形で、自意識の自立性が毀損されてしまいます。
言い換えるなら「一番最初の自意識の考えが無力化される」ことになるんです、
(やはり書き込むべきじゃなかった私は冷血漢なのだのような答えを強引に導き出そうとしているのと同じ→「冷血漢」のキーワードが強迫意識の自己防衛として鍵となっているのは前述のとおりです)

※考える時間を持ってください。
安易にレスすればするほど、話が当初の趣旨から逸脱して、
結果「親孝行問答:保守から見た現代社会」みたいな話になりますよ?
果たして、そんな論争を目的に”つつき”さんは最初の投稿していないわけで、
変だと思いませんか?
足元すくわれていますよ。
無意識が仕組んだトリックに安易にひっかからないでください。
ですから、反射的にレスを書くのではなく、他の投稿を含めてとにかく反読してみてください。
既に「考える糸口」は明示されています。
1066 返信 家族や恋人への思いを断ち切るなんて考えられない つつき 2009/09/06 17:50
家族にお金を貸してと言われて貸してしまいました。最初は断ったんですが、生活に相当切羽詰まっていて、何度も家族から貸してと迫られたり、このままだと死ぬか借金するしかないと言われて見過ごせませんでした。
知人から借りてたのも私に迫ってくるのも相当切羽つまってたから、家族だって好きでそうなってるのではない、怠けてるわけではなくやむを得ずの状態だった。家族を養ってる感じ、自分のお金を貸すのに不満はあったけど、それ以上に家族を人として見過ごせませんでした。
どう自分に家族のことを整理をつけたらいいか分かりません。もし生活費がゼロだったら私が家族を養おうと動いてたかも知れません。



> 全体像をよく見ると”つつき”さんの証言は「彼が”本当の父親役”」である事をほとんど証明しています

父はわがままでこき使いが荒く、屁理屈が多い。(思春期以降は逆らってスルーしてる)
高校生ならともかく、成人した今でも帰りが遅かったり、夜遅くまで遊んでいるとひっきりなしに電話をしてきたり、何をしてたのかしつこく聞いてきたりします。今まで恋人ができると文句ばかり言い、恋人の文句ばかり言ってました。
またデリカシーもなく、携帯をロックし忘れてうっかり机において置くと勝手に覗いたり(彼氏とのメールのやり取りがあるとめちゃくちゃ怒る)、
思春期時に父に内緒で下着を買うお金を母からもらってた時にまだ早い!と怒ったり(母が父にすべて話してしまう)、着替えてる時に(着替えるからこの部屋に今は入らないでねと言っても)いきなり部屋に入り込んできたり、体をじろじろ見てきて色気づいてきたなとニヤニヤしながら言ってして気持ち悪いです。
そのことを怒ると父が逆切れします。所有物のように見られてるみたいでいやで、高校生になってからはバイトを入れたり、彼氏のとこに行ったりして夜遅くに帰ってました。父からは怒られましたが、ひたすら無視してました。
逆に彼は優しくて大人っぽいです。悩みや父の愚痴を聞いてくれます。
「つつきの親父さんは未熟だな。つつきが怒るのも当然だよね。でも育ててくれた親だよ。家族が困ってる時に知らん振りはよくないよ」と彼なりの意見を言ってきます。
諭すように言ってくれる彼に父親としての姿を投影してるかもしれません。

> つまり彼は「何かおかしい」とはわかっているが、
> 彼自身共同幻想保守タイプなので、
> (情報不足なので推定ですが彼にも共依存的内面が存在する可能性もある)

彼は家族を重んじる人です。家族ととても仲がよく、家族とよくどこかに出かけてます。
特に妹さんにとは映画や買い物に行ってます。妹さんのことが心配なのか、妹さんの服装に口出ししたり、帰りが遅かったりするとかなり心配してます。
兄妹というよりも恋人みたいな感じでやきもち焼いてしまうこともあります。彼は妹さんを私に投影してるんでしょうか?私が彼より年下だからか妹のように扱われてる感じがします。


> 「友達と遊んだり彼氏と一緒に過ごす時間がとても楽しくてじゅうじつしてます」
> これは虚偽です、
> 依存的満足が”見かけ成立”しているだけで、

家族との楽しい生活を連想してるのかも知れませんね。幼い時から家族や家がなぜかいやで、特に父がいる休日は憂鬱でなぜか仕方なかったです。
お盆や正月もみんなはどこか行ってるのにうちだけどこも出かけなくて(祖父母と同居で、父は一人っ子だったので親戚がきていとこたちと遊ぶというのもなかった)つまらなかったのもあります。
昔の話ですが、それが未だに残ってます。
でも世間では遊びたい盛りとも言いますよね。素朴な疑問なんですが、それなら私のまわりや世間の若者のほとんどが依存性から遊んだり、恋人や家族と一緒にいるってことになりませんか?


> 家族の借金は友人達との依存関係と同一線上の構造だって事です。

おっしゃることはわかりましたが、友だちと遊ばない生活、彼がいない生活は想像がつかないです。彼への気持ちを切るなんて考えられない。共依存とは思いたくないです。


> >家族が何かしでかした場合は身内まで同じように見られてそこの学校や会社にはいられなくなりますよ
>
> はぁ?どういう社会ですか?
> 親が犯罪でもすればまだしも、
> 大学のゼミでそんな話する人間いませんよ。
> 「関係無い」じゃないですか?

”もし”家族が犯罪を犯してた場合はどうなるんですか?


気持ちは理屈では簡単に解決できなくて厄介です。










> >家族が何かしでかした場合は身内まで同じように見られてそこの学校や会社にはいられなくなりますよ
> 親が犯罪でもすればまだしも、
大学のゼミでそんな話する人間いませんよ。
> 「関係無い」じゃないですか?

”もしも”ですが、家族が犯罪を犯してた場合ならどうなんですか?












1067 返信 ”自分の気持ち”と感じているのは事実ながら→”本音じゃない”んです。(1) kagewari 2009/09/08 23:24
(注:後ろの方で登場しますが「■当然この話のおかしさは”つつき”さん百も承知なので」と説明あるように、以降の話は”つつき”さんの自意識は実は十分わかっている事を私は”わかった上”で話を展開していますので。それを前提として深層心理の反動を抑制して読み進んでください。”わかった上”での援護射撃ですから、)

※原稿が長いので分割します


■事実はそうなんですよっ、ええ。
確かに実際に感情として体感しているものを言葉にする上で”自分の気持ちだ”と認知するのは、
心理的な背景認識を無視すれば「他に言語表現の方法も無い(言語論的にはここが非常に重要)」ところでしょう。

しかしですね、
2009年は現代社会であり、
言語としても『無意識』や『強迫心理』や『潜在意識』は言葉としても広く普及するものですし(必ずしも専門用語ではない)、
言論の世界では『共同幻想』すらごく普通に(注釈も無く)使用され始めています。

言葉の意味は
自分の意識にとっえ決定的な存在である(事実上”自分”といってもいいでしょう)「自意識」以外に、様々のロジカルを人間は内包していて(脳は前頭葉だけじゃないですから)自我構造の置かれた状況によっては「明らかに自分の本意から外れた情動(一般的には感情と認知しても構いません)」の存在が確認されているワケです。
この認識については歴史的検証・文化的認知から『事実上確定的』と考えていい部分です。
(これが無確定であれば全てのメンタルな問題は”詐病”ってことになる:鬱病を存在からも認めない19世紀以前まで遡ってしまいます)
典型的な話は
メンタルな問題で派生する様々な問題に対して「それは全てあなた本人の感情で、そういう気持ちなんですよ」と言ったら心理学は学問としてすら成立しないって事です。

認識の偏向は日常的にも「どこにでもある」のであって、
勘違いであるとか、趣味意識の強さがマニアに至ったり、ほんのちょっとしたガス栓閉め忘れたのかな不安とか、大きな責任を伴う事項で誰しもが胃が痛くなったり、失恋や仕事上で激しいストレスにあった後意識の回復過程に”飲んで帰るぞ”があったり、
自意識と無意識の関係性が”パーフェクトにバランス”なんて人格は存在しません。
ここには棲み分け的というかモザイク状というか”ボチボチ分散する形で”矛盾があるのが人間だったりします。

しかしこの現象は、誰にとっても”タネ明かし”をすれば偏向の原因やキッカケは納得のいく説明にもなります。
(その時○○が気になっていたからとか、大舞台で過剰に緊張したのは○○だからだかとか、その時頭の中はすっかり○○でいっぱいで集中力を欠いていたからとか、・・・)

メンタルな問題が発生するのは、
人間なら誰にでもある自意識と無意識の「場合によってはアンバランスにもなる要素」その”隙間”が『頻繁に摩擦を起こす形で強引に(ここをもって強迫と認識してもいいです)当該意識を構成している場合』→普段から恒常的なストレスがあり、同時に自意識と無意識が正面からぶつかるほどの矛盾局面で自覚症状を伴う(流石に自意識もこれは変だと気が付く)ほどの齟齬に至るって事です。
同時に「恒常的(或いは構造的)」な矛盾関係があれば、事実上当事者意識である自意識は強迫されていて(抑圧:『被(こうむる)』)、
局面では当事者意識が後退し自我防衛的に”強迫意識を守る方向に追い立てられる”→(反動的)『抵抗』
※自分で納得するぐらいなら「それは構造化しない」のですから→なので自立的な自我矛盾の解決過程(反抗期における検証:自我プルーフ)が何らかの要因で阻害された結果今の自我の形に「追いやられた(追いやられ続けている)」と考えるんです。


つまり「今強く自我を支配的に拘束されている情動を自分の気持ちとしか言えない」のだとしても、
メンタルな問題が何らかの形で認定可能な場合、
それは「強行にそう迫る(強迫)意識が、自意識との論理的関係を無視する形で(抑圧や自意識事後共犯)相対的に認知そのものを偏向させている」と考えます。
※或いは誰にでもある自意識の本音チェック
「あれ、ちょっと待てよこれってさ〜・・・」の介入を許さない構造。


ここを「それは本音なんだ本当に私の気持ちです」と言うことであればですよ、
この違和感や齟齬は、
■強い不快感を伴い結果として”自覚症状”として認定される部分に限定していると勘違いしているって事です。
これは違いますよ。
その事実認識を偏向させる自我の構造は『自我構造そのものの相対的関係性』によるのであって、
自意識と無意識との矛盾が『自意識が(矛盾を)許容する限界を超える結果』→「そこだけ”自覚症状”として認定される」のであって、
つまり『潜在鬱』の言葉にあるように、広範な認知であるとか意識構造そのものに強迫的偏向のベクトルは潜在化している。
何も飛びぬけた話をしているのじゃありませんよ、
「”連鎖的な勘違い”のような自己暗示」であるとか「特定方向へのレトリックに恒常的にひっかかってしまう」のような(それが”無意識的”だから本人”気がつけない”んです)、意識の落とし穴というか(弱点というと語弊ありますが)「なんとかスポット」が広範に偏在しているって話です。
そして心理学的に何故広範に偏在するのかって言えば「自我の成立過程そのものに無理がかかっていたから(初期は強迫的環境があったのでありこれを自我が大人になる過程で”現実における環境常識”のように取り込んだ)」となります。
>>でも言われてみたらどうして『地元』の部分にかかってるのかと気づきました。『引っ越し』が視野に入ってなかったです。
(まったく気が付かない→認知における”視野狭窄”)


「そんな筈無い」と”自覚症状”として認定される(自覚的矛盾認定)部分は氷山の一角なんです。
その矛盾は『自意識』と『無意識』の関係性によって説明され→解決もするんですから。
※『共同幻想』に限っても哲学者プラトーンが「常識を疑え」と言ったのは紀元前の話です。
(この時代は固定観念と未知の法則性や論証の発見との関係の範囲かと思いますが)

心理学的に、
自意識と無意識の関係における強迫意識や構造という問題は「連想(追体験型なので)」をトリガーとする事も説明の必要も無いでしょう。
(権威的な問題が鍵であれば”連想”によって「昇進」や「降格」「解雇」等の社会的評価全般に影響するように)

そして精神分析的な証明によって心理的な問題が(戦争後遺症等の急性トラウマ型を除く)「幼児期における人間関係に起因する」事が論議の必要の無い。
つまり家族に対する認知は「事実関係から大きく離れる偏向を含んでいる」と与件化していいんです。


ですから、私は精神分析的なコメントとして
「どういった部分にその偏向が見られるのか」という形で、
強迫意識の偏在について「ここからこれぐらいのヴォリュームではないか?」とコメントしているのであって、

「いえいえ違います」と反論していたら
■何のための『1052番:冷酷な家族』かとなります。
掲示板注意書きで事前に記載しているように
------------------------------------------------------------------------
「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。
------------------------------------------------------------------------
と、ここ同意の上と注釈しているところです。


改めて自分で書き込んだ内容見ればわかりますよね?

論理が破綻しているだけでなく、趣旨から倒錯しちゃっています。
(※ですから反読は必ず自分の書き込みを含む全文で行ってください)
>>知り合い(家族)が困って助けを求めて来ても平気で見過ごせる残酷な自分最低、冷酷とたたかれるけど、家族と関わりたくない。
>どこにも冷酷な話はないのです
>若干カウンター効果を含んだ表現で『極端な表現』使いますが「残酷な自分どころか、名誉市民的に賞賛されるべき姿勢」ですよ、
>>私は自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴でしょ
>どこにもそんな要素は無いですよ。
>>そうやって親を心配してる気持ちもあります
>>親の借りてたお金で私も生活してたのかと思うとなおさら罪悪感があります。
>『どこにもそんな要素は無い』
>『どこにも冷酷な話はない』
>>「家族や恋人への思いを断ち切るなんて考えられない」
>>”もし”家族が犯罪を犯してた場合はどうなるんですか?

「平気で見過ごせる」が「私は自分本位で無責任で身勝手で冷たい奴」と転じるのは”どう平気なのか?”だとしても、
なるほど「冷酷な家族」じゃなくて「冷酷な私」なのかと(当初はシニカルな意味であると)理解もできますが
これが「いえいえ親を心配して罪悪感もあります」に及び
『それは鉄板じゃ”無い”話ですよ』と(”つつき”さんの自意識を代理に援護する形で理論武装を提供すると)
「”もし”家族が犯罪を犯してた場合はどうなるんですか?」
と、、
これじゃ半ば恫喝領域達してます。
「平気で見過ごせる」から「冷酷な私」じゃなくて
「家族や恋人への思いを断ち切るなんて考えられない家族愛豊かな”私”の主張」に至ってます。

犯罪犯した場合って、、、
それだけ別の話が”想定におけるアリな線”になっていたら初回相談は「家族が犯罪を犯したら?」であってもいいことになる。
■地元と家族における問題の根拠は”それじゃ私にとって既得権益となる地元にいられなくなるであり”(容易な解決策である引越しすることは思いつくことからも”認識落ち”していた:思春期であれば誰しもが真っ先に思いつく話)、地元に拘る根拠が「あれそうかな」となると、、
>>新しい環境で友達がなかなかできづらい可能性もある。
>これはいくらなんでも無いでしょう、
>小学生じゃないんですから、
>「都会の4大志望校進学を断念しました、新しい環境で友達がなかなかできづらい可能性もある」
>これ言いますか?
>無いでしょう。無い無い、
(引っ越せば地元の風評どうこうは最初から無縁から話は始まっていて)
>>”もし”家族が犯罪を犯してた場合はどうなるんですか?

これ繋げるとですよ(わかりますよね?)

「都会の4大志望校進学を断念しました、何より家族が犯罪を犯してた場合はどうなるんですか?私はその風評に耐えられない。ええ、ですから地元から離れることはあり得ないんです。家族や恋人への思いを断ち切るなんて考えられない」
(犯罪犯したら地元にいるほうが比較にならないほど影響大きいのに)

これ都会に4大進学とか、
就活で都会に内定とか、
こういう時に「やっぱりだめです」の理由になりますか?
そもそも論旨が破綻してます。

犯罪犯していたなら余計に地元を離れた方がいいのであって、
私は絶対に地元を離れない(パラサイト環境含む)その理由として
「じゃー”家族が犯罪を犯してた場合はどうなるんですか?」
って、
何の話なのかか私が聞きたいですよ。
■当然この話のおかしさは”つつき”さん百も承知なので
 ↓
>>気持ちは理屈では簡単に解決できなくて厄介です。
とですね、、
自意識自身「引っ込みつかないところまでいってる」自覚あるんですよ。
(構造的とは違う意味の「論理的な自意識抑圧」→自意識の置かれている立場が、国会答弁で無茶な答弁しなくてはいけない官僚のような立場に追いやられている:強迫意識の介在→「無理にでも省内論理を優先させなければいけないような苦しい立場」)


<その謎解き>

この矛盾を「あれそうだったのかもしれない」と自意識が思考の主導権を(ネタバレによって)回復するポイントが
初回レス第二レスにおける
 ↓ココ
>>『私が優れて家族に奉仕貢献しなければならない』のような無理のある認識が無意識下に構造化している。
>>「残酷な自分どころか、名誉市民的に賞賛されるべき姿勢」
なんですから。
 ↑
実は背理としてここが”パラサイトが許される根拠”であるのと同時に、
実際「平然と見過ごす自分」であるのでこの部分は→自己嫌悪する事で破綻を回避して、
父親(強迫者イメージのモデルと思われる)がうるさくいえばスルーだが、
”パラサイト”による豊富な資金を元手に『地元友人関係(代用家族)』で楽しくやると同時に、
本来の父親(投影)と見做される彼氏の叱責は「もっともだ家族思いの人だ」と感激もする。
 ↑
これらは『地元』という言葉に代表される周辺事態のように、
一連の強迫意識が作り上げた「蜃気楼のようなものです」と、
私は深層心理を走査してコメントしているんです。

>>”もし”家族が犯罪を犯してた場合はどうなるんですか?

そういう事じゃなくて、
自意識の置かれている立場が、国会答弁で無茶な答弁しなくてはいけない官僚のような立場に追いやられている:強迫意識の介在→「無理にでも省内論理を優先させなければいけないような苦しい立場」を説明しているんですよ。
”つつき”さんの抑圧されている自意識の代弁者として、
「いえいえ○○参事官も辛い立場にあるんですよ、ええ実はね」のように、
>政治用語にたとえるならば”地域の談合利権体質”そのものです、
 ↑
これ”つつき”さんの立場を弁護しているんですよ?
”地域の談合利権体質”で困るのは当事者そのものだからですよ。
困った立場になっちゃているんですと、



ご自身気が付いていないかもしれませんので、
話は戻って注釈つけますと、
この初回相談の表題「冷酷な家族」書き込み趣旨と”人称”違ってますよね。
「冷酷な家族」だと三人称ですが、
(しかも冷酷扱いされる不当を訴えている)
次のレスでここは「冷酷な私」と一人称になり、
それだけでなく、
初回は表題こそ家族ですが本文は「知り合い」となり、
実際にどう記載されているのかと言えば、
>>知り合い(家族)
家族は知り合いじゃないですから文法的な誤りですよね
(つつきさんが違う意味で表記しているのは十分理解しています)
本来であれば「知り合い(や家族)」です、
(ここにイメージの中の”本当の家族”とリアルな家族の分離が現れている→「取り巻きによる代用家族」:「週末にリアルな家族と一緒なんて考えられない」:知り合いという表現に微妙に友人関係や彼氏を含む『地元』のような言葉に代表される曖昧さが散見している)

深層心理はズバリ「家族」であり、
その中心人物は二回目の書き込みでも明かされる事は無く
(三回目で属性:親となり)
4回目の書き込みでようやく『父』の呼称が登場
>>『育ててもらった親に孝行するべき』
と言っているのは(本物の父親の投影対象)彼氏であり、
この話も
 ↓
>>困った時は家族が助けるべきだと言われるので気になってしまいます。
のように(話の主語に相当するのは『父』では無い)話の主体はそれを示唆する『代用家族』の側の発言です。
>>親から何を言われても平気です
 ↑
なのに、

※いかに『強迫意識』が”道徳級のアンタッチャブル(聖域)”かって証明ですよ。
つまり反抗期における”現実プルーフ”を許さない(常識を疑うように自我内の”子供の固定観念”を疑うからこその反抗期ですから)
聖域の位置関係は
『地元』→より深く→『知り合い』
→より深く→『家族』→より深く→『父親』
こうなっているって事です、
本来第一次や第二次反抗期でリアルサイズに幻滅(怖さも権威もヒーロー像もカッコいい度も親愛度も)すべき『父親』の概念は、
(反抗期プルーフによって”実際はこんな人なんだよね”と現実を肯定(受け入れる)して反抗期による”現実化アップデート”は完了し、現実サイズのこの人が父だったのか的納得を背景とした”大人同士の関係性”へシフトする=自分もそれだけ大人になる)
『聖域』として温存され、
(イメージが現実から乖離したので実態は彼氏に投影され温存)
分離した筈なのに「実親に対して自己嫌悪が連動」するように、
深層心理の深いところでは”実父との連想(そりゃ本人なんですから)”が存在する。
=「この強迫心理は父親との関係性において発現している」



この状況を俯瞰で見るならば、
「彼氏は親孝行とか叱責もするからこそ(父親投影)深い関係ですが、私個人は”そんなこと言われても実際親から何を言われても平気で(本物の家族が現実の家族から乖離しているので)”、私が本物の家族として大事にしている『地元(彼氏や友人関係)』からそう言われて困ってしまい、大事にしている(依存している)彼らを肯定すると、私は冷酷な奴になるし→それだけでなく本当に自分でも”そうやって親を心配してる気持ちもありますし、親の借りてたお金で私も生活してたのかと思うとなおさら罪悪感があります”。冷酷な奴の証明として自己嫌悪は本物なんです。」
「ええそうですよ”親から何を言われても平気”なのは嘘じゃありません(自己嫌悪も無い)」
「そのとおりです、大事にしている(依存している)『地元(彼氏や友達)』に困った時は家族が助けるべきだと言われるので困っている(彼らがおかしなこと言うので困る)のも事実です」
『それじゃ自己嫌悪の説明が矛盾しませんか?』
「そうなんですよ。私の個人的心情は「冷酷な私」という表題はどうしても納得いかない。現実の私の家族が『冷酷な家族』なんだなと思うんですよ、そりゃそうでしょうあっちは私が大事にししている(依存している)地元にもいられなくなるような風評になりかねない借金して(私が困るっていうのに事もあろうかお金を出せとまでいう)冷血漢なんですからね」
『やはりその説明じゃ自己嫌悪や洗濯物の連想の説明がまったく付きませんよ?(平然としていなくちゃ矛盾する)』

1069 返信 ”自分の気持ち”と感じているのは事実ながら→”本音じゃない”んです。(2) kagewari 2009/09/08 23:27

■繰り返しますが、

<その謎解き>

この矛盾を「あれそうだったのかもしれない」と自意識が思考の主導権を(ネタバレによって)回復するポイントが
初回レス第二レスにおける
 ↓ココ
>>『私が優れて家族に奉仕貢献しなければならない』のような無理のある認識が無意識下に構造化している。
>>「残酷な自分どころか、名誉市民的に賞賛されるべき姿勢」
なんですから。
 ↑
実は背理としてここが”パラサイトが許される根拠”であるのと同時に、
実際「平然と見過ごす自分」であるのでこの部分は→自己嫌悪する事で破綻を回避して、
父親(強迫者イメージのモデルと思われる)がうるさくいえばスルーだが、
”パラサイト”による豊富な資金を元手に『地元友人関係(代用家族)』で楽しくやると同時に、
本来の父親(投影)と見做される彼氏の叱責は「もっともだ家族思いの人だ」と感激もする。
 ↑
これらは『地元』という言葉に代表される周辺事態のように、
一連の強迫意識が作り上げた「蜃気楼のようなものです」と、
私は深層心理を走査してコメントしているんです。

これまで格レスで既に記載済みの部分を復習するならば、

『本物の家族』のような誇大なイメージ(パラサイトを超える特別な楽しい利益があって当然)が、現実から乖離し、
この乖離したイメージは、抽象イメージ『地元』に投影
(特に中心人物である父親は彼氏に投影)
この『地元』の概念が、現実に直面している「親が借金して格好悪いですまない」な風評トラブルの”被害を構造的に拡大”(決して地元から離れることが概念として思いつかないほど固着状態に至っている)。
構造上「アイツら(現実の家族)のせいで私は本物の家族(地元の権益)から追い出される」となり、
本来”絶対被害者”である筈の私を、
?私が信頼(実は依存)する”本物の家族”が助けてやれと叱責するので?
私はとても困っているのと同時に、”本物の家族”との深い関係に満足して、
「実際の家族に対して自己嫌悪」しています。
(あれ?どうしてだろう)


この言いようのない”矛盾”は
>>『私が優れて家族に奉仕貢献しなければならない』のような無理のある認識が無意識下に構造化している。
>>「残酷な自分どころか、名誉市民的に賞賛されるべき姿勢」
そして
脳内イメージで『本物の家族』のような誇大イメージが分離していて、
当然誇大な家族意識を前提とすると→その家の子供はさど楽しかろうのように自らの既得権益:当然の権利(私には遊興費等”お金かかりますよ”)のような誤認を生み、
その脳内イメージが『地元(友人や彼氏)』に投影されてしまうため(脳内では誇大どころか”鉄板の現実”)、脳内イメージは温存保守正当化(肯定)されるだけでなく、現実の家族から乖離しているので(現実から離れた脳内イメージなので)現実によるプルーフなく拡大(当然借金関係の想定被害認知も拡大)。
ところがこのイメージの原型(本物)は現実の家族なので(脳内イメージは拡大し代用家族で肯定されているわけだから)
『地元』に親孝行は大事だとか言われると、本気で困るし(実態は何を言われも平気なのに)
不思議と自分が本当に「自己嫌悪」するものだから、
何が何やら皆目わからない。
 ↓
>依存も、投影も”つつき”さんの本音じゃありません。
>何の得もありませんよ、ズルズルと内向系の自己陶酔が悪循環化して快感依存から抜け出せなくなる事もリスクとして考えないといけません。


という事です。


<各論です>

そしてこの全体像を「”つつき”さん百も承知なので」、
今回強迫意識が自我に取り込まれてしまった「具体的手がかり」が散見されています。
>家族にお金を貸してと言われて貸してしまいました。
>家族を養ってる感じ、
>どう自分に家族のことを整理をつけたらいいか分かりません。

『父親の幼児性』が確認される
(彼はあなたに甘えたいのでしょう)
整理がつかないのは「=「この強迫心理は父親との関係性において発現している」のように”聖域”だから。
(強迫意識は道徳を梃子にして自意識を強迫(脅迫)、自意識は当事者能力が後退)


>父はわがままでこき使いが荒く、屁理屈が多い。
父親の幼児期に強迫的環境があった事の推定、
(彼の異常行動は強迫心理による)
>(思春期以降は逆らってスルーしてる)
スルーしたのではなく、正面対決的な反抗期のスルー(不全)

>高校生ならともかく、成人した今でも帰りが遅かったり、夜遅くまで遊んでいるとひっきりなしに電話をしてきたり、何をしてたのかしつこく聞いてきたりします。今まで恋人ができると文句ばかり言い、恋人の文句ばかり言ってました。
実子(娘)を愛人視している
正確には「僕の○○さん」のような甘え
つまり彼氏との関係は嫉妬に近い

>いきなり部屋に入り込んできたり、体をじろじろ見てきて色気づいてきたなとニヤニヤしながら言ってして気持ち悪いです。
セクシャルハラスメント
(性的虐待=彼を聖域化する要素が理解不能により拡大:思春期で理解できる領域を超えている)
  ↑
※ここは「心理学的にこの家族は”冷酷”なのじゃなくて、最初から破綻(会社法人なら倒産)している。私には最初から家族社会への帰属等なかったのか、彼は家族法人において親属性を完結するどころか、心理的には15歳程度の強迫的環境に育った私より年下の依存的少年じゃないか」という高度に専門知識を必要とする反抗期でなければならず、子供や思春期の年齢では到底実行は不可能(大人になって心理学的知識を獲得するか心理学的に説明されない限り理解できない)。
当時の私にはスルーせざるを得なかった。
  ↓
結果として脳内のイメージは潜在意識に温存されてしまった。
(幼児は乱暴な父を”偉いから”とか”凄いから”としか認定できない→このボタンの掛け違いが『本物家族』を肥大化)
>幼い時から家族や家がなぜかいやで、特に父がいる休日は憂鬱でなぜか仕方なかったです
分離不安ほどじゃないですが、
幼児期に彼に対して快感依存があったという事です。
>お盆や正月もみんなはどこか行ってるのにうちだけどこも出かけなくて
>でも世間では遊びたい盛りとも言いますよね。

注)大人になって子供に依存したり、逆に乱暴な態度をする親は(その素行は子供である筈の人物が大人になってきたための不安感からくるものなので:他人のように見える→精神年齢の低い彼にとってそれは不安となり乱暴な態度で虚勢を張りたくなる)その子供が赤ん坊等の幼児の頃は(成人の大人に対するような不安感がないので)可能性として『乳幼児を溺愛(過干渉)』するケースも多いです。ここは可能性の範囲としてですが、

つまり父親に快感固着している幼児が「本来あるはずの楽しさを深層心理に拡大させた」となります。
(それを実現すべき人物は思春期に完全に”現実の父親”から離れ、恋愛対象に投影される形になっている:本来は『本当の家族』イメージそのものが反抗期に解体されてバランスを回復する。「しゃーない自分が大人になって好きなところに遊びにいくとするか」→「いやートラウマってほどじゃないけれどその結果私の趣味は”旅行”なんですよね〜」←地元に拘る今と逆転)

※第一回レス
>そして、仮の話ですが今回の相談書き込みが以下のような文面であれば
>=========================================================
>個人の尊厳を誰よりも重視している私に対して某血縁者が「最低、冷酷と叩く」んです。
>なんていう民度なのか?哀れとしか言いようが無い。
>こんな時代錯誤な誤解は何が原因でしょうか?
>=========================================================
>
>私の答えは「依存症ですね」となるでしょう。
(父親は私に対して依存している)



>それなら私のまわりや世間の若者のほとんどが依存性から遊んだり、恋人や家族と一緒にいるってことになりませんか?
自分自身本音で遊んでいるのじゃありませんから(快感依存)。
そして強迫心理特有の視野狭窄によって、
世間の若者の実像を(引越しをおもつけなかったように)、正確に理解できないんですよ。

大人にとって”遊び”とは、本気じゃないを意味しますし
(”遊び友達””遊びだったのね?”)
最近の世代は若干意識が変化していますが、
昭和から平成初期までは「文明化による極度の共同幻想の変容」に耐え切れず、半ば世相は集団ヒステリーのように「進学競争」やらに駆り立てられていて、特に大学生の遊びには多分に「無茶な時代に生まれた事への反動」がありました。
(低学歴に追いやられると反動不良化するケースもあり得る)
サークル活動にしても、自意識リードの「自主独立志向」の若い人は、大人はそれを”遊び”と呼ぶのかもしれませんが、本人真面目に”本気”であって「遊びでやっているのじゃない」のです(音楽にしろ)。
同時に共同幻想崩壊過程にあるように
(だから先進国へ至る過程で大量に心理的問題が激増するのですから)
実際に依存的人格の若い人も大量に発生します
(学級崩壊・2ch的に言えば”ゆとり”:大人社会においては鬱病:若い世代の自傷や過食拒食対人恐怖・パニック障害)
 ↓
個人の自我における『氷山の一角論』と同様に、
それほど(社会的に心療内科という言葉が日常表現になるほど)問題が表面化しているって事は、潜在的な強迫傾向は膨大な数に上るって事です。


■時代の変遷としては「今回の政権交代」によってようやくひとつ角を曲がった。
(共同幻想は変遷する上でも崩壊続ける上でも足場がひとつ明快化したって事です。集団心理としての「民主主義」の認定)




>「つつきの親父さんは未熟だな。つつきが怒るのも当然だよね。でも育ててくれた親だよ。家族が困ってる時に知らん振りはよくないよ」と彼なりの意見を言ってきます。
>諭すように言ってくれる彼に父親としての姿を投影してるかもしれません。

正に本当の父性(まぶたの裏の空想上の理想化された父)が、現実の父親を叱る。
おっしゃるとおりに彼の存在はより「本物の父親」として拡大。

■重要なのは彼が十分大人の年齢なのに
「心理学的にこの家族は”冷酷”なのじゃなくて、最初から破綻(会社法人なら倒産)している。私には最初から家族社会への帰属等なかったのか、彼は家族法人において親属性を完結するどころか、心理的には15歳程度の強迫的環境に育った私より年下の依存的少年じゃないか」
彼氏がこういった点にまったく気が付かないのは何故か?
(視野狭窄:彼も何かを深層心理に”無意識的に守っている”)

>彼は家族を重んじる人です。家族ととても仲がよく、家族とよくどこかに出かけてます。
>特に妹さんにとは映画や買い物に行ってます。妹さんのことが心配なのか、妹さんの服装に口出ししたり、帰りが遅かったりするとかなり心配してます。
父親そっくりですよね、
妹を性対象化していると言えなくも無い。
(シスコンまではいってないと思います:シスコン→家庭内で抑圧的な環境があるなどで性対象が家族間まで退行、或いは母親に対するコンプレックスが同じ血縁者に投影されるもの)
少なくとも「年齢ほど大人じゃない人なのじゃ?」とは言えるのじゃないかと思います。
(情報不足で欠席裁判になってもいけないので具体的な要素は”あくまで推定”の範囲となりますが)
>兄妹というよりも恋人みたいな感じでやきもち焼いてしまうこともあります。
”つつき”さんの判断(恋人視)、あたってるのじゃないかと思いますよ、
(ここも推定込みです)
>私が彼より年下だからか妹のように扱われてる感じがします。
彼が投影しているといっていいでしょう。
或いは→「年齢ほど大人じゃない人なのじゃ?」→ここから推定して→「大人(他人)同士の信頼とか尊厳」の認知が獲得されていないって可能性もあります(物事を家族関係を起点(自分の属性は子供)に見ている)。


※じゃー恋愛に投影の無いものは無いのか?
的な抵抗が予測されるので先回りして説明すると、
「大半の恋愛に投影は関係します」。反抗期に両親の誇大視はリサイズされ通常家族よりクラスメートの異性が気になるような過程で思春期の子供は大人になっていきますが、幼児期の記憶が完全に自意識によって上書きされることはありませんから(反抗期の対象は目の前の実の両親なのでタイムスリップしていない分残滓は残る)、「巨乳フェチ(幼児には母親の乳房が大きく見えるため)」「背の高い人(幼児には父親が大きい人に見えるため)」「眼鏡をかけている人(脳内で両親の誇大視が知的だとその連想)」「大きなお家を買って(説明必要無いですね)」等々枚挙にいとまはありませんが、投影部分を「なんか(根拠はともかく)弱い(自分でも本質的意味が無い事を知っている)」と、『自意識マター』に還元されているんです。
それだけでなく「初恋の人ってどんな人?」なる言葉は”子供時代とかのちょっとした(今の志向と違う)間違い話”な意味があったりします、
それこそ「いやー(お恥ずかしい)中学時代に・・・・」→これですね、自覚は無いんですが「初心者の頃はまんま投影だったりした」って認知が一般的にあるって事ですよ(自分よりよっぽど年齢上の女性教師だったり)。
そして女性誌等で極度に一般的にな”統計的に女性が好きな男性No1”が「やさしい人」なる抽象概念(どうやさしいのか曖昧)になるのは、無意識に強迫的志向を抽象化(薄める)しておきたいのと、要約して温存したいってアンビバレントな心理がなせる業です。
 ↓
特に先端都市東京などで晩婚・非婚が前衛的な位置関係にあるのは、
大人の本音で考えたらどうだろう?
なる内省や迷いや自分自身の選択等の試行錯誤が(あたかも投影から逃れるように)実態化しているって事です。
心理学的には「恋愛縁(必ず破綻)」は存在しても、「それを縁として大人同士の性対象としての信頼関係が形成されるのか否か(極端な話実存レベルが高くなれば性対象との関係に必ず性行為が必要ということも無い:女性誌における実行行為のSEXより云々かんぬん・・)」これは”別問題”であって、信頼関係にある大人の男女という定義にとって(現代社会の場合かなりのケースが”擬似を含む恋愛縁”だったりするので)『その(破綻)後』の信頼関係はより価値が高かったりするワケです(「あら若い人っていいわね〜」の言葉の背理は「間違いでも許される時期で妄想一杯に快感なのかしらね」なる”若い(妄想投影)時代”への微笑ましい理解)。

※実際現実の社会においてそれほど”リアル恋愛”の頻度は高くないでしょう(実は友人関係を発端とする”擬似恋愛”が多数を占める)。
「運命の恋人」ほど極端じゃないにしろ、「そうそう都合よく恋愛対象が決まって同じ会社にいたり、友人関係にいたりしたら本当に恋愛なの?」なる普遍的疑問は誰にでもあるでしょうし、
母数が少な過ぎ→かといって多数の見合いをすると”反対に対感情の恋愛性”は落ちる:明らかに選択肢を増やして「いないかしら」的幅は広がっているんですけれどね→となると自分の所属する会社や地域等への自分自身のIDの方が”運命論”のコアになってしまい「相手があってこその恋愛性」が関係していないことになる
他者と出会う機会が地域や出身母体に依存(ゲマインシャフト)すれば=コアが自己愛(この自己愛に地域愛や愛国心が共有化)
他者と出会う機会が自己の選択と独立に準拠すれば=コアが自分の人生となるので人生と人生の関係性が成立する。
 ↑
独立イメージも(前に説明済みですが)必ず都会へとかって画一的なものじゃないですよ。
大人の自分として地域文化を評価している等「自立独立における選択性」があるか否か(結論選択される場所は自由)って話です。

つまり心理学的に恋愛とは「(投影を発端とする)恋愛縁(破綻と同時に投影切れ)」に始まる男女の関係性の事で、実態は投影から離れたより上位構造の信頼関係を意味しています(恋愛と呼ぶのを発端部分に限定するのも間違いではない)。
巷でいうところの”ときめき”であるとか”ビビっときた”なる部分が『AUTO投影(連想)』部分→つまり一般的にもここは「きっかけ」と認定されていますね。
これも自我における強迫的要素の棲み分け的分散論と同じで、
限定的な投影であれば:フェッチになり、
論理的な投影であれば:ときめに程度かも知れない。
しかし『他者認知に偏向を伴う(簡単に破綻せずに強引に投影が継続保守される)投影』となると:心理学的な”意味”での『投影』になるんです。


女性誌を賑わせている「恋愛」も、
実は「結婚願望(社会的には一種の強迫的認知として知られているとおりです)」と同じ、
「恋愛願望」なのであって、
ある意味女性特有の一種の強迫心理(不安)を煽って販売部数を狙っているのであって、
(ですから女性誌は必ず「愛される(話)」”される”→『被(こうむる)』表現になっているんです。「愛する(話)」だと雑誌は売れない)
ある意味一般社会においても、投影と恋愛のイメージは「漠然とですが」なんとなく認識に織り込まれているのも確かです。
 ↓(なので)
現実社会では”恋愛”はまー失敗するもの自然(先進国:イタリア・フランス)な概念なのでしょう。
世の中において「失恋ネタ」はメジャーな話ですから、
阿吽の呼吸というか、
暗黙の了解のように、大人社会においては「(恋愛に)投影はご法度なんて言ってたら始まらないさ」的な”まー堅いこと言わない”のような曖昧な理解に留めておく文化(恋愛文化)となっているのも確かです。


■強迫意識としての『投影』というものを補足説明すると、
全く別の論議を捕らえての話で(恋愛の内容を話しているのではなくて自我に与える影響の話)
この場合の投影は依存に転じるので(権威者を投影することによる自己愛的な快感依存→立場上自分は子供になる→〜される側)、
現実認知の偏向(関係性に対して盲目)のように(投影対象者への認知も偏向し続け)、
結果自分にとって聖域である権威者をまんま投影してしまう事で強迫意識が潜在的に拡大するリスクがある点で(恋愛論という趣旨ではなくて)『問題が多い』と分析しているもので、
何か殊更に「恋愛の真偽をどうこう」(恋愛論として)問題視しているのじゃありません。
(確かに恋愛論として考えても別の意味で問題ですが:大人の恋愛でマストの投影部分の破綻が→勘違いじゃなくて”裏切り”となるので到底許容できずに暴発する)
 ↓
虐待やDVのように暴力的な部分を投影してしまうと更に別の問題となる。

一般的な勘違いやガス栓閉め忘れたのかな不安と「メンタルな問題として認識される世界」との違いと同じですよ
(前述の若い人の”遊び”と快感依存の違いも同じです、論理的には同じ線上でも問題の内容が違ってくるって事です)



>おっしゃることはわかりましたが、友だちと遊ばない生活、彼がいない生活は想像がつかないです。彼への気持ちを切るなんて考えられない。共依存とは思いたくないです。

最初の文章に戻ります。

事実はそうなんですよっ、ええ。
確かに実際に感情として体感しているものを言葉にする上で”自分の気持ちだ”と認知するのは、
心理的な背景認識を無視すれば「他に言語表現の方法も無い(言語論的にはここが非常に重要)」ところでしょう。
■当然この話のおかしさは”つつき”さん百も承知なのを知った上で話しているんですが
>おっしゃることはわかりましたが
 ↓
>>依存も、投影も”つつき”さんの本音じゃありません。
>>何の得もありませんよ、ズルズルと内向系の自己陶酔が悪循環化して快感依存から抜け出せなくなる事もリスクとして考えないといけません。


話の発端に戻って冷静に考えてください。
 ↓
それを実現すべき人物は思春期に完全に”現実の父親”から離れ、恋愛対象に投影される形になっている:本来は『本当の家族』イメージそのものが反抗期に解体されてバランスを回復する。「しゃーない自分が大人になって好きなところに遊びにいくとするか」→「いやートラウマってほどじゃないけれどその結果私の趣味は”旅行”なんですよね〜」←地元に拘る今と逆転

■そうあったかもしれない自分の本音は、今の意識からはかけ離れたイメージの大人だったのかもしれないんですよ。

この今の
「”連鎖的な勘違い”のような自己暗示」であるとか「特定方向へのレトリックに恒常的にひっかかってしまう」のような(それが”無意識的”だから本人”気がつけない”んです)、意識の落とし穴というか(弱点というと語弊ありますが)、
「なんとかスポット」が広範に偏在しているって状況は、
『得たいの知れない自己嫌悪(悪循環化すれば鬱状態にもなります)』
として偏在しているんです。


現実問題「素で彼は赤の他人」ですよ?
そこで
>彼がいない生活は想像がつかないです。彼への気持ちを切るなんて考えられない。共依存とは思いたくないです。
反対に
どこの若者にもある別れ話が起きただけでも「高度なリスクを伴う」と思います。

「そうは考えたくない話」(本音)とは、
 ↓
>共依存とは思いたくないです。
 ↓
=共依存だとしたら(そうは思いたくないので)「考えて再確認が必要だ」
(冷静に私達はどういう関係にあるのか、冷静に考えてみよう)
 ↑
これが強迫意識に押し込められえて失われている”つつき”さんの本音ですって話です。


<前段部分で説明あるように私の説明自体は無料公開掲示板上としては完結しておりますから>
逆にここでその又レスを受け付けても、抵抗が増すばかりですから
(”つつき”さんの場合、横目で当初からかなり問題意識に気がついているのわかりますので)
■ひとまずこのレスをもって『一段落・終了』とします。

結果反論的抵抗を助長しても悪循環ですし、
今の状況だと『反読と長い時間考えてみる』が有効です。



加えて説明しますが、
精神分析的アプローチは「なんら方向性を志向するものではありません」
考え方のベースと、強迫心理の効力を減衰させるカウンターや(これに対抗するための理論武装)、減衰の結果深層心理から強迫意識を「自意識にも自覚可能な深度に浮上させる」事であって。
わかんなかった部分を、自立的に考えることが可能な自意識のテーブルに載せることです。

「なるほどね〜」
(一拍置いて)
「さてと、そしたら”私”はどうしよっかな」

ここから先何を選択するのかは自由であって、
それは”つつき”さんのプライバシーですから。
まず十分に時間を使って考える事ですよ、
考える材料に困ったら「一から反読」として使ってみてください。
(他の相談スレッドを読むのも非常に有効です)

ある意味幸運なことに目立った症状で悩んでいる状況に至ってませんから、
現行は『認識の状況整理』と『リスク管理(弱点の事前予測)』に注意を払っておくだけでも意味は大きいでしょう。
(当初書き込み動機となった”親の借金”による様々な不快認知拡大も→それが快感依存先の『地元』を不安定化させるため”連動”して波及的に自我全体が強迫的自我防衛に興奮しているのが原因:本来は「心配要因」程度のスケールで収まっていても不思議じゃなかった)

その点で補足しておくなら「理想化された父性が投影されやすそうな人物(権威的な位置にいるとか叱咤的言動の多い人物)」という”連想キー”はなんらかの投影が自動的に起動させる可能性ありますから、ここも事前予測をしっかり保っていくことで『リスク管理』効果があると思います(常に「待てよ、待てよ」的な”一拍置く”慎重な視点を保つ)。
不安要因やちょっとした不快要因が”強迫バネ(反動形成)”で倍加(×反動係数)する論理構造があることを事前予測するんです。
何も準備がなければ”自意識”は事後処理であるとか自意識共犯型自我防衛により『現状維持の保守』のため大きく興奮し不安定化(不快感の拡大)しますから、一見現行状態を保守すればリスク管理できるように”勘違い”してしまいますが、
保守は→「快感依存構造を同時に保守=深層心理の誇大認知はブレーキ利かず拡大」にもなりますので、
「事前予測=必ずしも現状(それを背後から要求する道徳的認知も)を盲目的に保守しない(考える:疑う)」なカウンターを意識的に当てておくことで、どっちに転んでも現状の不快感を拡大させるリスク要因を一定程度管理できます。


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