Kagewari kagewari 精神分析相談事務所



U 自我と主体論


1)本人の定義
自分の自覚は確かに誰でもあるでしょう、しかし誰でも体験があるように、自分の声を録音して再生すると、ほとんどの人が「これが自分の声か?」と疑います。
「他者が見たその人物の認識」と「本人の自覚」の差、これはなんでしょうか。自分はこんな人だなっていう自分なりの認定は、いつも不安定で不確定なんじゃないのか?
「え、そんな人だったの」「実はね僕は君のそういう点を買っているんだよ」この様な思いもしない言葉(「その通りです」って時は別ですが)をかけられて動揺し、不安になって時として不快になったりする事があります。当然「私のことなど知りもしないで」という時もあるでしょう、しかし一般的に評価する対象に殊更の利害関係が無い限り、余談や偏見が含まれる事は考えにくいですら、そこそこ正確な印象の筈なんです。

ちょっと待ってくださいここで大問題があります。自分の印象とはどの時期からどのエピソードから固まったのでしょう?「躾」(今は形骸化しましたが)と呼ばれる文化があります、そして先生に褒められた記憶、したたか肉親に叱られた記憶、親友との遊びの中での記憶や自分のあだ名、近所の評判、そして「何かを達成したんだ」という自負、ここに登場するのは自分を含めてみんな『利害関係者』です。
(余談や偏見が含まれる可能性が高い)
「素の自分」ってのがあるのか知りませんが、少なくとも自分の素性に触れる機会は意外と少ないと言えるのではないでしょうか。それなのに負けないほど「自分を自分だ」と感じている。

自分ってのの他に「本人」って定義があってもいいと俺は思うんです。
「自分」には簡単には認識する事の出来ない(ひょっとすると一生無理なのかも知れません)「本人」=「行為する主体」がです。
ここでなにやら怪しげな話をしている「俺」は意識です。「意識し思考する主体」なんだと。
後述しますがここが「REAL(現実とは分けて考えてます)とか実存」と「イメージ」の違いであり、それらが対象を成し全体を構成しているのだと思います。

目の前の「大きく窪んだ焼き物」は「工場で作られた陶器」で「見かけから何かを入れる事が出来る」もので且つ経験上何か「使用に特化して作られ」ていて、皿というより、瓶というより『コーヒーカップである』、、こんな回りくどい思考の果てに「コーヒーカップ」を認定する人はいません。
じゃどうやって判断してるのでしょう?
「これがコーヒーカップだよ」という『余談』が予め出来上がっているのです。「〜ちゃん、こ れ が コーヒーカップよ、、、」ですから奇抜なデザインの品を見た時に「えー!これがコーヒーカップなの?」と驚きますが、ここで驚くのは実は変な話なんですよ。
その奇抜なデザインの代物は元々『コーヒーカップ』なのですから。
果たして「自分、自分」と喜んで認識している感覚とは、本当にストレートな印象なのでしょうか?それはREALな『自分』でしょうか?「驚く余地」を排除した、余談と偏見に満ちた「コーヒーカップ」なのではないのか。

思うより「自分というのは本来もっと自由な事なのではないのか」って思うんです。
(それが容易かどうかは別の話として、、)


2)順番論
家族社会ではそれぞれ役割があり、時折(というかもっぱら)その役名で呼び合いますお父さん、お母さん、お婆さん、お爺さん、お兄さん、お姉さん(何となくわかって欲しいのですが末っ子の立場は微妙になるのです)。
順序や序列は社会の秩序の維持には不可欠です。ですからこの順序や序列が不安定化すると、とたんにストレスとなります。それは後述する無意識と自我の関係から説明できるのです。まだ5歳の息子が自分を家父長だと思い(誇大妄想と言ってもいいでしょう)自我を形勢したとしましょう。彼には家族を養う仕事もありません、そして家族は当然彼を家父長として扱う筈も無いのです(人間より強固な社会性を持つ『狼』の末裔である、イヌと人間の関係を考えてみて下さい。ペットとして飼われるイヌが家族との間でその順位の認識に失敗すると、散歩中の座り込みだけではなく、イヌは不可思議な行動を取るのです。むやみに吼える、家人に噛付く、散歩仲間の他のイヌとも仲良く出来無い、等々。イヌが感じている順位(おそらく主人の次ぎ、2番でしょう)から見た時の、不当な家人の扱いがイヌにはストレスなんです。)自分を家父長だと思う5歳の彼はどうしたらいいのでしょう。家族を守るのが自分の役割なのに、自分は何も出来ず、家人もその気持ちをわかってくれません。

「僕は愛されてないんんだ。」自己嫌悪の萌芽です。自分の役割に自信が無い場合(あるいは、家族内でその役割が明快に定義されていない場合も同様でしょう。)この不安が同様に発生します。『帰属不安』です。
老人の痴呆だけでは無く、育児不安や失業による父親や、母親のストレスも同じでしょう。子供達の進学ストレスや部活の成績ストレスもそうです。「家族や親友に顔向け出来無い」とか「家族や親友には気恥ずかしくて、、」ということはありますが、タクシーの運転手さんや飲み屋のママさん理髪店の主人には気兼ね無く話せます。

 これは何でしょうか?

過去に家族間や家族に等しい人物と解決の難しい問題を抱えていると、その人物の事が気になって落ち着きません。つまりいつもその人物が傍にいるようで何をするにも「自分の順序や序列」に関わる事のストレスが大きくなってしまいます。
この状態が恒常化するとそれは「常識化」を経て「自分の一部」になってしまいます。「他人の評価や評判に著しく神経質になる」不快感の元凶です。ところが何故か自分でいつも「その人物の事が気になっている」と認識される事はありません。
 これは推測になりますが、葛藤が(精神分析では抑圧という言葉であっさり説明されますが)強い感情的な記憶であるため、まるでマスキングされるように「葛藤事件は覚えているが、当然思い出したくもない記憶なので、問題の詳細を検討などしたくもない」という強い反発の感情に支配され「あの話はもういい」的に処理され「無理矢理過去に追いやっている」と考えるのが自然ではないのでしょうか。
冷静に事実関係をトレースする余裕を失います。

ここで致命的な矛盾が発生します。葛藤の記憶を過去へ追いやるのは、自分の利益になりますが、順番に拘るストレスは自分の不利益になるからです。
この自己矛盾の解決の鍵は「過去と現実」の対象性だともいえますから、順番などを極度に気にする事は「過去の連想によって感情をを支配され、現実認識が現実から乖離しているからだ」とも言えます。第一義的に、連想を切り離して現実認識を一つずつ現実に近づけつつ「ストレスの反復により肥大している過去の不快感を、そもそも最初(葛藤事件の時点)の不快感に還元し、嫌な思い出を直視してその解消(解消の根拠は、幼児期の判断と大人の判断の格差です。子供ならではのデリケートさではなく大人として、その嫌な思い出を追体験するって事です)を図る」ことがベストです。

しかしこれはとても困難な事で苦痛を伴います、頼みの綱は「家族から離れた個人の意志」でしょうか。前述した『利益と不利益の矛盾』のカウンターとなる矛盾、『家族時代(幼児期)を前提とする、家族から離れた個人の意志』によってです。
矛盾を矛盾によって相殺するって事になります。

3)無意識
精神分析における超自我、自我、前意識、エス、、(各々の説明はしません、俺もその辺は苦手ですし、、)の分類をもうちょっとあっさりしたものに俺は考えています。自我=エゴはそのまんま「自我」でしょう。超自我は常識、道徳、共同幻想の話で別途説明するとしてここでは、もっぱら前意識とエス(後述のカオスと同義でしょう)について考えてみたいと思います。日常表現でも「無意識に」という言葉は使われます。このくくりから『無意識』を捉えてみましょう。

キーポイントは「言葉や合理的な現実的判断以前のイメージ=夢の領域」です。ふとした拍子に何かをやってしまうとつい「無意識にやってしまった」などと言います。自我=エゴの監視の緩んだ拍子にです。そうです、ここが無意識の重要な定義なのです。
無意識と自我はワンセットで相互補完の関係にある事がわかります。自我にあるものは無意識に無く、無意識にあるものは自我には無い。
(一種の対象性も観測できますが、とかく『無意識』の方が理解する上で難解な対象なので一概に『無意識』とはこうだみたいな話は危なっかしくてできません。自我で考えるのが難しい人は『自意識』と『無意識』で考えればいくらかわかりやすいでしょうか。)

よく発明家が朝起きてすぐにメモを取れるように枕元にノートを置いたりします。それは「忘れる前に夢をメモするため」です。ミュージシャンは(特にサイケデリックの時代)イマジネーションに行き詰まると薬物を使いました(今もそうかもしれませんが)。自分の無意識を覗くためにです。
皮肉な話です。確かに言葉や合理性の無い世界は自由に見えますが、むしろ本人にとってアイデェンティティーのカオス(混沌)とも言える「無意識」こそ、自由にならない世界なのです。(その代わりに本当の「オリジナル」なのかも知れません)JAZZのインプロヴァイズ(即興)部分こそそのミュージシャンの個性(自分の普遍性)に溢れます。JAZZファンなら楽曲を知らなくても、ソロパートのインプロヴァイズを聞けば「それが誰の演奏か」わかるのですから。

夢こそ選べません。「悪夢」に悩む人なら良くご存知でしょう。
さて「無意識と自我」、、この両者はいつ分かれて、何のために機能しているのでしょう。『言葉』(コミュニケーションの手段)です。言葉以前の乳幼児は正に「意識のカオス」です。両親又は保育者は『言葉』を教え、『言葉』が現実との接点になります(現実と意識を繋ぐインターフェースです)。俺は「現実適応した無意識」が「自我=エゴ」なのだと考えています。

話は戻りますが前述2)順番論の「無理矢理過去に追いやっている」です。この「無理矢理過去に追いやる」とは「無理矢理無意識へ追いやる(抑圧)」事なのです。
つまり「自我は常時、無意識によるストレス下にある」と言えるのです。

(中段括弧書き記載にもあるように、自我=『自意識』で考えちゃってもいいっちゃいんですが、「美意識」などのように概念化されているものも含む”総称”が自我って事になります。)



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