Kagewari kagewari 精神分析相談事務所



8 関精神科や心療内科への通院が既にあると思われる悩み

1)アルコール依存である

医師に相談しましょう。禁断症状のストレスが離脱を阻止している可能性がありますから、身体の問題は別に対処した方が効果的です。
そして、何故飲むのか、を冷静に把握する必要があります。
自我に矛盾があると、川の流れの途中に坂があるようなもので、水は流れたくても逆流してしまいます。ですからアルコールで一部の意識を後退させ高揚した気分でマスキングしてしまえば気持ち的には楽になります。実際シラフの時に感じる漠とした不安や、集中力が散漫になり感情が不安定になる不快感を知っていますから、どうしてもアルコールに頼ってしまうのです。
飲んでしまう事が問題ではありません。依存してしまうことが問題なんです。
元々感情が不安定なのは、自我の矛盾が原因です。
もっぱら親子関係の「自分の評価されかた」が大きく関わっているでしょう。自分は頑張っていてもダメな奴だと言われた(実は親が子供に嫉妬し、悔しくて褒めたくなかった)や、
無理していい子になっているのに(そうしないと認められないような不安感から、脅迫(強迫)的にいい子だっただけなのに)極端に「お前は手がかからなくていい子だ」と言われ、無理をする事から引くに引けなくなった、等以後の人生にも『ストレス込み』となる子供時代を過ごすと、なかなか「自然な自分」を取り戻す事は難しいのです。「自分の親への評価が間違っていたのでは?」と考えてみましょう。

2)家族に暴力を振るう人物がいる

暴力の根拠は「不安」です、当該者は「暴力を振るうぐらいでちょうどバランスが取れている」と考えて下さい。体感上自分自身の脅迫(強迫)は、他者に投影されやすく「自分が悪いのでは」と極度に思う構造(自己嫌悪)があると、「お前もそう思っているんだろう」と他者が(事実無根なのに)悪人に見える傾向に繋がります。
つまり、「自分が悪いのでは」と思っていても、その「悪い」に自己は納得していない(不満)のであって、この不平不満を誰かに責任転嫁して暴れると、自我のストレスは代謝されるのです。
皮肉な事ですが、「自分が悪い」というアイデアには「他者を憎む」という鏡像が一対一のバランスを形成します。そして憎むべき他者は問題の原風景となる幼児期の家庭では「恐怖から振り向けられなかった(だから自分が悪いと転じるのですから)」のであり、元々関係無い他者に投影する方が自分自身にはよっぽど楽なんです。
言い換えるなら「憎悪のはけ口が、自分には必要だ」という生き方に隷属してしまいます。

決して「暴力を振るうべき理由がある」とか(その人物が何を言っても)
「悪い人間でだから暴れる」とか、判断しないで下さい。
この暴力を振るう人物は「ひとりで恐怖に怯え、自分が家族の中で上位に属してる事を証明し続けないと『寂しい』のです。」
理解し難いかもしれませんが、構造的にはそうなんです。
この人物の「こうじゃなきゃいけなんだろー」「こうだと思っているだろう」と言った時がチャンスです。
例えば「仕事してないから軽蔑してるだろ」なら「仕事なんか別にしなくていいのじゃない?」
「こんな人間がいて迷惑してるだろ」なら「人生イロイロだもの、それなりに幸せだと思うけど」
「マトモじゃないから、あんたはこの家の評判も落ちて迷惑なんだろ」なら「どこの家だって大変なのよ、○○さんの家なんか・・・。ウチはよっぽどマトモね、ほんとに良かった。」

こういうスタンスで切り返してください。
彼乃至彼女が怒る理由として挙げる原因や(100%表面的な道徳的判断が根拠に挙げられます)根拠を100%否定してください。
『拍子抜け』させるんです。
心がまえとしては、反道徳、反倫理で投げかけられた言葉を返します。しかし犯罪的な事だけは「絶対に許せない」と(ニュースを見るとき等)一線を明解に引くのです。

3)リストカットなどの自殺未遂依存がある

性的な成長に相関関係があります、拒食過食も同じです。何故かと言えば性的な成長は「独立した自己の価値」或いは「逃れられない自己の欲望」に直面する事を意味するからです。この欲求は「自分のために次にはどうするか」等の自分を肯定する前提に立つ判断を自我に要求し続けます。ですから「自分が悪い」等の葛藤がある人物には耐えがたいストレスになってしまうのです。
同時並行に見られる行動は「意識的に恋愛を破綻させたり」「自分を良く見てくれる友人を困らせたり」です。
おわかりでしょうか?
つまり、自分を肯定的に見られる事=自分を肯定しなくちゃいけない=自己嫌悪構造の危機。慌ててこの「好かれる自分」を否定しなければなりません。ワザと恋愛の対象者を困らせる、友人に無理難題を押し付けかってに失望する、小さな失敗を根拠に「やっぱりみんなに嫌われている」等かなり強引に自分を追い込む、、、

そして、性的な興奮自体を一気に代謝するため、性行動並の興奮を伴う(苦痛でもなんら構わないのです)極端な行動に依存するようになってしまいます。

◎人を嫌って得をする人はいない。
◎性行為は快楽で、対象者の固有な人物像に必ずしも依存しない
◎恋愛の基本は投影で、自分の葛藤を(自己演出で)再現する傾向がある
◎人は関係性で結ばれるのではなく、個々人の哲学がぶつかり合うのが人間関係の基本だ
◎違いこそ価値(価値の原型ともいえる「希少価値」)であり、人は順番に並んでいない
◎どうじたばたしても人間は平等で、そこから逃れる事はできない

等をひとまず受け入れてください。感情の流れを相殺して、緩和し葛藤を見つめ直す時間稼ぎが必要です。
心療内科などで、薬の処方を受けることも大事です。とにかく「立ち止まってしみじみ考える」という時間が必要です。
特に自殺未遂には「嫌われている状態のまま、関係性を確かめる」という矛盾したロジックがひそんでいます、つまり「好かれる関係性を全く信用できない」からで、「嫌われている事を自殺未遂によって打ち消して、関係性だけを取り出したい」という期待が隠れているのです。
この関係性とは「家族の団欒という夢」の断片だったりします。「家族とは以外にギクシャクしたものだ」という事実を認識する余裕も隙間も無くなっています。「家族にしても、結ばれる縁が血縁だってだけの赤の他人の集団なのだ」と一歩引いてから、家族時代の記憶を再評価してみる必要があります。

4)副作用の強い薬をあえて飲む事がある

軽い自傷行為であり、「自分が悪い」=「罰があって当然」、との構図から苦痛を(この苦痛も「性的な快」の代謝に繋がります)望んでしまう結果です。
同時にほんとに薬が必要だ、との気持ちが複雑に入り乱れていますから、マッサージに通う、や入浴などで身体の凝りをほぐす等、薬の絶対量が減る方向を検討してください。
元々悩みが原因の苦痛の総量を減らす事で、副次的に発生する苦しさから開放されますから、問題を「最初の悩み」へ還元する方向に誘導しましょう。
自傷とナルチシズムは切っても切れない関係があります。
「悲劇」は映画の人気ジャンルのひとつです。この誘惑が二次的な「快」としてストレスのはけ口になる事があってもなんら不思議ではありません。
クールになることです、「苦しむ事には何ら価値など無い」と言い切ってもいいでしょう。
『苦しむ事は、幸福を望むことより安易だからです』

5)虚言症だ

事実は葛藤の敵です。何か得をしたいのではなく、事実から逃れたいのです。
一見「自分の立場を守るために嘘をつていいる」と思いがちですが、違います。
嘘を連ねて、リアル(現実)ではなくリアリティー(都合のいい正しさらしさ)を求めています。それは、「無理難題を解決しないと認められない」等の脅迫(強迫)がある証拠です。
「事実は小説より奇なり」
あなたが思う現実は、シュミレーションでそれこそリアリティーに過ぎません。
現実はそんなに甘いものではなく、嘘に依存しなくてもいつも『予定外』なのです、
「嘘ではなく現実に救われる事もある」と信じてみて下さい。
実際現実に身をさらす事で、葛藤はその存立が怪しくなります、自己嫌悪による葛藤の自己防衛監視の目から離れる可能性は、なんの作為も無い現実に隠れている事もあります。
平面的な見方ではなく「ほんとのとこどうなの?」と確かめると、最初の現実認識が度々間違っている(=嘘)事に気が付く事があります。
「自分の知る現実は、ほんの一面に過ぎない」
そう思えば嘘に依存しなくても済むんです
虚言症の背景には「ほんとのとこどうなの?」と尋ねる事への不安や恐怖があるって意味です。

6)万引き等の反道徳的衝動がある

快感や褒美を手にする可能性は、自分には不可能ではないか?
そこから見えるのは「盗む事=救い」です
誰かの監視から逃れる場所が「非合法な空間」として固着してるとも言えるでしょう。
あまりにも極端に常識から外れている事が、自分の欲求を始めて意識の表面に出せる抜け道を意味してしまうと、「非合法」や「盗み」への興奮はまるで性的興奮並に自我を揺さぶります。

この背景には「監視されている」的な、過干渉(時間や、態度だけとは限りません。自分にとって一番大事な事を否定された記憶も受けた本人には過干渉と同じだからです)の記憶が脅迫(強迫)になっています。
万引き、不倫等の犯罪以前の反道徳的誘惑は、『快楽の外部化(普段の道徳的な自分の枠の外)』です。
自分の道徳の枠は常に監視され、解釈も無しにステレオタイプで保守的なものに偏っていますから、「実は生半可な考えで、自分の道徳心はいいかげんなものだ」と思ってください。
監視されている道徳心自体を怪しくさせれば、脅迫(強迫)によるストレスは弱まります。
「全く道徳的な事に無知だから、自分は失敗ばかりだ」と思えばかなり楽な筈です。
そこから、両親(乃至それに等しい立場の人物)の道徳心を「エゴイズムじゃないのか?」の切り口で疑ってみましょう。
(これは自分の脅迫(強迫)的判断を沈静化するための技術的な考え方だと思ってください)
両親(乃至それに等しい立場の人物)への評価に「立派な人だ」的固定観念を使用しないところがポイントです。


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