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1)パートナーはいるが、性的関係は不似合いな気がする
2)そもそも恋愛した事が無く、自分には問題があると思う
3)子供を育てる自信が無い
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| ここで重大な問題は、「育てる」という言葉です。 子供はバカではありませんから、食わせておけば勝手に自力で成長する力があり、子供として差別するのはむしろ「大人の権益を守るため」と言ってもいいのです。大人の世界を脅かされないようにするため「子供なんだから」なんて言葉あると言ってもいいでしょう。(子供が大活躍する映画がうけるのは、人の無意識の中に、自分の子供の頃「十分大人並にしたたかだった」記憶があるからでしょう) ■自信が無いのは育児ではありません。 子供に大人として見られる自分の姿に自信が無いのです。 何故かって? 大人同士では適当な事を言って、いろんな事を誤魔化せますが、四六時中いっしょにいる子供(働きにいきませんから)となるとそうも言ってられません。 むしろ「今の自分はどうなんだろ、自分は自分に満足してるだろうか」と考える事が、不安の解消へ方向を変えるでしょう。 |
| 「次々と相手が変わる」とか「大喧嘩した挙句別れたのに毎回後悔してしまう」とか「相手が既にいるのに他の人物がもう一人必要になる」とか「仲がいいときにはいいのだが、機嫌が悪くなると暴力を振るう」とか、不安定にもイロイロなケースが考えられます。根底には「仲のいい人物への感情がアンヴィバレントだ」があります。二重人格じゃないですが、所謂「愛憎」です。 不安定というより「気持ちが矛盾している」が正確かも知れません。 この矛盾が起きるのは「愛情関係」の連想にある「家族」が関係しやすいです。つまり家族関係の誰かにわだかまりが残っていて、その人物との関係が不安定(むしろ憎んでいる)と、単純にそれが投影されてしまいます。「酷い食あたりをしてしまい、以来その食べ物がとても食べられない」よくりますね、この「食あたりの記憶」が無意識化してると考えてもらえるとわかりやすいのではないかと思います。 「なんか不快」 原因は(特に親子葛藤の『元記憶』等は、不快を通り越して思い出したくも無い記憶だったりしますから、無意識に封印される事があります)抑圧されて無意識の中にあるので、自分では思い当たりません。 恋愛対象者との関係に拘らずに、恋愛対象者の人物像に拘ってみましょう。「この人はこんな人なんだ」これを友人にスラスラと説明できるでしょうか?出来ないなら説明できるように調査なり、質疑応答なりして自分なりにまとめてみましょう。大事な事は関係性に囚われていて肝心な「その人ってどんな人」が曖昧だったりするのです。 皮肉な事に、関係は親密なのに、その人物についてよく知らないので、その人物がどう考えるのかがあまり重要では無くなり、自分の行動の判断材料となる情報が欠落してるために、『不安定になりがちなのだ』と考えてみましょう。 |
| 人を好きなった事が無いのに、好きになったのかどうか確かめる事が出来ていること自体が矛盾しています。 |
| (一部話は重複しますが)「愛される」のは、子供かペットか芸能人で、大人は「される=被る」存在ではありません、主体的に活動するから大人で(自己完結能力で、自立性は決まりますから)「されてるか?」に拘る事自体が問題です。 特に電車の吊るし広告の女性雑誌の見出しには「愛されるには?」とか「愛されているのか?」とかの言葉が踊りますが、編集者も随分と女性をバカにしています。「されるように頑張る」に終わりはありません、確かめようが無いからです。確かめる事が出来るのは(正確には「確かめた感じが実感できる」ですが、、)「される」対象人物を良く知っていて、その人の好みになんかを合わせた瞬間になります。 ◎こりゃおかしいですね だとしたら「愛されてるか否か」は一目瞭然で悩みたくても悩めません。白黒はっきりしてますから。 じゃーなんでこれが悩みになるのか? それはその対象者が『曖昧だから』です、「曖昧な対象者に愛されるにはどうしたらいいのか?」これがわかったら大変です、問い自体が日本語になっているのかも怪しいですから、それは悩むでしょう(まるで「ナゾナゾ」ですから)。 矛盾点のコアは「あの人を愛しているので、こうしてみよう」の結果が『狙い通りに歓迎された』ですから、極論愛される(皮肉です)前提は「具体的に良く知ってる誰か(個人とは限りません。EX「野球」でも可)を愛している時です」、つまり「愛しているか」を考えないことには「愛されているのか(繰り返しますが、本来この言葉は無茶なんです)」の不安は消えないのです。 自分について廻るこの「される(被る)」という受動性が動機の起点になってしまう特徴を、「なんでかな?」と考えてみましょう。 |
| 「見たことの無いものは奇異に見えます」 誰しもが体験があると思いますが、初対面の人の容姿はインパクトが強く(見た事が無く驚くので)一時的にいろんな事を感じたりしますが、いいかげん見慣れてくると他の事が気になりだし、初対面の頃のインプレッションと評価の優先順位は逆転したりします。 むかしの言葉ですが「あばたもえくぼ」って言葉があります。言葉の意味は「私の彼氏は芸能人の誰々にちょっと似てる」と聞いて実際にその彼なる人物に会った時の感想と同じです。 しかし容姿は本当に全く関係無いのでしょうか? ある舞台芸術があります「舞踊」と「歌」です、この舞台の主役は一番の美人や美男(評価の基準は多数決って事で勘弁してください。話をわかりやすくするために、あえてこの世に「美男美女」がいる事にします)ではありません。ファイ・ダナウェイ、太地喜和子、シャーリー・マックレーン、原田美枝子、ジーン・ハックマン、竹中直人、きりがありません。 皮肉な事に最も長い時間見ている顔は他人の顔で、且つ、この顔も横からだったり様々な角度である事が大半で、鏡という二次元でしか見られない顔は「自分の顔だけ」です。(未だに「ヴィデオ鏡台」は発明されていません) 見慣れていないのは自分の顔です、あの「テープで録音した自分の声は自分の声じゃない気がする」のと同じぐらい実は自分の顔にはなかなか見慣れません、その証拠があります。 「ねえねえこれ似合ってると思う?」「良く似合ってるよ」「えーそうかなー自信ないなー」、、、。 @「人に聞いておいて、信用できんのかい」 つまり、自分の外観的な評価に一番ハンデがあるのは自分なんです。 自分の外観を気にし出したら100%評価は「悪い」になります。 この話には続きがあります 「元が悪い」んですから、「こんなんしてみました」ら間違い無く「ちょっと良くなった」になります。 つまり「お洒落に関心があるのかないのか」の分水嶺は「ダメも何もない、こんなんしてみたい」であって、元がどうこうは関係無いのです。そしてお洒落に関心があれば「こんなんしてみました」が継続しますから自分の容姿に自信が無いなんて事は発生しません。(自分の容姿を「たいしたことない」と言っても「それは謙虚だから」、とは意味が違っています)、この反対が「自分の容姿に自信満々だ」ですが、これも考え物だって事でしょう(根拠が怪しいですから)。 この自信の無さは「投影されたものだ」或いは「象徴化されている」と考えて下さい。 過去に正当な評価をされずに、人物像を勝手に決め付けられた体験があると、行き場を失った拘りが、ひょんな事からから何かに投影される事があります。その“絶望感”や不快感の記憶が、「お洒落に対する関心を後退させ」(不快なので)いつまでたっても自分の容姿に見慣れない(見た事無いので奇異に見える)のです。 |