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部屋探しを”行為”として心理学してみる(3)

やっかいなのは「個人的思考と強迫的な思い込みの違いが見分け難い」ってとこです。
果たして心理学的に「個人的思考」と「思い込み(強迫的)」はどう違うのでしょう?

ここ『部屋探し』って”行為”をベースに考えてみます。
かなりコアな心理学の話になっちゃいますが、

個人的思考の成立のためには一義的に自分を取り巻く”現実(環境じゃないとろがポイント)”を肯定していなくちゃ話始まりません。
簡単に言ってしまえば「現状このように考えます」なる見解を肯定し尊重できなければ、初っ端から個性化を否定している事になってしまいますから(笑

ここほんの少し広げて考えると話が早いのです
この世には「”その時”できる事とできない事」がありますが、この『その時』なる時制として現在を確認する時に、「これは変えないと」のように懸案事項となっている項目以外は、そのものズバリ自分自身のアイデェンティファイに属するので「肯定してナンボの世界」なのです。自意識の仕事としては、その「肯定してナンボ」の部分をどれだけ理論武装伴って肯定できるのかって”取り組みや企て”が自立性や能動性のコアとなります。

簡単な事例で考えると「たとえば現在の収入」です。
心理学的には、それはそのまま”自分の収入なる現実”として「1個のキャラクターとして」肯定してしかるべきポイントになります。(”増えるに越した事は無い”なる希望がくっつくのは全然アリで別問題→現状の否定にはならない)
現実問題「世の中で収入競争」のゲームをやっているワケじゃないのですし(単純な話「収入の高い人は低い人よりエライ」なんて無茶な話が通ったらその社会は民度を疑われますよ)、
その現実を踏まえて「さーなにをはじめるか」と考えられるもので(現実の肯定が前提)、その流れがあってこそ「あれこれ思考する事そのものが楽しいとか面白い」と認知されます。

「思い込み(強迫的)」の場合どうなるのでしょう?
「収入はいくらぐらいなくちゃいけない」が最初にありきで(誰もそんな定義を唱えている人もいなけりゃお上がお達し出しているのでもありません→自分に対して”上から”ものを言っているのは”自分”であるのがポイント)、
自分の収入がそのレベルに達していないと「何か嫌な事でもあるように、常に不平不満だ」な状態になります。
パッと見てわかりますね、明らかに自分自身の現実を否定しています。
こうなるとですね、その収入を前提に考える物事が何もかも不平不満に繋がってしまうんです。なにせその希望条件(賃料上限)そのものが構造的に不満なんですから、
部屋探しなる行為が無意識に「それじゃ何も始まらない」かたちに陥ってます。
言ってみれば「果たしてそれは個人的思考か?」を判断するなら、
「何か面白おかしく楽しい話になっているか?」をバロメーターに判断すれば話が早いのです。昭和の学生なんかの世界には「貧乏自慢」なんてごく当たり前にありましたし、所詮生きるなんて世界の大原則は「食えるのか」で決まるんですから、

目の前に、さぞ面白そうな賭け事があるとして、
その時自分の手持ちの掛け金が少々物足りないからといって、それだけで不平不満で一杯になっていたら「帰ったらどうですか?」となるじゃないですか。
幸せな人は僅かの掛け金でもそのイベントを十分堪能できますよ。
極論贔屓のプロ野球チームが勝てば何の見返りが無くても幸せなのです。
この現象の心理学的背景は「”そのチームを応援する自分なりのアイデア”を肯定している」となります(それ以降のアレコレは面白おかしく楽しい話になる)。

話を部屋探しに戻して考えるとですよ、
「こんな賃料じゃロクな部屋など無い(実はその時点でその相場賃料の部屋で幸せに暮している人の生活を愚弄している事に気がついていない)」の時点でアウツですよ、
そこを基点にどうでんぐり返しても幸せな選択は見えてきません。

部屋探しの王道ってものは、
「幾らぐらいの部屋を借りようと思ってます」この時点で堂々と自慢げで幸せじゃないと、
その現実は、部屋探しの過程で「対応するのはこんな空室ですよ」と具体的に知ることになりますが、この行為こそ”今の自分を占う”的な「面白おかしく楽しい話」なんですよっ
「おっ」とか「はっ」とか「へぇ〜」とか「なるほど」とか、
その空室が「あなたの希望する世界に帰属する可能性の証明」なんですから。
その空室は肯定すべき自分自身の現実(人生)の一部です。
で、そのなかでどうするのかが=「今できる事のなかで自分は何をするのか」になります。
賭けの要素は「○○駅で、設備的には何々で」と、占う項目を絞り込む部分であって、
その結果は「ある意味”全て”が面白おかしかったり楽しいもの」なんですよ。

「部屋探しは人探しに似ている」
人事の担当者としてですよ、面接(内見)前から「ロクなのいない」なる態度であれば、そもそも面接に着た人達(空室候補)に失礼ですし、
実際その労働条件で人材募集の広告出したの自分なんですからね、
「こんな条件なロクなのこない」といった時点で自社すら貶めている事にもなります。
それこそ食えない給与で求人募集するはナンセンスですが、食える範囲内であれば「こういう会社のキャラを見て就職希望してくれた人」を面接するのは、候補者に対して人事として幸せな事であるべきでしょう。
その人事からして最初から「ロクなのいない」なる態度なら、面接にきた希望者を評価する能力を担保できるのかって、そこから怪しい話になってしまいます。
※特殊な即戦力の技能者をリクルートしようってのは別世界ですよ、そりゃそれこそ「幾ら出します」的世界も戦術のひとつになります。今度は「幾ら投資した」がそれを担保する証明になるので、「幾ら以上の賃料で○○を満たす部屋を探している」的アプローチで自然となる。これ現象として別の行為になります(このパターンだと下手に空室の賃料が安いと心配して妥当)。

ある意味最終面接が内見って世界に相当します。
(書類専攻段階が内見候補を絞るところ)
人材募集の企画から実際の告知までの期間は試行錯誤を繰返してどれだけ時間をかけてもいい部分ですが(当然相場の感触等この段階からプロに相談もアリ)、実際の面接段階(内見)で、あまりに「あーだこーだ」と揺れると、最終面接で面接官がやたらと嫌味を言っているのと同じになってしまいます。
当然一からやり直すってパターンはあり得ますが(特に店頭営業の場合には”調査が適当”な場合が多くなるので他店での選択は確かにあり得ますが、ガチでインターネットで事前調査が完了した後なら他の候補はそもそも無い)、
再調査を要する場合には希望条件を変化させる”攻撃的オプション”が無いとジリ貧的に「仕方ない結果=事実上の失敗」流れになってしまいます(ズルズル賃料が上昇する等)。

重要な部分は「全く同じ結果なのに、メンタルな意味で不満が残ったり、幸せな結果だったりと差異が発生する」って事です。
出会いの縁起が悪く「最初から上司との関係が上手くいかない」のと同じです。
所謂『縁起』なる言葉の意味は、心理学的に言えば事前の現実認知の差異です、
自社に対する肯定が無ければ(本来辞職していなくちゃいけない)新入社員も=「ロクな会社に入社していないのだからロクな奴じゃない」と悪循環の構造が無意識に成立してしまいますから。
※「これは変えないと」のような懸案事項例外で考えれば「辞職も考える」ところがそれに相当しているのです。


木造アパートの開放的な暮らしも幸せなものですし、RC造のガッチリとしたソファーの似合う暮らしにも別の幸せがある。
この差異こそ個性ってもので、どっちが上位とかどっちが勝ちとかなんかありません。
常に自由に選べるのが幸せって事でも無いし(それこそ”縁”)、「へーこうなっちゃうのか」なる世界を無条件に肯定する方が”幸せが近い”って事です。自分の考えで・自分の投げかけで・自分の賭けで手に入った世界なんですから=既に自分の現実として選択されている世界には違いありません。後からブーブー言っても建設的じゃありません。

部屋探しの極意って、
「この部屋もいい感じだね」と自分の現実を肯定できる土台があればほとんど成功したようなもので、妙にブレる(ほとんど根拠不明の別の理由の”不安”だったりする)といいこと無いのです。
それが王道として「内見一発申し込みが最も成功確率が高い」(その背景には”長い思考の助走”がある)ところに帰結しているワケです。

「常識を疑え」ほどの哲学論争ではなくですね、
「ステレオタイプな発想を(自分で考えていないのじゃないかと)疑え」的に考えていけば自然に自分らしさがついてくるものです。
希望賃料なんかももっと気楽に選択していいものなのですし、広さだって特にシングルであれば適当でもいいのじゃないかと思います→気ままに「異様に広いとか無いでしょうか」と決めてみるとか。
街選びにしても、特に東京はかなり幅広い通勤ルートありますから西から東まで幅広に考えるだけでも面白いものです。

部屋探しが”行為”としてどん詰まりにならないように注意って事ですね(笑


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